2000年8月の作品 |
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連狂歌開始直後の熱気もおさまり、8月は約100首ばかりの作品が寄せられた。
常連投稿者の各位は、かなり手馴れてきたせいか、いささか奇をてらうものがかなり散見されるようになったように思う。
ぢゃがのお、狙いすぎたものは、残念ながら一体に面白味に欠ける場合が多いのぢゃ。
そこが、ひとりで全体を作る普通の狂歌と、連狂歌との差である。
特に、地口、つまり言葉の音(おん)の上での駄洒落に走ったものは、ほぼ間違いなく失敗しておる。ノミネート作ではないが、ひとつ例を挙げて説明しよう。
310.悪いけど/この桑だめだ/蚕(かいこ)喰む/農家の皆様/農協ツアーー♪ |
この第2句は実は「この句はだめだ」という言葉に掛けておる。それを受けた第3句は「桑」にひっかけて蚕を持ち出したが、雅号記入欄の方で「下位拒む」と種明かししておった。
蚕と桑、そして連狂歌のノミネートにもひっかけた、よく考えられた地口ぢゃな。
ぢゃが、この全体を読んで、はたして面白いと思うものぢゃろうか。
第4句と結句の作者が、第3句までの展開を読んで、同じように地口で受けていれば、あるいは傑作となったかもしれぬ。しかし第4句の作者は第3句を掛け言葉と見抜くことができず、普通に「農家の皆様」と受けてしまった。結句もなんの変哲もない受け方である。
そのため、第2句と第3句が妙に浮き上がった、バランスの悪い構成となってしまったのぢゃ。
この場合第4句の作者の眼力を問うのは妥当でない。そもそも掛けてある「下位拒む」なる言葉自体がどうも不自然であるため、「蚕喰む」からその洒落を見抜くのはまず無理ぢゃろう。責任は第4句作者にあるのではなく、第2句を巧みに受けてやろうと思うあまりに第4句以降への配慮を忘れた第3句作者の側にあると言わねばならぬ。
ここまで手が込んでおらずとも、前の句の中の言葉を、比較的安易に駄洒落で受けるというものが、最近少々目立つような気がしておる。駄洒落は相当にうまく用いないと、全体の風趣をぶち壊しにする場合が多いので、連狂歌道をきわめんとする者はすべからく心して臨むべし。
さて、それではノミネート作の紹介と行こう。8月は、5人ほどの選者にご協力いただいたが、最終的にワシがノミネートしたのは次の12首である。
では例によって、1首ずつ検討しながら、グランプリを決めようと思う。
213番は、半覚斎氏(うじ)がいやにお気に召したらしく、強硬に推しておられたので採用した。
第3句までは文字通り成金なすけべおやぢの生態を活写しておるが、第4句と結句では一転して、何かほのぼのとした印象を覚える一首である。脇目もふらず金儲けに邁進してきたおやぢが、札びら切って呼び寄せた女の手を握った途端に、おそらく母親の温もりと同じ感触を覚えたのやもしれぬ、ふと幼い頃のことを思い出してほろりとしたのぢゃろう。
情景としてなかなか美しいものはあるが、惜しいことに、こういう情景を語る歌としては、「握らせ」「握る」の連続、「伝わる」「伝統」の字面の類似が鼻についてしまう。傑作を産み出すのはかように難しいことなのぢゃ。
220番、なんのことはない夏の終わりの叙景のようでいて、こう美しくまとまるのは連狂歌ではなかなか珍しい。特に、発句、第2句、結句がすべて文語体でまとまったのは見事ぢゃ。
「セミの声」で聴覚、「かとり線香」で嗅覚に訴えかけつつ、過ぎ行く夏をいとおしみ、また同時に子供の頃の郷愁を呼び起こしておる。連狂歌の枠を超えた一首であると言えよう。
221番の境涯、アンリ・ド・モンテスト伯爵殿には実体験があるらしく、実感のこもった推薦をしておられたのお。
小さな一年生にとって、確かに居残りを命じられるなどというのは悪夢のようなできごとかもしれぬ。窓の外はだんだん夕闇が迫っているというのに、教室にたったひとり居残って、嫌いな食べ物とにらみ合っている哀しさ、情けなさ。そんな子供の心理を「厄日」などといういささかヒネた言葉で表現しておるあたりになかなか味がある。
225番、酔っぱらいの朝帰りの叙景ぢゃろうか。一升瓶を一気呑みするとなるとかなりの酒豪と見た。それで空っぽになった瓶を片手に持って、ふらつきながら家へ向かうといったところ。一体空き瓶をなんに使うのかのお。その辺の不合理さが酔っぱらいらしいところでもある。
230番を選んだのはだーこ氏(うじ)ぢゃ。この御仁、つくづくこの傾向の作品がお好きと見えるのお。
愛する者との別離は確かにつらいもの。それを素朴に「つらいよー」と表現したのはなかなか素直でよろしいが、全体の風趣からするとやはり少々ここだけ浮いた観がある。第4句がこの調子に合わせて詠んでくれれば、それなりにまとまりはよかったと思うがのお。
231番、駄洒落系で珍しく技の決まった作品ぢゃ。ポイントはもちろん第3句で、第2句の「なめんじゃねぇぞ」という喧嘩言葉を、文字通りの「舐めるにあらず」と解して「(舐めるのではなく)噛むんだぞ」と受けたわけぢゃな。
しかし、この作品がうまくできたのは、その第3句を受けた第4句、それにも増して着地を決めた結句の功績が大きい。結句「愛の証よ」の末尾の「よ」は、実は女言葉ではなく、「こちとら江戸っ子よ」という場合の「よ」であり、第2句・第3句の伝法な言葉遣いと見事に照応しておるのぢゃ。
そうしてみると、全体的にもいささか奇妙な世界が構築されていることに気づく。噛んで血をにじませるとなると、愛の証と言ってもこれは男女間のことではなく、男同士の義兄弟の盟であるとか、そのようなものに思われるではないか。男色の兄貴分が、若い弟分に向かって、盟の立て方を乱暴な言葉で、しかし親切に指導している光景というわけぢゃな。これはこれでなかなか江戸の陰間茶屋の一景という趣きもあり、粋な世界であると言える。
234番は220番と同様、夏を送る風物詩の趣きぢゃな。線香花火のはかなさを、おそらくわが身に移して感慨にふけっておるのぢゃろう。思い出しているのは昔の過ちか、それともむなしく過ぎたこの夏の後悔か。線香花火の小さな火花とともに、ほろりと涙が落ちる。なかなかええ光景ぢゃのお。ただし、線香花火が「泡と消えゆ」くのはやや無理のある表現かもしれぬ。
254番、9Headed Dragon氏(うじ)の推薦である。恋愛の思うに任せぬさまを、針穴に糸を通す比喩、迷宮の比喩と畳みかけるように連ねたのがよかったらしいのお。もしかするとこの御仁の実体験に基づく感懐なのやもしれぬ。
実は「糸通し」と「迷宮巡り」は、一見唐突に見えて関連がないことはない。どちらも古代ギリシャの知恵者ダイダロスの故事に関係しておるのぢゃ。
怪物ミノタウロスを閉じこめておくためにクレタ島に迷宮ラビュリントスを建造したダイダロスは、ミノタウロスへの生け贄として迷宮に入ることになった英雄テーセウスを救わんとする乙女アリアドネに、長い糸を渡してテーセウスを助けしめた。
怒ったクレタ島のミノス王はダイダロス自身を迷宮に閉じこめてしまったが、ダイダロスは人造の翼で脱出し、他国へ逃れたのぢゃ。
執念深いミノス王はダイダロスを探し出すべく、その国に、曲がりくねった孔のあいた石を送りつけ、これに糸を通してみよと難題をふっかけたのであった。
ダイダロスは蜂蜜と蟻を用いて首尾よく糸を通したが、これにより彼の居場所を突き止めたミノス王は自らダイダロスを捕らえるべくその国に乗り込んで来たのぢゃが、逆にやはりダイダロスの作った仕掛け風呂の罠で、熱湯を浴びて死んでしまったそうな。
いや、長くなってしまった。どうもワシのように教養があると話が長くなっていかんのお。
259番はいささか季節外れではあったが、なかなか趣きが感じられるので選んでみた。234番の春ヴァージョンというところかのお。この「春」を、人生における春と解してみれば、「やがてかなしき/祭りの後かな」の第4句と結句が、さらに味わい深いものとなってくるように思うぞ。
263番、料理に限らず、匠(たくみ)という者は決して多くを語らぬもの。その業(わざ)をもって語るものぢゃ。そんな業を見れば、思わず「さすが!」の声が出てしまうのも致し方あるまい。ワシも鉄人料理とやらを食してみたいのお。
284番、極悪な尻の病に悩まされつつ、これも素晴らしい所帯を構えるためだと自分に言い聞かせながら必死で働いている哀れなサラリーマンの描写ぢゃな。たまりにたまった書類を、椅子に坐ると尻が痛いので、中腰になって浮かせながら処理しているのぢゃろう。そしてやっと結婚資金をためたはよいが、尻の病の噂が拡がって、どのオナゴも相手にしてくれなかったりしてのお。嗚呼。
301番、これっきり、もう終わりね、さようならと言いつつ、ついつい男の情にほだされて身を任せてしまうお人好しの女を詠んだ一首らしい。
が、カズノコ天井なるものはあくまでも男の側から見た都合のよい表現に過ぎぬ。詠み人の男から見れば、女の印象はただただカズノコ天井に尽きる、すなわちカラダ(の一部)だけが目当てなのぢゃな。女がそれに怒っても、ちょっと優しい言葉をかけてやればまたどうせ身を任すだろうと多寡をくくり、裏では女のお人好しぶりを嘲笑しているという、男の風上にも置けぬけしからん奴というわけぢゃ。
さて、今月はギャグ的作品よりも、叙情的に美しくまとまったものが高水準だったように思える。季節柄ということもあり、220番をグランプリと致すことにする。情景の美しさはもちろんぢゃが、寸評にも書いた通り、全体の句の文語調のまとまりがきわめてよろしい。詠み人諸氏は、その場しのぎの受け狙いではなく、いかに全体を予測してまとめ上げるかということに邁進していただきたいものぢゃ。
秋近し/夏去りがたし/セミの声/かとり線香/におい懐かし |
8月の作品はいかがであったかな? 9月は、さらにすぐれた作品を期待しておるぞい。ではまた、お目にかかろう。じょわっ。