日本の天皇陛下は、国際儀礼上、ローマ教皇と並んで「エンペラー」としての待遇を受けることができる、いまとなっては稀少な存在です。これはもちろん、あくまでも建前であって、陛下が実際に他国へ赴いた際に、別の国の元首よりも重い儀礼を用いて迎えられているのかどうかはよくわかりません。ネットではよく、
──USAの大統領は、ローマ教皇、天皇陛下、英国女王のお三方を迎える時だけはホワイト・タイ(この場合は燕尾服のこと)を着用して空港まで出迎えることになっている。これは他の国王や大統領、首相などを迎える時とは隔絶した、最上級の儀礼である。
というような話が出回っていますが、そんなのはガセネタだと一蹴する人もあり、どうもあてにならないようです。
天皇をエンペラーと訳すことの是非はともかくとしても、とりあえず、外国から「エンペラー」をもって遇される存在は、もはや天皇陛下以外にはひとりも居なくなりました。
日本人はどうも、「キング」と「エンペラー」の区別があまりはっきり認識できていない人が多いようで、「皇室」を平気で「ロイヤルファミリー」などと呼んで疑いもしません。正確に訳すならばインペリアルファミリーとなるはずです。また英国などの次期国王のことを「皇太子」と言っていますが、本当は「王太子」です。国際場裡ではこの違いはなかなか厳格なものなのです。
韓国のマスコミなどが、いくら注意しても天皇のことを「日王」と呼びたがるのは、
──おまえの国のトップを「エンベラー」だなどとは決して認めない。
という意思表示にほかならず、本当はこれほど無礼な振る舞いはありません。時代が時代ならそれだけで戦争の理由になったほどのことです。いまのところ何事もなく済んでいるのは、日本人が王とか帝とかの呼称に無頓着だということと、韓国に対しては併合期のことでどうも引け目を覚えるため、はっきり物を言うことをはばかっているからであるに過ぎません。
さて、「エンペラー」は通常は「皇帝」と訳されます。本来、中国の概念である「皇帝」と、欧米の概念である「エンペラー」は決してイコールではないのですが、一応、対応する同格な地位として考えられています。同格と考えられる存在は他にもあって、例えばロシアのツァー、トルコのスルタン、インドのマハーラージャなども「皇帝」と訳されることが多いようです。
また、アステカやインカの君主も「皇帝」とされます。これは、その版図が「帝国」と呼んで差し支えないほどに広域で、支配も多種族に及んでいたためでしょう。
中国の「皇帝」は、よく知られているとおり秦の始皇帝により発明された称号です。それまでは「王」が最高位でしたが、戦国時代に至って、ちょっと強くなった国の君主が次々と王を名乗ったため、王位の価値がだいぶ下がってきていました。そこで始皇帝は、手垢のついた「王」の称号を嫌い、新しい上御一人の呼称として「皇帝」を考案したのでした。
中国の伝説的な帝王──というよりほとんど神様として、「三皇五帝」というのがあります。「三皇」は天皇(てんこう)・地皇・泰皇の3人だそうですが、そうではなく伏羲(ふくき)・女媧(じょか)・神農(しんのう)の3人だとも言われます。また五帝は黄帝(こうてい)・少昊(しょうこう)・顓頊(せんぎょく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)の5人とされますが、書物によって神農がこちらにも入っていたり、黄帝の前に炎帝というのが置かれたり、嚳(こく)というのが入っていたりと、諸説あってよくわかりません。理想的君主として尊ばれているわりには雑然としています。ともあれ、諸国を平らげて天下を統一した秦の王・政は、自分の功績はいにしえの三皇五帝を合わせたほどのものだと考えて、両方から一字ずつとった「皇帝」という呼び名を創始したわけです。
「皇」も「帝」も、本来は上代の神様の名前だったようです。皇が3人居たり帝が5人居たりするようになったのはかなりあとになってからです。「帝」は商(殷)で信仰されていた神様だったのですが、商末期の何人かの王様は、みずから神である「帝」を名乗りました。最後の王である紂(ちゅう)王の別名を帝辛と言います。「帝(神)である辛」ということです。辛というのが本来の名前なのでしょう。
商にとってかわった周では「帝」の称号は使われず、その代わり周の王は「天子」を称するようになりました。この「天子」の称号は、その後の「皇帝」にも受け継がれています。まずは南方の楚が、そして多くの国の君主が王を名乗るようになっても、「天子」を称することは遠慮していたふしがあります。こればかりは世界にひとりだけという感覚があったのでしょう。
それでは「帝」は始皇帝が現れるまで使われなかったかというと、ごくわずかな期間だけ、始皇帝の曾祖父にあたる秦の昭襄王が、同時期の斉の湣(びん)王と共に称したことがあります。昭襄王は「西帝」を、湣王は「東帝」を名乗りましたが、他の国からの苦情が相次いで、数ヶ月でやめています。このときの「帝」は、「諸王の中で特に強い、すぐれたもの」というイメージで使われていたように思われます。
それが「皇帝」となると、「王とは別格」という印象になります。もっとも始皇帝は自分の帝国内で「王」なる存在を設置しませんでしたので、この時点ではまだ「偉大な王」というイメージであったのではないでしょうか。
王と皇帝をはっきり区別したのは漢の高祖(劉邦)で、彼は功臣や、皇太子以外の自分の息子などに王位を与えています。ただし功臣に与えられた王位は高祖の死去以前にほぼ消滅し(馬王堆遺跡で有名になった長沙王だけは例外だったようですが)、皇族の王位もその後の呉楚七国の乱を経て次第に有名無実のものになってゆきます。つまり、王という称号を貰っても、その領地はせいぜいいくつかの県(日本の県のイメージよりずっと小さい、市町村というイメージ)を与えられるくらいで、皇帝の座を窺うほどの経済力や軍事力は持てなくなるのでした。
同じ「王」でも、戦国時代までの王と漢代以降の王では実質がまるで違っていて、前者は明らかに「キング」ですが、後者はまあいいところ「プリンス」というところでしょう。
ただし、他のタイプの「王」もありました。卑弥呼が魏から貰った称号の「親魏倭王」みたいなもので、周辺の異民族が中華を慕って朝貢にやってくると、その首長に対して王の称号を与えたりしています。こちらの王は地生えの、民族的・宗教的な中心者であることが多いため、キングと訳しても差し支えありません。
ともあれ皇帝というのは、「知られている限りの全世界を支配する上御一人」という存在を指すわけです。
ところが、漢のあとに三国時代というのがあって、早くもその原則が揺らぎます。魏の曹丕と蜀の劉備が同時に皇帝を称し、しばらくして呉の孫権も皇帝になります。まあ劉備や孫権は、実際にはとても皇帝を名乗れるほどの実質は無かったのですが、それでも曹丕の威令が劉備や孫権の版図に届かなかったのは確かです。「上御一人」という実体はこの時点で曖昧になってしまいました。
「皇帝」が「全世界の支配者」という建前はその後も継承されますが、実際には南北朝時代とか、五代十国時代とか、遼-北宋並立期とか、金-南宋並立期とか、複数の「皇帝」が存在していた時期はずいぶん多いのでした。中国文学者などで、よく、
──「皇帝」は全世界を支配する存在でただひとりしか居ない。だからオーストリアにもドイツにもフランスにも居たような「エンペラー」と同格に見るのは間違っている。
と主張する人が居ますが、それはあくまで原義あるいは願望であって、実際問題としてはオーストリアやドイツやフランスにエンペラーが居たのと同じような状態が、中国でも少なからずあったと言えるでしょう。
一方、ヨーロッパのエンペラーという言葉は、ラテン語のインペラトールに由来します。インペラトールは現代で言えば「元帥」とか「執政官」に相当する言葉ですので、必ずしも上御一人を意味するわけではありません。ローマ時代には、「第一人者」を意味するプリンケプス、ならびに歴代最高のインペラトールであったカエサルの固有名などが、ローマ帝国の支配者を呼ぶ言葉として並立していたようです。なお、カエサルに由来するのが、ドイツ語のカイゼルやロシア語のツァーです。
ローマ帝国が衰退したのち、その継承者としてローマ教皇が認めた人物にエンペラーの称号が与えられるようになりました。なおご承知のとおりローマ帝国は東西に分裂しており、これは西ローマ帝国のほうの事情です。東ローマ帝国は現在のトルコあたりを中心に、かなり長いこと続きました。
ローマ皇帝は何代か父子相続が続くこともありましたが、本来は世襲制ではありません。一応その都度元老院が認定することになっていました。当然、その後のエンベラーも同様で、認定者が教皇になっただけなのですが、実際にはある時期からハプスブルク家がこれを独占して世襲しています。
それにしても、東ローマ帝国の版図に属する地域は別として、エンペラーがヨーロッパ世界には常にひとりしか存在しないはずだということはおわかりと思います。
ハプスブルク家をそのままにして新たに皇帝を名乗ったのがナポレオンでした。この時点で、ヨーロッパ世界に皇帝がふたり誕生したことになります。
ただし、ナポレオンはハプスブルク家が保持していた神聖ローマ帝国を乗っ取ったわけではありません。よく勘違いしている人が居ますが、ナポレオンは「フランス皇帝」になったわけでもありませんでした。ナポレオンの帝号は、実は中華皇帝の本来の意味と非常に似ている、「全世界の支配者」を意味していたのです。
だから、ナポレオンはフランス国民に対して演説する時、必ず「共和国市民諸君!」と言いました。そう、当時のフランスは「共和国」だったのです。帝国ではありません。ナポレオンはフランス皇帝ではなく、「世界皇帝」でした。
現在のスウェーデン王室は、ナポレオン配下の将軍がスウェーデン国王に任命されたのを元祖としています。国王を「任命」できるあたり、まさに中華皇帝の本来のありかたと非常に近いと言えます。
ナポレオンは「世界皇帝」の称号を実質的なものにすべく、四方八方に征伐の軍を派遣しました。ありていにいえばフランス革命の輸出です。
しかし、ロシアおよび英国に阻まれ、ナポレオンの覇業が頓挫したのは、これまたご存じのとおりです。
フランスはナポレオンの没落後、共和制を続けましたが、役人の汚職や癒着があいついで人々はうんざりし、ほどなくナポレオンの甥のひとりを担いでふたたび皇帝の座に就かせました。これがナポレオン三世ですが、正当な選挙により大統領となり、その後これまた正当な国民投票により皇帝になったという点、ヒットラーとちょっと似ています。
このナポレオン三世を普仏戦争で叩きのめしたのがプロイセン王国です。プロイセンは鉄血宰相ビスマルクの指導下、徹底的な富国強兵政策を進めてフランスに打ち勝ちましたが、余勢を駆って周辺諸国を傘下におさめ、ドイツ帝国(第二帝国)を起ち上げました。プロイセン国王ヴィルヘルムは皇帝ヴィルヘルム一世となりました。なおヴィルヘルム一世は、皇帝になるのを出世とは思わなかったようで、戴冠式の前夜、プロイセン国王の称号を失うことを悲しんでさめざめと泣いたそうです。
この頃から、「皇帝」が多くなってきます。世界にひとりとは言わずとも、ひとつの文化圏にひとりというのが自然でしょうが、ハプスブルク家はオーストリアという狭い地域に君臨するだけとはいえいまだに帝位を投げ出してはいませんし、ナポレオン三世は明らかに「世界皇帝」ではなく単なるフランス皇帝ですし、そこにドイツ皇帝が加わって、英国のヴィクトリア女王もインドのムガル帝国を継承することでインド皇帝を兼任しました。そしてロシアには誰よりも「皇帝」らしいロマノフ家のツァーたちが居ましたし、オスマン朝トルコのスルタンもそれと同格と言えます。ヨーロッパ人の眼が、ヨーロッパだけではなく全世界に拡がることによって、「上御一人」に相当するはずの存在があちこちに出現しはじめたわけです。
なお、朝鮮の李氏も、短期間ながら皇帝を名乗りました。日清戦争で中華帝国のくびきから解き放たれた朝鮮国王は、念願の皇帝位に就いたのです。日本と併合するまでのわずか15年足らずですが、大韓帝国なる国が存在しました。
ただし、当時の国際慣例として、「帝国」を称するためには少なくともひとつ以上の海外領土もしくは植民地を保持していなければなりませんでした。ちなみに「大日本帝国」はどうかというと、実はすでに「琉球王国」を併合していたのでこの条件をクリアしていたのです。李氏朝鮮にはそんなものはありません。
しかし裏技がありました。「帝国」とすでに国際的に認められた国から「おたくは帝国だ」と認証されることです。大韓帝国は、この手を使って「帝国」になったのでした。言うまでもなく、日本に認証して貰ったわけです。
日清戦争後、李氏朝鮮は「王国」にすべきか、それとも「帝国」と名乗って良いかを日本側に問い合わせてきたようです。日本人の無頓着さはその頃も同じだったらしく、
「どちらでも、お好きなように」
と答えたのでした。これを「大日本帝国による認証」と解釈して、この「史上最小の帝国」が誕生したのです。
第一次世界大戦の結果、4つの「帝国」が崩壊しました。
ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン朝トルコ帝国、そしてロシア帝国がそれぞれ消滅し、従って4人の「皇帝」が消えたことになります。
その後ドイツに現れたヒットラーは、「第三帝国」を標榜しましたが、自分自身を皇帝と称することはありませんでした。ただし「総統(フューラー)」という称号は、当時としては「大統領」などより上位に感じられたそうです。
中華帝国「清」はそれに先立って潰れていましたし、「大韓帝国」が消滅したのはさらに少し前のことでした。
かくして、「大日本帝国」だけが残りました。他にもエチオピアやイランに「皇帝」は居ましたが、いずれもその時点では西欧諸国の属国みたいになっています。
「大日本帝国」は第二次大戦まで存続し、その大戦に負けたことで消滅しましたが、他の国と違ったのは、「エンペラー」と目される天皇がそのまま残ったことです。
進駐軍司令官マッカーサーは、他の国の例のとおり、日本でも「エンペラー」は処刑されるか追放されるか、あるいは自分から亡命するか、いずれにしろ居なくなるものだと思っていたようです。
ところが日本に来てみると、多くの国民は天皇への敬意を失っていませんでした。どうも日本人は天皇を神だと思っているらしい、と判断した進駐軍は、昭和天皇に「人間宣言」なるものを出させ、天皇への幻滅を促そうとしましたが、誰ひとりそんなことで動揺する者は居なかったのです。
──天皇陛下が「実は人間だった」って? 何を今さら、あたりまえのことを。
大部分の日本人はそう思っただけのことでした。GHQの施策のうちでも、人間宣言はとりわけ愚劣だったと思います。「現人神(あらひとがみ)」という言葉を完全に誤解していたのです(もっとも、最近の日本人の中にも、「現人神」を誤解している手合いが少なくないようではありますが)。
やがてマッカーサーは昭和天皇の訪問を受けます。マッカーサーは、天皇が命乞いか、あるいは亡命の相談に来たものだと思ったようです。
その時のことはよく知られています。異説もあるようですが、ともあれ通説によれば昭和天皇は、自分の身はどうなろうと構わないので国民を飢えから救って貰いたい、そのために皇室の財産が役に立つならばいくらでも提供する、ということを嘆願なさったのでした。
ヴィルヘルム二世(ドイツ)も、カール一世(オーストリア)も、ニコライ二世(ロシア)も、メフメット六世(トルコ)も、そして宣統帝(清)も、誰ひとりとして、「自分よりも国民を」とは言えませんでした。それらラストエンペラーたちだけではありません。歴史を通じてあれほどに「君主の徳」をやかましく言い続けた中国にして、我が身を挺しても国民を救おうとしたのは、伝説の存在である商の開祖・湯王ただひとりしか居ないのです。こうしてみると、昭和天皇の請願がいかに破天荒であったかわかろうというものです。
マッカーサーはそれ以前から、天皇の罪を問うことはしないつもりになっていたようですが、この訪問ですっかり昭和天皇のファンになってしまったそうです。
なお、竹田恒泰氏は、この行為は昭和天皇という特別な人物だからできたというわけのことではなく、歴代のどの天皇がそのとき帝位に就いていたとしても、誰もが同じことをしただろうと言っておられます。明治天皇の玄孫である竹田氏の推測には重みがあります。
世界でただひとり「エンペラー」として残っている存在には、残るだけの正当な理由があったのだと言えるのではないでしょうか。
(2012.6.28.) |