桶狭間の真実

 永禄3年(1560年)5月19日未明。尾張清洲城は異様な緊張に包まれていた。
 駿河の太守・今川義元率いる2万5千の大軍が、ひたひたと迫っていたのだ。清洲城の主・織田信長の動員できる兵は、どうかき集めたところで3千が精一杯。とても今川の大軍団に抗うべくもない。
 あちこちの砦に分散している兵を清洲城一箇所に収容し、ここで籠城を行うのが得策ではないかと、誰もが考えた。2ヶ月や3ヶ月はなんとか保つであろう。義元の最終目的は京都への進軍であり、清洲城などでひっかかっている暇はないはずだ。背後の武田・北条の動きも決して無視はできまい。籠城でなんとかしのいでおれば、やがて義元も清洲など置き捨てて去ってゆくのではないか。
 だが、それが希望的観測に過ぎないことも、誰もが感じていた。
 今川家と織田家は、信長の父・信秀の代から、小競り合いが絶えない。今川家に人質として送られるべき三河の豪族松平氏の跡取り竹千代(のちの徳川家康)を、信秀が横取りしたことさえある。人情としても義元は織田を潰すのに躊躇はなかったろうし、清洲を置き捨てたりすればいつ背後を突かれるかわからない。戦略的にも、織田をそのままに京都へ向かうなどとは考えられない。
 この上は、かなわぬまでも打って出て、義元に一太刀浴びせようという勇ましい意見も出た。
 籠城して干上がるのを待つか、出撃して玉砕するか。
 絶体絶命に陥った清洲城だったが、肝心の信長がどう考えているのか、誰にもわからない。
 前夜の軍議では、重臣どもに勝手にしゃべらせているばかりで、自らは一言も口を利かず、早々と切り上げてしまった。
 もはや万策尽きて、捨て鉢になっているのだろうと、ある者は冷笑的に、ある者は同情して、自室に戻る信長を見送った。
 明け方。
 信長はやにわに立ち上がると、大好きな「敦盛」の舞いを舞った。

 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか

 信長の声はひどく甲高かった。彼の歌声は、まるで婦人の悲鳴のように聞こえたかもしれない。
 舞い終わると、信長は小姓や馬廻りに短く命じ、馬の準備をさせた。
「熱田大明神で待つ」
と言い捨てて、彼は単騎、城門を走り出た。

 27歳の織田信長が、わずか3千の寡兵で、東国一の大大名今川義元の大軍を撃破した桶狭間の戦い
 それは、信長が天下取りへと向かう第一歩であったと共に、中世的権威の完全なる終焉として、歴史に特筆すべき出来事である。
 古来、この戦いは模範的な奇襲戦として、そして寡兵よく大軍を破った戦闘として、よく知られている。
 あまりに見事な勝利だったので、実は信長は義元に降伏に行くつもりだったのだ、などという説も唱えられたりした。大雨となって、視界が利かなくなったので、突如として襲撃に転じたというのだ。なんぼなんでも、今川軍が油断をしすぎているように思われるので、そんな説も生まれたのだろう。
 信長は必勝を確信していた、という説もある。
 桶狭間の戦いの最大の功労者とされたのは、義元に一番槍をつけた服部小平太でも、義元の首を取った毛利新助でもなく、簗田正綱(やなだまさつな)という、重臣たちにもあまり知られていない男に与えられた。彼は、義元の布陣を調べ、今川軍が桶狭間で休息することを報告したのである。このように、信長は戦場の槍働きより、情報収集を重視し、全力を尽くした。
 桶狭間は狭い場所なので、今川軍は長々と伸びきっているに違いない。2万5千の大軍といえども、義元の周辺にいる兵はそれほど多くなく、千ほどのものであろう。この当時の戦争は、主将が討たれれば、それで終わりである。義元の本陣のみを急襲して、義元の首を取りさえすれば、大軍は雲散霧消する。
 そういう戦略が確立していた以上、信長に迷いはなく、落ち着いていただろうというのだ。

 織田信長は、果敢に古い権威を打倒し、新しい世の中を築き上げようとした。
 その行動があまりにラディカルであったため、不安を感じた部下に寝首をかかれてしまうのだが、ともかくその生涯は、蛮勇と言えるほどの積極果敢な冒険に満ちている。
 当然、個人的な性格も、勇敢であり、短気であり、乱暴であり、自信満々であったかのように思われやすい。
 だが、私にはどうも、そうではなかったように思えてならない。
 むしろ私が個人としての信長に感じるのは、人一倍臆病でセンシティヴな心情なのである。
 例えば、桶狭間の見事な奇襲戦を、信長はその後ただの一度も模倣しなかった。少数の兵で多数の敵にあたるなどということは、彼の生涯に桶狭間一度しかない。
 成功体験に埋没しなかったことを、信長の天才性の顕れだと評価する人が多い。普通の人間なら、
 ――わが兵は、よく3倍の敵を破ることができる。
 などと増長し、無理な戦争を重ねて自滅するところだ。それをしなかった信長は、偉い。
 それはその通りだが、私には、
 ――あんな怖い想いは、もうこりごりだ!
 ――あの時は幸いうまく行ったが、もう一度あんなことがあったら、もうダメだろう。
 ――二度とあんな想いはしたくない!
 というような信長の悲鳴に近い心情が感じられる。
 その後の信長は、とにかく兵をたくさん集めることに腐心した。彼は自分の配下の尾張兵の能力を、全く信用していなかった。数を揃えることだけが、安心して敵を迎える唯一の方法だとばかりに、銭をばらまき、集めまくった。そんなことをしては銭がもたないので、楽市楽座の制度を考案して商工業を振興し、交易を奨励した。兵の弱さを補うべく、鉄砲を買いあさった。
 敵より多くの兵が集まらない場合は、敵を懐柔することにこれ務めた。卑屈なまでに辞を低くし、そのことによるどんな不利益をも甘んじて受けた。武田信玄上杉謙信に宛てた書状などは、ほとんど臣下の礼をとらんばかりのおべっかゴマスリに満ちている。
 彼の発案した軍事的・政治的・経済的なアイディアは、すべて彼の、痛々しいまでの臆病さから出ているように思えるのだ。臆病者が、渾身の知恵をふりしぼって案出したのが、楽市楽座であり、本拠地の移動(清洲−小牧−岐阜−安土)であり、長篠の鉄砲3段撃ちであり、鉄張り安宅船であったのではないだろうか。
 むろん、臆病であることが、織田信長の武将としての価値をいささかも減じはしない。名将と呼ばれる男はたいてい臆病であり、その臆病さを自覚し、基礎に置くことによって戦略を立ててゆく。

 桶狭間の前夜、信長は歯の根があわぬ想いであったろう。
 考えられる手は打ってある。こちらの思うとおりにさえなれば、なんとか今川軍を撃破することも可能だろう。しかし、戦争は相手があってするものだ。義元がもし布陣を変えていたら?こちらの陣中にもし通報者が居たら?
 考えれば考えるほど、マイナスの想像ばかりが脳裡をよぎる。
 ぎりぎりの戦術なのだ。自分でもこれが確実な策とは思っていない。
 軍議で策を口にすれば、必ず重臣の誰かがそれに疑問を呈するだろう。一言でも疑問の声が挙がれば、自分の気持ちすらがたがたに崩れてしまう。だから一言も発さなかった。それに、しゃべれば声が震えそうでおそろしかった。
 「敦盛」を舞ったのは、せめて少しでも、自分の動揺を落ち着かせようとしたのに違いない。
 ――人間五十年だと。おれはまだその半分しか生きていないのだぞ。
 ――これが夢であれば。頼む、夢幻であってくれ。
 ――生きている者は必ず一度は死ぬのだ。……だが……
 ――死にたくない、死ぬのはいやだ、死ぬのはこわい。
 決して、出陣前に余裕を見せたわけではあるまい。
 おそろしくてならない。しかし、こうしなければ死ぬのだ。
「馬をもて!」
息を整えて、信長は怒鳴った。

 そういう臆病さがなくなった時、信長は滅んだ。
 本能寺に、わずかな手勢を率いたのみで、無防備に逗留していたばかりに、明智光秀に包囲されて、49歳の最期を遂げたのである。
 国内には、もう敵はないと油断したのだろうか。
 臆病者が臆病さを失った時、往々にして横暴な人間になる。
 晩年の信長は、確かに横暴であった。
 織田信長が、超人ではなく、性格的にはかように普通の人間であったことに、われわれ凡人は、いささかの安堵と共に親近感を感じずにいられない。
 

(1997.11.4..)

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