2000年10月の作品 |
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10月は67首の作品が寄せられた。9月より若干減ったようぢゃな。
しかし、前回ワシが少々厳しいことを申したせいか、今回の作品の水準はきわめて高かった。少数精鋭という趣きがあるぞい。
特に、420〜430番台など、笑える作品が目白押しぢゃ。
実世界で連狂歌を詠んでおっても、詠み人たちの息がぴったりと合って、軒並み大爆笑モノになるというラウンドが、ごくたまに訪れるのぢゃが、420〜430番台はまさにそれがこのweb版で実現されたような気がするわい。
というわけで、前回はどれを採るかに迷ったが、今回はどれを落とすかに迷うこととあいなった。しかしこういう迷いは審査員冥利に尽きるものがあるので、皆の衆、今後ともすぐれた作品を産み出して貰いたい。
こうなると、すんなりとまとまっているだけではノミネートの対象にはならないことになる。
例えば、こんな作品は、前回の水準ならばノミネートされていたと考えられるが……
412.週末だ/今夜はいっそ/一晩中/月をながめて/おなら一発 |
流れは悪くない。うまくオチもついておる。ワシも実は、最初の頃はチェックしておった。が、その後の作品の水準を見ると、さほどのものとは思われなくなってしまった。
絶対評価というわけにはゆかぬので、これもまあやむを得ぬことではあるな。
しみじみ系も少なくなかったものの、こうなるとどうしてもインパクトの点で弱くなる。
今回は、特にお色気系の出来がよかったように見受けられるぞい。
わが盟友半覚斎宗匠は、ネタをシモに振るのがお好きなようぢゃが、今まではそれがややハズし気味で、全体の中でそこだけ品格を落としているようなところがあった。しかし、今回ばかりはうまくはまったようぢゃ。
能書きはこれくらいにして、ノミネートに参ろう。今回は13首。案外少ないとお思いかもしれぬが、間口を拡げ始めるときりがないほどだったので、涙を呑んで絞らせて貰ったわけぢゃ。
400番は、流れとしては自然ぢゃし、きれいな句がすらすらと続いているので、一見上出来な作品に感じられるな。しかし、よく考えてみると、ティータイムに満天の星というのはいくらなんでも無理ではあるまいか。冬の北極圏で、一日中太陽が昇らないとでも言うなら別ぢゃが。そんな地方に「ちょっとおしゃれな街角」があるのかどうか、ワシは寡聞にして知らぬ。
もうひとつの解釈としては、街を歩いているといつの間にか皆既日蝕になっていたというもの。確かにそれなら満天の星も見えることぢゃろう。
モンテスト子爵の推薦のあった作品ぢゃが、この解釈の多様性という一点を買って採用することとした。
401番。秋の夜長、寝床に入ってうつうつとしていると、外で鳴くこおろぎの音が聞こえてくる。半覚半睡のぼんやりした気分の中で、昔のことなどを思い出しておるが、ふたたび意識は眠りの中へ引きこまれてゆく……という、今回のしみじみ系作品の中では心に響く一首であった。
417番はどちらかというと怪談系と称すべきか。夕空と宵闇がかぶったのは惜しい感じぢゃが、朝空と宵闇などという矛盾が生じなかったのは何よりぢゃな。ぼんやりと中空に浮かぶ色白の顔は誰の顔なのか。何か言おうとしてそのまま凍りついたように、口を半開きにしておるようぢゃ。背を向けて逃げても、その顔はまるで空にかかった夕月のごとく、どこまでもついてくる。いつまでもすぐ近くの中空に浮かんだまま……
426番も一見しみじみ系に感じられるが、「緩急おりまぜ」という第4句がミソぢゃ。この句は全体の調子から浮いているように思われるかもしれぬがさにあらず。
おぬしが男ならば、憶えがあるのではないかな。手の届きそうのない女性(にょしょう)に憧れてあれこれと妄想にふける一幕。もし彼女が失恋したり挫折したりで、冷たい雨に打たれて打ちひしがれておるならば、そこへおぬしがそっと近寄って、優しい言葉をかければ、もしかしたら彼女は自分になびいてくれるのではあるまいか。その時はあんな風に、こんな風に、緩急おりまぜて……
じつはこの作品は、そういう男の下心を謳ったものだったのぢゃ。
まあ現実には、その彼女は滅多に挫折などしないものぢゃし、彼女が打ちひしがれている場におぬしが立ち会って、優しい言葉をかけるなどという機会も、まずないに決まっておるのぢゃがな。
427番はネタになっただーこ氏(うじ)御本人の一押し作品ぢゃった。なんでも状況が非常にリアルであったとか。しかし、だーこ氏の個人的感慨を別としても、なかなか味わいのある一首である。「むさぼって、むさぼり食らう」とあえて重ね、悲愴さを強調しているのが秀逸ぢゃ。ただし全体として、貧乏を表現しているのか、やけ食いを表現しているのかは微妙なところぢゃが。
428番、実はここの管理人のMICが結句を書き、ハズしてしまったとわめいておったので、ワシもついつい見逃しておったのぢゃが、こーき氏とモンテスト子爵が揃って推薦。
なぜ結句作者がハズしたと思ったかというと、ヤツは第4句「ドキドキしながら」に続け、サスペンス映画によく出てくる、時限爆弾の導線を切る場面を想定したかららしい。赤い線と青い線のどっちかを切ると解除できるが、間違った方を切るとドカンという、あれぢゃな。ところが全体を見てみると露天風呂の話だったので、「うああ、そっちのドキドキだったのか」とずっこけた次第。
しかしよく考えると、電線というのは別に時限爆弾の導線ばかりではない。普通に電灯線と考える方がむしろ自然ぢゃ。露天風呂であるから、おそらく母屋の方から裸電線が引かれてきて電球につながっているのぢゃろう。それを切れば、あたりは真っ暗。しかも混浴。さあこのあと何が起こるのか?
なるほどそう解釈すれば、お色気系連狂歌としてなかなかの出来と言えよう。詠み人の意図を先に知ってしまうと審査の眼が曇るという実例であった。いやはや、ワシとしたことが……
429番、「生け贄捧げひとまず安心」はいいとして、それが「お見合い」の話だというのがなんとも想像をかき立てられるところぢゃな。村に祟る魔物が花嫁を要求してきたので、人身御供の娘を差し出したという昔話のような状況なのぢゃろうか、それとも……
本当に、いったい何をするのかのお。
431番、いやはや恐れ入った作品である。発句の「霜が降る」は天候について述べたものにちがいないのぢゃが、第2句作者はそれを霜降り肉に解釈してしまった。霜降り肉のあの柔らかで濃密な舌触り、思い出すだけで唾が……と思いきや、第3句作者はなんと「女子高生」で受けた。読む者はここで、女子高生のあの柔らかで濃密な……云々と、いつの間にか危ない方向へイメージをすりかえられてしまうのぢゃ。
第4句作者が「女子高生」を見て「今も昔も」と受けたのはさほど問題ない。「今も昔も寄り集まるとやかましい」「今も昔も生意気である」などなど、いろんな内容が考えられるからのお。
が、結句作者は「変わらぬおいしさ」としてしまった。前半の霜降り肉と照応し、なおかつ女子高生のイメージが入り込み、全体としておそろしく助平な作品とあいなった。
食人鬼が文字通り人を食い、その中でも今も昔も女子高生の霜降りがいちばんうまいと感想を述べている、という猟奇的な解釈も可能ぢゃが、ここはやはり助平方面で考えた方が味わいがある。周囲の女に手をつけることを「食う」と称するし、官能小説界では女体が「おいしい」という表現法もありふれたものぢゃからな。性欲に関することを食欲の言葉で代替するというのはごく普通の手段である。この作品はそのあたりを巧みに衝いたのぢゃ。お色気連狂歌としては第一級品と言ってよかろうかと思うぞい。
433番はだーこ氏とこーき氏が揃って推薦。「あたしを愛してるんなら財布の中見せて」と女性(にょしょう)に言われても、そうそう見せるものではない。「少なすぎるね、寂しい限り」とばかりに去って行かれては元も子もないではないか。賭け事と同じく、男子たるもの時にはハッタリをかますのも必要ぢゃろう。それにしてもお二方とも、何か身につまされることでもあったのぢゃろうかのお。ほっほっ。
434番は怪我の功名で傑作になったという珍しい作品ぢゃ。2句目の「湯長」、字足らずにしてもあまりにも不自然だと思わぬか? これを誰が詠んだかというと、「泣き叫んでも」氏となっておった。
さよう、半覚斎宗匠こと湯長氏が、第2句に「泣き叫んでも」と書き込もうとしたところ、投稿欄と雅号記入欄を間違えて入力してしまったというわけぢゃ。「霧の中/泣き叫んでも」なら、続き具合としては自然ぢゃな。
しかし、一旦投稿してしまったものをキャンセルするわけにはゆかぬ。普通ならこの第2句で破綻してしまうところを、残りの3句が見事にフォローしたという点、稀有な作品であった。
あまり湯長氏のオールヌードなど見たくもないが、ともかく霧の中を幸いすっかり着ているものを脱ぎ捨て、フルチンでフルマラソンをやってのける光景はそれなりに男の浪漫ではあるまいか。
結句の「42.195km」、これもとんでもなく字余りぢゃが、第2句の字足らずとうまく呼応して、全体としては自由律というか破格の狂歌として、決して違和感を感じさせぬ出来になっておる。第2句の入力ミスが、結果としてうまく効いて面白い作品に仕上がった。
くれぐれも申しておくが、こううまくまとまることはまず滅多にあるものではない。味をしめてわざと字足らずの人名を詠んだりするでないぞ。まあ間違いなく失敗するぢゃろう。
435番は431番と共にお色気系でうまくまとまった作品。表現としては遙かに直截的でわかりやすいのお。とはいえ、いくつか考慮すべき点もないではない。
「しっぽりと濡れた茂み」という表現は、これはもう官能小説界御用達の常套句であるが、「入浴シーン」であることを考えると、濡れているのは湯に漬かったからだという考え方もできる。というよりこの場合、「濡れた」と「入浴」が縁語になっていると見るべきぢゃろうな。眼を細めて見守るという表現から想像されるのは、近眼気味の男が露天の女風呂をこっそり覗いているという状況であろう。ただでさえ眼が近いのに、湯気でお目当ての姿が見えずらく、眼を細めて焦点を合わせようとしている。あそこにしっぽり濡れた茂みがあるはずなのに……ええいもどかしい。
助平な作品ながら軽妙な笑いも感じられ、なかなかの出来と思うぞい。
443番は、8月分9月分で戒めておいた駄洒落系が珍しくうまく着地できたものとしてここに採り上げた。「ハゲているからけがない(毛がない/怪我ない)」などというのは江戸時代から語られている古典的な地口ぢゃが、駄洒落を用いる場合、案外こういう古典的な地口を使った方が成功するものかもしれぬ。誰もが知っているために、あとを続ける詠み人も気配を読みやすいのぢゃ。
情景もリアルである。この場合のリアルというのは、現実にありそうだという意味ではなく、想像しやすいということぢゃ。
例えばこのようなシーンを想像してみたらいかがなものか。ハゲた男が街を歩いている。工事現場にさしかかると、いきなり頭上から鉄骨が墜ちてきた。ああ、危機一髪。
ところが、鉄骨は男のハゲ頭に当たると、そのままツルリと滑って地面に落下。現実にはあり得ぬことぢゃが、漫画的光景としてはリアルに想像できるであろう。ハゲていたから鉄骨も滑ってくれた。毛があったら大怪我をしていたことぢゃろう。というわけで「けがないよ」……男は何事もなかったように、おもむろに帽子をかぶるとそのまま歩き去ってゆく。何やらドタバタ喜劇の一シーンを見る観があるな。
453番、今回の最後はしみじみ系で締めることといたした。まだ若かった頃、郷里にいた幼馴染みの娘。淡い恋心。そういえばふたりで柿の木に上り、枝に並んで柿の実にかぶりついたこともあった。口のまわりを果汁でべとべとにしながら。娘は笑いながらこちらの口のまわりを拭こうとした。その手をとって、お互いの唇を触れ合わせた。はじめての接吻は柿の味がした。その後自分は都会に出てきて、その娘との縁も切れたが、秋になって柿を食べるたびに、あの時の甘酸っぱい接吻を思い出す……
もはやワシが付け加えることはなさそうぢゃな。
さてグランプリぢゃが、今回は本当に困った。捨てがたいのがいくつもある。しかし冒頭で申した通り、こういう困惑は楽しいものぢゃな。
420番台、430番台なぞはまったくどれを選んでも問題ないほどの高水準ぢゃが、季節柄、まとまり具合、軽やかな助平さと笑いのバランス、などを考慮して、435番とさせていただこう。
しっぽりと/濡れた茂みに/眼を細め/見守るような/入浴シーン |
ワシ個人としては431番なども好みぢゃが、客観的にはいささかマニアックでえぐい印象がないではない。428番は読み返してみるとなかなかの出来で、気づかなんだワシの不明を恥じるばかりぢゃが、もともと混浴であるのが身も蓋もない感じではあり、同じ温泉ものならば435番の方がよろしかろう。434番もよろしいが、グランプリにするには破格すぎて、これをグランプリにしてしまうと今後この手法を不用意に真似る詠み人が続出するおそれなしとしない。
それゆえ、この結果となった。皆の衆諒解されたし。
10月の作品はいかがであったかな? 11月は、さらにすぐれた作品を期待しておるぞい。ではまた、お目にかかろう。じょわっ。