義経脱出

 「義経ジンギスカン説」なるものがある。
 異母兄・源頼朝と不和になり、追われる立場となった九郎判官義経は、かつて身を寄せていた奥州平泉藤原秀衡(ひでひら)の許へ逃げ込んだ。
 秀衡は無尽蔵ともいうべき財力を誇る奥州藤原氏の統領であり、政治的な策動もなかなか侮れない辣腕家であった。開祖である藤原経清(つねきよ)以来の因縁浅からぬ源氏勢力をにらみながら、京都の朝廷や平氏勢力とも金の力でよしみを通じ、本州の北部に独自の勢力圏を確立していた。義経としても、秀衡の庇護を受ければ、まずは安全だと踏んだに違いない。
 だが、不幸にも、この頃秀衡は死病の床にいた。
 そうなっても、秀衡の策謀は冴えていた。彼は嫡男の泰衡(やすひら)及びその異母兄の国衡(くにひら)を呼び、懇々と申し渡した。
 ――わしの死後、いずれ頼朝は平泉に、判官殿を引き渡すよう要求してくるだろう。
 ――その時、うかうかと応じてはならぬ。言を左右にして曖昧にしておくのだ。
 ――それで頼朝が諦めればよし、もし軍を発して攻めてくるようであれば、判官殿を総大将とし、撃退せよ。
 ――ふたりとも、その時は判官殿の下知に従うのだ。
 そして秀衡は、ふたりの息子と義経に、誓紙を焼いて水に溶かした神水を飲ませ、自分の言いつけに従うよう誓わせた。
 その後間もなく、秀衡は世を去った。
 ところが、泰衡と国衡は兄弟仲が悪く、今までもことごとにいがみ合っていた。父親の遺言くらいでそれが改まるわけもない。泰衡は当主なのだから問題はなさそうだが、生憎と国衡は武勇にすぐれた磊落な男で、人々の人気を集めていた。側室の子とはいえ、年上だったのも大きい。対して、新当主の泰衡は、いまだ父秀衡のような権威は持ち得ていない。何事にも自信がなく、その分国衡をやっかみ、疎んじていた。
 頼朝は、その辺の事情を知り抜いていたから、泰衡を舐めきっていた。いよいよ、祖先の源頼義・義家父子が翻弄された前九年・後三年の役以来、煮え湯を飲まされてきた奥州を、おのが支配下に入れるときが来たと、ほくそ笑んだ。
 だが、奥州には天才としか言えない武将の弟・義経がいる。もし泰衡兄弟が、父の言いつけ通り、義経を奉じて、17万騎と言われる奥州騎馬軍団を率いて立ち向かってきたらどうするか。頼朝は、野戦で義経に勝つ自信はなかった。
 そこで、まず義経を除こうと考えた。秀衡の読んだ通り、泰衡に義経を引き渡すよう要求したのである。
 泰衡は源氏の軍団を前にして奥州をまとめきる自信がなかったのかもしれない。彼はもろくも頼朝の要求に屈し、義経が隠れ住んでいた衣川の館を襲って、義経を討ち取り、その首級を鎌倉へ送った。
 秀衡も義経もいない平泉など、源氏の敵ではなかった。頼朝はあからさまに奥州攻めの準備を始めた。あわてた泰衡は大量の金を京都の朝廷に送り、頼朝に奥州侵攻の勅許を与えないよう工作した。その結果、確かに朝廷はそれに応えて、勅許を出さなかったが、もはや頼朝は勅許などどうでもよかった。朝廷の許可が下りるのを待たず、大軍を北へ向けた。
 かくして、富強を誇った北の独立王国・奥州藤原氏は滅亡した。文治5年(1189)のことであった。

 ところが、かなり早い時期から、義経は生きているという説がささやかれはじめた。
 衣川の館には火をかけられたので、義経の首は黒こげになっていた。その上、夏の暑い盛りで、すっかり腐乱し、鎌倉に着いた時にはほとんど見分けがつかなくなっていたようだ。
 また、首級を届ける使者は、わざとしたように時間をかけて道中を歩んでいる。当時、平泉と鎌倉の間は、せいぜい20日の行程だ。それを、蜿蜒40日以上をかけて旅しているのである。腐乱をより確実なものにし、首実検を困難にさせようとしたのではないか。つまり、泰衡は頼朝に対して、大きなトリックを仕掛けたのではないかという疑いが生ずる。
 義経を討ったと見せかけて、密かに逃がし、将来の鎌倉勢の侵攻に備えようとしたのではないのか。生憎、頼朝の行動が早すぎたので、せっかくの備えが間に合わず、落ち延びさせていた義経を呼び戻す前にやられてしまったのかもしれない。
 高橋克彦氏の小説「炎(ほむら)立つ」では実際にそういう設定になっていた。もっとも、NHKの大河ドラマになった時には、義経は一旦は逃れたものの、恨みを持つ者に殺され、結局その首級を鎌倉に届けるということになっていた。鎌倉到着の遅れは、逃れていた期間を加算したものだろうか。

 さて、生存伝説によると、義経は衣川を逃れて、どんどんみちのく路を辿ったものらしい。
 陸中海岸の宮古には、しばらく滞在したようである。
 そのあたりで平泉の滅亡を知ったものだろうか。冷酷な兄の追っ手を怖れた義経は、さらに逃避行を続け、本州突端の津軽半島三厩(みんまや)へ至った。そしてそこから蝦夷地(北海道)へ渡ったというのである。
 義経生存伝説の残る場所を地図上にマークしてみると、三厩まではほぼはっきりした一本の線を描くのだそうだ。とすると、ここまで来たというのはかなり信憑性がある話と言えるだろう。
 北海道にも義経が来たという伝説は沢山残っているが、こちらは残念ながら、マークしてもランダムなドットが散らばるばかりで、どうやらただの言い伝えに過ぎないようだ。
 津軽半島から、義経はどこへ行ったのか。
 その辺で死んだと考えてもよいのだが、何しろ「判官びいき」という言葉の元祖になった男だけに、人々はそれでは納得しない。あれほどの名将、必ずもう一旗揚げ、大活躍したに違いないと考える。
 津軽半島は、今でこそ寂しい土地で、太宰治などの暗い印象が強いが、14世紀頃までは一大貿易港の十三湊(とさみなと)を抱える繁華な商業地域だった。大陸や半島、蝦夷地や樺太からの便船もひっきりなしに到着し、人口も多かった。
 人々の想像力は、義経をこの貿易港から船出させ、大陸へ渡らせた。そして、そこで大暴れさせることとなった。
 すなわち、かの「世界征服者」チンギス・ハーン(ジンギスカン)になったというのである。
 年代的には、まあ、可能である。モンゴルの小部族に生まれたテムジンが、全部族を統一して可汗の地位についたのが1206年だ。義経が討たれたとされる1189年から17年後……。
 とはいえ、チンギス・ハーンの生涯は、幼少の頃からかなりよくわかっており、とても義経と入れ替わる隙があったとは思われない。すべてを捏造するなどということはできないだろう。
 もちろん、この「義経ジンギスカン説」が荒唐無稽なものであることは、昔の人だってわかっていた。

 ところが、世の中には執念深い人もいるもので、この伝説をまじめに取り上げ、学問的に実証しようとした学者がいた。
 曰く、「源義経」という文字を中国北部の人に読ませると、誰もが「チン・ギ・ス」と発音する。(少なくとも現代の北京官話では「ユアン・イ・チン」としかならないが……)
 曰く、モンゴルの儀式では9本の白い旗を用いたが、これは「九郎」及び源氏の白旗を意味する。
 他にもいろいろ論拠を並べ立てているが、詳しくは高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」でもお読み下さい。
 むろんのこと、この説は学界からは相手にされなかったものの、発表された時期が、丁度日本が大陸へ進出してゆく昭和初期にあたっていたもので、案外と大衆受けした。それで高木氏も戦後になって小説を書くことになったわけだが……。
 語呂合わせ的なものなら、やろうと思えばいくらでもできるのであって、今でも多くのことについていろんな珍説奇説が飛び出しているが(例えば「キリストは日本で死んだ」説など)、まあ大して有意義なことではない。
 
 私は、歴史上の人物を解釈しようとする時、その人の資質といったものをまず考える。人は、自分の資質にないことはできないものなのである。田沼意次は賄賂を取ったかもしれないが、農村を過酷に搾取するようなことはなかった。意次の資質は重商主義的であって、年貢を沢山取ることで収入を増やそうという発想はなかったはずなのだ。従って、田沼の意を受けて暴政をふるった代官に抵抗して民衆が立ち上がったとされる飛騨の高山騒動は、実際には違う経緯だったに違いない、というように考えてゆくのである。
 そうしてみると、義経はたとえ大陸に渡ったとしても、決してチンギス・ハーンにはなれなかったはずだという結論に達する。
 確かにふたりとも、騎兵を最大限有効に活用した名将であったことは共通している。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」の中で、サンシール士官学校の老教官が、秋山好古(日露戦争で日本陸軍騎兵隊を率いて大活躍した将軍)に、騎兵を有効に活用したのは世界でもチンギス・ハーンフリードリヒ大王ナポレオンモルトケだけだと語り、秋山がそれに対して、義経信長を加えるべきだと応じた話が出てくるが、騎兵の本質を機動力にあると見抜き、それを実戦に応用して大勝利を納めたという者は非常に少ない。
 義経は(ひよどり)越えにおいて、それまでの日本で前代未聞の、騎兵のみによる部隊を編成して平氏の大軍を追い散らした。本来、日本では騎兵というのは士官であって、すべて徒歩の郎党を何人も率いている。だから武士が馬に乗って疾走するなどということは、伝令以外ではまずあり得ない。戦国最強を謳われた武田騎馬隊でさえ同様である。騎馬武者の一斉突撃などということは決してなかった。それをやってのけたのが義経である。当時としては完全に邪道であり、こういう、勝つために手段を選ばないところが、坂東武者の美意識に適わず、結果的に義経は孤立してゆくことになるのだろう。
 また、チンギス・ハーンは、歩兵というものを全く使わず、全軍団を騎兵だけにすることで、常に敵の意表をつく場所に出現し、ユーラシア大陸そのものを征服して行った。
 こういう資質から見ると、両者は似ているようにも見えるが、しかし、似ているのはそこだけである。あとは、正反対と言ってよいほどに異なる。
 チンギス・ハーンは、軍人としても卓越していたが、本質は大政治家である。目を覆うような残虐行為も何度もやっているが、激情に任せてなどということはただの一度もなく、すべては冷徹な政治的計算から出ているのだ。「逆らう者は滅びる」という印象を各地に与えることによって、それ以後の無駄な犠牲を避けようとしたわけだ。チンギス・ハーンの生涯の、どういう行動を見ても、緻密な計算に裏付けられていることがよくわかる。
 一方、義経がきわめて政治音痴だったことはよく知られている。政治のことが何ひとつわからなかったばかりに、後白河法皇には翻弄され、坂東武者たちには離反され、頼朝には疑われ、身を滅ぼしたのである。その生涯の行動は、計算というよりは、明らかにその場その場の思いつきや感情に左右されている。軍事的才能のみ異常発達した天才であって、その他の面は子供同然だった。それがまた、後世の人々に愛された点ではあろうが、しかしこういう人間がいくら大陸に渡っても、決して王者にはなれない。
 「義経ジンギスカン説」をいまだに本気で信じている人がいようとも思われないから、こんなに一生懸命論ずることもないようなものだが、生存伝説がある歴史上の人物は他にもいて、全く別の人物に成り替わったという話も多い。「明智光秀=天海説」などもそのひとつだが、くれぐれも語呂合わせ的な暗号に惑わされず、その人物が本当に別の人物になる資質を持っていたのかということを冷静に判断したいものだ。
 
 義経は衣川から脱出したのかもしれない。しかし、許容されうるのはいいところ三厩までであろう。そこで一生を終えたか、船に乗ってどこかへ旅立ったか、どちらにしても彼は二度と歴史に現れることはなかった。
 歴史の流れからすれば、九郎判官義経はやはり衣川で死んだのだ。その後、彼という肉体が生きていようといまいと。 

(1997.12.9.)


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