あのとき
JOEさん 2002.1.17.
 今日で阪神大震災から7年である。7年前のあの日あの時刻、小生は
「バイト行かなあかんしもう起きないと」
と思いながらもまだ布団の中にいた。
「あ、地震や」
と思うがいなや縦横にめちゃくちゃにゆれ、本棚の本はみんな落ち、停電で真っ暗になってしまった。後で見ると部屋の中はどうしようもないほど物が散乱し、すみに置いてあったアップライトピアノも動いていた。

 その後、報道が進むにつれて大変なことが起こったと徐々に実感した。6千人以上の人が死んでしまったが、あと2時間遅ければラッシュ時と重なり、火を使っている家も多く、すし詰め電車の脱線転覆やもっと大規模な火事で万単位の人が死んでいただろう。そういう点では幸いだったのかもしれない。私の友人も家を失ったり両親が死んでしまったりと、大変な目にあった。

 しかし問題はここからである。
 小生は神戸の色々な駅に切符売りや案内の応援に行っていたのだが、地震が起こって一月もすると状況が変わってきた。だんだん被災者が横柄になってきたのだ。
 そのうち
「地震が起こったのはお前のせいだ」
「道が混んでいるのはお前のせいだ」
「株価が下がった。どうしてくれるんだ」
「おまえなんかクビにしてやる」

など、もうめちゃくちゃになってきた。
 ご存知のようにラッシュ時には電車1両に300人ほど乗っている。そしてたとえばJRの快速だと12両つないでいる。これを代替バスで運んでも60台もバスがいることになる。電車は数分おきにやってくる。平行している阪急や阪神なども入れるとものすごい数になる。土台無理な話なのだが、それを何とかしろというのはほとんど嫌がらせや八つ当たりである。

 また小生の後輩でボーイスカウトに入っていた奴などは避難所である小学校にボランティアにずっと行っていたのだが、ある日
「もう行くの嫌ですわ」
と言って憤慨しているので話を聞くと、
「被災した人たちは初めは生きているだけでよかった、屋根のあるところにいられるだけで満足だ、風呂に入れてよかった、などといっていたのに、生活が落ち着いてくると、飯が冷たい、おかずがまずい、もっと頻繁に風呂に入れろ、などといいだした」
というのです。そして最後には
「われわれは被災者、おまえはそれを助けにきているのだろう、だからお前らが全部やれ」
と命令され、自分達はなにもしなくなったのだそうだ。

 また、テレビでみた光景なのだが、取材にきたレポーターとカメラマンを避難所の責任者が学校のトイレに無理やり引っ張り込み、大便で山盛りになった便器をみせ、
「水が流れないからこんなことになっているんだ、仕方ないから手でかきだしているんだ、こんな状況なのに行政は何だ」
と怒鳴っていましたが、極限状態になると人間は幼児以下の思考能力になってしまうということがわかった例でした。水が流れないのにトイレを使うからそうなるのであって、たとえばグラウンドを掘って使うとか、なんらかの工夫ができたと思うのです。すべて行政やボランティアのせいにして自分達は何もしない、こういう人たちも大勢いたのです。

 しかしながら当たり前と言ってしまえばそうなのですが、こういう八つ当たり的な姿はまず100%報道されませんでした。報道されるのは当時村山政権だった行政の怠慢と被災者のひさんな暮らしだけでした。その影でどんなに多くの人が被災者からの「被害」にあっているか・・・

 死んでしまった方に思いをはせると同時に、こういう逆の教訓も忘れてはならないと感じます。
MIC 2002.1.13.
 JOEさん、書き込みありがとうございます。
 随想のようなご投稿で、別にご返答しなくてもいい感じではありますが、一言だけ。
 何しろ極限状況でのお話なので、人々の気持ちがすさんでくるのも仕方のないところがありますね。
 一瞬にして住まいや家族を失ったのですから、だんだんわれに返ると共に、誰かに当たりたくなるのも人情というものでしょう。
 当たられるボランティアの人たちはたまらないかもしれませんが、これも人間性の一面と割り切るしかないでしょうね。

 そういうことがあってなお、やはり私はあの震災時における日本人の振る舞い方は大変立派だったと思います。
 とにかく、ああいう状況で一件の略奪行為も暴行事件も発生しなかったことには、世界中のジャーナリズムが脱帽するほかなかったという、これは本当に胸を張ってよいことではないでしょうか。
 イヤな想いくらいで済んだのは幸運というもので、外国だったら、救援ボランティアが盗難や、もっと面白からぬ危害に遭うことだって珍しくはないのですから……

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