概論 推理小説あれこれ |
●「謎」のいろいろ● さて、それでは推理小説における「謎」だが、すぐ思いつくのは「犯人は誰だ?」ということだろう。それから、「どんなトリックが使われた?」というのも有力な「謎」である。実際、本格推理の黄金期と言われる1920〜30年代くらいまでは、ほとんどこの両者が圧倒的存在感を占めていた。 「犯人は誰だ?」という謎をメインに据えている推理小説をフーダニット(whodunit──Who has done it? 「誰がそれをやったのか」の省略形)と呼ぶ。また、「どんなトリックが使われた?」という謎をメインとしている方はハウダニット(howdunit──同じくHow has he done it? 「どうやってそれをやったのか」)と呼ぶ。もちろん実際の作品がきれいにどちらかに分類できたわけではない。よくできた作品ほど、フーダニットとハウダニットが巧みに混ぜ合わされている。 推理小説を「犯人捜しの小説」と思っている人もけっこう多いが、例えば、クロフツなどのアリバイトリックものでは、犯人は比較的早めに見当がつくようになり、あとはその犯人がどうやって不可能と思える犯行をなしとげたか、つまりハウダニットの方に重心が置かれている。逆に上に述べたクイーンの例は典型的なフーダニットだろう。 江戸川乱歩はほぼこの黄金期になってから推理小説の世界に飛び込んだので、フーダニットやハウダニットではない第三の道を模索したふしがある。 それは「なぜそんなことをしたのか?」、つまり動機の謎である。英米でも30年代くらいからこちらへの傾斜が顕著になった。ホワイダニットとでも呼ぼうか。 乱歩の趣味として、動機に変態性欲やら異常心理やらを置きたがる傾向が強かったが、ホワイダニットは範囲が広い。犯行動機だけではなく、「なぜそういうトリックを使わざるを得なかったのか?」という動機づけも含まれる。そして、ここに至って、「密室殺人」がにわかにクローズアップされてくる。 それまでも「密室もの」は数多あったけれど、その多くはハウダニット、つまり「どうやって密室を作ったのか」という点に興味が集中していた。だが、犯人が犯行現場を密室にしなければならない理由がわかりづらいという難点があった。犯人にとっての密室のメリットは、通常「外部の人間が密室の中の人間を殺せたはずはないから、自殺もしくは自然死と判断される」という点にしかないのであって、死因特定が容易になった現代ではほとんど意味がない。 密室作家とまで言われたディクスン・カーは何やら憑かれたように密室ものを書き続けたが、その中で出来の良いものは、いずれも「なぜ密室でなければならなかったのか」という理由付けがしっかりしている。それがおろそかになると大体失敗している。 もはや密室の謎というのは「どうやって密室にしたか」よりも「なぜ密室にしたか」の方に重点が置かれるようになっているのである。 密室殺人によって象徴的に顕されるように、まず物理的・心理的に理解し得ないような状況が呈示され、その状況に至るまでの事情を解明するというのが、現代の推理小説の主流と言ってよいかもしれない。その解明方法として、誰もが「あっそうか」と膝を打つような客観的で明朗な方向性をとるのが新本格派、個別の人間のトラウマや異常心理を突き詰めて描写する方向性をとるのがサイコ派と呼べるかもしれない。作風として前者はユーモアあふれる快活な語り口である場合が多く、後者は陰鬱で救いのない語り口をとる場合が多いように思える。どちらが好きかは人それぞれであろう。 一時期、推理小説はトリックの種切れで遠からず絶滅するだろうという説を為す人が多かったが、これは物理トリックのみを念頭に置いた説であった。 確かに物理トリックならば、新規に考案するには限度がある。以前に使われたトリックを使うとすぐばれて、その小説自体の価値も疑われてしまう。 科学技術の発展で選択肢が拡がるだろうと言っても、実はさほどのこともない。何より、複雑難解な現代技術をトリックとして使おうとすれば、まずは読者に対してその技術の解説をおこなうところから始めなければならない。小説の前半でそんなことをしてしまうと、トリックの仕掛けは一目瞭然となり、推理小説を読む愉しみは半減するし、一方謎解きの段階でそれをやると、読者は予備知識がなんにもないわけだから、言ってみれば超常現象で解決するのと変わらなくなってしまうのである。残された手段は、あらかじめ解説はするが、その解説が特別なものと思われないよう、類似のほかの技術についても多くのページを費やして解説しておくというものだ。こうなると一種の情報小説で、推理小説として面白いかどうかは心許ない。 もっと一般に親しまれている技術にしてもどうだろうか。例えば携帯電話をメイントリックとして用いた推理小説がそういくつも書けるとは思えない。せいぜい補助的なトリックとして使えるくらいだろう。 そんなわけで、物理トリックにはどうしても限りがある。 しかし、メンタルトリック(心理トリック)まで拡張すれば、まだまだ余地は残されていると思う。 メンタルトリックとなると、これは犯人が仕掛けるというよりも、作者が読者に対して仕掛けるひっかけやだましがすべて含まれる。 ビル・バリンジャーの「赤毛の男の妻」を読んだ時のラストのうっちゃりの衝撃は忘れられない。バリンジャーの作品によく見られるように、この小説も三人称の章と一人称の章が交代で出てくるのだが、途中まで、というより終章直前まで、比較的ありふれた「逃走と追跡のサスペンスドラマ」でしかないように思えていた。それがラスト一行で 「えっ?」 と息を呑み、その瞬間、読みながらなんだかもやもやと気にかかっていた点が氷解するのである。そして前の方を見返すと、なるほどその最後の事実を察せられるだけの材料は至る所にちりばめられているのに気づくのだった。してやられた、という心地よい知的な敗北感を覚える。推理小説を読む快感はこういうところにあると思う。 ただしその「最後の事実」は、犯人の正体でも、犯行の手口でもない。読んでいて多少気にかかりはしたもののほとんど眼中になかった部分だ。バリンジャーはトリックの存在そのものをトリックにしてしまっていたわけである。 このように、いかにして読者の意表を衝くかというところまでをトリックと見なせば、トリックの種はまだまだ払底しそうにない。 (2003.3.2.) |