31.北海道年末旅行


 平成13年の年末に、所用があって札幌へ行った。
 年末のあわただしい時期であったが、こういう機会を逃しては後悔する。ついでに数日、冬の北海道を旅してこようと思った。
 冬の北海道は初めてではない。そもそも私は札幌生まれで、生まれてから3回ほどの冬を北海道で過ごしているが、それはまあ措くとしよう。物心ついてからは、12月に1回、2月に2回、3月に1回、訪れたことがある。
 ただ、かなり久しぶりであったことは確かだ。一昨年の2月に一度札幌に行っているが、その時は前夜発日帰りというすこぶる忙しい日程で、ほとんど屋外へ出ることもなかったから、あちらの冬の寒さというものがどうも実感できていない。それを除くと、冬に北海道へ渡るのはかれこれ十数年ぶりになる。
 それで、どんな格好をしてゆけばよいのか、迷った。
 前は確か、アノラックのようなものを着て行った記憶がある。しかし現在私はアノラックなぞ持っていないし、スキーウェアでは派手すぎて正気を疑われそうだ。
 ともあれニットのセーターの上に、この前あつらえたかなり分厚なスーツを着、必要とあらば重ねられるように、もっと分厚いセーターやらコートやらをバッグに詰め込んで出かけた。そんなもののために、私のバッグははちきれそうにふくらんでしまったのだが、行ってみると存外平気で、コートや替えのセーターは愚か、手袋や帽子すら一度も使わなかった。
 まだ12月で、本式に寒いのはこれからという季節だったのと、廻った地域がほぼ札幌以南に限られていたせいかもしれない。私の着たスーツはスタンドカラーの珍しい形のもので、生地に厚さがある上に、喉元近くまでボタンを留められるようになっており、これにカシミアのマフラーを巻いたら、それでなんとか最後までもったのである。
 どうやら用心しすぎたようで、きちきちにふくらんだバッグを最後まで持ち回るはめになった。頭のいい人はあんまりこういうことをしない。身軽に出かけて、寒ければ現地で何か買えばよいのだ。

 所用があったのは12月23日。翌日はクリスマスイブで、昼間は知人と会い、夜は親戚の家に泊めて貰った。そのまた翌日、25日から丸3日ほどうろうろしてきたわけである。
 札幌に行く時は、諸般の事情により飛行機を使わざるを得なかった。しかしそのあとはもちろん鉄道にするつもりだ。切符の買い方をいろいろ考えた。
 まず考えたのは「北海道ゾーン周遊きっぷ」である。北海道全域のJRに乗ることができる切符だ。しかも片道を飛行機にすることができるので、今回のようなケースにはうってつけなのだが、みみっちいことに道内には5日間しか滞在できないときている。北海道入りしたのは22日なので、これでは26日までしか居られない。あの広大な北海道に5日間しか滞在できないのでは、範囲を全域に設定して貰っても無意味である。以前の「ワイド周遊券」だったら20日間有効だったのに。
 次に「北海道フリーきっぷ」を考えた。これも北海道全域のJRに乗れ、しかも有効期間は7日間なのでちょうどよい。ただ、特急の指定席に乗れる設定にしてあるので、自由席しか乗れない周遊きっぷに較べると割高になる。また、北海道以外で入手しようとするとちょっと手間がかかる。
 そもそも全域に乗ることが必要なほどの時間的余裕があるのか、と根本的な疑問に突き当たった。遅くとも28日には帰ってこなければならない事情があり、札幌での用事を終えて実際に動けるのは3日か4日に過ぎない。ポイントを決めて行けばそれで充分だろうが、実際にプランを立て始めるといろいろ迷った。流氷はもう一度見たいが、12月ではまだ来ていない。いっそ札幌からあまり遠くないあたりを、時間をかけて廻ってみようか。

 結局、私が買ったのは、「新千歳空港──東京都区内」という片道切符であった。ただし、「経由」として「千歳線・函館線・江差線・海峡線・津軽線・東北線」となっている。
 このうち、江差線から先は問題ない。北海道から東京まで、鉄道で移動しようとすればこうならざるを得ない。問題は「千歳線・函館線」である。
 函館──新千歳空港間のメインルートは、室蘭本線を経由している。長万部(おしゃまんべ)から噴火湾沿いに南下し、洞爺(とうや)、東室蘭(ひがしむろらん)、苫小牧(とまこまい)を経て千歳線に入り、札幌へ向かう途上に南千歳がある。新千歳空港へはこの南千歳から分岐線が出ている。特急はすべてこのルートを通り、このルートが常識と見なされている。
 しかし、私の買った切符には「室蘭線」経由が記されていない。
 どういうことかというと、長万部で室蘭本線を分けた函館本線は、山間部に分け入り、積丹半島の基部を突っ切って小樽(おたる)を経て札幌へ到達する。もとはこちらがメインルートだったが、小樽の他は大した町がないのと、山間部のため時間がかかるとの理由で、メインルートの座を室蘭本線に奪われ、数時間おきに鈍行列車が走るだけのローカル線と堕してしまったのである。私の切符は、このローカル線となった函館本線を経由することになっていたのだ。
 これだと、新千歳空港から札幌まで行く時にもこの切符を使うことができるという余得がある。札幌で途中下車するという形になるわけだ。
 しかし、こんな買い方をする客は珍しい。
 「新千歳空港──東京都区内」という区間表示を見て、あちこちで駅員に怪訝な顔をされた。札幌駅でも小樽駅でも、
 「あれー、この切符じゃここでは下りれないんでないかい」
と言われ、説明するはめになったのである。
 人と違うことをしようとすると、世間の風当たりを覚悟しなければならない。

 ともあれ、私は12月25日10時22分発の区間快速「いしかりライナー」で札幌駅を発った。
 これが、いきなりロングシートである。
 空港快速「エアポートライナー」ならクロスシートなのだが、「いしかりライナー」は通勤用電車として位置付けられているのだろう。もっとも通勤用電車がロングシートという思い込み自体おかしいのであって、首都圏のようにバカみたいな混雑をするわけでもないのに、どうして首都圏の真似をするのやら。
 発寒中央(はっさむちゅうおう)、発寒(はっさむ)、稲積公園(いなづみこうえん)、稲穂(いなほ)、星置(ほしおき)、ほしみなど、昔はなかった駅を次々通過する。考えてみるとこのあたりを列車で通るのはずいぶん久しぶりであったことに気づく。昔は琴似(ことに)を出ると次は手稲(ていね)、その次は銭函(ぜにばこ)だったのだが、その間に3駅ずつ新駅が誕生している。昔の駅間距離がいかに長かったかわかる。
 銭函のあたりから日本海に面して走る。ずっと小さい頃、銭函に海水浴に行ったことがあるのを思い出すが、今はこのあたりも通勤圏になってしまっているらしい。そういえば今や臨海副都心となっている幕張で、昔は潮干狩りができたものだ。こんなことを言い出すようでは私もだいぶ齢をとったのであろう。
 なぜか昔から臨時駅として冷遇されている張碓(はりうす)を通過し、小樽の市街に近づく。

 小樽着11時01分。この街をあまりしっかり歩いたことがなかったので、少し時間をとって散策してみた。
 小樽は最近では北一硝子(きたいちガラス)が有名で、ほとんどガラスの街みたいなことになっているが、私はその方にはあんまり興味がなく、手宮鉄道記念館を目指した。
 手宮は小樽駅から2キロほど離れた運河沿いにあり、北海道の鉄道発祥の地である。手宮から幌内(ほろない)の炭鉱までの鉄道が敷かれたのは明治13年。日本最初の新橋──横浜間が敷かれてから遅れることわずか8年で、この時期まだ東北本線も山陽本線もまったく姿を見せていない。明治初期の日本にとって、石炭の輸送がいかに急務だったかがわかろうというものだ。
 しかし、今はもう手宮にも幌内にも列車が訪れることはない。貨物線としてはかなりあとまで活躍していたが、手宮側は昭和60年、幌内側は昭和62年に廃止された。以後、旧手宮駅は鉄道記念館に姿を変えている。黎明期に走った有名な蒸気機関車「義経」号や「静」号も展示されているはずだ。
 バスで行ってもよかったのだが、どこ行きに乗ればよいのかよくわからなかったし、町中を歩いてみたい気分でもあったので、つるつる滑る歩道に難渋しながら手宮まで歩いた。
 ところがなんとしたことか、記念館の入り口は積もった雪で閉ざされ、11月から4月まで閉館との貼り紙が掲示されていた。やれやれ、せっかく歩いてきたというのに。

 あてが外れて、もはや歩いて帰る気力もなく、近くのバスターミナルからバスに乗って小樽駅へ戻った。
 気を取り直して、昼食を食べようと思う。昼食は小樽で寿司を食べようと決めていた。
 どの辺の店がいいのかさっぱりわからないので、ともかく運河の方へ行ってみることにした。港に近い方がおいしそうな気がしたのである。
 平日の日中だが、運河の方に行くと観光客がずいぶんたくさんいた。中国語もちらほらと聞こえたりする。
 運河に面して、石造りの倉庫群が建ち並んでいる。その一角が土産物屋や食堂になっていて、そこの回転寿司のカウンターに坐った。
 回転寿司だからと言ってバカにしてはいけない。東京ならそんじょそこらの普通の寿司屋ではお目にかかれないような活きの良いネタが廻っている。イカもタコもホッキもシャケも、新鮮で噛みきれないほどだ。カニの脚がまるまる一本入ったカニ汁140円也をすすりながら堪能する。北海道はこうでなくちゃ。

 13時19分の列車で小樽をあとにする。列車と言ってもここからは単行(1輌編成)のディーゼルカーだ。小樽までは電化されているが、それより先になるとまだ非電化なのである。運転本数も激減し、ぐっとローカル線らしくなる。
 ただし、運転本数が激減するだけあって、しばらくはけっこう混み合う。私は10分前にプラットフォームに出たら、もう坐れなかった。もっともこの辺のディーゼルカーは基本的に2-1タイプの座席配置になっており、従来の2-2タイプのボックス席より坐れる人数が減っている。
 3つ先の余市(よいち)でどっと空く。ただし3つ先と言っても、30分近くかかるのだが。以前叔父が余市に住んでいて、訪ねたこともある。ニッカウヰスキーの本拠がある街だ。
 余市まではかろうじて郊外という感じもあったが、そこを過ぎると完全に山野に出る。寂しげな雪原が拡がるばかりだ。
 この列車は倶知安(くっちゃん)行きである。これから岩内(いわない)へ向かい、その先の雷電(らいでん)温泉(さかずき)温泉に泊まろうと思っている。岩内へ向かうバスは倶知安から出ているのだが、私はひとつ手前の小沢(こざわ)で下りた。バスは小沢駅前を通るし、倶知安まで行くと乗り換え時間がわずか3分しかなくてあわただしい。もうひとつ、かつて小沢から岩内線という国鉄の支線が出ていて(昭和60年廃止)、その分岐駅を偲びたいという想いもあった。

 かつての分岐駅・小沢は、今は無人の小駅となっていた。
 駅前にはだだっぴろい広場があったが、閑散としている。タクシーが一台停まっていたけれど、ただひとり下車した私が乗らないとわかると、近くにあったタクシー会社の車庫に引っ込んでしまった。車庫にはその一台しか入りそうにない。
 一体最後に客が泊まったのはいつなのだろうと思われるような駅前旅館が一軒。あとは小さな食料品店がちょこちょことあるだけの、なんということもないローカル駅である。分岐駅だったのは、どうやら地形の関係だけのことらしい。
 こんなところで40分もバスを待たなければならない。熱いコーヒーでも飲んで待っていられるような店も見当たらない。倶知安へ行くべきだったと後悔した。
 一軒の食料品店に入って、ものすごく時間をかけて陳列棚を見て回り、パンと飲み物を買ったが、いつまでも店内にいるわけにもゆかない。外のベンチに坐ってバスを待ったが、さすがに冷えてきた。かえって立っていた方がよさそうだった。
 バスは2分遅れでやってきた。ほっとした。

 バスは除雪された国道を走る。かつての岩内線がどこを走っていたのかはまるでわからない。北海道らしい、見事に一直線になった部分もあった。
 30分ばかりで岩内バスターミナルに着いた。このバスターミナルは旧国鉄の駅を流用したもので、廃止された駅の末路としては幸せな方だ。
 岩内の街は意外と繁華で、市街の規模も大きい。実は北海道の西岸では、小樽市、石狩市、留萌市に次ぐ大きな町なのだ。こんな町への鉄道があっさり廃止されてしまったのは解せないことだが、分岐している函館本線自体がこのあたりでは完全にローカル線になっている状態ではやむを得なかったろう。岩内線も、廃止直前には一日7往復だけ鈍行が行ったり来たりしているだけだった。今や札幌からの高速バスが頻繁に、なんと17往復も出ているのだから、とても太刀打ちできない。廃止前に民営化されていれば、あるいはJR北海道はなんらかの対抗策を講じたかもしれない(今でもうまく乗り継げば高速バスより短時間で到達できるはずなので、「ニセコライナー」のような直通快速でも走らせていれば充分バスに対抗できたろう)が、もはや手遅れだったのである。

 さて、どこで泊まるかはっきり決めていなかったが、そろそろ決めなければならない。
 時刻表の巻末の旅館案内を見ると、雷電温泉郷の旅館はいくつか出ていたが、盃温泉の方は全然載っていない。どうやら盃温泉の方がひなびているらしいので、そちらへ行きたくなった。都合の良いことに間もなくそちらへのバスが来る。
 バスターミナルにあった電話帳で調べたら、国民宿舎があるようだったので、そこを予約。国民宿舎ではサービスが画一的であんまり面白くないと思われるが、風呂の種類がいろいろあるようだったのに惹かれた。
 「盃温泉街」行きのバスに乗る。
 16時10分の発車だったが、ほどなく陽が暮れなずんでくる。北国の冬の暮れは早い。しばらく走って海岸に出た頃には、もうとっぷりと暮れていた。西海岸なので落日が拝めるかと思ったが遅かったようだ。
 岩内町を出て(とまり)村に入る。「原発PRセンター」などというバス停があったのでおやおやと思った。そういえば泊村原発という響きに聞き覚えがあるような気もする。ここだったのかと思う。
 泊村の市街地を出る頃には、乗客は私ひとりになっていた。バスは真っ暗な海岸に面した道を突っ走る。この先に何があるのだろうと心細くなるような道だ。
 それでも所々に集落がある。興志内(おきしない)という集落の外れあたりで、
「終点です」
と下ろされた。バス停の名前は盃温泉街だが、あたりの雰囲気はどう見ても「温泉街」には程遠い。まだ17時を過ぎたばかりだというのに、森閑と暗く静まりかえっている。
 宿がここから遠かったらどうしようかと案じていたが、なんのことはない、下りた目の前が国民宿舎であったからホッとした。
 翌朝明るくなってから見ると、この国民宿舎の他、ホテルと称する旅館が2軒、民宿が2,3軒あるだけの「温泉街」であった。前は海に面し、背後は積丹の山が迫っている。数軒の宿が、なんだか身をこごめて寄せ合っているような趣きである。
 国民宿舎は平成6年の建造だそうでまだ新しく、設備も整っていた。お湯はナトリウム泉で透明だから、そんなにありがたみがある感じではないが、たっぷりとしていていいお湯だった。露天風呂もあった。北海道の冬の夜の刺すような冷気と、温泉の温度差がなかなか心地よい。食事は電話帳広告に謳っていたほどの海の幸はなかったけれども、まあまあであろうか。隣では何やら宴会をしていたようだ。
 翌朝8時50分のバスで岩内へ戻り、さらに小沢まで乗ってそこから列車に乗り換えた。この待ち時間も30分近くあって、昨日と違い雪がぱらついていたからさらに寒かったが、切符を中断したくない気がしたのだった。
 列車が近づいてくると、昨日のタクシーがまた駅の近くに寄ってきたが、小沢で下りた客はひとりも居なかった。あのタクシー、列車が着くたびに出動してくるんだろうか。あてが外れることが多いに違いない。
 列車は倶知安止まり。一駅だけ乗ってすぐ下りる。一駅と言っても10分ほどかかるのだが……。
 さて、ここからがなんとも不細工で、倶知安着は11時09分だったのに、先へゆくにはなんと2時間半以上、13時44分まで待たなければならない。その前の列車と言えば9時48分の臨時特急「ニセコスキーエクスプレス2号」だがこれは2つ先のニセコ止まりで、その先の長万部方面へ向かおうとすれば、9時30分の発車となる。実に4時間以上列車の間隔があいてしまっているのだ。仮にも「本線」を名乗る線区で、日中これだけ閑散としているのは今時珍しい。
 9時半の列車に乗ろうとすれば、宿を6時55分のバスで発たなければならなかった。私は旅先でそのくらいの早発ちをすることも珍しくはないのだが、温泉宿でそれはやりたくなかったのである。ぜひ朝風呂を楽しみたかったし。
 倶知安からは以前は胆振線という支線が出ていた。山間を突っ切って噴火湾沿いの伊達紋別まで通じていたのだが、ご多聞に漏れず大赤字線で、しかも有珠山の噴火によって大ダメージを被り、昭和61年に廃止されてしまった。
 岩内線も胆振線もなくなった今、倶知安はローカル線の変哲もない途中駅というに過ぎない。前は後志(しりべし)支庁が倶知安に置かれていたが、小樽に移されてしまった。バスの運行の中心になっていることだけが、かろうじて昔の交通の要衝であったことを偲ばせる。
 しかしながら、「くっちゃん」とはなんと楽しい駅名だろうか。「おしゃまんべ」や「おといねっぷ」も良いが、私個人としては倶知安という響きがいちばん気に入っている。

 雪の降りしきる街中へ出てみたが、時間を潰せそうなところはない。仕方なく、行き当たった書店で立ち読みなどして1時間あまりを費し、そのあとはラーメン屋に入ってまた1時間ほどを潰した。寿司もうまいが、ラーメンも、そこらのどうということもない店に入ってさえうまいのが嬉しい。極太の札幌式味噌ラーメンを堪能した。
 ほどよい時間となったので駅に戻る。改札が始まってプラットフォームに出たが、4時間ぶりの発車とあって乗客はずいぶんと多い。高校生などもたくさん乗っていた。2輌連結だったが、立っている客が少なからずいた。
 私は坐れたものの、長万部までこの調子だったらちょっと鬱陶しいな、と自分勝手なことを考えていた。
 案ずるまでもなく、乗客は駅ごとにごっそり下りてゆき、5つ目の目名(めな)あたりではガラガラになった。そうなればなったで、列車間隔が4時間もあるローカル線がこうガラガラでは存続も覚束ないのではあるまいか、などと不安になってくる。われながら現金なものだ。
 函館本線でももっとも閑散とした区間だけあって、車窓も森閑としている。雪がだいぶ吹雪いているので余計にわびしい。氷結した川、枯れ果てた原生林。なんだか凄みさえ感じられる。
 ディーゼルカーはえっちらおっちら走って、長万部に到着した。
 函館に泊まるつもりだが、多少は函館の街も歩いてみたいので、ここからは特急に乗るしか仕方がない。函館──長万部間、特にその中でも森──長万部間はいわゆる「特急銀座」で、鈍行より特急の方がはるかに運転本数が多いのだ。
 自由席特急券を買って、長万部15時27分発の「北斗14号」に乗り込む。特急は速い。今まで乗ってきた鈍行ディーゼルカーとは段違いのスピードだ。線路は噴火湾岸に出て、列車はずっと海沿いに走るが、あたりの景色は荒涼としている。早くも夕闇が迫ってきたようだ。
 函館着16時47分。私は数え切れないくらいこの駅を通過してはいるが、街に出たことは一度もなかった。ずっと昔、まだ物心もついたかつかないかの頃に、祖父に連れられて訪れたような気はするのだが、それ以降は毎回、なぜかいつも接続がよくて、ただ通り過ぎるばかりである。青森の方は待ち時間が長く、街を歩いたことも多い。このアンバランスがずっと気になっていた。だから今回は函館で時間をとろうと考えていた。

 駅前のホテルに投宿し、フロントにあったタウンガイドをひっつかんで街へ出かけた。タウンガイドにはいろんな店のクーポンがついており、提示すると割り引きになったり特典がついたりするらしい。夕食を食べる店を選ぶのにも重宝しそうだ。
 まだ17時過ぎというのに、すっかり夜の風情である。
 函館には市電が走っている。函館駅を中心に考えると、湯の川温泉、外人墓地などに近い函館どっく前立待(たちまち)に近い谷地頭(やちがしら)の三方向へ向かって運行している。この際だから全線踏破してやろうと思う。
 函館駅前の電停に行くと、ちょうど谷地頭行きの電車が来たので乗り込んだ。この市電、普段は乗る距離によって運賃が変化するのだが、利用状況把握のためとかで、この12月20日から1月10日まで、試験的に初乗り料金の200円均一ということになっていた。いい時期に来たと思う。
 路面電車だが、クルマに妨害されることもなく、なかなか快調に走った。終点の谷地頭で下りると、なんだか町外れの寂しい雰囲気だったが、立待岬まで1キロという標識があったからそちらへ向けて歩き始めた。言うまでもなく、石川啄木が愛した岬であり、途中には啄木一族の墓地まであるのだった。
 標識に従って歩いたが、あたりはますます寂しくなった。町外れには違いないけれど、有名な岬ではあるし、少しは観光客がいても良さそうなものだと思った。
 しばらく歩くと、その閑散たる理由が判明した。岬に通じる道は、小樽の鉄道記念館と同様、「11月から4月まで」閉鎖されてしまっていたのである。寂しいわけだ。

 憮然として谷地頭電停に戻り、今度は少しだけ乗って宝来町(ほうらいちょう)で下車。函館山ロープウェイの乗り場へ歩く。ロープウェイはまさか季節営業ということはあるまいと思ったが、駅へ向かう登り道が実に暗く静まっているので自信がなくなってきた。
 幸い、山麓駅へ着いてみればちゃんと営業している。私はいくつかの勘違いをしたようだ。まず、地図を見て宝来町が最寄りの電停だと思ったのだが、ロープウェイの最寄り電停とされているのは谷地頭線とどっく線が分岐する十字街電停であり、歩く人は普通そちらから歩いてくること。もうひとつは、こんな季節に歩いて山麓駅まで来るような酔狂な人間はそう多くないということだった。途中の急坂は凍りついていて歩くのは危険であり、ほとんどの観光客はバスかタクシーで山麓駅までやって来るのである。
 さっきホテルのフロントで貰ったタウンガイドを見せると、一割引になった。窓口のおばちゃんは、
「上のレストランでそれを見せると、コーヒーかジュースのサービスがありますから」
と教えてくれた。
 観光バスが着いたらしくどっと人が入ってきたが、彼らがもたもたしている間に私はプラットフォームに出た。幸い彼らが追いついてくる前にゴンドラは発車した。ばかでかいゴンドラに、乗っているのは乗務員の他は7人だけだった。私以外の6人は、3組のカップルであった。
 ゴンドラが上昇するに連れて、眼下には有名な函館の夜景がぐんぐん拡がってきた。昼間に降っていた雪もすっかりやんで、空気が澄み渡っている。函館は独特の地形を持っている港町で、左右から海が迫った半島上にあるところが、他の街と違った美しさをかもし出しているのかもしれない。
 展望台の屋上に上がるとさすがにたちまち凍気が襲ってきて、長くは居られなかったが、空には星が輝き、夜景を眺めるには申し分のないコンディションになっていたと思う。
 観光客は多く、下りのゴンドラは満員だったが、中国人の団体がいくつかあったようだ。こんな寒い時期にご苦労なことである。
 コーヒーかジュースのサービスがあるというレストランは、どうも食事でもしないと済まないような雰囲気だったので、結局特典を活用せずに下りてきた。どうも気が弱くていけません。

 十字街の駅に下りてきて、次にどっく前までの線に乗った。すでに19時台で、電車の本数が減っているから、800メートルほど離れている外人墓地まで足を伸ばすのはやめた。こんな夜になってしまってから墓地を訪れるのは私も気が進まないし、そもそもとっくに閉められているに違いない。そのまま折り返して、一気に反対側の湯の川まで行った。45分くらいかかった。
 湯の川温泉のどこかで一風呂、なんてことも考えていたのだが、電車がなくなると困るので、こちらもそのまま折り返した。駅前で下り、タウンガイドに出ていた郷土料理の店に入って夕食をとった。ガイドを見せると、サービスでイカの沖漬けが一皿追加された。私は酒を受けつけない体質なのだが、酒飲みの好きそうな肴はわりと好きな方で、沖漬けもおいしくいただいた。ともあれ酒を飲まないと安上がりではある。

 一晩明けて、翌朝はチェックアウトを早めに済ませ、朝市の中にある食堂で朝食を食べた。ここもガイドに載っていた店で、イクラ丼を割り引きしてくれた上にエビ汁をサービスしてくれた。朝市には見事なカニが並んでいたが、これからまだ道中長いので、買うのは断念せざるを得ない。
 8時04分の快速「海峡2号」に乗って函館をあとにする。1時間くらい前に駅に行くと、なんともう乗車準備ができているというのでプラットフォームに出てみたら、驚いたことにすでに座席は半分くらい埋まっている。おそらく札幌からの夜行快速「ミッドナイト」で着いた客が「海峡2号」に乗り継ぐ場合が多いのだろう。私もその乗り継ぎはやったことがあるが、夏のことだった。冬なら、「海峡2号」が早々と乗車準備してくれるのはありがたいことに違いない。車内は暖かいし、カーペットカーが連結されているので横になることもできる。
 カーペットカーに乗ろうかどうか迷ったが、私は青森まで行く気はなく途中で下りるので、椅子席の方にした。カーペットカーで憩いでしまうと、下りるのがイヤになるだろうから。ただ、椅子席の方は喫煙可能の車輌だったのでその点は閉口したが。
 途中で下りてどうするかというと、松前を訪れたいと思ったのである。江戸時代には松前藩の首都であり、交易で賑わった港町である。青函トンネルが開通する以前には国鉄の松前線が通じていたが、海峡線開業と共に廃止された。松前線には結局乗らずに終わってしまったのでその跡も偲びたいし、北海道でもっとも「歴史」を感じさせる街に、今まで訪れていなかったのが気にかかってもいたのだ。
 現在、松前まで行くには、江差線と海峡線が分岐する木古内(きこない)からバスが通じている。しかし、私は木古内からひとつ海峡線に入った次の駅、知内(しりうち)で下りようと思った。バスは知内駅前を通るようだったし、どうせ下りるなら小さい駅の方が面白い。知内に停車する列車は、一日わずか2往復で、「海峡2号」はそのうちのひとつなのである。
 知内には温泉もあるという話を聞いていたが、これは実は駅からは遠く離れた、海沿いの市街地のことであって、駅は単に国道と交差するあたりに作られただけで、町外れどころか、行政区画としての「知内町」の隅っこの方に過ぎない。
 一日4回しか列車の停まらない知内駅に「海峡2号」から下り立ったのは私ひとりだった。仮設みたいな細いプラットフォームを歩いて跨線橋を渡る。もちろん無人駅だ。ただ、駅舎は小さな物産館と共通している。外へ出ると「道の駅しりうち」というのもあり、それなりに整備された雰囲気だった。鉄道で訪れる人は少ないだろうが、クルマで立ち寄る人はいるのだろう。
 私がきょろきょろしていると、物産館から女の人が出てきて、
「どっちの方行かれます?」
と言った。
「松前に行きたいんですが」
「それだったら、国道のあすこんとこにバス停が見えますけど、あそこを9時28分に通りますから、それまで中でも見ててください」
 彼女の好意に感謝して物産館の中に入った。貧弱な土産物が並べられているばかりだったが、情報ネットの端末があったので、それでニュースや天気予報などを読んでいるうちに時間が過ぎた。

 松前まではそこから1時間あまり。少しうとうとして眼が醒めると海岸沿いを走っていた。
 松城(まつしろ)というバス停で下りれば街の中心部に近かったのだが、そんなこととは知らないものだから、終点の松前バスターミナルまで乗ってしまった。岩内と同じく鉄道駅の流用ではないかと思ったし、ターミナルというほどなら荷物を預けられまいかと考えたのだった。私の荷物は、結局使わなかったセーターやコートではち切れそうであったばかりでなく、札幌の親戚がくれた土産などもかさばっていて、持ち歩くのは難儀だったのである。
 しかし、バスは松城を過ぎると国道を離れて何やら住宅地の中に入り込み、うねくねと走り廻ったのち、再び国道へ出たと思ったら街並みは尽きて、どう考えても町外れとしか思えない。終点のバスターミナルはすこぶる寂しい場所にあった。しかも案内所は愚かコインロッカーすらない。バスの運行の都合で設けられた「ターミナル」に過ぎなかったようだ。
 しかも市街地へ戻るバスは30分くらい待たないと来ないようであったから、仕方なく私は大きな荷物を抱えたまま、歩いて引き返すことにした。
 ただ、その途中で「松前駅跡」の碑を見つけることができたので、その点は幸いだった。バスで戻っていたらわからなかっただろう。あたりには、引き込み線の敷地を流用したのではないかと思われる新しい道路が通っていたが、線路やプラットフォームがどんな有様だったのかを偲ぶことはできなかった。おそらく片面だけの小さな駅であったろうとは思うのだが。

 松城のバス停まで戻った。立派な待合室があったが、コインロッカーはなく、私は結局荷物を持ったまま松前城へ行った。
 もっとも、松前城というのは1850年代になってから建てられた、「日本最新の旧式城址」である。本州の城のような歴史はない。松前藩主は久しく城というものを持たず、せいぜい館と称す程度の家屋に住み続けた。松前城は外国の脅威が迫ってきてから急遽建造されたものなのである。そのため西洋の築城法なども採り入れてある点が特異であるらしい。
 江戸時代には米が穫れなかったので松前藩は全国で唯一「石高表示」のない藩であったとか、2度にわたって天領化されたことがあるとか、北海道ならではの独特な歴史的事情がいろいろあるらしく、そのあたりは復元天守閣の中にある資料館で伺い知ることができるはずだ。そういえばこれほど使われることのなかった天守閣も少ない。
 ところが、天守閣の入り口へ行ってみると、なんということ、ここも「11月から4月まで閉館」ではないか。なんだか地団駄踏みたい気分になった。北海道の観光施設はこれを考慮しなければならないらしい。
 それならばと、案内板に出ていた「郷土資料館」というのに行くことにした。「町民センター」に併設されているようだ。町民センターなら閉まっていることもあるまい。
 ところがところが、町民センターは機能していたが、資料館はやっぱり「4月まで」閉館中である。私が玄関に入ってきょろきょろしていると、町民センターの職員らしきおじさんが、うさんくさげに
「なんか用ですか」
と来たもんだ。
 「いや、資料館を見にきたんだけども……」
休みとはね、ともごもご言う私を、おじさんはもう顧みずにどこかへ行ってしまった。お気の毒ですのひとこともない。こんな季節にやってくるなんて何を考えているんだ、とでも言いたげな態度だった。

 松前は桜が有名らしく、その季節には賑わうらしいが、冬に来たところで見るべきものはほとんどないようであった。立て続けのあて外れに私はムッとしており、こんな所への鉄道が廃止されたのも無理はない、と思った。
 まだ帰りのバスまで2時間以上ある。寿司屋に入って昼食。1500円の上にぎりを頼んだ。うまかったがホッキが入ってなかったので、それだけ別に注文した。そうしたら勘定は2100円になっていたのでおやおやと思った。
 まだ時間が余っているので喫茶店でコーヒーでも飲もうと思ったが、喫茶店などというしゃれたものはこの街にはほとんど見当たらなかった。ようやくひとつ見つけたら閉まっていた。松城のバス停の隣に居酒屋のような定食屋のような食堂があり、コーヒーの看板もあったからそこへ入った。ホットコーヒーを頼むと、マグカップになみなみと注がれて出てきた。この豪快さに免じて、私は松前に対する幻滅をちょっとだけ和らげた。

 帰りは知内駅で下りるわけにゆかないので、バスでそのまま木古内へ戻った。木古内からは特急「はつかり26号」で青森へ。青森発18時05分の「あけぼの」で帰京する。
 「あけぼの」にはB個室寝台がついている。わざわざ奥羽線廻りの「あけぼの」に乗ることにしたのはそのためで、東北線廻りの「はくつる」には個室がついていない。なお、どっちのルートでも、途中下車しなければ切符の上では東北線経由とされる。
 B個室寝台は「北斗星」をはじめ多くの夜行特急に導入されつつあるが、統一された規格というものはなく、それぞれのJRがそれぞれに工夫して作っている。「あけぼの」のB個室は、他のと違って、昔の電車三段式B寝台という、通路の両側に進行方向と平行な寝台が配置されているタイプのものをベースにして設計されているようだった。他の個室寝台車と較べ、一輌の定員が28人と飛び抜けて多い(普通は20人以下)。
 そして、定員が多いだけあって、部屋も飛び抜けて狭い。私は上段の部屋だったが、扉から中を見て、これは一体どうやって入ればいいのかと本気で心配したほどである。他の列車のB個室も、まあ独房という感じの空間ではあるが、「あけぼの」のそれはまさにカプセルホテルの列車版と言うべきものだった。中では「寝る」以外の姿勢はとりづらい。階段の上に、折り畳まれている部分を拡げると寝台が完成する。拡げたあとは本当に寝台以外のスペースはないと言ってよい。よくこれだけ必要最小限のスペースで設計できたと感心する。
 さらに食堂車やサロンカーはもちろん、車内販売も自動販売機もないので、ひたすら「寝るため」の列車である。18時台という時間に出発する列車としてはいささか素っ気なさ過ぎるかもしれない。もっとも、青森からこの列車に乗る私のような人間はそう多くないのであって、たいていは21時近い秋田あたりからの利用となるし、上野到着は7時前であるから、供食サービスは必要ないという考えなのだろう。
 青森駅で買い込んだ「海峡弁当」を食べて、まだ早かったけれど横になった。案外よく眠れた。寝台列車に乗った時の常で、夜中数回眼は醒めたが、気がついてみるともう大宮が近かった。
 やはり北海道への往復は列車に限る。飛行機ではあっけなさ過ぎると思う。

(2001.12.31.)


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