28.私鉄私見(その6 阪急・京阪)


★阪急電鉄★

 阪急は、京都大阪神戸の3大都市を結ぶという、すこぶるおいしい立場にある。
 政令指定都市を3つも抱え込んでいる私鉄は、この他には近鉄(大阪、京都、名古屋)と京急(東京、川崎、横浜)しかない。東急も京急と同じ3市に踏み入れてはいるが、川崎市ははじっこの方を通っているだけで中心部には達していない。いずれにしろ川崎というのは東京と横浜にはさまれたという立地だけでいつの間にか人口が増えたような街であって、阪急の結んでいる3都市のように、それぞれ個性を持って独自に発展した街であるとは言いがたいのである。
 ご多聞に漏れず、阪急も最初からその規模でスタートしたわけではない。最初の核になったのは箕面有馬電気軌道で、現在の宝塚本線箕面(みのお)に当たる。実はこの会社にはさらに前史があり、もともとは大阪から舞鶴までのかなり大きな路線を有していた阪鶴鉄道だった。現在のJR福知山線舞鶴線に相当する。この路線が国鉄に買収されてしまったので、経営者たちがその売却金で箕面有馬電気軌道を設立したのであった。
 ところが当時の(明治末年)宝塚などというところは辺鄙な村に過ぎず、鉄道は作ったものの全然客が乗ってくれない。このままでは倒産かという情勢になった時、建て直しに当たったのが、これまでも何度か名前の出た小林一三である。
 小林は、「電車の客は電車が作るものだ」と主張した。利用客がいるから電車を走らせるのではなく、電車を走らせることによって利用客を喚起するという具合に、発想を180度転換させたのである。
 そのためには、沿線を開発し、利用者が楽しめるようにしなければならない。小林は、沿線の土地を買って高級住宅地を造成し、終点の宝塚には当時珍しかった巨大な遊園地を作り、しかもそこで全国にも類例のない少女歌劇を定期的に上演した。もちろんこれが現在の宝塚歌劇団である。初期には、文学青年上がりでもあった小林自身が台本まで書いたというから、その意欲たるや並々でない。
 小林のアイディアは大成功を納めた。鉄道を敷くと共に沿線の不動産開発や観光開発を手がけるという、日本独特の私鉄経営のスタイルは、彼によって確立されたと言ってよい。東急五島慶太西武堤康二郎は、その面での小林の弟子だと言える。
 この成功に伴い、箕面有馬電気軌道は経営拡大を図り、大阪から神戸までの高速鉄道を敷設する計画を立てた。しかしこの区間には当時すでに国鉄の他、阪神電車が走っており、しかもその阪神がそれまでの路面電車的なものから本格的な高速鉄道に脱皮しようとしていた時期だったもので、大もめにもめた。結局、後発の箕電としては、山の手の、人口の少ないあたりを通すということで納得するしかなかったのである。
 しかし、人口が少ないということは、線路をまっすぐに敷くのが容易だということでもあり、路面電車から出発した阪神とは段違いのスピードの電車を走らせることができた。また自社による沿線開発で、高級住宅地を周辺に造成することもできたのである。
 神戸までの路線が伸び始めてから、箕電は阪神急行と改名した。「速くてすいてる阪急電車」に対し、スピードでは太刀打ちできない阪神はフリークエンシイによって対抗しようとし、「待たずに乗れる阪神電車」のキャッチフレーズを打ち出したのである。
 このあとの、国鉄・阪神・阪急が三つ巴になった阪神間輸送の熾烈な争いはなかなか興味深いのだが、この稿は鉄道史を述べるつもりではないので詳述は遠慮する。

 宝塚本線神戸本線はこれで揃ったが、もうひとつの軸である京都本線は、もともと京阪電鉄の子会社である新京阪電鉄が敷いた路線である。やはり路面電車上がりで、淀川に沿って曲がりくねった路線だった京阪が、京都−大阪間をもっと短時間でダイレクトに結ぶべく、いわば新幹線として作った鉄道であり、戦前の国鉄の花形列車であった超特急「燕」と併走して堂々競り勝ったというのは語りぐさになっている。
 お馴染みの戦時統合により、阪急と京阪が合併し、やがて戦後になって再び分離する時に、この新京阪線が阪急のものとなったわけである。
 阪急はこれにより京阪神急行と再度名を変えて、70年代くらいまで正式には京阪神急行電気鉄道という長い名前を称していた。現在はシンプルな「阪急電鉄」が正式名称となっている。

 現在の路線網は、京都、神戸、宝塚の3つの本線とその支線からなっている。3本線は起点の梅田から十三(じゅうそう)まで並列しており、おのおの複線を持っているので、私鉄には例のない三複線区間となっている。この区間には途中に中津駅があるが、なぜか京都本線にはプラットフォームがなく、全列車通過となっている。
 神戸本線は日中10分ごと、京都本線と宝塚本線は日中20分ごとに特急が走っているが、梅田発時刻はすべてきりのいい00分から始まっている。従って、毎時00分、20分、40分には3本線の特急同時発車を必ず見ることができ、この3本の特急が十三までデッドヒートする有様は阪急名物のひとつとなっている。
 阪急梅田駅は疑いもなく私鉄駅としては日本最大のターミナルだ。9本も線路のある駅はJRを除けば他にはない。3つの本線に3本ずつ割り振られている。各線の両側にすべて乗車ホームと降車ホームがついているので、駅に入るとかなりの壮観である。
 この大ターミナルから特急に乗れば、三宮まで28分、宝塚まで29分、京都(河原町)まで40分で行けるわけだが、「速くてすいてる阪急電車」としては痛恨事であることに、最近はJR西日本に押しまくられている。新快速だと大阪−三宮が19分、大阪−京都が27分であり、長年阪急の独占状態だった宝塚すら、今は丹波路快速に乗れば22分で着くようになってしまった。かつて「燕」に競り勝ったことがあるにしては、こんなに水をあけられるとはいささかだらしない。しかも聞くところによると、阪急は弱腰にもJR西日本に、これ以上スピードアップしないようにと頭を下げに行ったという話があり、小林一三が生きていたらなんと言うだろうかと思う。もう一度奮起してJRを見返すべきであろう。

 京都本線には嵐山線千里線──神戸本線には伊丹線今津線甲陽線──宝塚本線には箕面線という、合計6本の支線区があるが、本線から恒常的に電車が乗り入れているのは千里線だけである。今津線の西宮北口−宝塚間と箕面線には、朝晩、若干の準急が乗り入れているが、日中は直通電車はない。以前はもう少しフレキシブルに、嵐山線に急行が乗り入れていたりした記憶があるのだが。
 なお今津線は線路名としては西宮北口で神戸本線と直交しているが、実際には本線で完全に分断され、宝塚方面と今津方面は直通していないばかりか、線路そのものがつながっていない。
 乗り入れをしている千里線にしても、天六側の柴島を通過する急行があることはあるが、千里側は全部各駅停車である。そして概して、これら支線区の電車は遅い。千里線などはもう少しスピードアップする必要がある。

 なお、千里線はそのまま延長して箕面につなぎ、宝塚本線の曽根から神戸本線の神崎川新大阪そして京都本線の淡路を結ぶ新線を建造して、全体として新大阪−淡路−北千里−箕面−石橋−曽根−神崎川−新大阪という北大阪環状線を形成するというプランがあったらしい。今でも新大阪駅のコンコースから、その計画の名残りと思われる土地を見ることができるが、埒があかないまま、少なくとも北側では似たようなルートの大阪モノレールが通ってしまったため、没になったようである。
 伊丹線も、北側は宝塚へ、南側は尼崎へ延長する計画があったようだ。しかし阪神大震災で崩壊したのちに再建された伊丹駅は、その先を将来延長するような造りにはなっておらず、この計画もおそらく放棄されたのだろう。
 計画放棄はいろいろやむを得ない事情があったのだろうが、上述のJRへの申し入れといい、一体に最近の阪急は弱気が目立つような気がしないでもない。
 阪急の車輌は、昔から、国鉄の旧型客車を連想させるようなあずき色一色で通しており、窓のブラインドも決してカーテン式にせず鎧戸のような金属製のものを使っている。そういう、伝統を大切にするところがあり、阪急ファンにはそこがこたえられない魅力なのだろうと思うが、その姿勢が悪い意味での「守り」に入ってしまっては今後の発展は望めない。ぜひとも第二の小林一三が出現して、何か思いきった施策を断行して貰いたいものだ。


★京阪電気鉄道★

 京阪は大阪と京都の他、滋賀県の大津にも拠点を持っている。昔は名古屋、東京まで路線を延ばすなどという遠大かつ無謀な計画を打ち上げていたこともあり、なかなか面白い鉄道会社であるような気がする。阪急京都線の前身となった新京阪電鉄ももとは京阪の子会社であり、本線に対する新幹線という性格だった。周辺事業に逃げず、鉄道そのもので勝負しようという意気込みがいつもあるようで、好感が持てる。
 京阪の特急は、JRは別としても、全国の料金不要列車の中ではもっともハイグレードである。現在に限らず、昔から常に料金不要列車のトップを突っ走っている。ロマンスカーという呼称を小田急に先駆けて使ったのは京阪だし、小田急がロマンスカーを走らせるとさっさと車内テレビを備えたテレビカーに主力を移し、今ではかつての近鉄ビスタカー顔負けの2階建て車輌を投入している。JR東日本の2階建て通勤車輌のような収容第一のものではなく、乗り心地も良く、他の鉄道会社なら間違いなく特急料金を徴収しようとするだろうと思われるほどクオリティが高い。
 速度の方も、淀屋橋−出町柳50分というのは、線形の悪さを考慮すればなかなかの健闘で、JR京都駅に近い七条までなら42分、これはJRの新快速には太刀打ちできないが、JRの普通の快速、あるいは阪急の特急相手だったら充分対抗できる所要時間だ。大阪あるいは京都のどこに用事があるかにもよるが、京都では鴨川沿いの繁華な地域を南北に貫いているから、いささか南に偏したJRよりも便利とも言えるのである。
 それでも京阪間だけの輸送ではいくぶん不利だったのか、最近の特急は中書島丹波橋にも停車するようになった。以前は京橋を出ると、七条まで停まらなかったのだが。

 京阪はまた、私鉄では緩急線分離にいち早く取り組んだ会社でもある。複々線にして、各駅停車が走る線路と、優等列車が走る線路を分けるのが緩急線分離で、JR=国鉄では早い時期からおこなわれていた。むろんこうすれば、各駅停車は通過待ちで時間をとられなくて済むし、特急や急行も駅通過の際に速度を落とす必要がなくなるから所要時間を短くできる。当然増発も容易になるから、輸送量が多い地域では効果的だ。
 しかし輸送量が多い地域は地価も高いから、用地買収などが困難になる。小田急なんかはそれで四苦八苦しているわけだが、京阪は早い時期に複々線化を果たしていたから、それほど経営を圧迫せずに済んでいたわけである。
 現在では東武伊勢崎線の方が長くなったが、京阪の天満橋−寝屋川信号所は、それまで長い期間、私鉄最長の複々線区間として知られていたのである。

 京阪間ではJRや阪急と張り合っているが、途中経路はそれらとは必ずしも近接していないので、沿線の客は独占できている。守口、門真、寝屋川、枚方、八幡といった、淀川左岸に連なる都市を結んでおり、このあたりには競争者はない。
 ただし、今まで開発が出遅れていたJR片町線(学研都市線)がこのところめきめき力をつけている。4、5キロ程度まで近づく部分もあるから、うかうかしていると客を奪われないとも限らない。利用者としては、むしろ競争してもらった方がありがたいわけだが。
 ちなみに、京阪は市の代表駅にはすべて「市」をつけた駅名にするコンセプトのようで、守口市門真市寝屋川市……としている。上記の都市のなかでいちばん新しく市制が敷かれたのは八幡市であるが、それまで八幡町という駅名だったのをちゃんと八幡市に改名している。八幡の住民は嬉しかったかもしれない。
 もっとも駅そのものの格にはシビアなようで、門真市などは準急さえ停まらない。

 列車の種別は、特急、急行、準急、区間急行、各駅停車の5種類である。区間急行が準急より格下というのが珍しい。英語表記を見ると、準急が「Sub-Express」、区間急行が「Semi- Express」となっている。南海では確か逆の訳になっていたが、どちらにしろ外国人が読んでイメージを把握できるかどうかよくわからない。区間急行は朝晩のみの運転なので、通勤準急Commuter Semi-Expressとでも称した方がわかりやすいような気がするが。
 考えてみると、「区間××」という列車種別は関西には多いが、関東には東武と西武の区間準急以外にはひとつもない。一方「通勤××」というのは関東に多いが、関西では阪急の通勤特急しかない。この命名の好みの差はなんなのだろうと思う。
 優等列車が走っているのは本線と、その延長線に過ぎない鴨東(おうとう)だけで、交野(かたの)宇治線の両支線は全列車各停である。以前、京津線三条から出ていた頃は急行が走っていたが、御陵(みささぎ)まで京都市営地下鉄に代替されるようになってからはなくなった。
 交野線は地味な路線であって、沿線の中心駅である交野市も、終点の私市(きさいち)もそんなにぱっとしない。しかし宇治線の方はもう少しやりようがある気がする。宇治と言えば観光都市として名が高いし、京都のベッドタウンとしても今後ますます重要になってゆくはずだ。京都から宇治まではJR奈良線があり、これも片町線同様長らく地味なローカル線に過ぎなかったが、最近はJR西日本の肩入れで、並行する近鉄京都線を脅かすほどになっているから、京阪も対抗策を講じるべきであろう。できれば京都−宇治間の直通急行を走らせるべきだろうが、まずいことにそれをやろうとすると中書島でスイッチバックしなければならない。配線も含めて再検討する必要がある。

 大津側の京津線石山坂本線は路面電車であって、本線系とはまた違った味わいがある。本線の三条駅が地上にあった頃は本線からの直通電車も走ったことがあるらしいが、地下線化されてからはまったく独立した運行となった。
 三条発着時代の京津線は、クルマと併走する町中の路面部分と、九条山逢坂山の急峻な峠越えがめまぐるしく交代していた。いにしえの旅人が京都と近江方面を行き来するのに使ったルートそのままであって、歴史を感じさせるよい路線であったと思う。
 しかし、その峠越えや、半径100メートルという急カーブのため、電車は2輌以上つなぐことができず、速度も遅く、輸送力は限界になっていた。
 そのため、三条から御陵までは廃止されてしまい、京都市営地下鉄が代替することになったわけである。京津線の電車は地下鉄に乗り入れることになった。世にも珍しい、地下鉄と路面電車の相互乗り入れである。
 これにより、本線と京津線は路線図の上でも接点を持たなくなってしまった。時間は短縮されたが、九条山越えの情緒は失われ、それに別の経営体が挟まって運賃も高くなった。
 なお地下鉄に乗り入れた京津線の電車は、どういうわけだか西端の二条まではゆかず、京都市役所前止まりとなっている。京都市と京阪のそれぞれの車輌使用料や運賃収入の精算を簡単にするために、相互乗り入れ部分の距離をバランスさせたということなのだろうが、不便と言えば不便だ。
 車輌は地下鉄としては小型だが、路面電車としては不釣り合いに大きく、上栄町から浜大津までの路面部分(地上に出る山科から上栄町までは、もとから専用軌道だった)ではいやに堂々として見える。

 石山坂本線はほぼ全部路面軌道であり、全線大津市内に含まれる。さながら大津市内電車という観があるが、沿線には寺社が多く、観光客もけっこう利用する。
 京津線と石山坂本線の接点である浜大津は、東海道本線が全通するまでは国鉄の大津駅があった場所でもある。その頃は、東海道本線の客は、長浜(現北陸本線)からここまで、船で琵琶湖を渡って旅を続けたのであった。

 京津線を地下化するにしても、京阪が自力でやっていれば、あるいは淀屋橋−浜大津間特急などが走る日が来ていたかもしれないのだが、もはやその可能性は潰えた。現在の鴨東線の終点出町柳からは叡山電鉄が接続しているから、これ以上北へ伸ばす必要もなさそうだし、今のところ京阪には路線網をこれ以上拡大する計画はないようである。
 しかし、かつて名古屋や東京へと夢をはばたかせたことのある京阪のこと、いつか思い切ったことをしてくれないかと私は期待している。名古屋は無理でも、例えば宇治線を延長して信楽高原鐵道近江鉄道とつなぎ、彦根、米原あたりと直通するなんてことなら不可能とは言えないのではあるまいか。京阪はいつまでもチャレンジ精神を失わない鉄道であって欲しいと思う。

(2001.2.10.)

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