いきなりシモの話で恐縮ですが、男性器というのは、女性器に較べると名称が多いような気がします。独特な形状なので、いろんなものに喩えやすいからでしょう。イモだのサオだのマツタケだの、男根を象徴している比喩表現は枚挙にいとまがありません。女性器はせいぜいある種の二枚貝に喩えられるくらいで、そのバラエティはとても男性器にはかなわないようです。 さてそういう男性器の別名のひとつに「マラ」というのがあります。漢字で魔羅と書き、やや古語というか雅語に近い呼ばれかたかもしれません。ただビッグサイズのものを「デカマラ」とくだけて呼ぶことは現在でもときどき聞きます。 実を言うとこのマラという呼びかた、私の中学生時代に、誰が見つけてきたのか妙に流行してしまっていました。中高一貫の男子校でしたので、高校を卒業する頃まで、学内でのそれの呼びかたはほぼ「マラ」一色で、チンポコとかペニスとかの世間一般での通称はまず使われませんでした。そういう呼びかたよりも、生々しさが薄れる気がしたのかもしれません。
ごくたまに、学校外のところでこの呼びかたに接すると、なんとなく嬉しくなってしまったほどです。
マーラ(魔羅)というのは本来は仏教用語で、仏道修行の邪魔になるものの総称でした。その意味では「煩悩」に近い内容の言葉とも言えます。
ユダヤ・キリスト教で「試す者」という意味のサタンが魔王の名前に転化したのと同様、仏教の外典ではこの「魔羅」が一種の悪魔のように扱われるようになりました。
そこから男根の別名みたいなことになって行ったのは、仏道修行の邪魔をするオトコの煩悩の大半が、だいたいそのあたりに由来していると考えられたからでしょう。確かに若い僧などは、何よりも色欲を抑えるのに四苦八苦したと思われます。悪魔「マーラ」が男根の姿をしていると解されるようになっていったのもむべなるかなです。
しかし、オトコの煩悩がそれだけであるはずがありません。確かに若い頃は女色に気を奪われることが圧倒的に多いかもしれませんが、金銭、享楽、名声、権勢……と、修行の妨げになる欲望は数限りなく存在します。
マーラが男根なのであれば、それを取り去れば煩悩にわずらわされることなく、心静かに修行に励めるはずですが、古今東西、「宦官」という存在が決して無欲ではなく、むしろ物欲まみれ、権勢欲まみれであったことが多いことを思えば、男の欲望の中で、男根に象徴される性欲などは、一部に過ぎないことがよくわかります。宦官は男根を切除して、性欲を充たすことが不可能になっているために、他の欲望がよりあらわな形で出現しているのだとも言えるでしょう。
宦官は中国が有名ですが、実のところ王朝組織があったほどのところには、ヨーロッパでも中東でも、世界中どこにでも存在していました。
ヨーロッパにおける宦官の伝統は、つい数百年前まで残っていました。映画にもなった「カストラート」がそのひとつです。声の美しい男児を声変わり前に去勢し、一生ボーイソプラノの声を保持させたのがカストラートで、芸術のためにひどいことをしたものだという気がしますが、もともとは宦官がなった職であり、宦官そのものがヨーロッパの宮廷から消えても、音楽界にだけ残ったということに過ぎません。
カストラートはオペラハウスなどでは隠然たる権力を持っており、ワガママの言い放題だったと伝えられます。バロックオペラではたいてい帝王の役をこなすことが多く、例えばヘンデルの有名な「樹木の陰で(Ombra mai fu)」も、カストラートが演じるクセルクセス王の歌うアリアです。そのために現在ではたいてい女性が歌うようになっています。
少し話が逸れますが、オペラでカストラートが王様役を歌い続けた結果、ヨーロッパ人というのは、
──独裁者は声が高い。
という固定観念を刷り込まれているように思われます。ナポレオンやヒトラーが成功したのは、ふたりともきわめて甲高い声の持ち主だったからという説さえあります。ついでに言えばわが国の織田信長もきわめて甲高い声であったとルイス・フロイスが記しており、信長役にドスの利いた低い声の役者を宛てがちなテレビや映画のプロデューサーは、どうかしていると言わねばなりません。
カストラートは18世紀半ばくらいまで残っていて、ハイドンなども少年時代に聖歌隊に属していて、危うく去勢されかけたという話が残っています。ハイドンより2世代ほど下でやはり少年合唱隊に居たシューベルトになると、さすがにその危険は無かったようですが。
宦官というのは、もとは異民族などの戦時捕虜を去勢して使役したことに由来すると思われます。馬や羊などの家畜をおとなしくさせるために去勢するということは世界的におこわなれていましたので、異民族捕虜を去勢するというのも、その延長上で自然な発想だったのでしょう。古い時代には、自分の属する民族だけが「人」であって、それ以外は禽獣同然と見なすのが普通でした。
そのための「技術」も古くから確立されていたはずです。去勢手術に失敗して命を落とすということは滅多になかったそうです。衛生観念が乏しく、外科手術をしても消毒もしなかったために敗血症で死亡したりするケースが多かった時代に、去勢手術ばかりは驚くべき成功率をマークしていました。
去勢した捕虜は家内奴隷などに用いることが多かったでしょうが、王権が拡大すると共に、後宮の使用人として使われるようになりました。後宮は「ハーレム」というと何やら淫靡な響きがありますが、要するに帝王の私的空間です。妻妾がそこに住むため、下手に男の使用人を使うと、王様の眼を盗んで妻妾と密通したりする心配をしなくてはなりません。その点男根を除去している者であれば安心です。こうして宦官が生まれました。最初は後宮の女性には無理な力仕事などをやっていたのでしょうが、だんだんと後宮の管理そのものをおこなうようになってゆきます。
なお、王朝があったにもかかわらず宦官が生まれなかったのが日本史の奇跡とさえ言われます。日本では一度たりとも宦官という存在がありませんでした。これは家畜を去勢する習慣が無かったせいかもしれません(そのため日本の馬は、小型種にもかかわらずおそろしく気が荒いと言われたものです)。
日本ではわざわざ宦官を使わずとも、後宮の女性たち自身に管理能力があったのだ、という説もあります。わが大和撫子のためにはご同慶の至りですが、考えてみると中国にしろ中東にしろ、後宮には庶民だろうが異民族だろうが、美人でありさえすれば見境無く放り込まれていたのに対し、日本の後宮に入るためには美貌の他に、それなりの家柄や教養なども厳しく求められていたという気がします。もともと上流階級の女性ばかりなので、当然管理能力も備わっていたと考えるべきかもしれません。
ともあれ宦官というのはただの下働きから、帝王の私生活全体を司る存在へと変容してゆきました。そして、近代以前の帝王というものは、私生活と公生活にそれほど厳然たる区切りがありません。帝王の私的使用人であるはずの宦官が、時として異常な権力を握ることになるのも、当然と言えましょう。
宦官そのものは世界中に存在したとはいえ、その存在が端倪すべからざるものになり、歴史そのものを動かしたということになると、やはり特筆すべきは中国でしょう。宦官は中国史の至るところに影のように貼りついています。世界の他の地域で宦官が歴史的存在になり果てた20世紀に至っても、まだ現役のものとして残っていたという点でも驚異的です。
中国でも本来は、異民族捕虜が宦官になるというケースが多かったのですが、徐々に、自発的に宦官になるという者も増え始めました。誰が好きこのんで……と思いますが、そこには切実な事情がありました。
宦官は帝王の私生活を取り仕切っていますから、当然ながら当の帝王に対する影響力も大きくなります。帝王に願い事があるような場合に、有力な宦官にちょっと口を利いて貰ったりすれば、聞き届けられることが多くなるわけです。そこで、口を利いて貰うために礼物を届けることになります。
帝王への影響力が強い、有力な宦官になると、ほうぼうからの礼物が莫大なものになります。つまり、宦官として出世すれば、莫大な財産が築ける……ということに、人々が気づいたのでした。
もちろん、教養ある「士大夫」と呼ばれる階級の者は、そんなやりかたを唾棄すべきものとして嫌悪しましたが、教養を身につけるにはカネがかかります。科挙以前であれば家柄も必須でした。家柄が悪く、大したカネも持っていない者が、手っ取り早く財産を築こうとすれば、宦官になるのが早道だったのです。
うだつのあがらない一族が、族内の利発そうな子供を去勢して、宦官として後宮に送り込む、といったことも、決して珍しくはありませんでした。その子自身は子孫を残すことができませんが、その子が出世すれば一族全体が潤うので、やむを得ざることと考えられました。
春秋戦国時代くらいまでは、君主の後宮もわりとオープンで、外部の者が妃妾に直接会うのもさほど難しくなく、そのため妃妾を動かして君主に働きかけるということもよくおこなわれていたようですが、たぶん秦帝国の成立くらいから、後宮が厳しく閉ざされるようになったと思われます。宦官の跋扈も、ちょうどその頃から目立ちはじめるのです。
春秋戦国期以前にも、もちろん宦官は存在していました。晋の文公(重耳)を執拗につけ狙った勃鞮(ぼってい)などが知られています。宮城谷昌光氏の「重耳」や「介子推」などには「閹楚(えんそ)」という名で登場しますが、この人物は最初、重耳の父・献公の命を受けて重耳に自決を迫りに来ます。献公は晩年に愛した驪姫(りき)という女性が産んだ息子を跡継ぎにしようとして、前の太子はじめ有力な息子たちを全員排除しようとしたのでした。
このときは重耳が遁走したのでそれで済みましたが、やがて献公が死ぬと、驪姫とその子は重臣たちに殺され、重耳の弟でやはり逃亡していた夷吾(いご)が舞い戻って晋君となります。これが晋の恵公ですが、恵公は兄を目障りに思い、消そうとします。この刺客を命じられたのがやはり勃鞮だったのでした。そんなことばかり命じられているところを見ると、彼は宦官のくせに武芸の達人だったようです。
恵公は失政を繰り返し、隣国の秦とも関係を悪化させて憂悶のうちに死にます。その子の懐公も国情を悪くする一方だったので、亡命していた重耳は帰国してみずから君主となります。ところが、勃鞮は逃げもせずに宮廷内で働いていました。文公となった重耳は、当然彼を誅殺しようとしますが、
──私は時の君主の命令に従ってきただけのことです。私を殺すことは、君主に忠義な者を殺すということになりますぞ。それでどうやってご家来衆に忠義を求められるおつもりか。
と逆に説教され、納得して勃鞮をいままでどおりに仕えさせることにしたのでした。
この宦官には、それなりに硬骨さが感じられますし、君主を裏から操るといった悪辣さは伺えません。君主の私的命令を受けて動く人物ではありますが、まだ後宮の管理人というような役割に就く段階には至っていない宦官のありかたを示していると言えるでしょう。
宦官が、その立場を利用して、大きく歴史を動かしたとなると、やはり秦の趙高からということになりそうです。
また、後漢・唐・明の三朝では、とりわけ宦官の害が深刻であった、とも言われています。
宦官の力の源泉は、君主(=秦以降であれば皇帝)の私生活に密着しているというところにあるわけですから、いわゆる公権力ではあり得ません。すべては皇帝権力に附随した力であるに過ぎません。
従って、皇帝自身に充分な力量が備わっていれば、宦官が出る幕はあまり無いことになります。比較的しっかりした皇帝が多かった前漢・北宋・清などの王朝で宦官が異常な権勢を持ったということはほとんど見られませんので、やはり宦官の力というのは、皇帝権力の隙間のようなところに根ざしていたことがわかります。
後漢はなぜか幼帝がやたら多く、唐は半ば以降傍系から擁立される皇帝が増え、明は朝廷に顔を出さないヘンテコな皇帝が相次ぎました。そういうあたりに、宦官が猛威を振るう余地があったものと思われます。
もちろん、悪玉ばかりではありません。不朽の歴史書を書き上げた司馬遷も、紙を現在の形に仕上げた蔡倫も、大航海時代の先鞭をつけた鄭和も、みんな宦官です。性欲を充たせなくなったことで行き場を失ったエネルギーが、金銭とか権勢に向かうケースが多かった中で、彼らは建設的な方向に情熱を傾けることができた稀有な──というより幸せな例であったと言えましょう。
そういう宦官たちの銘々伝を調べてみると面白そうですが、今回は序説の段階でだいぶ長くなってしまったので、また他日書いてみようと思います。
(2015.4.9.) |