●追悼 都筑道夫氏●
2003年12月13日、都筑道夫氏の訃報が伝えられた。亡くなったのはかなり前の11月27日のことだったようだが、晩年移住したハワイでのことだったせいもあり、報じられるのが遅くなったようだ。
キリオン・スレイや物部一郎、砂絵の先生、退職刑事などのキャラクターに親しんだ一読者として、まずはお悔やみを申し上げる。
都筑氏の業績は多々あるが、EQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン)日本版編集長として多くの海外作品を紹介したこと、そして国内の新人発掘にも熱心だったことがまず挙げられよう。
しかし、私が思うのは、社会派全盛の時代に、本格的でトリッキーな推理小説の灯火を掲げ続け、実作をもって本格派ファンの足許を照らしてくれたことではなかったかという点である。70年代の社会派流行の潮流に乗り、
──「名探偵」なんて非現実的な時代遅れの産物だ。
と斬って捨てる論者の多い中、都筑氏が個性的な「名探偵」を何人も産み出し、パズルゲーム・ストーリー本来の面白さを追究し続けてくれたおかげで、現在の新本格派などの台頭もスムーズにおこなわれたのではあるまいかと思うのだ。氏の論文「黄色い部屋はいかに改装されたか?」を読んで勇気づけられた推理作家志望の若者は少なくないはずである。
私は都筑氏の作品は、キリオン・スレイもの以外はそんなに片端から読んでいるというほどでもなかったのだが、その中でも常に感じられたのは、作品の底にいつも流れている遊び心とユーモア精神であった。
この、ユーモアという奴も、社会派全盛の頃には、持ち続けるのに勇気と根気が要ったのではないかと思う。深刻な顔をして社会悪を暴くのが推理小説の使命みたいに思われていた時代だ。山崎豊子の「白い巨塔」が最近なぜかリバイバルして評判になっているが、あれは推理小説ではないとはいえ、要するにああいう題材と取り組み、どちらかと言えばべたべたとした筆致で、救いのない状態を描くのが喜ばれていたのである。ユーモアというのは、そういうところからは出てこない。
日本の推理小説においては、赤川次郎あたりからいわゆるユーモア・ミステリーの系譜が始まると言ってよいわけだが、都筑作品は明らかにその先駆となっていた。
「名探偵もどき」などのパロディ・ミステリーなどもその好例と言ってよいだろう。もっともこれにはクリスティの「二人で探偵を」という先例があって、都筑氏はどうやらその影響を受けているとおぼしい。
ちなみにクリスティからの影響はかなり大きいような気がする。「吸血鬼飼育法」という本に収められた短編のひとつは、パーカー・パイン氏が扱ったある事件とほとんど同じ発想で書かれており、読んでいてニヤリとさせられたものだ。もちろん後の展開は全然違うことになってゆくのだが。
名探偵復活を主張していた都筑氏だが、名探偵が「非現実的」である、という非難にはやはり応えなければならなかったのだろう。キリオン・スレイの創造にあたっては、設定だけでも非現実的に見えないようにずいぶん考えたようだ。
まず、刑事や新聞記者など、その道の玄人は避けるという大前提があったようである。近年は英米の推理小説でも「名探偵」といえば警察官であることが多くなったが、やはり古来の名探偵の王道は「素人探偵」であろう。それに、刑事や新聞記者だとどうしても、警察や新聞社の内部事情といったようなことに紙数をとられがちになり、短編で活躍させようと考えた場合にはいささかバランスを失する。さらにもうひとつ、日本の推理小説の「刑事」というのは、当時としては社会派の手垢がつきすぎたきらいがあったのかもしれない。コロンボ、マクロード、ダルグリッシュ、モースなどといった型破りな刑事を登場させると、日本では途端に嘘くさくなってしまうのだ。少なくとも70年代初頭頃にはそうであった。十津川警部も鮫島警部もまだ登場していない。
そこでまず素人となる。素人のくせに事件が起きると首をつっこんでくるわけだから、相当な閑人だ。時は高度経済成長期のまっただ中、日本人は誰も彼もが脇目もふらずに働いていて、デビュー当時の明智小五郎のような「高等遊民」とでも言うべき存在はそれこそ現実感がなかった。
さらに、論理癖がなければならない。都筑氏は常々「トリックよりロジック」ということを提唱していた。パズルゲーム・ストーリーの面白さは、奇想天外なトリックもさることながら、論理の遊びの面白さであるべきだというわけだ。そんなに大トリックを毎回考案しなくとも、要は、
──不可能と思われる命題、不可解な命題が、実は視点を変えれば充分に論理的であること。
の面白ささえあれば推理小説は愉しめるというのである。一卓見と言うべきだろう。
そういう面白さを引き出すには、やはり探偵役が論理的な人物でなければならないわけだ。しかし日本人は、論理的であることが非常に苦手な国民性と来ている。
名探偵の条件と思われる「論理癖のある閑人」となると、日本人ではそれこそ嘘っぽくなってしまう。それで、アメリカ人の詩人探偵キリオン・スレイが登場したわけだ。アメリカ人だって、素人が軽々しく事件に首をつっこんでくるわけではないのだが、あまたのTVドラマや翻訳推理小説のおかげで、
──まあ、アメリカ人なら……
と、日本人読者にはそんなに不自然には受け取られない目算が高いと踏んだのである。
簡単に「本格派の灯火を掲げ続けた」と言っても、そのためにはこれほどまでに深慮遠謀を積み重ねなければならなかったということになる。まさに、現在活躍中の推理作家たちや読者たちが足を向けては寝られないほどの大功ではなかったか。ご冥福をお祈りします。
(2003.12.16.)
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