8.親不知の天険


 わりと無鉄砲なところがあって、旅先で危険な目に遭ったことも少なくない。
 もとより、旅に危険はつきものであって、安全の保証された旅というのはそんなに面白いものではない。
 しかし、海外旅行はともかく、国内でそうそう危険なことがあるとは思われないだろう。私は別に、秘境探検をしているわけでもなければ、無法地帯をうろついているわけでもない。普通の鉄路や道路を歩いているに過ぎない。
 田舎へゆくと、さして広くもない道路を、クルマがやたら高速で飛ばしている。歩道も整備されていなかったりして、ある意味では交通事故の危険が都会よりも多い。あの広大な、人口密度の希薄な北海道が、交通事故での死者数では連年ダントツの全国トップを独走しているのでもわかるだろう。田舎道といえども、最近はあんまり安心して旅路を辿るというわけにはゆかなくなった。
 だが、私の遭遇した危険は、そういうことでもない。
 あの時は本当に危なかったと思えることが、少なくとも4回ある。うち2回は旅と言うより登山でのことだから、とりあえず今は触れないでおこう。またいずれ、山の話でもすることがあったら触れたいと思う。
 ここでは、文明に近いところで遭った危険を話すことにする。

 新潟県と富山県の境目近くに、古くから難所と言われている場所がある。
 親不知子不知(おやしらずこしらず)の天険である。北陸道の最大のネックであり、古来多くの旅人が犠牲になっている。戦国の上杉謙信も、これあるがために容易に京へ上ることができなかった。
 北アルプスの山塊が、直接海に落ち込んでいる場所であり、高い崖が海面からいきなり直立している。干潮のわずかな時間だけ、崖を巻いてかろうじて通行できる岩場が顔を見せるが、日本海の荒海ではあり、うかうかしていると高波にさらってゆかれる。旅人は海の機嫌を伺いつつ、急いでそこを通らなければならない。年老いた親や幼い子供にさえ構ってはいられないほどに大変だということから、親不知子不知と名付けられた。
 厳密に言うと、現在のJR北陸本線・親不知駅から、富山寄りの市振(いちぶり)へ向かう途中に親不知があり、新潟寄りの青海(おうみ)へ向かう途中に子不知がある。要するにこのあたりは天険の連続なのだ。
 明治時代になってもこの事情は変わらず、崖の上にトンネルを連ねた鉄道と道路が建設されて、ようやく安全に通行できるようになった。
 この、親不知子不知を訪ねてみようと思い立ったのである。大学2年の夏のことだった。
 
 午後に親不知駅に降り立ち、市振方面へ向かって歩き始めた。しばらくは車道を歩く。そのうち小さな展望台があって、「親不知子不知の像」なるものが飾られていた。若い母親とふたりの幼児の像で、なぜか3人ともみんなはだかなのだが、何か伝承でもあるのだろうか。あるいは象徴的な像なのかもしれない。
 そのあたりから、海辺へと下る小径がついている。下ってしまえば砂浜で、特に道はない。昔の人は砂浜を歩いたのだろう。夏休みのこととて、キャンプしている人がちらほら見受けられる。
 砂浜をしばらくゆくと、だんだん岩が多くなり、歩きずらくなった。そのうちすっかり岩場となってしまった。
 崖がせり出してきている。北陸本線も、国道8号線も、その崖のはるか上をトンネルなどで抜けているのだ。
 ともかく、行けるところまで行こうと思って、岩場をさらに伝った。
 岩場歩きがほとほと嫌になる頃になって、ついに行き当たった。
 崖が行く手を塞いでいる。崖の下はそのまま海面になっていた。
 これでは、容易なことでは通れるものではない。潮の状態はわからないが、干潮でなかったことは確かである。しかし満潮と言うほどでもなかっただろう。
 普通、ここまで来たらそのまま引き返すのが常識的な行動というものである。
 ところが、ここからが私の無鉄砲なところで、先へ進もうと考えた。
 それというのも、本当に崖が海に落ち込んでいるのは、幅10メートルくらいなのである。その先は今居るような岩場が再び連なり、その向こうはまた砂浜になっている。
 実のところ、それまでの岩場がかなりしんどくて、今来た道を引き返す気になれなかったということもある。崖といっても完全に垂直になっているわけではなし、足がかりを見つけて慎重に歩けば、なんとか向こうに渡れるのではないかと思った。
 私は靴を脱いで、ズボンを膝の上までたくし上げ、おずおずと歩み出した。
 その程度では甘かったと思い知ったのは、数メートル進んでからだった。
 海水に浸かった岩肌はひどくぬるぬるした。しかも、予想よりはるかに険しい傾斜で海底へ落ち込んでいる。足を少しでも滑らせたらアウトだ。
 しかもそのあたりは大きな岩が多く、その間をすり抜けた波はかなり高くなっていて、膝どころか、腰までさんざんに濡れてしまった。
 渡り終えてから――その証拠に私はまだ生きているが――ぞっとした。
 一度でも高波が来たら、簡単にさらわれてしまっていただろう。夏場だからよかったが、他の季節だったら……
 やはり、古くから伝えられる難所を甘く見てはいけなかったのだ。無茶をしたものだ。本当に危ないところだったと思う。
 無事だったと思った途端にひどく疲れて、そのあとの岩場や砂浜を歩くのが実に苦しかった。しかもずぶぬれになったズボンが下半身にまとわりつく。
 へろへろしながらそれから4キロほど歩いて、市振の駅にたどり着いた時は心底ホッとした。ズボンを浸した海水が乾くに従って臭気を発し始め、電車に乗ったり、その晩宿に泊まったりする時ひどく気恥ずかしかった。
 今では、親不知沖には北陸自動車道の海上橋がそびえ、昔日の面影はないが、崖そのものはまだそのままのはずである。ここを探訪しようという人は、くれぐれも干潮の時間を調べてからにしていただきたい。

 以上は、後から考えて危なかったと思った話だが、もうひとつの話は、その場でもうダメかと思った経験である。名付けて「大覚野峠・死の彷徨」……次回に廻すことにしよう。 
 

(1998.1.4.)

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