●「名探偵」の是非●
推理小説と言えば「名探偵」、と私などは思ってしまうのだが、はたして推理小説に名探偵が必要か不要かという議論は、実のところすでに蜿蜒と続けられている。作家の側も批評家の側も両論あって、なかなか結論の出る議論ではないのだろう。
「名探偵」は言い換えれば「シリーズ探偵」である。ミルンの「赤い館の秘密」に登場するアントニー・ギリンガムや、フィルポッツの「赤毛のレッドメイン家」に登場するピーター・ガンスなど、単発にもかかわらず一読印象に刻まれる探偵役も居るものの、普通は数多くの長短編に登場し、不可解な謎を次々と解決してゆく人物が「名探偵」と呼ばれる。
必ずしも明察神のごとき敏腕探偵である必要もないところが面白い点で、ポーターのドーヴァー警部のごとき最低最悪の無能探偵、ホールのスタンリー・ヘイスティングズのようなとことん頼りないへっぽこ探偵であっても、シリーズとして親しまれれば、それなりに「名探偵」殿堂に名を連ねてしまうものである。
探偵ものに限らず、シリーズ・キャラクターというのは、現実性という面からすれば規格外なところがある。前にも書いたが、ひとりの人間が、他人が読んで面白い小説になるような体験を、そう何度もするわけがない。そんな体験の渦中に何十回も巻き込まれて、怪我ひとつなくぴんぴんしているというのはどう考えても非現実的である。
そこで、「名探偵不要論」が出てくることになる。
「不要」派は、いわば「文学」派と重なる部分が大きいようだ。「文学」指向の作家にとっては、いかにも作り物めいた「名探偵」は非現実的で、邪魔な気がするのだろう。逆に「必要」派は、推理小説をパズル・ストーリーと割り切っている人が多い。
松本清張などは「不要」派の最たるものだった。そして実際彼は「文学」指向がもっとも強かったように思う。清張作品には、ウドンをすすりながら靴を履き減らす刑事たちや、うだつの上がらない新聞記者などが探偵役として登場するが、読者の印象に残るキャラクターはほとんどひとりも出てこない。犯人の方には何人か印象的な人物もいるけれども。
そのせいか、最近はあんまり読まれていないような気がする。清張作品において「キャラクターの印象の薄さ」を補っていたのは、プロットの同時代性だったろう。昭和30〜40年代の風俗や政治状況、社会状況を同時代のものとして感じている読者には大いに受けたけれど、それが過去のものとなってしまった今では、読者が共感できる部分というのがほとんどなくなってしまったのではあるまいか。彼が執拗に描き続けた学歴社会への攻撃も、今となってはいくぶんピントが外れているようだ。
松本清張は「文学」指向が強すぎたがゆえに、逆に時代が過ぎ去ってしまうと肝心の文学的発信力を失ってしまうという、なんとも皮肉な結果になってしまったのである。
日本では一時期、推理小説は「社会派」でないと価値を認められない、みたいな風潮があったが、大量製造された「社会派」推理小説はほとんど沈没してしまった。むしろほとんどパロディの域に達しているように思われるほどに極度にトリッキーな中井英夫の「虚無への供物」あたりの方がはるかに強烈な「社会」性を感じる上に、今読んでも充分に面白いという点、一体「社会派」の作家たちは何をしていたのだろうと思わざるを得ない。
社会派の流行に対し、名探偵の復権を主張する都筑道夫と、不要論を唱える佐野洋との間に論争が起こったのはよく知られている。
佐野の論点はやはり、
「現実性がない」
というところに尽きているように思える。一方の都筑は、推理小説とは言ってみれば「型の文学」であり、ある約束事のもとに成立するのだと言う。その約束事のひとつとしてシリーズ・キャラクターの存在があるとする。
両者、あまり議論が咬み合わないままにうやむやになってしまったようだが、よく考えるとこれらはいずれも、作家の側の事情であるように感じられる。推理小説の読者が、はたして推理小説に「現実性」を求めているのかどうか、という点はあまり論じられていない。
私などは、謎とその論理的な解明がうまくできていれば、別に推理小説が現実的であってもなくても構わないと思うし、やはり「名探偵」の登場する推理小説は楽しく読める。
しかし確かに、パズル・ストーリーと割り切って書かれた推理小説を読んで、
「現実性がない」
と、「木に拠って魚を求める」たぐいの難癖をつける読者というのは実在しそうである。特に日本人のある年齢以上の人々は、フィクションをフィクションとして愉しむのが苦手なようで、「まるっきりの絵空事」に拒絶反応を示す人も少なくない。社会派推理小説の隆盛はそういう人々に支えられていたのではないだろうか。
このあたり、煎じ詰めれば
「推理小説は『文学作品』であるのか、そうではないのか」
という議論になってゆくわけで、これについてはさらに古く、甲賀三郎と木々高太郎による戦前の有名な論争にまで遡るのだが、実は私の見るところ、さらに根源的には、
「『文学』は『現実的』に描かなければならないものなのか、そうではないのか」
という、明治以来「自然主義」が文学の主流であった日本では自明とすら思われていた命題をも問い直さなければならないことになる。
例えば、夢野久作の「ドグラ・マグラ」は、「文章でなければ構築し得ない世界」を堂々と構築している点、これこそ「純粋な文芸作品」──すなわち「純文学」と呼ぶべきではないのかという疑問が私にはある。実際、この小説はその当時のほとんどあらゆる文体を網羅しており、何百年という時間をたった一日のうちに隣り合わせるという離れ業を見せている。その構築力において、20世紀文学史上燦然たる位置を占めているジョイスの「ユリシーズ」に匹敵する作品であることを私は疑わない。だが、この小説は「探偵小説」として書かれ、しかも「変格探偵小説」と見なされ、日本ではいかなる意味でも「文学」の系譜に乗せられることはなかった。
近代以降の文学というものが「現実」の種々相を描き出す使命を持っていることは、私も認めるのだが、その手法として「写実的」でなければならないという条件は別にないように思える。
明治以降の日本文学は、「現実」という以上に、「写実」を重んじすぎてきたのではないか。フィクションであっても「いかにも実際にありそうなこと」を描いたのでなければあまり評価されなかった。だから「実際にはありそうにないこと」を描いた推理小説は文学史上の評価を受けなかったし、それを不満とした推理作家が「推理小説は『文学』か」などという議論を起こすことになった。そして「文学」でありたいと思う推理作家は社会派に走り、名探偵不要論を叫ぶようになった。
こう考えてくると、「名探偵」の存在はけっこう根の深い問題であるようだ。
推理小説の本場である英米でこの種の議論が勃発したという話はあまり聞かない。英米にも「パズル志向」と「文学志向」の区別がないわけではないが、例えば「文学」派の典型的な存在として挙げられるハメットやチャンドラーは、平気で「名探偵」を登用している。彼らの創出した名探偵、サム・スペイドやコンティネンタル・オプ、フィリップ・マーロウは、捜査の方法こそ確かにシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロとはまるで違っているけれども、作者によって毎回の成功と不死身とを保証されたシリーズ・キャラクターであることはまったく変わりがない。マーロウの存在が非現実的だからチャンドラーの作品は文学とは言えない、などという批判がアメリカの文壇で出てくるとは到底考えられない。
文学論争、名探偵論争は、いびつな形のまま展開されてきてしまった日本の近現代文学のあり方が産んだ鬼子であるように思える。その意味では、推理作家だけでなく、一般作家も参加してもっとどしどし論争して貰いたいものだと私は考えている。
「社会派」が色あせたのち、日本でも魅力的な名探偵が輩出している。ちょっと出過ぎかと思われる三毛猫ホームズや十津川警部はもちろん、御手洗潔にせよ亜愛一郎にせよ、「社会派」全盛時には全然見られなかった強烈なキャラクターである。
日本の推理小説(読者)は、ここ20年ほどで、ようやく「文学」的「写実」の呪縛を乗り越えて、パズルをパズルとして、フィクションをフィクションとして愉しむ余裕が生まれてきたと言えるかもしれない。
(2003.4.9.)
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