今上天皇は第125代にあたられるわけだが、本当にひとつの家系で125代続いてきたと信じている人は、もうあまり居ないのではないかと思う。戦前はそれが「歴史的事実」として教えられていたわけだが、にもかかわらず、本気でそれを信じている人はそんなに居なかったという話を聞いたことがある。
大体庶民というものは、為政者が思っているよりは賢いのであって、万世一系という建前は建前として尊重しながら、本心から信じてはいなかったと思われる。戦後の学者が、何人かの天皇は架空であるとか、途中で王朝交代があったとか言い出しても、それほど驚く者はいなかった。それどころか、
「神武紀元には約600年の嘘がある」
ということも、戦前から公然と言われていたのであって、戦前は何がなんでも皇室絶対、記紀絶対な歴史観しかなかったというのは事実に反しているようだ。
現在の皇室は、とりあえず26代・継体天皇までは遡れるようだから、それだけでも100代となり、世界に超絶した存在であることに変わりはない。継体天皇は6世紀はじめの在位であるから、少なくとも1500年にわたってひとつの家系が君主の座についていることになり、これは疑いなくダントツの世界最長記録で、今なお更新中である。
継体天皇の前はどうであったのかと考えるのはなかなか楽しい。
継体天皇は、その前の武烈天皇に嫡子がなかったため、越前にいた応神天皇6代目の子孫であった男大迹(ヲホト)王が、権臣大伴金村らに迎えられたものとされている。
ところが、権臣に迎えられたにしては、落ち着くまでに20年近くかかっている。なかなか大和に進出せず、河内や山城を転々としていた。
そこで、継体天皇はその前の天皇とは縁もゆかりもない人物だったのではないかという疑いが生ずる。嗣子のない武烈天皇が亡くなった時に、古代のコシ(越)の国の王であったヲホトが、好機と見て大和制圧を図ったが、残存の豪族たちの抵抗が思いの外強く、20年近く埒があかなかったというのが真相だろうというのだ。
結局、武力制圧は実現せず、大和の豪族たちとの間に一種の和睦が結ばれたのではなかろうか。
前王朝の「始祖」応神天皇(これについてはまた後述する)の子孫ということにして皇位の継承を行うこと。そのため前王朝の皇女を皇后に迎えること。豪族たちの意見を尊重すること。などなどが話し合われたに違いない。この時積極的に和睦しようとしたのが大伴金村らであり、反対意見の人物もいたようだ。そのため、継体天皇の治世は、豪族たちの反乱で乱れたという。越前から丁重に迎えられたのであれば、そんなことはなかったはずである。
また、朝鮮半島にあった任那(みまな)からも勢力を失ったという。これは中央が争いに明け暮れていたのを新羅(しらぎ)につけこまれたと言うよりは、本来応神朝は半島系の勢力だったという説が正しいとすれば、その本拠地が、新王朝に従わなかっただけの話と見るべきかもしれない。
なお、継体天皇の先帝であった武烈天皇の事績については、古事記はほとんど何も触れていない。興味深いのは日本書紀で、
――妊婦の腹を割いて胎児を取り出した
――人の生爪をはいで芋を掘らせた
――女を裸にして馬の交尾を見せ、陰部が濡れた者は殺し、濡れなかった者は官婢にした
などなどと、これでもかとばかりに暴君ぶりが描かれている。これだけでも、記紀が単なる皇室掲揚の書であるという説は誤りであることがわかる。
武烈天皇が暴君であったかどうかはともかく、こういう書かれ方は、中国の史書によく見られる。そしてそれは、新しい王朝に滅ぼされた前王朝最後の皇帝を形容する表現に多い。例えば、夏王朝最後の桀(けつ)王、殷王朝最後の紂(ちゅう)王、三国志の呉王朝の最後の皇帝孫皓(そんこう)、それに隋の煬帝(ようだい)など。つまり、前の君主が、こんなに悪い奴だったから、それを退治して新しい国を作ったのだという、新王朝の正当化手段なのだ。
武烈天皇がこういう書かれ方をしていること自体、そこで王朝交代があったと見るのが自然ではないか。
その武烈天皇は、おそらく応神天皇に始まる半島系の王朝のラストエンペラーだったのではないかと思う。
つまり、第14代仲哀天皇と15代応神天皇の間にも断絶があるだろうというのがほぼ通説になっているのだ。というより、仲哀天皇は架空の人物だろうと言われるのだが、架空説には私は幾分疑問を感じている。
初代神武天皇は、事績も詳細に伝わっているし、おそらく実在したと見られる。あるいは実在した複数の英雄の事績をまとめてひとりの王としての像を作り上げたのかもしれないが、神武天皇がやったと伝えられることをやった人間は、多分居たであろう。
2代目の綏靖(すいぜい)天皇から9代目の開化天皇までは架空であろうという。事績がほとんど記録されていないし、伝わっている名前が明らかに後世のものなのだそうだ。紀元を古い方へ引き延ばすために挿入されたと見られる。そのため、これらの天皇は、おそろしく長生きしたことになっている。第5代孝昭天皇の享年は113歳。6代孝安天皇136歳。7代孝霊天皇127歳。8代孝元天皇115歳。
第10代崇神天皇に至って、ようやく詳細な事績が現れてきて、実在性が高まる。崇神天皇のおくりなは「ハツクニシラス(初国識らす)すめらみこと」であり、その点でもどうやら王朝始祖の印象が強い。崇神天皇こそははじめて日本を統一的に支配した人物なのであって、神武天皇はその理想化された投影に過ぎないという学者もいる。神武の正体はともかくとして、崇神がある王朝の開祖であることは、まず間違いないように思われる。
とすると、あのヤマトタケルの父親である景行天皇は、崇神王朝の3代目ということになる。
ヤマトタケルは全国を廻ってまつろわぬ者どもを征伐したが、親父の景行天皇も、全国各地の旧跡に名を残している。景行天皇が行幸したという伝承のある土地は大変数多い。
これは、景行天皇自身が親征したのではなく、おそらく配下の将軍を差し向けて全国平定の大事業を行ったものだろう。その将軍とは、たいてい皇族であったはずで(皇子(みこ)将軍)、ヤマトタケルは彼ら皇子将軍たちの集大成と見てよいのではないか。私は個人としてのヤマトタケルの実在性には懐疑的だが、モデルとなった皇子将軍たちの苦闘は信じたい気がする。
軍事行動には、今も昔も金がかかる。崇神・垂仁の2代で蓄積した富を、景行天皇は一気に放出したと考えられる。足利義満、徳川家光の例を考えてもわかるが、3代目というのは往々にして派手好きなものである。生まれついての支配者である場合が多いため、無駄遣いに抵抗感がない。
景行天皇の度重なる軍事行動は、王朝の経済力を大いに圧迫したであろう。
第13代成務天皇、第14代仲哀天皇を架空の人物と見る学者が多いが、私は実在したような気がする。疲弊した王朝がとどめを刺されるまでに、景行天皇のあと2代くらいあったと見るのは自然に思えるからである。
仲哀天皇は、朝鮮半島への軍事行動を計画し、その途上、志半ばにして九州で病死したことになっている。彼の妻の神功(じんぐう)皇后は、夫の喪を秘して軍を率いて海を渡り、三韓を征伐して戻ったと言われる。この伝承は当然ながら韓国人にとっては面白くないから、戦後は全くのフィクションとして扱われるようになった。あちらが面白くないから、こちらはフィクション扱いをするという自主性の無さは今は措くが、疲弊した政権の支配者が、外に向かって軍事行動を起こすことによって国内の不満を逸らすという方法を採るのは、ごくありそうなことだ。
おそらく、この軍事行動は失敗し、逆に半島から攻め込まれて、崇神王朝は滅びたのではないか。そういえば仲哀という追号もそのことを思わせる。中国にも哀帝、哀宗などとおくりなされた皇帝が何人かいるが、権臣に掣肘されたりして実力を発揮できず、しかも非業の死を遂げたような皇帝に追号されている。
崇神王朝を滅ぼした新支配者こそ、応神天皇であると考えられる。ただし応神天皇は、前王朝を継承するというやり方をとった。武烈−継体のケースと同様である。継体天皇が前王朝の皇女を皇后に迎えたように、この時も女がキーポイントになっていたのではないだろうか。それが、神功皇后の伝説に発展していったというのが私の想像である。
応神天皇のものと伝えられる墳墓(いわゆる応神天皇陵)から突然規模が巨大になること、応神天皇の継承者であった仁徳天皇がいかにも儒教的な名君ぶりを示していることなど、この王朝が半島乃至は大陸の発想法を身につけた為政者であった傍証はいくつかある。中国南朝に使者を送り、「倭の五王」と史書に記された人物に同定される5人の君主も、それが誰にあたるかという点には議論があるものの、応神王朝の天皇であったと見ることにかけてはほぼ共通している。半島や大陸とのつながりが強かった王朝であることは間違いない。
そういうわけで、少なくとも2回は王朝交代があったと見るのが妥当というところか。
もちろん、王朝交代があったからといって日本の恥になるわけではないし、繰り返して言うが今上天皇が125代目でなく、継体天皇以来100代目だったとしても、その存在が世界的にも稀有なものであることに変わりはない。
この文章を読むと、右翼も左翼も怒りそうだが、イデオロギー的な眼で見て貰いたくはないところである。古代史を推理するのは、何はともあれ楽しいことなのだ。
(1997.11.10.)
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