概論 推理小説あれこれ |
●偶然の扱い● 文芸作品にとって、「偶然」の扱いは難しい。偶然を多用する作家はひんしゅくを買うのが常で、実際にあったことを書いたのであってすら「非現実的だ」と批判されるものである。よほどうまく処理しないと眼も当てられないものになる。 推理小説と偶然との関係はさらに微妙である。ロス・マクドナルドの作品など、リュー・アーチャーが捜査を進めてゆくと、事件の関係者たちにことごとく接点が出てきて、「誰もが誰もと友達だ」などと皮肉られる事態になることが多い。 小説を散漫なものにしないためにはやむを得ないことかもしれないが、それにしても会う人会う人がみんな知り合いというのは偶然の度が過ぎるというものだろう。 偶然があっていけないわけではない。しかし上に述べた、「読者の合理性の範囲内」におさまるものである必要がある。 ドーヴァー警部だのシュロック・ホームズだの、毎回毎回ただただ好運だけで事件を解決する名(迷)探偵もいるけれども、それはやはりパロディの世界だけのことだろう。 にもかかわらず、すぐれた作品には「偶然」を巧みに用いたものが決して少なくないのが面白いところだ。 この実例としては私は横溝正史の「本陣殺人事件」を挙げたい。 私は金田一耕助をそれほど買っていないのだが、そのデビューとなったこの作品は見事だと思う。 「本陣殺人事件」は、家屋構造からして無理だろうと言われていた日本家屋における密室殺人をはじめて成し遂げたという点で名高いが、むしろ私は「偶然」の使い方に妙味があると考える。 あまりあからさまにネタバレなことを書くのは気が引けるが、この事件の犯人は、現場を密室化するなどというつもりは少しもなかったのに、ある偶然──雪が降った──によって密室状態になってしまったのである。上に書いた「なぜ密室でなければならなかったのか」の説明が非常に合理的に為されている。 犯人はごくごく普通のトリックを仕掛けただけ、あるいは全然トリックなど施したつもりがなかったのに、ひょんな偶然が作用して不可能犯罪が成立してしまうというのは、よくできた推理小説にしばしば見られる形である。ひょんな偶然が作用して解決に結びつくというのはどうもいただけないが、こういう偶然の使い方なら歓迎したい。この形は、トリッキーな推理小説を読んで往々にして感じる疑問──人を殺したという異常な心理状態の中で、犯人はそれほど手の込んだトリックを周到に張り巡らせられるものなのか、という疑問から解放してくれるという強みもある。 推理小説を「探偵と犯人の智慧較べの話」と考えてしまうと、こういう発想はなかなか出てこない。 天才的な探偵と天才的な犯人の手に汗握る一騎打ちというのももちろん面白いし、むしろ最近はそういうハイレベルな頭脳戦を描いた話が減ったようで寂しさも感じるのだが、両方とも天才となると、現代では小説としてのリアリティにやや難が出てくるのは否定できない。等身大の探偵、等身大の犯人が読者に求められているとすれば、それでなおかつ謎を難解なものにするためには、偶然の作用をうまく作家に使って貰うしかないのではあるまいか。 (2003.3.2.) |