常山の趙子龍

         
 三国志の登場人物で、呂布魏延劉禅の3人が気になっていて、いつか彼らの悪名を晴らす小説でも書いてみたいものだと思っていることはどこかで書いたことがありますが、もうひとり、趙雲という男もちょっと気にかかっています。
 三国演義では、趙雲は劉備関羽張飛の三巨頭に次ぐ存在として描かれています。武勇は関羽や張飛にひけをとらず、兵法もそこそこ心得ており、義に厚いながらも冷静沈着な武将として、しばしば手柄を立てています。「歴女」のかたがたからの人気は、むしろ三巨頭を上回るかもしれません。私の知り合いの三国志ファンの女性も、趙雲がいちばん好きだと言っていました。
 ただ、その活躍のほどは、どうも後世創作されたものが多いようで、例によって「本当はどうだったのだろうか」と考えたくなるのでした。

 趙雲の履歴をざっと見てみます。
 最初は北方の雄であった公孫瓚(こうそんさん)の部下として登場します。劉備一門はなかなか自前の勢力を培うことができず、はじめの頃はあちこちの豪族のところへワラジを脱いでは助っ人として戦いに参加するということをしていましたが、公孫瓚はそのひとりでした。若い頃廬植(ろしょく)のもとで共に学んだことのあるよしみで身を寄せたのでしょう。たまたま公孫瓚の配下である田楷(でんかい)が袁紹相手に戦っていたので、公孫瓚は劉備に兵を与えて田楷の救援に向かわせたのでしたが、その時に劉備に属した若い小隊長のひとりが趙雲だったのでした。
 劉備とは大変気が合ったようで、そのまま劉備に仕えようとも思ったらしいのですが、兄の喪のために一旦別れます。
 10年近く経ってから、劉備と再会します。両人とも、かつて敵として戦ったことのある袁紹の下に居たのでした。趙雲はひそかに募ってあった何百人かの兵を率いて、このとき正式に劉備の配下となることになります。
 この辺までは、正史三国志でも三国演義でもそれほど差はありません。もっとも、正史と言っても裴松之の註釈に引く「趙雲別伝」なる書物によるもので、この書物はどうやら趙雲の子孫が作成した家伝のたぐいらしく、当然ながらだいぶ趙雲を美化しているのではないかと考えられています。
 ここから、演義における脚色がはじまります。

 ──劉備が荊州劉表のもとに身を寄せている頃、劉表の義弟である蔡瑁(さいまい)は劉備を邪魔に思って、酒宴に招き暗殺しようとする。しかし趙雲が付き従っているために酒宴中に殺すことは果たせず、劉備を取り逃がす(このあと、名馬的廬の大跳躍のエピソードとなります)。

 ──劉表の死後、跡を継いだ劉琮曹操に降る。行き場を失った劉備は逃走するが、劉備を慕って10万人からの人々がついてきているので、なかなか道がはかどらない。そのうち曹操の繰り出した軽騎によって蹴散らされてしまうが、趙雲は単身乱戦の中に飛び込むと、劉備の妻子を保護して無事に生還する。

 ──赤壁の戦いの作戦指導のためにに残っていた諸葛孔明だが、孔明の才能を危険視した呉の大都督周瑜はひそかに彼を殺そうとする。しかし間一髪、趙雲の率いてきた船団によって孔明は脱出する。

 ──赤壁の戦いの後、逃げる曹操を宜都で待ち伏せて痛打を加える。

 ──孫権の妹をめとることになった劉備の護衛役として呉に同行する。この結婚話は周瑜の策略で、劉備を亡き者にするか、もしくは呉にとどめて動きを封じるという企みだった。しかし、趙雲は孔明の授けてくれた秘策を実行して劉備を守り抜き、無事に帰還させる。

 ──劉備夫人となった孫権の妹(孫夫人)だったが、のちに呉に呼び戻される。その際、劉備の跡継ぎである阿斗劉禅)を連れ去ろうとするが、趙雲が気づいて追い、孫夫人の御座船に単身乗り込んで劉禅を奪回する。

 ──曹操から漢中を奪った定軍山の戦いでは、危機に陥っていた黄忠を救い、見事な撤退戦と「空城の計」をおこなって、劉備から「子龍(趙雲のあざな)の一身はこれ肝である」と激賞された。

 ──諸葛孔明による第一次北伐の際、鄧芝(とうし)と共に遊撃部隊を率いて、魏の曹真を翻弄した。もともとおとり部隊なので勝つことはできなかったが、趙雲は敗兵をよくまとめ、輜重もほとんど失わずに成都に帰還した。孔明はそれらの物資を恩賞として趙雲に与えようとしたが、「負け戦なのに恩賞を出すのは道理に合いません」と辞退した。

 他にもいろいろありますが、主な武勇伝はまあこんなところでしょう。
 しかし、この中で「趙雲別伝」に載っている話は、乱戦の中で劉備の妻子を保護したエピソード、定軍山のエピソード、第一次北伐のエピソードの3つです。あとは演義による創作です。
 まず、蔡瑁が劉備を酒宴に招いて暗殺しようとしたなどという事実はありません。この人物は劉表の重臣だけあって切れ者ではあったようですが、そういう悪辣な計略を用いるような人ではなかったようです。従って、趙雲の護衛隊長ぶりも残念ながらフィクションです。
 諸葛孔明救出もフィクションです。孔明はそもそも赤壁の戦いの作戦指導をするような立場ではありませんでした。劉備と孫権の同盟を見届ければ彼の用は済んだわけで、実際にはすぐ帰っており、たぶん周瑜と顔を合わせたことも無かったでしょう。
 曹操が趙雲、張飛。関羽から次々に追撃されて見苦しく敗走したというのも作り話ですから、宜都での活躍もありません。
 劉備が孫権の妹をめとったのは、普通に同盟者としての婚姻政策であって別に周瑜の罠ではありません。婚儀を終えてすぐ孫夫人を伴って荊州に戻っています。従って、ここでの趙雲の護衛隊長ぶりも架空の話です。
 劉禅奪回のくだりは、物語としてはなかなかの見せ場なのですが、陳寿の原文にも裴松之の註釈にも出てこないエピソードです。
 これらは、長い間「説三分」という形で三国志物語が語り継がれるうちに、徐々に付け加えられた話だろうと思われます。

 「趙雲別伝」に載っている、劉備の妻子を保護した話にしても、別に「単身」とは書いていないようです。そもそも、このとき趙雲は阿斗(劉禅)の他、その当時の劉備の第二夫人であった甘夫人を救出しており、幼児と婦人を抱えてひとりで敵中を駆け抜けるなどというのは、いくらなんでも無理でしょう。演義でもそこはぬかりなく、このとき負傷した甘夫人が井戸の底に身を投げて自殺したことにして、阿斗だけを懐に抱いて敵中突破したことにしています。
 実際にこの救出劇があったとしても、単身などではなく、それなりの部隊を率いてのことだったはずです。それを単身ということにしたのは、もちろんそのほうが強さが際立つからにほかなりません。
 そういった、作り話らしき部分を差し引いてみると、実のところ趙雲の人物像というのは、よくわからなくなってきます。

 演義では趙雲は、漢中王になった劉備から、関羽・張飛・黄忠馬超と並ぶ「五虎大将」に任命されています。そして演義を読んでいると、この中での席次は、当然関羽と張飛に次ぐ第3位だろうと思ってしまいます。
 ところが、これもフィクションなのでした。史実では、他の4人は確かに「左右前後」の将軍位を貰っています。左将軍、前将軍といった肩書きで、これらは言ってみれば「正規の」将軍位です。ところが、趙雲は翊軍将軍鎮東将軍などに就任はしていますが、これらは「雑号将軍」と言ってその時その時で適当に任命される役職であり、左右前後に較べるとだいぶ格が落ちます。
 関羽と張飛は別格ですが、趙雲が黄忠や馬超にも及ばなかったというのは、演義だけ読んでいると不思議というか、不当な気さえします。
 私が思うに、黄忠はいわば「荊州閥」の武将のトップだったのでしょう。劉備の陣営は寄り合い所帯で、最初から付き従っていた関羽や張飛、徐州で配下になった糜竺(びじく)など、孔明や馬良その他荊州で帰順した人々、そして最終的な領地となった益州の人々と、いろんなグループがひしめいていました。この中で荊州の武将を統御するためには、いちばん年かさでもあり戦歴も長い黄忠を幹部として登用する必要があったのだと思います。
 また、馬超は精強な涼州兵を多数率いて帰順した人物です。劉備の攻撃に頑強に抵抗していた益州の牧劉璋(りゅうしょう)が、敵軍に馬超が参戦したと聞いただけで降伏する気になってしまったというのですから、その勢力は相当なものがあったのでしょう。馬超個人の勇猛さだけで降伏を考えるはずはなく、多数の精兵を伴っていたからこそのプレッシャーであったに違いありません。これら涼州兵は馬超の私兵みたいなものですから、当然ながら馬超の処遇も高いものになります。
 趙雲は、最初に数百名の兵を率いて劉備に属したものの、そのくらいではほとんど「個人的就職」に近いものがあったでしょう。その後も特に私的な勢力を扶植した形跡は無く、それほど大部隊を率いて戦陣に臨んだことも無いようです。
 彼の地位は、実際には荊州閥武将ナンバー2であった魏延よりもさらに下だったようです。要するに、個人的な武勇はともかくとして、将としての能力はそれほど期待されていなかったふしがあるのでした。

 そういえば、趙雲は劉備にとって大事な戦いにはほとんど起用されていません。
 劉備がおこなった最初の大規模な軍事行動は益州攻めですが、ここでは趙雲はぎりぎりの段階まで参戦していません。まあこの時は、劉備は荊州閥の武将たちを引き連れて出陣しており、関羽も張飛も諸葛孔明も荊州に残していましたので、趙雲だけがハブにされたわけではありませんが……
 劉備が没することになる夷陵の戦いにも参戦していません。これは劉備が、関羽と張飛の弔い合戦とばかりに呉に攻め入って反撃され、さんざんに打ち破られた戦いですが、趙雲はこの開戦に反対しています。起用されなかったのはそのためと思いたいところですけれども、関羽・張飛亡きあと、趙雲がもし次席であったのなら、開戦前に反対意見を述べていようが、主力軍を率いる大将として出陣を要請されていたはずです。それが留守居役となり、戦況が不利になっても呼ばれもしないというのは、結局劉備からはその程度の将器としか考えられていなかったからでしょう。
 孔明の第一次北伐の時もそうです。この時点で上記の左右前後の大将はすべて亡くなっていますから、趙雲はほとんど蜀軍の最長老と言うべき存在であったはずです。それでも主力軍を与えられることなく、たかだか遊撃隊の指揮官を拝命したに過ぎませんでした。
 劉備からも孔明からも、趙雲という武将は、せいぜい小部隊を率いて遊撃するくらいの存在と思われていたようです。
 いや、それどころか、留守居役くらいがちょうど良いと考えられていたのではないでしょうか。
 趙雲ファンの歴女の皆さんにはがっかりでしょうが、彼の「本当の」人物像は、伝えられるよりもかなりしぼんでしまうような気がします。

 趙雲が亡くなった時、蜀の後主劉禅が非常に丁重な弔辞を送ったのは確かなようです。
 また、演義での彼の大きな見せ場が、いずれも劉禅にかかわるエピソードであることを考え合わせると、どうも、趙雲という人物は、実際には劉禅の護衛隊長のような立場だったのではないかと私には思えるのです。
 劉禅は劉備の後継者であり、劉備が漢中王や蜀帝になってからは太子ですから、基本的には本拠地を離れず留守を守るのが役割です。益州攻略の時も夷陵の戦いの時も、趙雲は劉禅を護衛しなければならなかったので、劉備に同行するわけにゆかなかった……という考えかたはどうでしょう。
 この説でゆくと、定軍山の戦いで活躍したのはどういうわけだ、とツッコまれそうですが、最初のほうに書いた通り、この話は「趙雲別伝」に出ているだけで、陳寿の「三国志」本文には採られていません。だからウソだとは言い切れないものの、少し割り引いて受け取る必要があるのも確かでしょう。
 第一次北伐のほうは、すでに劉禅が即位し成人もしているところから、「太子付き護衛隊長」の役目は終わっていたとも考えられます。
 「もう私も若くありません。このまま戦場に出ることなく老いてゆくのは寂しいことこの上もなく、このたびはぜひ従軍させていただきたい」
 と涙ながらに訴える老武人の熱意に動かされた劉禅や諸葛孔明が、従軍を許し見せ場を作ってやった……というのは、いささか小説的すぎる光景かもしれませんが。

 諸葛孔明が伝えられるような天才軍略家ではなく、行政家としては超一流であるにしても軍事的才能はさほどのこともなかった……という点は、すでにけっこう検証されています。だいたいそもそもの原典であるべき陳寿自身がそう書いている(「けだし応変の将略はその長ずるところにあらざるか」)のに、それを無視して天才軍師に仕立て上げてしまった後世の講釈がいけなかったのですが、そういうフィクションの部分をはぎとって本来の人物像に迫る試みが、孔明に関してはかなりおこなわれているように思います。
 しかし、同じようにかなり過大な像が伝えられてきたと考えられる「常山の子龍」こと趙雲についての検証は、まだそれほどおこなわれていないようです。それだけに、どうも気にかかってならない人物なのでした。

(2012.9.10.)


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