シャーロック・ホームズ(5)
リュパン対ホームズ
シャーロック・ホームズ物語がストランド・マガジン誌上で連載され始めるや、熱狂的な人気を獲得したことはよく知られている。そして翌年には早くもパロディが発表されたことも前に書いた。ロバート・バーの「ペグラムの怪事件」で、主役の名(迷?)探偵はシャーロー・コームズ、その友人で語り手を務めるのはホワトスン博士。
以来、ホームズのパロディは星の数ほど書かれた。「正典」に含まれる60篇の百倍以上にも及ぶはずである。
その中には、わりとまじめに、原作者コナン・ドイルだったらこうも書いたろうと思われるような書きっぷりをしているものもあり、そういうものはパスティシュと呼ばれている。日本語に訳すと「贋作」である。贋作というと悪い意味にとられることが多いが、文芸作品の場合はそうでもない。美術で言えば「模写」に近く、なるべく原典のスタイルを真似て書くのをよしとする。ホームズ物のパスティシュとして有名なのは、コナン・ドイルの次男エイドリアンがディクスン・カーと共同執筆した『シャーロック・ホームズの功績』であろう。また近年になって英国の女流作家ジューン・トムスンが発表している『シャーロック・ホームズの秘密ファイル』に始まるシリーズなども高い評価を得ている。
一方、ホームズ物語がツッコミどころ満載なのをいいことに、とことんしゃれのめすという文字通りのパロディも数多い。上述のバーの作品などはもちろんそうなっている。シリーズとして書かれたものではロバート・フィッシュの『シュロック・ホームズの冒険』などが有名だ。珍しいところではO.ヘンリーの「シャムロック・ジョーンズの冒険」なんてのもある。
また、パロディとパスティシュの中間的な作品も多い。オーガスト・ダレスの『ソーラー・ポンズの事件簿』などはほとんどホームズ物のパロディという枠を超えて、独立した名探偵シリーズと考えられるまでに至っている。
これらのものはドイルの生前から盛んに書かれていた。ドイルがこれについてどう思っていたか、よくわからないが、友人の劇作家ジェイムズ・バリーが自分の本の余白に短いホームズ・パロディを書きつけてドイルに贈ったら大変喜んだ、というような話もある。
ドイルの死後14年経って、エラリー・クイーンは『シャーロック・ホームズの災難』というアンソロジーを出版した。これには33篇のホームズ・パロディが収められており、この時点ですでに「数多くのものから厳選した」状態であった。上述のバー、O.ヘンリー、ダレス、バリーらの作品の他、アガサ・クリスティやアントニー・バークリーなどの著名な推理作家、マーク・トウェインなどの文豪、それに数多くの研究者による作品が掲載されている畏れ入った本である。
しかし、上記のエイドリアンからクレームがついて、この本は出版差し止めとなってしまった。その数年後にエイドリアン自身が『功績』を出すのだから、なんだか嫌がらせのようでもある。あるいは自分がパスティシュ集を目論んでいたからこそ目障りだったのか。ともあれ現在では復刊され、邦訳版もハヤカワミステリ文庫で読むことができる。
さて、ホームズ物語自体のパロディとは別に、自分の作品の中にホームズを借用したというケースもないではない。早い話が上記の『災難』に含まれているマーク・トウェインの「大はずれ探偵小説」ではホームズは脇役みたいになってしまっているし、クリスティの「失踪した婚約者」はトミー&タッペンス・ベレズフォードのシリーズのひとつで、トミーがホームズごっこをしているというような趣向になっている。
しかし、本格的に、そしてかなり継続的にホームズを借用しているものとして、フランスのモーリス・ルブランが創造したアルセーヌ・リュパン物がある。
もともとホームズとリュパンはかなり相同的なキャラクターだ。痩せ形の長身、変装の名人、フェンシングや柔道の達人、すぐれた化学者、顕著な騎士道精神や自己顕示欲──と共通点を並べ上げてくると、双子のようにさえ思えるほどである。違うのはホームズが探偵つまり体制側の人間であるのに対して、リュパンが泥棒つまりアウトローであるという点だが、これはいわばネガとポジみたいなもので、ホームズは正義のためとあらば強盗みたいな真似もするし(「恐喝者ミルヴァートン」や「フランシス・カーファックス姫の失踪」など)、リュパンも探偵めいた振る舞いが多く(「水晶の栓」などもそうだが、特に後期になるとほとんど犯罪者とは思えなくなってしまう)、さして本質的な差とは思えない。まああとは、女性に対する考え方が対照的(ホームズは女嫌い、リュパンはしょうもない女好き)なくらいであろうか。
もちろん、ルブランがリュパンを創造するにあたっては、ホームズを意識したに違いない。ルブランは「リュパンを書く前に、ホームズの物語を読んだことは無かった」と言い張っていたそうだが、到底信じがたい。ホームズのような人物が、犯罪者の側に廻ったらどうなるのだろう、というのが発想の原点にあったと考えるのは自然である。現代のイメージだと、ホームズはハンチングをかぶってポンチョをまとい、パイプをくわえている姿がすぐに思い浮かぶし、リュパンはシルクハットにモノクル(片眼鏡)を掛け、黒マントをはおった姿が一般的で、似ても似つかないように思えるが、これは挿し絵作家の責任であり、作者が必ずしもそんな姿に造形したわけではない。
ホームズのような人物を泥棒として造形してみれば、今度はそれに匹敵する名探偵と競わせたいと考えるのも自然な流れである。リュパンには銭形警部ガニマール警部という好敵手がいるのだが、この警部はいつもリュパンに出し抜かれて地団駄を踏んでいるのだから、名探偵の名には程遠い。最初の短編集『泥棒紳士アルセーヌ・リュパン』のラストで、ルブランはなんとホームズ本人を登場させた。
「遅かりしシャーロック・ホームズ」と題されたこの物語で、ホームズは依頼者のミスでリュパンに先を越されるが、リュパンの辿った道筋をたちどころに正確に再現してみせる。その点でリュパンとまったく互角の知力を持つことを証明したわけだが、途中で行き合ったリュパンに懐中時計をすりとられるという赤っ恥をかかされる。
パロディの横行にはわりと鷹揚に構えていたらしいコナン・ドイルなのだが、これにはさすがにクレームをつけたと言われる。あるいはドイル本人ではなくて出版社だったかもしれない。ルブランの方も、まさか英国からフランスまでクレームをつけてくるとは思わなかったのだろうか。
ルブランはやむなく、ホームズの名前の一文字を移動させ、パロディであることを明確にした。ハーロック・ショルムズ(Sherlock Holmes→Herlock Sholmes)と、ファーストネームのSの字をラストネームに移動させたのである。ちなみに、なぜかアメリカ版では、さらに多くの文字を移動させ、多少綴りも変えてホームロック・シアーズ(Holmlock Shears)となっているが、理由はよくわからない。アメリカの出版社はよくそういうことをするようである。
さて、ルブランはこのハーロック・ショルムズをその後も大いに活躍させている。「遅かりし〜」に続き、長編「金髪の女」と中編「ユダヤのランプ」が書かれるが、これはどちらもリュパンとショルムズが真っ向勝負をおこなうものである。両編はまとめて一冊の本となり、「アルセーヌ・リュパン対ハーロック・ショルムズ」と題された。日本ではすべての版で「リュパン(ルパン)対ホームズ」となっており、ショルムズなどと表記している例はない。
さらに「奇岩城」でもショルムズは登場するが、リュパンの新妻レイモンドを誤って射殺するというありがたくない役回りを割り振られている。
「8・1・3」にもショルムズは名前だけ出てくる。今度はショルムズの方が先に謎を解いているのだが、ずいぶん長いことかかっていたようで、リュパンはそれより速く解決したという点で自らを慰めている。
いずれにしても、ホームズ・ファンの立場からすると、リュパン物におけるショルムズの扱いはあまり正当なものとは言えない。往々にしてホームズのファンはリュパンを毛嫌いすることが多いのだが、やはり一方的な扱いに腹を立てるのだろう。ルブランとしては、フランスの警察官にはいつも勝利をおさめるリュパンが、引き分け以上の成果をおさめることができない唯一の相手として、充分に顔を立てているつもりではあるだろうが。
「リュパン対ホームズ」に収録された2篇には、ワトスンも登場する。ただし彼もウィルスンと名前が変わっている。ショルムズのことはホームズと表記している訳者たちも、なぜかウィルスンはそのままにしていることが多い。このウィルスン、「金髪の女」では腕の骨を叩き折られ、「ユダヤのランプ」では匕首で刺され、まあさんざんな扱いである。
ホームズの方もあまりぱっとしていない。天才型の探偵というより、むしろクロフツのフレンチ警部みたいな、足で捜査する型の探偵のように見える。再三再四リュパンに出し抜かれ、ようやく最後になって逆襲して面目を保ち、リュパンに
「ぼくらは引き分けですね」
と言わしめている。
そもそも、ホームズの外見の描写が変だ。「金髪の女」でホームズが登場したところを転記すると、
──ハーロック・ショルムズは、毎日どこにでも見かけるような人間だった。年齢は50がらみ、事務机を前にして会計簿に記入しながら一生を過ごしてきた正直者という風貌である。赤茶けたほお髭、きれいに剃った顎、いくぶん鈍重に見える外見、いずれをとっても、ロンドンの善良な一般市民と区別できるようなところはない……ただひとつ、おそろしく鋭く生き生きしていて、裏の裏まで見透かされるような眼光以外には。──
どう見ても、これはホームズの風貌からは程遠い。もちろんルブランはわざとずらして書いているわけだが、混乱を呼んでいるだけのような気がする。この人物はあくまでショルムズであって、ホームズではないと見るのが妥当だろうか。
ここでシャーロッキアン的な考察を加えてみたいのだが、「リュパン対ホームズ」が刊行されたのは1911年である。リュパン物語はホームズのそれと違って、はっきりと過去の事件であると明記されている場合を除いてはほぼリアルタイムの出来事として書かれているから、「金髪の女」などの事件が起こったのは1910年かそのあたりであろう。
だとすると、ホームズはもう隠退している。
『シャーロック・ホームズの事件簿』の中の「這う男」の事件が、「隠退直前」の1903年9月に起きていることをワトスンは明記している。この頃になるとドイルもかなり整合性を意識していたとおぼしいのだが、モリアーティ教授との対決で一旦死んだと思われていたホームズを復活させた「空き家の冒険」の雑誌連載は1903年10月のことだった。事件そのものは1894年ということになっており、ワトスンがホームズの復活をすぐに筆にしなかったのはホームズに差し止められていたためだという言い訳が記されている。隠退したから解禁となったという設定であったようで、「這う男」の時期設定はそれを念頭に置いてのことであろう。
つまり、ホームズは1903年の10月にはすでに隠退してベーカー街の下宿を引き払い、サセックス州の海沿いの村に移り住んで養蜂を始めていたのであった。それからも「ライオンのたてがみ」のように捜査仕事をしないわけではなかったが、一般には一切居場所も知らせず、依頼も受けつけなかった。たぶん49歳という、ずいぶん早い隠退であったが、お金もたまったことだしさすがに犯罪捜査は飽きたのかもしれない。
リュパンのデビューは1905年だから、ホームズの活動時期とは2年差でずれている。たとえ「遅かりしシャーロック・ホームズ」の銀行家ドヴァンヌ氏や、「金髪の女」のクロゾン伯爵夫人、「ユダヤのランプ」のダンブルバル男爵などが依頼の手紙を送っても、ホームズは鄭重な断りを言ったのみであろう。彼は第一次大戦前の風雲急を告げる時期、外務大臣の要請があってさえ出馬しようとしなかったのである。総理大臣まで直々乗り出して説得した結果、ようやくドイツの敏腕スパイ、フォン・ボルクとの対決に踏み切ったのだった。リュパンがいかに手際がよいとはいえ、たかだか窃盗事件ではあり、ホームズが居心地の良い隠居所から出てわざわざフランスに渡ったとは思えない。リュパンと対決したのは、やっぱりショルムズであってホームズではなかったのである。
ただ、リュパンとホームズが本当に対決していたら、という夢想を抱く人は少なくないのではあるまいか。ショルムズなどというまがいものではなく、充分に考証を重ねた上で両雄の対決をパスティシュとして書いてみる人はいないものだろうか。まあ、それぞれに熱狂的なファンのいる両者のことゆえ、へたな書き方をすると袋叩きにされるおそれがあり、おっかなくて手が出せないというのが正直なところかもしれないが。
リュパンばりの紳士怪盗ラッフルズとホームズを競わせた人はいる。ドイルの妹婿でもあったE.W.ホーナングが創造した泥棒紳士ラッフルズは日本では知名度が低いが、英国ではなかなかの人気らしい。ヒュー・キングズミルという人が「キトマンズのルビー」という作品でホームズとラッフルズを対決させており、一応はホームズがかなり面目を失いながらも勝利したという結末になっている。
リュパンとホームズがフェアな勝負をするとしたら、舞台はフランスでも英国でもない方が望ましい。地の利というものはバカにならない。江戸川乱歩がリュパンを日本まで連れてきて「黄金仮面」に登場させた際も、異郷の日本という不利な状況のゆえ、地の利を得た明智小五郎に敗れ去ったのだった。スペインとかイタリアあたりを舞台にしてみたら面白いかもしれないが……
記号論的な解釈をした人もいて、ホームズはリュパンには勝てないだろうと言う。
──リュパンがリュパンという自己同一性(アイデンティティ)の証となるのは、かれの<行為>だけなのである。だから、リュパンという実体は存在しない。かれはつねにニセモノ(つまり、ホンモノのパロディ)でありつづけるしかない。シャーロック・ホームズがホンモノの名探偵であるかぎりは、リュパンの正体をつかむことなどできっこない。つねに変幻してやまないトリックスターに嘲弄されるばかりだ。──(松島征「物語の迷宮──ミステリーの詩学」より)
とのことだが、これはうがちすぎた見解と言えよう。リュパンの変装の巧妙さはつとに知られているが、ホームズだって変装にかけては引けをとらないし、どちらもそんなに現実離れしているわけでもない。リュパンは誰にでも変装できたように思われがちだが、実在の他人に化けたということはほとんどない。あったとしてもその人物は何年も前に消息を絶っていて、身近な人にとっても記憶が定かでないような場合のみである。その点、実在の(もちろん「作中で実在の」という意味だが)人物に易々と化けて相手を翻弄する怪人二十面相やルパン三世のような荒唐無稽さはないわけである。
リュパン自身、最初にホームズ(ショルムズ)に会った時、どうやら自分の本質を見抜かれてしまったことを感じ、この男の前ではどんな変装をしても無駄だろうと悟っている。
腕力やスタミナにもほとんど差はなさそうだし、あとは純然たる知恵の戦いということになりそうだ。パスティシュを書くとしても、筆者にはホームズやリュパンに匹敵するほどの知力が要求されそうではあり、確かにそう簡単に手をつけられそうにない。
(2002.2.11.)
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