エルキュール・ポワロ(2)
推理小説と一人称
小説を書く場合、一人称と三人称のふたつのやり方がある。地の文がどうなっているかということだが、「私」とか「おれ」とかいう視点から書かれるのが一人称、すべての人物が「彼」「彼女」で表せるのが三人称である。二人称小説というのが成立するかどうか微妙なところだが、書簡体のものなどにそれらしき例がないこともない。「あしながおじさん」の最終章などそうかもしれないが、まあ稀なケースで、大部分は一人称か三人称に分類できる。
これはどちらも同じくらい古い歴史があるようだ。
一人称の場合、それが作者自身である場合と、それもまた作中人物であるという場合がある。どちらもドイツ語では「Ich Roman」というのだが、これが日本語に訳されて「私小説」となったところ、なぜか一人称は作者自身で、しかも他の登場人物も実在の人物に限るし、出来事も架空のものではなく実際にあったことでなければならないようになってしまった。ひとりの実在の人間が、他人が読んで面白い小説になるほどの経験をそう何度もするわけがないので、いきおい「私小説」は身辺の小さな出来事と、それに対する作者の変わった観察や解釈を綴るという、ほとんど随筆と区別がつかないようなものになった。またそれを「純文学」などと読んでもてはやしたものだから、ある時期の日本の小説はすこぶるスケールが小さくなってしまったのだが、原語の「Ich
Roman」にはそんな意味はない。
推理小説の場合も、一人称と三人称がある。三人称の場合は特に問題がないが、一人称の場合、他のジャンルの小説と違った特色がある。
普通の小説の場合、一人称で「私」と書かれる人物は、まずたいてい主人公である。「私」がさまざまな事件に遭遇し、それを切り抜けてゆくというのが定石で、だからこそ読者は小説に感情移入ができることになる。
しかし、推理小説では必ずしもそうではない。
近代推理小説の祖であるエドガー・アラン・ポーは、オーギュスト・デュパンという名探偵を創造したが、彼の活躍を書くために、自分自身をデュパンの友人という位置に置き、外側からこの主人公を描くという方法を採ったのである。
これはおそらくジェイムズ・ボスウェル(1740-1795)の「サミュエル・ジョンソン伝」に影響された方法であろう。これは「伝記」というジャンルに新境地をもたらした作品だ。それまでの伝記は、主に扱われる人物よりずっと後の人が、客観的な三人称叙述で書くのが当然と思われていたのだが、ボスウェルはそこに「私」という眼を持ち込み、師であり友人でもあった文豪サミュエル・ジョンソンの言行を、自らの回想としてまとめたのであった。主人公はあくまでジョンソンなのだが、「私」という定点を置くことで、ジョンソンの人間像をより生き生きと描き出すことに成功した。
ポーはおそらくこの方法に影響され、デュパンという架空の人物に応用したのだろう。ポーの小説には一人称のものが多く、その方が馴れていたとおぼしいし、かと言ってデュパン自らに語らせたのでは、結果を先に出してあとで種明かしをするという推理小説の面白さが出ない。そこで、デュパンの親友という座に自らを置いて、「デュパン伝」を語るという方法を創始したのである。
この人物配置は実に卓抜だった。のちにコナン・ドイルがそのまま踏襲したが、ドイルは「私」を自分自身とはせず、ワトスン博士というこれまた架空の人物に託したのであった。ドイルの小説の爆発的な人気により、推理小説において、「主役探偵の親友である語り手」はほとんど不可欠のフォーマットとされ、ワトスン役という名前で呼ばれるようになったのである。必ずしも推理小説にのみ見られるわけではないが、少なくとも推理小説で主に使われた特徴的な一人称のあり方なのである。
この場合、一人称の人物は読者と同レベルか、わずかに低いレベルの知力の持ち主に設定される。事件に際しては、読者同様途方に暮れてしまう。それで主役探偵から説明を引き出すのである。その説明を理解できる程度には知力がないと話にならないので、「わずかに低いレベル」ということになる。
だから「ワトスン役」は「語り手」というよりむしろ「聴き手」と言うべきかもしれない。名探偵が語るのを聞かされる「インタビュアー」なのである。主役探偵は必ずしもこのインタビュアーに対して正直であるわけでもなく、しばしば目くらましのような言葉を発し、犯人の施したトリックとはまた別に謎を提出する。読者も混乱するが、「ワトスン役」も混乱する。
そんな風に、推理力はからっきしだが、ただ報告者としては理想的であるべきで、人物やその場の情景に対する正確な観察、私見をまじえない事実の報告を期待されているのが「ワトスン役」である。ワトスン博士は見事にこの役をやり遂げている。
このフォーマットは多くの作家が踏襲した。アルセーヌ・リュパンにすら初期にはこの手の語り手がいた(作者モーリス・ルブラン自身ということらしい)し、20世紀初頭の短編全盛の時代には大半がそうだったと言ってもよいくらいだ。
「くまのプーさん」の作者であるA.A.ミルンには「赤い館の秘密」という推理小説があるが、序文としてかなり長い、彼なりの推理小説論が述べられている。その中で、「ワトスン役はいた方がよい」と書いているが、それを一人称にすることの意義はそんなに考えなかったらしい。「赤い館の秘密」ではアントニー・ギリンガムという青年が探偵役となる(横溝正史は金田一耕助をこのギリンガムに似せて作ったそうだが、風来坊っぽいところを除いてはあんまり似ているようには見えない)が、その親友のビル・ベヴァリーがワトスン役を務めている。しかしビルは三人称で登場する。
この頃にはワトスン役というものが、探偵助手という意味だけになってしまい、一人称である必要はなくなっていたようだ。確かに一人称にすると、語り手が直接体験したことしか書くことができなくなる。語り手不在の場面は誰かのセリフとしてしゃべらせなければならないが、必ずしもそれがいい方法でない場合もあるし、セリフとなると要約した描写にならざるを得ない。短編ではその必要もあったが、そのうち長編が主流になると、探偵助手としてのワトスン役はいるにしても、三人称叙述の方が書きやすいということになって行ったのだろう。
ハードボイルドになると、主役探偵自身の一人称というパターンが多くなった。知力よりも行動によって謎を解いてゆくことが多く、主役探偵にはホームズ流の天才的知力は必要なくなったからだろう。心理描写も極力抑えるのが普通である。主人公が危難を切り抜けながらゴールを目指すのを、一人称によって感情移入させながら読ませるというあたり、ハードボイルドは普通の小説に近づいていると言えよう。
さて、推理小説における一人称の使い方では、アガサ・クリスティを閑却するわけにはゆかない。彼女は処女作「スタイルズの怪事件」で、名探偵エルキュール・ポワロと、そのワトスン役としてアーサー・ヘイスティングズ大尉を創出した。物語はヘイスティングズの手記という形で語られているから、まさにワトスン役の王道を行っている。
「スタイルズ」のあとしばらく、ポワロ物の短編が雑誌連載されている。これはみなヘイスティングズの語りで、ホームズ物とほとんど同じ形式を持っていると言ってよい。ただしこの中にはけっこう不出来なものが少なくないし、のちに中編や長編にふくらまされたものもある。例えば「プリマス急行」は明らかに長編「ブルートレインの謎」のプロトタイプであるし、「マーケット・ベイジングの謎」は中編「厩舎街の殺人」のプロトタイプである。いずれもふくらました方の長編や中編はヘイスティングズの語りではなく、三人称になっている。そんなこともあって、あまり注目すべき作品はない。
それらに引き続いてポワロ物第二長編「ゴルフリンクの殺人」が書かれ、ヘイスティングズはその最後で結婚し、南米へ旅立ってしまう。また早々と退場させたものだが、クリスティ自身、古典的なホームズ=ワトスンタイプの一人称形式に限界を感じたのではないだろうか。
ヘイスティングズの退場から3年後に書かれた第三長編こそ、数多くの物議をかもした歴史的問題作「アクロイド殺し」である。
この作品も一人称をとっているが、語り手はヘイスティングズではない。シェパードという名の村医者である。クリスティはこれを書くためにヘイスティングズを退場させたのかとさえ思われるほどだが、まあ考え過ぎかもしれない。
「アクロイド殺し」は、一人称による語りを逆手にとって読者をうっちゃっている。上述したように、推理小説の一人称の語り手に求められるのは「人物やその場の情景に対する正確な観察、私見をまじえない事実の報告」であり、それゆえに読者は語り手の記述を無条件に信用する前提になっていた。この作品ではその前提自体をトリックのネタにつかっており、言ってみれば禁じ手というか、反則技みたいなものだったのだ。
「アクロイド殺し」はアンフェアだという非難がごうごうと巻き起こった。非難の旗頭が、アメリカのヴァン・ダインで、この人は推理小説におけるフェア・プレイを何よりも重んじ、「ヴァン・ダインの二十則」と言われるルールブック(と言うか、推理小説執筆のためのマナーブックと言うべきかもしれない)まで発表している。なおヴァン・ダイン自身の作品であるファイロ・ヴァンス物も、作者自身をヴァンスの友人の位置において一人称で語らせているが、この語り手は自分ではひとこともしゃべらずに坦々とヴァンスの言行を記録している。時々ヴァンスが「ねえ、そう思わないか、ヴァン」という具合に語りかける程度である。ヴァン・ダインには確乎とした「ナレーションの美学」があったのに違いない。「アクロイド殺し」を先頭に立って非難したのもそのためだろう。
多くの読者は驚いたが、しかしそのうち賞賛するようになった。推理小説と言えば犯人と探偵の知恵比べの話だという固定観念が打ち破られ、むしろ作者と読者の知恵比べなのだという新しい認識が確立したのである。「アクロイド殺し」でのポワロの活躍がそれほど水際立っていたとは思えない。ここで試されているのはポワロではなく、われわれ読者であったのだ。
実はこれに先立つこと20年ほど、モーリス・ルブランはこれと似たようなトリックを用いている。リュパンシリーズ最初の短編「アルセーヌ・リュパンの逮捕」で、一人称でしゃべってリュパンを捕まえようとしている男自身が実はリュパンだったというオチである。つまりこの発想の前例はあったわけだが、クリスティは文中に非常に多くのミスディレクションを仕掛けることで、よりラストのうっちゃりを効果的に成し遂げている。詳細に読むと、いかに多くの文章が、実は両義性を持つ表現になっているかということがよくわかるのである。
「アクロイド殺し」により、推理小説の一人称は新たなステージを迎えた。もはや読者は語り手を無条件に信頼するわけにはゆかなくなった。ナレーションそのものに、作者のトリックが仕掛けられているかもしれないのだ。
クリスティに続いては、まずはリチャード・ハルが「伯母殺人事件」で独特のナレーション・トリックを展開。セバスチャン・ジャプリゾも「シンデレラの罠」で記憶喪失の娘の一人称という離れ業を見せている。そしてナレーション・トリックを徹底的に追及し続けたのがビル・バリンジャーで、「赤毛の男の妻」「歯と爪」「消された時間」などの諸作では、いずれも一人称の語りの陰に、あっと驚く仕掛けが施されているのである。これらの作品に共通するのは、いわゆる「探偵役」は不在、もしくはいたとしても大した役割を果たしていないという点だろう。真の探偵は読者なのである。
さて、クリスティに戻るが、こういう大トリックを使ってしまった以上、クリスティ自身も「語り手」というものをそれまでのようには扱えなくなったはずである。
ポワロ物の長編は33篇あるが、「アクロイド殺し」以降の30篇中、一人称になっているのは8篇だけである。うち「ビッグ・フォー」「エンド・ハウスの怪事件」「エッジウェア卿死す」「ABC殺人事件」「もの言えぬ証人」「カーテン」の6篇がヘイスティングズの語りによるもの、「メソポタミアの殺人」は看護婦のエイミー・リスランによるもの、そして「複数の時計」は若い諜報部員コリン・ラムによるものとなっている。あとは全部三人称である。「カーテン」を別にすると、「複数の時計」だけが1960年代というかなり後期の作品である他は、一人称によるものはすべて1930年代までに書かれている。
「ABC殺人事件」と「複数の時計」は一人称による記述の間に、三人称の章がはさまっている。また「もの言えぬ証人」は最初の3分の1くらいまで三人称になっている。やはり一人称には限界があると考えたのだろう。
ヘイスティングズの語りについて言えば、徐々にその性格が変容していることに気がつく。ヘイスティングズの性格ではない、語りの性格がだ。クリスティはヘイスティングズの語りそのものを、ミスディレクションとして用いるようになって行ったのである。それが可能なことを、彼女は自分で書いた「アクロイド殺し」で悟ったものと思われる。
ヘイスティングズ大尉はワトスン博士のような公平で信用できる観察者ではない。ワトスンは推理力こそなかったが、人を見る眼は確かであり、彼がある人物について下した評価は、ほぼホームズのそれと一致していると見てよかった。読者はワトスンの言うことであればまずまず信頼してよかったのだ。
だが、ヘイスティングズはそうではなく、実にもって人を見る眼がない。美人と見れば無条件で信用してしまうし、かなりの偏見を持って相手を見る癖がある。捜査をポワロに任せておこうとせず、しばしばポワロを出し抜いてやろうとでしゃばる。人物や証拠の評価において、ヘイスティングズの記述を信頼することはとてもできない。
ある美女が、夫に殺されそうだとおびえて訴える。そのあとで当の夫が来て、妻が被害妄想にかられていると言う。どちらかが嘘をついていることになるが、ヘイスティングズの記述を通して読むと、読者は容易に、嘘をついているのは夫の方だと誘導されてしまう。ヘイスティングズは夫をいかにも信用ならない、腹に一物ありそうな陰険な男として描写してしまうからだ。先に会った美女に目が眩んでしまっているからなのだが、そうは書かずに、いかにも客観的な描写のように書いているから読者は一杯食わされることになる。クリスティはこのような「ヘイスティングズの語りを利用した心理トリック」を何度も用いている。
ヘイスティングズほどに無能な助手をポワロはどうしてずっと尊重していたのか、もしやポワロはホモだったのではないか、などと口さがないことを言う批評家もいたようである。もちろんヘイスティングズはポワロにとってよりも、クリスティにとって必要だったのだ。
40年代に入ると、クリスティの作風が変化した。ポワロ物ではないが「ゼロ時間へ」などに典型的に見られるように、犯罪が発生するまでにさまざまな人間関係の描写に紙数を費やし、探偵の活動は後半からというタイプのものが多くなってきた。こうなると、いろいろな局面を自由に描くことができる三人称が便利になってきて、もはやヘイスティングズが駄弁を弄する余地はなくなってしまったのである。
ところで、ポワロ最後の事件「カーテン」は再びヘイスティングズの語りとなっている。ポワロの最期にヘイスティングズを立ち会わせるというのは当然の配慮だったろうが、彼はここでも人物を見誤って、危うく自身が殺人を犯すところだった。
それはまあよいのだが、一人称の使い方にあれほど凝りまくったクリスティが、ヘイスティングズを再登場させるにあたって、他になんの仕掛けも施さなかったろうか、という懸念が残る。
この物語での、ポワロの事件のおさめ方は、どうも納得のいかないものがある。ポワロにしては手口が粗雑で、しかもあまり独創的とは言えないようだ。われわれは隅の老人やドルリー・レインが、ここのポワロと同じ手を使ったことを知っている。独創性を常に重んじていたポワロが、こんな幕の下ろし方に満足したのだろうか?
ポワロは法律では裁けない「完全殺人者」の暴走を止めるためにこの手段を使うしかなかった、と言う。だが、この敵ははたしてそれほど恐るべき相手だったのだろうか? 例えば「三幕の悲劇」の犯人、「ABC殺人事件」の犯人などに較べ、さほどに御しづらい人物であったようにも思えないのである。
その他にも「カーテン」にはいろいろ穴があることはつとに指摘されている。
西村京太郎は、「名探偵に乾杯」というパスティシュ作品(ポワロ、メグレ警視、エラリー・クイーン、それに明智小五郎まで登場させて推理を競わせた「名探偵シリーズ」の完結編である)でそれらの穴を指摘し、それを説明するあっとびっくりな解釈を展開してみせている。まさに「アクロイド殺し」の作者への遠いオマージュと言うべき解釈で、
──もしかしたらクリスティは、読者への宿題として本当にこういう真相を用意していたのかも?
と思ってしまったほどだった。よろしかったらご一読あれ。
(2002.2.9.)
|