2001年8月の作品 |
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8月の作品数は48首。7月に較べると漸増しておるのお。新しい詠み人も次々参加して、面白くなってきおった。
ぢゃが、この機会に、ノミネートに先立ってあらためて申し置きたいことがある。
新しい詠み人は、ぜひ最初の寸評録(2000年6月分)を熟読して貰いたいのぢゃ。
連狂歌の導入当初ということで、作品数も少なかったため、この月は出来にかかわらずすべての作品を寸評いたした。つまり、出来の悪い作品はどこがいけないのかという点も指摘してある。いわば入門編というべき稿ぢゃからして、よく読んでコツをつかんでいただきたい。
最近わりとよく見かけるのが、「字数守れよ」などと、提示されている前の句自体にツッコミを入れているものぢゃが、これが滅多に好結果を生まないということは、上記の最初の寸評録でちゃんと申しておる。連狂歌は掲示板ではない。前の句にレスポンスをつけてどうするのぢゃ。
ついでながら、字数は正当な理由(連狂歌の場合、正当な理由とは「そうした方が面白い」に尽きるが)さえあれば、そんなに気にすることはない。破格となった作品の面白さについても、寸評録で何度か触れてきたはずぢゃ。もちろん濫用は慎むべきぢゃが、作品中でツッコミを入れるなどは要らぬお世話である。
前の句にツッコミを入れては悪いとは言わぬ。ただし、それが全体を読んだ時に面白くつながっているかどうかというのが問題なのぢゃ。「字数守れよ」などと詠んで、面白くまとまると思うかの? 連狂歌師たるもの、常に作品としてまとまった後にそれを読む者をこそ意識しておらねばならぬ。前の句の詠み人などにツッコんでいる暇はないぞい。
最初にちとお小言を申し上げたが、それではノミネートに移ろう。
今回は、多くの選評子がノミネートに参加し、それぞれに特色ある選択をしてくれた。色々コメントも貰っておるぞい。
さしあたって、次の12首をノミネートいたした。
627番は珍しく深刻な人間悲劇を思わせる絶唱となった。句の流れも非常にスムーズぢゃ。結句の古文調の結び方も、全体の中で浮いてはおらず、むしろ作品のシリアスさを際立たせる助けとなっておる。
不注意から我が子を死なせてしまった愚かな親の心境でもあろうか。呼べど叫べど、もはや子供は帰ってはこない。罪滅ぼしのために巡礼となって各地を歩くも、ぽっかりと穴のあいた心は癒されることがない……
世に、我が子に先立たれるほどの悲劇はあろうか。ましてやそれが己れの過ちのためであってみれば、その後悔、どれほど懺悔を繰り返しても満たされるものではあるまい。
句の流れの上でも、内容の上でも、まさに絶唱の名に価する名吟であろう。
629番はProたま氏(うじ)のコメントが寄せられておる。どうも個人的理由から強く推したらしいが、選評子が身につまされるだけという理由でのノミネートは今回だけにするように──
放蕩息子の私には耳が痛い歌である。しかし、そんな放蕩息子ではあるが、両親には感謝しているのである。(Proたま)
630番と631番は、単独で見ればさほどの出来ではないが、うまく対になったので、珍しい連作としてノミネートしてみた。8月という時季柄もある。この季節になるとなぜか広島と長崎はカタカナで書かれることが多くなるのぢゃが、地上でただふたつ核兵器攻撃を受けた両都市の記憶は決して風化させてはなるまい。カタカナ表記にはそんな想いもこめられているものと見える。
とはいえ、連狂歌ではそのようなシリアスな対象をおちゃらかすことも許されておる。この両作品は、期せずして食べ物ネタにつながり、詠み人一同の旺盛な食欲を感じさせる結果となった。これはこれで平和な光景ぢゃろうな。
640番は旧仮名遣いで始まったわけぢゃが、なんとか最後まで仮名遣いの破綻を免れた。3句目以降に、仮名遣いに抵触する言葉がなかったからぢゃな。
この作品は荘子のいわゆる「胡蝶の夢」の故事を連想させるものがあったので選んでみた。夢の中で蝶々になって舞い飛び、それはそれは楽しい想いをした男が、はっと夢から覚め、あれは本当に夢だったのか、実際にはあの蝶々がいま夢を見ていて、夢の中でおれになっているのではあるまいか、と疑問を抱くという話ぢゃな。日常を過ごしながら、ふとこの日常は夢なのではあるまいかと考える瞬間は、誰にでも普通にあることぢゃろう。
このたぐいの、古典に通じるようなインテリジェンスのある作品はポイントが高いぞい。
642番は半覚斎宗匠の一点押しの他、だーこ氏(うじ)の推薦もあった。このご両所が尻やらオナラやらの歌に惹かれるのは、これまでの傾向を考えれば充分に理解できることである。何しろ下半身ネタといえば半覚斎宗匠、半覚斎宗匠といえば下半身ネタと称してよいほどに、最近はトレードマーク化しておるからのお。ほっほっ。
650番、実名作品ではなぜかだーこ氏(うじ)を詠んだものがもっとも多く、しかもそのどれもがなかなかの水準作になっているのが興味深いのお。このweb版連狂歌のプログラマとしてはもって瞑すべきであろう。だーこ氏のキャラクターが人気を集めているに違いない。なにしろ、みずからの女装写真を堂々公開している御仁である。確かすね毛までは写っておらなんだが、一見の価値はあるぞい。
659番はそのだーこ氏のコメントを貰った。改行はそのままにせよという話であったのでそのままにしておく。上にも書いたが、選評子が個人的に身につまされるだけという理由でのノミネートは以後慎むように。もっとも、この作品はそれなりにまとまってはおるがのお。──
これはですね、
故郷を離れて一人暮らしをさびしくしている
だーこのような人間には
身にしみていることなのです♪
つまり、しばらく金沢を離れて
一人暮らしして、久方ぶりに
ふるさとに帰ってみると
それまでいっしょにバカやった
連中が結婚していたりして
すっかり落ち着いているのに
だーこはあいかわらず
落ち着かずフラフラしていることを
嘆いた歌なのです。
「はげあたまのせい」とは
何気なくお笑い路線に見えるけれど、
そのまま書くより
あえてお笑いの中に封じ込めることに
より
この歌独特の深みと味わい、
そして、望郷の思いがこめられた
まれに見る秀作なのです♪(だーこ)
660番、この8月は小泉総理大臣の靖国神社公式参拝が問題になっていたので、タイムリーな作品である。8月15日の終戦記念日に参拝することについては、二三の隣国からかまびすしい抗議が寄せられたのであった。首相は公式参拝については意志を貫き、参拝日をずらすことで隣国の顔を立て、なかなか巧妙な収め方を見せた。まさに威風堂々と言うべきか。
もっとも線香持って墓参りするのはお寺であって、神社ではないがのお。その辺、実像を微妙にずらすという風刺文学の秘訣をうまく採り入れたと言えよう。時事を離れても、「線香持って大行進」とは大変可笑しみのある光景ぢゃな。
ひとつだけ苦言を申し上げると、連狂歌では顔文字や「♪」などはあまり好ましくない。特に結句以外で用いると全体の流れを壊すことになりがちなので留意されたし。
671番は字足らずでもあるし、ワシとしてはさして感心もしなかったのぢゃが、ほたる女史がいたく気に入られたらしい。女史のコメントを見てみるとしよう。──
これは、おくが深い句です〜。
ミジンコは、普段は見落とされがちな小動物です。
そのミジンコが、これっ! と決めた女性に突進して愛を告白するさまを表していて、目と目が合うのですが、相手の女性は
「こんな人、嫌〜」と、逃げようとしているのです。
でも、ミジンコはめげずに ずっと見続けて、しばらくの間はにらみ合ったりしているけれど、そのうちに、ミジンコの熱心な心に打たれて、だんだん恋におちていく……
世の中の恋愛のサマを言いあらわしているようです。(ほたる)
679番──
(モンテスト城の窓辺に佇みながら…)やぁやぁ! モンテストです。
今回は、679番目の歌について、私なりの思い入れなり見解なりを、まったり語ってみようと思います。
この歌は、私は「窓際族の哀愁」ととらえました。(カラスが襲ってくるが撃退!)
窓際で薄曇の空を見上げながら溜息をつき、思いついたように黙々と仕事に励むサラリーマン…どことなく寂しげなその仕事姿に、そっとユーモラスな隠し味を添えるのは、第3句の「屁をすかし」です。(カラスが大群で押し寄せてくる…)
ムム…で、ですね…この第三句によって、感傷に溺れるのを防いでいると考えられます!(格闘中)
私はこの第3句の効果に…一票を…ぐはぁ!(敗北!)
タスケテー!!(逃走)(アンリ・ド・モンテスト子爵)
682番は、crimson氏(うじ)の推薦があった。コメントをご紹介申し上げる。──
深い意味は特にない句だと思われるが、その通りである(笑)
深い意味は無いが心に残る(?)という句であろう。
まず、大混乱しつつ、クールを装う。この見事なまでの矛盾っぷり。さらには「クールを装い」つつも「お母さんといっしょ」の絶妙なコンボ。この句のような光景は容易には想像できないであろう。
稚拙で短い文章になってしまったが、要するに感慨深い句も趣があるが、言葉自体を楽しむ、というものもあっていいと思う。この句はまさにそれに当てはまる。(crimson)
選評子によって、実にさまざまな見方があるのがわかるのお。
それぞれに、さまざまな体験を積み重ねた結果として今の己れがおる。それらの体験のどこかに、ある作品が共鳴して、心に響く。他の者には窺い知ることのできぬ感動が、作品を読む者すべてに生まれているに違いない。
個人的に身につまされるだけの理由でのノミネートは控えよと上に書いたが、その心境が他の者にも面白みを感じさせることができると判断するのならばもちろん構わない。選評は、ある意味では作品の再創造ぢゃ。選評子は心してノミネートするように。
ワシがグランプリを選ぶ時は、句の流れ方、内容の深みの両面から、なるべく客観的な面白さを持つものを選ぶことにしておるが、その中にもやはりワシ自身の体験の集積が反映されているのぢゃろう。必ずしもグランプリ作品に納得できない衆もおられるぢゃろうが、諒解されたし。
そんなわけで今回のグランプリは、人間悲劇の絶唱、627番に与えたい。まったく諧謔性が感じられず、最初から最後まで暗く悲劇的な展開で、連狂歌の域を逸しているとさえ思われるのぢゃが、これほど哀しき心情が、5人の詠み人の連鎖によって見事に謳い上げられたことには感動を禁じ得ぬではないか。
627.後悔と/懺悔の行脚/甲斐もなく/戻らぬ我が子の/名をぞ呼びける |
8月の作品はいかがであったかな? 今後とも、さらにすぐれた作品を期待しておるぞい。ではまた、お目にかかろう。じょわっ。