宦官列伝

4.五代・宋の宦官

 宦官は乱世には出る幕がないということを前回書きました。宦官が政治的な力を持つのは、安定した王朝のもとで絶対権力を持つ皇帝が存在する場合にほぼ限られます。皇帝自身が不安定で、不満を持った者があっさり弑殺することができるような状況では、皇帝側近としての宦官も権勢の振るいようがありません。本来の、後宮の使用人としての立場で存続はしていますが、弱体王朝ではほとんどなんの力も無いのでした。
 宦官悪が猛威を振るったとされる唐王朝のあと、五代十国と称される時代が50年ばかり続きます。中原で後梁・後唐・後晋・後漢・後周という5つの王朝が相次いで盛衰し、そのあいだあちこちに10の地方政権が生まれたという時代です。地方政権のほうはそこそこ何十年も続いたところもありますが、中原の5王朝は、全部併せて53年ですから、ひとつの王朝の平均寿命は10年ちょっとに過ぎません。後漢(「ごかん」ではなく、習慣的に「こうかん」と呼んで、光武帝の後漢と区別する)のごときは建国から滅亡までわずか4年です。
 明らかに乱世であって、こんな時代には宦官が権勢を振るう余地はほとんど無いと言って良いでしょう。
 ただし、後唐の創始者である荘宗・李存勗(りそんきょく)は唐かぶれで、せっかくその前の後梁を興した朱全忠が宦官を一掃していたのに、唐の頃と同じく宦官を重用したために人々をうんざりさせています。荘宗は自分が抜擢した俳優出身の将軍に暗殺されるのですが、その将軍も、世間のうんざりした空気を感じとっていたのかもしれません。
 とはいえ、荘宗の時代に特に悪名高い宦官が跋扈したということもないようです。荘宗の皇帝としての治世は3年ほどですから、宦官の害がそれほどはびこるだけの期間は無かったのでしょう。ただ李存勗は帝位に就く前の10年ほどを「晋王」として過ごし、この時期は後梁の末帝・朱友貞と鍔ぜりあいを繰り返していました。宦官重用はその頃からの癖だったのかもしれません。
 荘宗のあとを継いだ明宗はなかなかの名君で、宦官を重用することもなく、比較的落ち着いた治世を実現しました。しかし残念なことに即位した時すでに高齢で、8年しか在位できませんでした。明宗は荘宗の息子ではなく、荘宗の父であった李克用の義子で、従って荘宗と同世代になります。

 五代のあとを承けたのが、趙匡胤(ちょうきょういん)の興したです。
 宋は軍事力は強くなかったものの、経済力はきわめて高く、しかも徹底した文官優位の王朝でした。武将に権力を持たせると苦労するということを、みずからも後周の将軍であった趙匡胤はよくわかっており、地方駐在の武官などに権力が渡らないような仕組みを作り上げました。
 とはいえ中国は伝統的に文官優位の社会で、武将の地位は常に低めであったのですが、唐までの王朝では、名門貴族がまだ幅を利かせており、そういう連中が高位にあったりしました。名門貴族は王朝に属さない私兵を抱えていることが多く、地方に置くと軍閥化しやすかったのです。
 五代の乱世で、この名門貴族がほとんど没落しました。乱世ではありましたが、世の中をいちど根底からひっかきまわして新しい秩序を産み出すという役割もあったと言えます。
 家柄によって高位を占めるような者は居なくなり、すべてが実力試験合格者によって動かされるようになります。つまり科挙です。
 科挙はの時代からはじまり、唐王朝期に盛んになりましたが、それでもまだまだ古くからの名門貴族の力もあなどれませんでした。まずは武則天が、いろいろうるさい貴族たちを避けて科挙通過者を重用しましたが、これでようやく、ひとつ橋頭堡が築かれた程度のことに過ぎませんでした。中唐から晩唐にかけての、牛李の党争などの政争は、政策論争でもありましたが、名門貴族出の政治家と科挙出身の政治家との抗争という側面もありました。つまり中唐から晩唐にかけて、ようやく科挙出身者が、貴族出身者に拮抗するだけの力を持ったということでもあります。
 そのあとの五代で貴族階級が没落したので、宋では誰憚ることなく科挙出身者に政治を担当させることができたわけです。
 のちには形骸化し、受験秀才ばかりを産み出して中国の停滞の一因ともなった科挙でしたが、宋一代、少なくともその前半である北宋期には、非常にみずみずしい活力を中国社会に注入したのでした。学問の成績さえ良ければどれほど高位にも就けるということのありがたさは、「学歴社会」を否定的にとらえる人の多い現代日本では、なかなかわからないかもしれません。私は昔から、学歴社会を糾弾する人を見ると、

 ──それならあなたは、家柄とか財産とかで出世が決まる世の中のほうが良いのですか?

 と訊ねたくてならなかったものです。
 科挙の試験は、地方でおこなわれる郷試にはじまり、何段階かありましたが、最後の殿試というのは皇帝自身が試問をおこなうもので、これに受かれば高級官僚に任命されるのは間違いなしでした。高級官僚は皇帝じきじきに選ばれたという光栄に感激し、発奮して皇帝のために尽力すると期待されたわけです。
 出世の方法は科挙に合格することだけで、例えば軍功などをいくら上げても出世はたかが知れていました。そのため武官の士気は低く、宋が軍事的に弱体であったのはそれが理由でもあります。
 こういう状況だと、宦官にはそれほど用がありません。宋一代は、北宋でも南宋でも、さほど宦官の害は無かったようです。
 宦官が跋扈する条件は、安定王朝であることと、皇帝に絶対権力が握られていること、そしてもうひとつ、その絶対権力を握る皇帝が幼少であったり暗愚であったりすることが上げられます。後漢は幼帝が相次ぎました。唐は幼帝や暗愚な皇帝ばかりではありませんでしたが、憲宗のように変なクスリのせいで途中から暴虐になったり、武宗のようにいささかエキセントリックな皇帝が続き、その影響により皇帝の擁立そのものが宦官集団によっておこなわれるようになり、宦官の暴走にストップをかけられなくくなっていました。
 宋という王朝は、その意味ではなかなかすぐれた皇帝が続いたために、宦官のはびこる余地が無かったとも言えます。
 太祖である趙匡胤、その弟の太宗・趙匡義ともに傑物でした。3代真宗はやや浪費家の風はあったものの、北方のの侵攻に対し、親征をおこなって毅然と立ち向かうだけの気概を持っていました(負けましたが)。4代仁宗も英明な資質の持ち主であったと伝えられます。
 5代英宗は傍系から即位した人で、「濮議(ぼくぎ)なる不毛な論争をまきおこしたことで、後世の評判はあまり良くありませんが、論争に勝つためもあってか勉強家ではありました。ちなみに濮議というのは、英宗の父親であった濮王を、皇考(先帝であった現帝の父)と呼ぶか皇伯(皇帝の伯父)と呼ぶかという、ただそれだけの問題です。濮王は皇帝ではなかったので皇考と呼ぶのはおかしいだろうという主張は正論ですが、皇統の上の話とはいえ実の父親を伯父と呼ぶのも変だという反論が出るのもわかります。人情として忍びないというだけではなく、伝統中国における絶対倫理であるところの「孝」に反すると言われれば動揺する者も多かったのでした。このあたりから、受験秀才ばかりを産み出す科挙の弊害も顕れはじめたと言うこともできそうです。誰もが建前ばかり大声でがなり立て、柔軟な思考ができなくなっているのです。たとえばこういうイレギュラーな場合の皇帝の実父の呼びかたをあらたに制定するというような智慧が、誰にも浮かばなかったのでした。いや、浮かんだとしても、

 ──そんなその場しのぎのことでどうする!

 という建前の大合唱の前に潰されていたことでしょう。
 6代神宗、7代哲宗もマジメな皇帝でした。王安石による財政再建に期待するところ大だったようですが、既得権益者たちに妨害されてなかなかうまくゆかなかったのが残念なところです。
 問題は哲宗の弟の8代徽宗です。歴代皇帝中でも首位を争うほどの風流人ですが、その風流を実行するために莫大な財物を浪費しました。いわば宋王朝ではじめての「フマジメな皇帝」であり、このフマジメな皇帝の代で、事実上北宋は滅亡します。
 そして、このフマジメな皇帝の代で、宋王朝期で唯一と言って良い、悪名高い大物宦官が登場します。「水滸伝」の悪役ともなっている童貫です。

 童貫は謎の多い男で、宦官のくせに武将としての働きが多かったのはともかくとしても、宦官のくせに堂々たるヒゲを生やしたり、宦官のくせに妻子を多数持っていたとも言われます。子供はさすがに養子と思われますが、どうもよくわからん人物です。
 この列伝の最初に触れた嫪毐(ろうあい)のようなニセ宦官でなかったとしたら、「なんちゃって去勢」であった可能性もあります。宦官になるための去勢は、実はいろんなレベルの術式があって、サオだけ切ってタマはそのまんまなんてことも無いことは無かったと言いますし、サオも先っちょだけちょっと切り落とす程度の場合もあったらしい。逆にタマだけ除去してサオを残すこともあり、そうすると勃起はするが射精しないのでいつまでもご婦人がたを悦ばせられた、などという真偽不明の説も唱えられています。
 あるいは畸形でタマが3つあったとか、ともかく童貫の場合、去勢したあとでも男性ホルモンが根絶はされなかったとしか思えません。からだつきも筋骨隆々であったと伝えられます。
 徽宗皇帝とは、書画骨董の目利きであったことから気が合ったようです。徽宗は痩金体という書体を発明したほどで、書画についてはそこらの書家がはだしで逃げ出すような通人でした。
 これまた「水滸伝」の敵役、悪宰相蔡京と組んで苛斂誅求の限りを尽くしたとされていますが、蔡京にしろ童貫にしろ、悪意があったわけではなく、できるかぎり徽宗の便宜を図ろうとしただけであったでしょう。徽宗の趣味生活を支えるための費用が莫大なものになり、結果的に苛斂誅求となってしまったわけです。
 人々の怨嗟が高まり、社会に不穏な空気が流れ出すと、童貫は外征で批判を逸らそうと考えます。つまり、ずっと北方に居坐り、宋の固有の領土である(と宋では考えていた)燕雲16州を占拠している宿敵・遼を叩こうというわけです。ちょうど遼のさらに北方に、完顔阿骨打(ワンヤン・アクタ)率いる女真族という王朝を起ち上げて、遼に侵攻していたので、これと同盟して遼を亡ぼそうと考えたのでした。そして自らその総司令官に就いたというところが童貫の驚くべきところで、もとから兵法などを好み、軍事の研究にいそしんでいたのだそうです。
 ところが折悪しく、方臘(ほうろう)が乱を起こします。その勢いはすさまじく、地方官の手には負えませんでした。童貫はやむなく、対遼戦のために集めた軍勢を、叛乱鎮圧に振り向けたのでした。これはどうも、方臘にとっても不運であったようです。わざわざ15万とも言われる政府の大軍が編成された時に乱を起こしてしまったので、いきなり鎮圧の憂き目に遭ってしまいました。
 とはいえ、すぐに鎮圧されたというわけでもありませんでした。方臘の乱は、終熄するまで約3年を要したのです。童貫が叛乱鎮圧にもたもたと手間取っているうちに、金軍は遼に攻め込んで破竹の進撃を続け、その大半を制圧してしまっていました。遼の天祚帝は逃げ出し、燕京(現在の北京)に残された重臣耶律大石天錫帝を擁立してなおも抗戦しました。
 燕京は宋軍が攻めるという約束になっていたので、完顔阿骨打は手をつけなかったのでした。ようよう方臘の乱を取り鎮めた童貫は、増援を受けて20万になった軍勢を率いて燕京を攻めましたが、長年の文弱に流れた宋軍は、この敗残の遼軍にすらかなわずに蹴散らされてしまいます。
 仕方なく童貫は、完顔阿骨打に泣きついて燕京を落として貰います。落としたあとは宋が受け取るという虫の好い密約で、さすがに義理堅い阿骨打もあきれたようです。たちまちのうちに燕京を落としましたが、その住民や財物はことごとく掠奪してしまい、宋にはからっぽになった街だけを引き渡したのでした。
 確かに「燕京を宋に引き渡す」という約束だったので、違約にはなりません。しかし宋としてはあてがはずれた状態で、筋違いながら金に恨みを持ちました。また、燕京の近くの州を金が保持したままなので剣呑でならず、宋はとうとう同盟国だったはずの金に攻撃を仕掛けます。
 完顔阿骨打すなわち金の太祖はその頃崩御し、弟の完顔呉乞買(ワンヤン・ウチマイ)が金の2代皇帝に就いていました。呉乞買は阿骨打ほど寛容でなく、手のひらを返した宋に憤激して逆襲するのでした。敗残の遼にさえかなわなかった宋軍が持ちこたえられるわけもなく、総崩れとなり、総司令官である童貫は軍勢を見捨てて逃亡しました。
 さすがにこの敵前逃亡は許されないことです。徽宗が隠退して、息子の欽宗に帝位を譲ったこともあり、童貫は流罪、間もなく死罪に問われ、斬首されました。

 金の攻撃により北宋は亡び、欽宗の弟のひとりが華南に逃れて高宗を名乗り、南宋を開きます。南宋も北宋に引き続き軍事的にはぱっとしない政権でしたが、生産力の高い華南を領し、しかも維持にカネのかかる華北を抛棄したおかげで、北宋を上回る経済大国となったのでした。日本の平氏が南宋との貿易で莫大な利益を得ていたのはよく知られています。
 南宋は、秦檜(しんかい)・韓侂冑(かんたくちゅう)・史弥遠(しびえん)・賈似道(かじどう)など、いささかダーティな印象の宰相が輩出しましたが、彼らはダーティなりにけっこう有能で、危なかしい南宋の舵取りをうまくやりとげました。
 秦檜などは史上最悪の腹黒宰相みたいに思われ、その石像にはいまでも放尿する人が多いらしいのですが、実は微妙であった高宗の立場を理解し尽くし、アクロバティックなほどの腹芸を隠し持って金と交渉し、曲がりなりにも南宋という政権を安定させました。
 賈似道に至っては、なんで佞臣扱いされているのかわからないほどです。ぐいぐいと攻め立ててくるモンゴル相手に硬軟取り混ぜた交渉を続け、内政でも破綻を見せずに、30年間というもの末期の南宋の屋台骨を支えました。私腹を肥やしたという話もありますが、中国の権力者というのは私腹を肥やすのがあたりまえで、たまにそうでない役人が居ると歴史に名が残るほどです。この点で賈似道を批難できる者がどれだけ居ることやら。
 いずれにしろ、南宋では宦官が跋扈したということは無かったようです。皇帝に対して政府が強いと、宦官が裏工作をする余地が少ないということでしょう。
 次の王朝期も、宦官の害があったという話はあまり聞きません。これは皇帝権力がどうこういうことではなくて、外来のモンゴル王朝が、それまでの中華帝国的な宦官の使いかたをしなかったということかもしれません。元は100年足らずで中国を抛棄して北へ帰ってしまったので、中国のやりかたに馴染むには時間が足りなかったし、そもそも馴染もうとも思っていなかったフシがあります。
 元を追い出した太祖・朱元璋は、歴史に学ぶことが好きだったようで、さまざまな過去の王朝のことをよく調べたと思われます。その結果、宦官が政治に介入するとろくなことにならないという教訓を得ました。それで朱元璋は、宦官が政治に口を出すことを厳しく禁じたのでした。少しでも政治向きのことを口にした宦官は、むごたらしい方法で処刑されました。
 それほどに宦官を忌避した明王朝なのに、終わってみると後漢・唐と並ぶ、宦官の害の大きかった三大王朝のひとつとされるていたらくになっていたのでした。このあたりについては次の機会に書くことにいたします。

(2015.5.14.)

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