2000年9月の作品 |
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9月は作品数は少なめで、77首が寄せられた。
今回は厳しいことを言うようぢゃが、いささか詠み人に「悪馴れ」の気配が見られる。
ある程度物事に馴れた頃に、なんとなくいい加減に流してしまって、細部の仕上げが粗雑になってしまうことをワシは「悪馴れ」と呼んでおる。連狂歌に限らず、多くの芸事でありがちな事態ぢゃな。
ありていに申さば、9月の作品はあまり面白くない。三十一文字(みそひともじ)としてすんなりとまとまったものは決して少なくないのぢゃが、連狂歌特有の、あれよあれよという間に話が妙な方へ飛んで行ってしまうというような、馬鹿馬鹿しい面白さを備えた作品がなくなってしまった。
あたかもひとりの歌人が詠んだかのように5つの句がぴたりとおさまるというのは、それはそれでなかなかできることではなく、見事と言ってよいのぢゃが、連狂歌道をきわめようとするならば、それに安住していてはならぬ。ひとりの歌人が詠んだのと似ている作品なら、本当にひとりの歌人が詠んだ方がよいに決まっておるではないか。全体の流れを読みつつ、いかに予想外の展開を引き出すかということに意を用いて貰いたい。
もちろん、受けを狙った句を詠んでくれておる詠み人も多い。
ぢゃが、そのほとんどは、その句だけのことしか考えておらぬため、あとに続く詠み人を惑わすはめになっておるのぢゃ。
先月の講評録で申した、駄洒落の安易な使用を慎みたいという点も、結局はその句だけの面白さにしかならず、作品全体を通して見た時の面白さとはならぬことが多いからぢゃ。おわかりかな。
初期の頃の作品の方が、一読して噴き出すのを止む能わざる、破壊力のあるものが多かったように思う。詠み人諸氏は、一旦初心に戻って、面白い作品とはどういうものかをよく考えてみられんことを切に期待したいぞ。
ノミネート作は、8首である。ノミネートがこの水準なのだから、他は推して知るべきぢゃろう。
では例によって、1首ずつ検討しながら、グランプリを決めようと思う。
320番、延暦寺にて何事かの成就を待っている男、となるとイメージされるのは現代人ではなく、鎧武者か何かであろう。延元元年、湊川の決戦で盟友楠木正成を失ったのち、後醍醐天皇を擁して比叡山に立てこもり、足利尊氏軍の猛攻に耐えていた新田義貞の心境がまさにこの通りのものではなかったかとワシは推測する。武士たるもの、戦いの中にあっても、ふと忍び寄る秋の気配などを察するだけの心の余裕がなければならぬのぢゃ。一読笑いを誘うというタイプではないが、なかなか趣きに富む作品と言えよう。
336番、有名な俳句「秋深し隣は何をする人ぞ」の本歌取りのような作品となった。ずいぶん夜も遅いのに、隣家からはなにやらうまそうな匂いが漂ってくる。どうやら焼き肉らしい。そう言えば焼き肉なぞしばらく食してないのお。ぐうとなるわが腹を恨めしげに見たものの、財布は空っぽ、そもそもこの出っ張った腹を考えると、焼き肉をたらふく食するのも考え物……という、金のない中年男の悲哀が感じられる。
354番は、前半ののどかな叙景と、後半とのアンバランスさがブラックな興趣をもたらしておる。9月作品では数少ない、飛躍のあるものとなったが、バラバラ死体よりは白骨死体の方がさらに趣きがあったかもしれんのお。あくまでも青く澄み渡る秋空の下に、ひと気のない海辺でもあろうか、誰も気づかないままに死体が波に洗われているという光景は、それなりに味わいがあると思われるがいかがぢゃろうか。
356番、秋の一景を詠んだだけで、「名月」「虫の音」「風涼し」と秋らしい句を連ねたのみ。うまくまとまりはしたが、あまりヒネリもなく、こういう不作の月でなければノミネートされなかったかもしれぬのお。
357番、おりからの雷雨で、夜っぴてどろどろと雷鳴がとどろいておる。どうにも寝苦しく、とうとう起き出して近所のスナックへ出かけて杯を重ねる。雷はやみそうにない。なんだか家へ帰る気がせず、いつまでもマスター相手に駄弁を弄している……といった情景であろう。これも特にヒネリはないが、心境が感じられる分、356番などに較べればましと言うべきか。
360番、だーこ氏(うじ)とこーき氏の推薦が重なった今回唯一の作品であるが、これもきれいにまとまったというだけの感がなきにしもあらず。「おもひ」「思ふ」が重なってしまったのが曲のないところ。また、大変惜しいとのは、ここまで旧仮名遣いでまとめるのであれば、「眼を閉ぢて」として貰いたかった。もっとも発句の詠み人にそれを要求するのは酷ぢゃろうな。もし一句目がそうなっていれば、歌の内容そのものは別としても、表記が統一されたものとして、連狂歌史上特筆すべき作品となったのぢゃが。
375番、ワシの好みとしては、連狂歌に顔文字を用いるのはあまり賛成できぬのぢゃが、それはまあよしとしよう。第4句までがわらべ唄的なノリで来ているのに対し、結句でいきなり「一炊の夢」と固く応じているのが滑稽と言えば滑稽。一炊の夢とは、邯鄲の夢とも言い、ある書生が不思議な老人に枕を借りて寝たところ、立身出世、栄光に包まれた生涯を送るめでたい夢を見て、子孫に囲まれて臨終の床についた時に眼が醒めたが、寝る前に炊き始めていた飯がまだ炊きあがってもいなかったという唐の故事である。それに較べると、「大好きなあのこに会って」とはこれまたえらくスケールが小さいな。その辺のアンバランスが面白いかもしれぬ。
384番、三十路ではまだまだ人生の秋を感じるには早いと思うが、秋の夕空を見るうちにふと自分の齢を思い起こすということは誰にでもあることかもしれぬ。結句は「三十路」のみならず「四十路」「五十路」でも等しく成立する感興であろう。いつまでも若くはないのだと気づいたときのそこはかとない悲哀が「かたぶく陽」に込められておるのであった。
すんなりとまとまる作品は増えてきたが、どうもこれというものが出ない。最初に申した「悪馴れ」の顕著な現象ぢゃ。連狂歌師たるもの、前の句をいかに受ければ次の句へ巧みに受け渡せるかということを常に考えておらねばならぬ。そして次の句を受け持った者は、それをまたいかにして良い意味で裏切ってゆくかを心するように。
ということで、今回のグランプリは、歴史小説を読むようなスケールの大きさと、心地よい決意というような興趣が感じられる320番を選ばせていただいた。
秋近し/涼しき朝の/延暦寺/心しずめて/吉報を待つ |
9月の作品はいかがであったかな? 10月は、さらにすぐれた作品を期待しておるぞい。ではまた、お目にかかろう。じょわっ。