シャーロック・ホームズ(4)
警察紳士録
シャーロック・ホームズの物語には、多くの警察官が登場する。
推理小説が犯罪を扱うことが多い以上、これは当然だろう。ホームズがいかに敏腕な私立探偵であっても、容疑者を逮捕し、裁判所へ送る権限はない。犯罪にかかわった物語では当然ながら警察官が関わらざるを得ない。
しかし、ホームズの卓越した能力を誇示するためか、その多くはあまり有能でなく書かれている。正直言って、正規の警察官の能力がこんなものだったら、庶民はおちおちしていられないと思えるほどである。
ちょっと事件が混み入ってくるともうお手上げ。見当違いの容疑者を簡単に逮捕してしまう。無能なばかりでなく、ホームズの捜査の邪魔さえする。そのくせ手柄だけは独り占めしたがる。
さんざんな書かれようである。
主役たる天才的な民間人探偵と無能な警察官という対比は、ホームズ以後もしばらく踏襲される。警察官が正当に扱われるのは、1940年代からの警察小説の流行を待たなければならない。
これは、ホームズ物の発明ではない。ホームズの先輩であるオーギュスト・デュパンの物語にも、「G──」という頭文字だけで表されるパリ警視庁の警視総監が登場して、デュパンの推理にすがるのである。語り手兼探偵助手──いわゆる「ワトスン役」──の存在と共に、近代推理小説の鼻祖エドガー・アラン・ポーが用意した卓抜な人物配置であった。
もっとも、ホームズが相手にした警察官が、全部が全部無能だったわけでもないし、最初の頃バカにしていたレストレイドなどに対しても、後年はホームズもだいぶ態度を和らげるようになったようである。むしろ途中からは、ホームズに師事するような有能な若い警察官がけっこう登場してくる。
ある意味、英国の警察制度が一般市民に認められてくる過程が、ホームズ物語にも反映されていたのだと考えてもよいかもしれない。
本稿では、ホームズのライバルであり協力者でもあった警察官たちの人となりを紹介してみたい。ラストネームで日本語表記の五十音順にしたので、お読みの訳書によってはちょっと戸惑うかもしれないが諒承されたい。また、下っ端の巡査などで名前が出てくる登場人物もいるが、それらは省略した。
★グレゴリー警部★
『思い出』の「“白銀の光芒”号」(「白銀号事件」)に登場。「近頃英国警察界でめきめき名を上げてきた」とワトスンは書いている。若手でなかなか有能なのだろう。捜査の能力や観察力もすぐれているが、惜しいかな想像力が欠けている、とはホームズの評。話好きで気さくな性格らしい。
★トバイアス・グレッグスン警部★
レストレイド警部と共に、最初の「緋色の研究」から登場、『思い出』の「ギリシャ語通訳」で再登場し、『最後の挨拶』中の「ウィステリア荘」「赤輪団」にも姿を見せる。色白で大柄な体格。
当初からのホームズのライバルであるわけだが、レストレイドほどのあからさまな競争心は見せていないようだ。「緋色の研究」ではレストレイドと共に「スコットランド・ヤードでは掃き溜めに鶴」とホームズから評され、「まるで商売女みたいに」レストレイドと張り合っていたそうだから、決して我の弱い警官でもなかったようだが、ホームズに対してはレストレイドよりも高い評価を与えていたのかもしれない。「緋色の研究」でイーノック・ドレッパー殺しの捜査への参加を要請したのもグレッグスンの方であった。
ただ、それだけにレストレイドほどアクの強い印象もないのが事実である。
★コヴェントリー巡査部長★
ハンプシャー州の警察官。『事件簿』の「ソア橋事件」を担当した。ワトスンはけっこう詳しく描写している。
──背が高く、痩せて、顔色の悪い男で、妙に口数が少なく、何やら腹に一物ありそうな様子で、口には出さねど大きな疑惑でも抱いているのではないかと思わせた。重要と思うことを話す時には急に声をひそめてもったいぶる癖があったが、聞いてみるとごくごく下らない話であることが多かった。そういう妙な癖はあるものの、元来ごく正直で慎み深い男であることはすぐにわかった。──
功名心が強く、スコットランド・ヤードから乗り込んでこられるよりも、ホームズの方がましだと思っていたようだ。
★アセルニー(ピーター)・ジョーンズ警部★
「サインは“4”」で登場、あからさまにホームズを軽蔑しているらしく、ホームズ物語に登場する警察官の中でももっとも態度が高飛車である。ホームズの理論など実際の犯罪捜査にはなんの役にも立たないとうそぶくが、結局自力では事件を解決できずにホームズに泣きついた。
彼はおそらく「赤毛連盟」に登場するジョーンズ警部と同一人物と思われる。ファーストネームは違っているのだが、セリフから考えてまず間違いはあるまい。「サインは“4”」の時よりは態度が軟化しているが、それでもまだホームズを青二才扱いしているあたり、なかなか頑固な刑事である。「赤毛連盟」事件が発生した1890年と言えば、もうホームズの探偵としての名声はヨーロッパ中に轟いていたはずなのだが。
★パタースン警部★
「最後の事件」に名前だけ登場するが、モリアーティ教授の犯罪組織を壊滅させるべくホームズと協力していたらしい。ホームズはワトスンへの遺書の中で、一味を断罪する証拠の資料をパタースンに渡すよう頼んでいる。
しかしこの男、肝心のモリアーティを取り逃がしたばかりか、モラン大佐を含む組織の幹部3人も逮捕できず、しかも大陸にいたホームズにはモリアーティのことしか通報しなかった。どうもあまり有能ではなかったように思われる。
しかも、証拠資料が警察でなくてなぜ民間人のホームズのところに保管されていたのだろう。ホームズもパタースンのことはあまり信用していなかったように見えるではないか。
モリアーティはホームズが網を張る有様を逐一見ていたという。それができたのは、警察内部に内通者を持っていたからではないかと考えられる。パタースン本人ではなくとも、その部下の誰かがモリアーティに籠絡されていた可能性は充分にある。ホームズが最大の敵を相手に廻して、レストレイドなどの気心の知れた警察官をパートナーにできなかったのは不幸だったかもしれない。
★バードル警部★
サセックス州警察の警部。『事件簿』の「ライオンのたてがみ」に登場。がっしりとした牛のような体格の男。この事件はホームズがベーカー街を引き払って引退したのちに起きたのだったが、バードルはホームズの名声を聞き知っていて知恵を借りに来たのだった。
★フォーブズ刑事★
『思い出』の「海軍条約文書」に登場。まだ若いらしいが、ホームズに会うと、
「あんたのやり口は聞いてますよ。警察にやってきちゃあ聞き出せるだけの情報を聞き出して、それでもって事件を見事解決するそうじゃないですか。おかげでこちとらの評判はさんざんですよ」
と攻撃的な態度を見せた。「小柄で狡猾そうで、愛嬌のない鋭い顔をしている」とワトスンが書いているが、典型的な刑事という感じである。しかし道理のわからない男ではなかったようで、ホームズが説得するとすぐ協力的になった。
★フォレスター警部★
サリー州警察の警部で、『思い出』の「ライゲートの大地主」に登場。若いが、鋭い顔つきをした男で、ホームズが転地療養のため滞在しているのを聞きつけて協力を求めにやってくる。
この事件の直前に、ホームズは全ヨーロッパを震撼させたモーペルトワ男爵の陰謀事件を見事解決し、その名声も一躍高まったそうだから、地方警察の警察官がみずから助力を求めるのも自然な流れだったかもしれない。
★ブラッドストリート警部★
あまり知名度が高くないが、『冒険』中の「くちびるのねじれた男」「青のガーネット」「技師の親指」と3回も登場しているのだから、もう少し有名になってもよいかもしれない。ただし「青のガーネット」では新聞記事に名前が出てくるだけ。
大変恰幅のよい男であるが、能力のほどはなんとも言えない。それほど言及されていないのである。ただ、自分が逮捕した乞食のヒュー・ブーンの正体を見抜けなかったり、ガーネットの盗難犯人として見当違いの男を逮捕したりしているところを見ると、あまり大したことはないのであろうか。
★ベインズ警部★
サリー州警察の警部で、『最後の挨拶』の「ウィステリア荘」に登場。鈍重そうな外見にかかわらず、実は相当な能力の持ち主らしい。ホームズと別行動をとるが、ほぼ同時に重要証人に辿り着いたばかりか、ホームズにわからなかった謎の人物の正体も先につかんでいた。わざと違った容疑者を逮捕して真犯人を油断させるという高等戦法まで使い、ホームズをも眩惑した(ただし、こういう方法は現代の警察ではとれないだろうが)。もしかするとホームズ物語に出てくる警察官の中でいちばん有能だったかもしれない。
★スタンリー・ホプキンズ警部★
若手ちゃきちゃきの警部で、『帰還』の「黒のピーター」「金縁の鼻眼鏡」「アベイ農場」に登場。同じ巻の「スリー・クォーターの失踪」にも名前が出てくる。ホームズの科学的捜査法に心酔し、学ぼうとしている。ホームズの方もずいぶんかわいがったようだ。ただ「アベイ農場」ではホームズに裏切られているが……
スコットランド・ヤードの警部であるはずなのだが、なぜか田舎の事件に駆り出される運命にあるらしい。「黒のピーター」はサセックス州、「金縁の鼻眼鏡」と「アベイ農場」はケント州で起きているのだ。当時、地方警察で手に負えなくなると、スコットランド・ヤードに協力を要請することが珍しくなかったようで、若いホプキンズなどはしょっちゅう飛ばされていたのだろう。
★マキノン警部★
サリー州警察の警部。『事件簿』の「隠退した絵の具屋」に登場。サリー州で活躍中の私立探偵バーカーにちょくちょく手柄をさらわれていたようで、
「われわれだって結局はちゃんと目的を果たすんですよ」
と不服そうである。ホームズがこの事件の手柄を譲ってやったので機嫌を直した。
★アレック・マクドナルド警部★
「恐怖の谷」に登場する若手の警部。この事件では、彼自身がサセックス州のメイスン警部に要請されてロンドンから駆けつけるところで、ホームズの同行を誘いに来たのであった。本人もすぐれた資質を持ち、それゆえにホームズの偉大さを正確に認識していたと思われる。
背が高く、骨張った体格で、頭は大きく眉は太く、ケルト系の武骨な風采をしている。興奮すると生まれ故郷のスコットランド訛りが飛び出すらしいが、そのあたりをうまく訳した訳本にはまだお目にかからない。
のちに全国的な名声を博したそうだが、残念ながらこの一篇にしか登場しない。
★マーティン警部★
ノーフォーク州警察の警部。『帰還』の「踊る人形」に登場。敏速なホームズの捜査ぶりを目の当たりにして、すっかり心酔したらしい。
★ホワイト・メイスン警部★
サセックス州警察の警部で、「恐怖の谷」でマクドナルド警部に協力を要請する。マクドナルドとは旧知の間柄だったらしい。要請状ではホームズを同行することを提案しているわりに、最初のうちホームズの手際にやや疑問を感じていたふしがある。
★モートン警部★
『最後の挨拶』の「瀕死の探偵」で犯人逮捕のためホームズと協力。ホームズはこの事件で死病にとりつかれたような芝居を打って、ワトスンや下宿のハドスン夫人までもだまくらかしたのだったが、モートンには作戦を明かしていたのだろう。心配げなワトスンと会った時、ホームズの容態を訊ね、ワトスンが「かなり悪い」と答えたところ、
──危うく、喜んでいるのではないかと思われるような、妙な表情をした。──
とのこと。
★ユーガル★
『事件簿』の「マザランの宝石」で名前だけ登場。ホームズに頼まれてワトスンがスコットランド・ヤードまで呼びにゆくが、その人となりどころか、階級さえ不明である。
★ランナー警部★
『思い出』の「入院患者」に登場。ホームズとは仲が良かったらしく、気軽に捜査に参加させている。
★レストレイド警部★
最初の「緋色の研究」から早速登場し、『冒険』中の「ボスコム谷の謎」「独身の貴族」、「バスカヴィル家の犬」、『帰還』中の「空き家の冒険」「ノーウッドの建築士」「恐喝者ミルヴァートン」「6つのナポレオン」「第二の汚点」、『最後の挨拶』中の「ボール箱」「ブルース・パーティントン設計図」(「フランシス・カーファックス姫の失踪」、また『事件簿』の「ガリデブが三人」にも名前だけ)と、後期に至るまで現れる。いわばホームズ最大の好敵手と言ってよかろう。「ワトスン役」になぞらえて、主役探偵を引き立てる警察官を「レストレイド役」と呼ぶことすらあるくらいである。
これだけ登場しているが、ファーストネームは不明。白イタチのような顔とか、ブルドッグ面とか、ワトスンもかなり容赦ない書き方をしている。体格は貧相であるらしく、長身のホームズや、中背でがっしりしたワトスンなどと並ぶと見劣りしたであろう。
ホームズと真っ向対立することもあるし(「ボスコム谷の謎」や「ノーウッドの建築士」など)、よい形で協力することもある(「バスカヴィル家の犬」や「空き家の冒険」など)。ホームズも、レストレイドの推理力はからっきしだとバカにしつつ、証拠に食いついたら決して放さない粘り強さは賞賛している。典型的な叩き上げタイプの刑事なのである。それにしても、「緋色の研究」当時は、このレストレイドを「スコットランド・ヤードでは掃き溜めに鶴みたいなものだ」とホームズが評しているのだから、警察はよほど程度が低かったものと見える。
確かに19世紀中頃の刑事は、経験と勘だけを頼りに足で稼ぐタイプばかりで、その後の科学的捜査法などは確立されていなかったらしいから、ホームズの方法にしてやられていたのも無理はなかったかもしれない。それにしてもレストレイドはホームズよりは間違いなく10歳以上年上だったはずで、若造の訳知り顔をこしゃくに思っていただろうことは想像に余りある。
しかし、ホームズと競争したり手助けして貰ったりしているうちに、お互い評価を改めて行ったようで、「6つのナポレオン」の末尾では潔く脱帽するに至っている。
(2002.2.7.)
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