2001年7月の作品

 7月の作品数は40首と、開始当初に較べるとだいぶペースが落ちた。まあ、安定してきたと称するべきであろうかのお。
 ワシ個人としては、講評やグランプリ選定も、このくらいの数であれば気が楽というものぢゃが、もう少し多くてもよいと思うぞ。
 詠み人各位の奮起を期待したいところぢゃ。
 なお、前回予告した通り、今回から、他の選者にもコメントして貰うことにいたした。今回は半覚斎宗匠とアンリ・ド・モンテスト子爵閣下である。だーこ氏(うじ)も選定に参加して貰ったが、残念ながらコメントがいただけなかった。
 今回ノミネートしたのは次の8首である。

588.せっくすは/毎日励めば/即解脱/抜けた魂/そのまま昇天
591.水子令/避妊せぬのは/我儘よ♪/海に向かって/吠える半覚斎
593.隠れ家に/忍び込む影/忍者かな/闇に紛れて/すっぽんぽん
602.出前取る/上司とOL/ケンカして/永久の別れに/耐える苦しさ
605.笑いとは/修行の道と/四苦八苦/やっとできてみりゃ/人皆八十路
606.留守電に/猫なで声で/呼びかけて/返事がなくて/一人突っ込み
608.頬染めて/うつむく君に/叫ぶ僕/声は涸れ果て/ミイラが笑う
617.水虫と/いんきんたむし/掻きながら/所詮この世は/持ちつ持たれつ

 588番、これは単なるお色気系作品と見なしてはならぬ。せっくすに励むことによって解脱を図るというのは、れっきとした宗教の教義なのぢゃ。
 真言宗の根本教典のひとつに「理趣経」がある。
 ──妙適清浄の句、これ菩薩の位なり。
 ──浴箭清浄の句、これ菩薩の位なり。
 ──触清浄の句、これ菩薩の位なり。
 ──愛縛清浄の句、これ菩薩の位なり。
 という具合に、菩薩の位が17ばかり列挙されておる教典なのぢゃが、これすべて、男女のさまざまな結合状態を示し、それらがいずれも解脱に至る道であるとしてあるのぢゃな。それまでの仏教が基本的に肉欲を断つことを要求しているのに対して、これは革命的な主張であった。
 むろん、ただ快楽に耽溺していればよいと言っているのではなく、せっくすのことも修行の一環と心得よというわけなのぢゃが、なんとなく楽な道っぽいので後世さまざまに曲解され、立川流などといったいかがわしい宗派も生まれておる。
 愛欲をきわめることにより現世の欲を超えるというのが理趣経の趣旨で、この作品はその趣旨をわかりやすく示したものと言えよう。見事に哲学的にまとまった作品であった。

 591番は恒例の実名作品ぢゃ。しかし漢字はきちんと書いて貰いたいものぢゃのお。「水子令」はもちろん「水子霊」の誤り。誤字はみっともないので、詠む前によく確かめることぢゃ。
 「避妊せぬのは我儘よ♪」と海に向かって叫んでいるのが半覚斎宗匠なのぢゃろうが、これは二通りの解釈が可能ぢゃな。
 ひとつは、半覚斎宗匠が世の中の風潮に憤って叫んでいるというもの。ナマが気持ちいいなどと一時の快感に踏み惑って避妊もせず、中絶の憂き目を見ることになる匹夫匹婦はいまだにあとを絶たぬ。生まれ得ずして生命を奪われる胎児=水子のことを考えたことがあるのか。このバカップルどもがぁぁぁ! と、義憤に堪えぬ宗匠の正義感を詠んだ作品である……という考え方ぢゃ。
 もうひとつは、半覚斎宗匠の後悔の叫びというもの。ついうっかりナマで中出ししてしまい、中絶の憂き目を見たのは宗匠自身だということぢゃな。いや宗匠が中絶するわけではないので、相手に堕ろすことを要求したのであろう。ところが、それからというもの水子霊に祟られてさんざんな目に遭う宗匠であった。くそお、これというのもあの時あの女がピルを服んでいなかったからだ! 避妊せぬとはなんとワガママな女だ! と、避妊具をつけなかったずっとワガママな自分のことをきれいさっぱり棚に上げて手前勝手に叫んでいる……という解釈ぢゃ。
 はたして宗匠は社会正義の使徒か、それとも手前勝手なサイテー男か?
 むろんワシは後者の解釈である。その方が面白いからのお。ほっほっ。

 593番だーこ氏(うじ)の撰。ワシにはちと趣きがようわからなんだで、だーこ氏本人にコメントを求めたのぢゃが、今回は寄せて貰えなかった。会議での発言では、
「隠れ家で息を潜めているところへ誰かが忍び込む。暗闇の中で見ていると女忍者で、それがすっぽんぽんになるところが面白い」ということぢゃったと思うが、何が面白いのかワシにはようわからん。大体女忍者とはどこにも書かれておらんのぢゃがのお。誰ぞ、ワシにわかるように解説してくれんか。

 602番はちょっとした不倫ドラマの一幕かのお。OLとその上司が、これまでは高級レストランなんぞで乳繰りおうておったのが(ちなみに「乳繰りあう」は「(男女が)こっそり会う」ことであって、乳をどうにかすることではないので注意するように)、それもだんだんマンネリになってきたので、終業後の会社に忍び込んでスリリングなシチュエイションを楽しんでいたとおぼしい。
 ひと渡りことが済んで空腹を覚えたふたりは、残業を装って出前をとる。
 が、ここで上司はうっかりオヤジの本領を発揮してしまう。ニラレバ炒めとギョーザのセットとかそんなものを注文したのかのお。これまで、高級ワインの講釈を傾けたり、芸術について高説をぶったり、まるで島耕作馬場康男かというスマートぶりで若い女を惑わしていたのが、出前ひとつで馬脚を顕す。OLは急激に幻滅して、その場で別れを告げる。男女のケンカというのはこういうつまらんことがきっかけで状況悪化することが多いのぢゃな。
 あとになって、ニラレバ炒めくらい食べたってあの人の優しさに変わりはないぢゃない、と気がつき後悔したところで、もはや取り返しはつかぬ。
 まあどちらも似たようなバカっぷりぢゃな。現代の寓話のような一首であった。

 605番、お笑い道の奥深さを喝破した一首。今更ワシが言うほどのことでもないが、人を笑わせる仕事には、血のにじむような努力が必要ぢゃ。それこそ一朝一夕でできることではない。
 「人を笑わせろ。人に笑われるな」というのがお笑いの鉄則である。昨今の若手の芸人などは、どちらかというと笑われているだけのように見受けられるのお。修行が足りん。
 本当の芸は、生涯かけて磨いてゆかねばならぬもの。それが自分でも満足ゆくほどのものになるのは、80歳を過ぎてからのことなのかもしれぬ。
 連狂歌師の諸氏も、この戒めを忘れてはならぬ。常に精進怠りなきようにのお。

 606番──
 ええ、気に入ってますよ。この作品。(野良犬が寄ってくる)
 実にコミカルでありながら、一抹の寂しさがあります。(野良犬を追い払う)
 話し相手がいない寂しさを紛らわすために留守電に呼びかけて一人突っ込みをする……。(野良犬が増える)
 この行動自体は面白いのですが、この行動をしている人の置かれている状況が、実に切ないのです。(野良犬を追い払おうとする)
 この切なさに、私は一票を投じてみたいと思ったのです。(野良犬に手をかまれる!)ギャー!!!!(アンリ・ド・モンテスト子爵)

 608番──
 半覚斎である。608について儂の推挙理由をこちらに示そう。
 核シェルターの扉が開く。20年振りの地上には夕陽が眩しい。そしてそこには20年振りの彼女がそのままの姿でうつむいていた。オレンジ色に染まる彼女の頬……僕はおもわず手を触れ……そして悲痛に叫んだが声にならなかった……。
 彼女の頬は風化し、ミイラ化した体内がのぞく。カタカタと脆くも崩れ落ちてゆく彼女の顔は心無しか笑っているようにも見えた……。
 儂がこの句を目にした時、核戦争により崩壊し、砂漠化した大地が頭の中に広がった。「あなただけは生き延びて!」私を無理矢理シェルタ−に押し込め自ら犠牲となった妻……そして妻の身を案じてのシェルター内での20年(推定)はいかほどであったろう。想像に余りある世界である。ここまでのストーリー性を備えた歌はかつてなかったであろうな……。(納魔羅半覚斎)


 617番、ただの汚い話のようぢゃが、いやなかなかあのかゆみは堪えられるものではない。水虫なんぞは本人が不潔にしているか清潔にしているかにかかわらず、風呂場のバスマットなどで感染することもあるのぢゃからして、女性(にょしょう)の皆々様も理解してやらずばなるまいぞ。
 ともあれ、夏の風呂上がりなどにチンキを塗っておると、そのひりつくような痛がゆさとあいまって、妙に哲学的な気分になったりするものぢゃ。このカビどもには悩まされておるが、ワシらがパンを食べ、酒を飲むことができるのもまたカビのおかげであることに想いを致すと、この世は持ちつ持たれつであることよのお、との感慨が湧いてくるのぢゃな。

 今回のグランプリは、お色気もののように見えながら、真言宗の根本教典の趣旨を見事要約するという快挙を成し遂げた588番に与えたい。今回は一体に、一発の笑いよりも、ドラマ性を感じさせるものが多く、味わい深かったが、この作品はそれを突き抜けて、形而上的な境涯に至っているように感じられた。皆の衆諒解されたし。

 588.せっくすは/毎日励めば/即解脱/抜けた魂/そのまま昇天


 7月の作品はいかがであったかな? 今後とも、さらにすぐれた作品を期待しておるぞい。ではまた、お目にかかろう。じょわっ。   

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