晩春山陰紀行 (2011.7.17〜20.)

●プロローグ●
 小樽に出かけてきます。
 小樽商科大学という学校がありまして、小規模ながら、商科系の大学としては戦前からかなり高いレベルの学校として知られていたようです。卒業生は主に実業界で活躍している他、文学者の小林多喜二伊藤整などもこの学校の出身です。今年で創立100周年を迎えるそうです。
 この学校に、伝統のあるグリークラブがあります。学校自体ともほぼ遜色ない歴史を持っており、OBも相当な数にのぼります。
 川口第九を歌う会の事務局長を務めている人が、このグリークラブのOBで、何年か前に私に仕事を頼んできました。
 札幌でグリークラブの90周年記念演奏会があり、OBが出演することになっているのですが、卒業生の多くはすでに北海道にはおらず、東京近辺に住んでいる人が多いとのこと。それで首都圏勢は首都圏勢で出演ステージの練習をし、最後のリハーサルだけ北海道勢と合同でおこなって本番を迎える、ということにしたのでした。
 ついては、首都圏勢の練習を仕切るための合唱指導者が必要だというわけで、私にお声がかかったのでした。

 本番で指揮棒を握るわけではなく、いわゆる「下振り」という仕事ですが、私も札幌生まれなのでなんとなく親近感を覚え、一も二もなく引き受けました。
 グリークラブのOBですから、皆さん合唱経験はある人たちなのですが、何しろ年齢層がかなり高いメンバーが多く、合唱として音を調えるのにはなかなか苦労しました。
 その90周年演奏会には、残念ながら私は行けませんでした。実はその数週間前だったか後だったかに祖母の法事があって、札幌に行くことになっており、さすがに北海道にそうちょくちょく飛ぶわけにもゆかなかったのです。
 そのあと、首都圏勢だけで、池袋にある同窓会の会館でミニコンサートをやったりしましたが、それでひとまずこのOB合唱団の活動は停止しました。

 一年半くらい経って、また声がかかりました。
 今度は、学校の100周年記念事業として、またグリークラブの演奏会を開催することになったとか。
 それで、再び首都圏勢の指導をすることになったのでした。
 去年のはじめくらいからやっていましたが、最初の頃はペースも月一度か二度で、メンバーの集まりも悪く、全然居ないパートがあったりしました。そんなペースにしては曲数も多く、けっこう手間取りました。
 今年に入って、練習回数を増やし、一回ずつの時間も少し長くしてから、なんとかメドがついた感じです。
 その記念演奏会が、この7月18日(2011年)におこなわれるのでした。

 7月18日は、本来はChorus ST東京都合唱祭に出るはずの日でした。だから今回も聴きには行けないと思っていました。
 が、3月11日の大地震で、東京都合唱祭が開催されることになっていた新宿文化センターが損傷を受けてしまい、しばらく使用停止ということになりました。都合唱祭は全部で5日間も要する大イベントであるため、それから他の場所を探してもそんな日数を確保することができず、とうとう今年は中止ということになりました。都合唱祭は去年まで毎年、五反田ゆうポートで開催されていたのですが、ゆうポートが閉鎖されて使えなくなり、新たな場所に移して早々の不運でした。
 そんなわけで、怪我の功名というべきか、18日の予定が空いてしまいました。
 それなら、小樽に行ってみても良いかな、と考えはじめたのでした。その後、交通費宿泊費も出してくれるという話になり、ありがたく行くことに決めました。

 今晩から発つと言っても、前日入りするわけではありません。飛行機なんぞ使う気はさらさら無いのでして、この春全通したばかりの新幹線に乗って新青森へ、そこから夜行急行「はまなす」に乗り継いで早朝に札幌到着、すぐに小樽に向かうつもりです。「はまなす」にはカーペットカーという、横になれる床席があるのですが、これはすごい人気で、夏休みに入り立てとも言える連休中などは到底確保できませんでした。しかし普通の指定席でも、夜行高速バスクラスのリクライニングシートになっていると聞きます。多客期は普通の座席になるという不気味な噂もありますが……
 明日の午後に演奏会があり、小樽に一泊して、また例によってあまり素直でないルートで帰ってこようと思っています。

(2011.7.17.)

●疾風北上●
 7月17日(日)(2011年)の17時54分、「はやて177号」大宮を出発しました。
 7月9日から新幹線は暫定的な節電ダイヤとなり、列車の間引きやスピードダウンがおこなわれています。私は先月、それを知らずに以前の時刻表を見て特急券を買いに行ったところ、
 「そんな列車はございませんが」
 と言われてしまいました。鉄道好きなわりに、そういうダイヤ改訂のニュースなどには疎くて、時々こういうミスをします。
 間引かれたせいもあるのでしょうが、座席は満席でした。連休ですし、夏休みの入りたてですし、混んでいることは予想されました。「はやて」には自由席が無いので指定券を買って着席できたものの、もし自由席連結であれば私はきっと指定券など買おうとせず、下手をすると坐れなかったかもしれません。大宮の次は仙台、その次は盛岡という豪快な飛ばしっぷりですので、一旦坐れないとけっこう悲惨なことになります。全席指定で良かったというべきか。
 そもそも「やまびこ」の半数以上が仙台止まりになってしまいました。そのためそれ以遠に行く乗客の多くが「はやて」に流れてきたものと思われます。盛岡止まりで仙台〜盛岡間各駅停車という「『やまびこ』みたいな『はやて』」もできてしまいました(そのうち「はやびこ」とでもあだ名されるかもしれません。以前に東海道新幹線で一部区間各駅停車の「ひかり」が走り出した時はさっそく「ひだま」と呼ばれていました
 さて、多少スピードダウンしたとはいえ、走り出せばやはり速いものです。停車時間がずいぶん長くなったようなので、表定時速(停車時間込みの平均時速)は下がったものの、走行中のスピードはそんなに下げていないのかもしれません。見る間に八戸まで走破、そしてこの春に新規開業した区間を走って、21時28分、新青森に到着します。

 私は札幌に母方の親戚が大勢居るせいもあって、どちらかというと北を旅することが多く、青森も何度も通過しています。新幹線があまり好きでなく在来線を利用しがちであったこともあり、青森ともなれば遙けくもここまで来たものだという意識が強くなります。
 それが、夕方にわが家を発って、そう夜更けとも言えない21時半に青森に着いてしまったのではなんだか気持ちがついてゆかず、おれは本当に青森まで来たのだろうかという疑念が湧いて仕方がありませんでした。
 新幹線のプラットフォームからコンコースに下り、さらにエスカレーターを下りると、奥羽線に新設された新青森駅のプラットフォームです。この駅も馴染みがないために、一層気持ちがついてゆかないようです。
 奥羽線のプラットフォームは、都会の駅や私鉄駅によくある島式1面2線で、例えば新大阪駅のような巨大なターミナルではありません。たぶん今後とも、そんなに巨大なターミナルに変貌することは無いのではないでしょうか。開業早々でまわりには街もなく、夜なのでよくわかりませんが田んぼが拡がっているようです。
 しばらくは特急どころか新快速すら停車して貰えなかった新大阪と違い、新青森は全列車が停車し、青函連絡を使命とするようになった特急「白鳥」「スーパー白鳥」もすべて乗り入れてきてここを起終点とするようになり、JR東日本は全力を挙げてこの駅をサポートしている感じですが、どうもちぐはぐです。
 考えてみれば、3年後には北海道新幹線の第一期工事である新青森──新函館間が完成して開業するはずで、そうなると新青森駅はターミナルでもなんでもないただの中間駅になってしまいます。雰囲気のちぐはぐさは、そういう未来予想図にも起因しているかもしれません。

●夜行急行はまなす●
 青森まで1駅、普通電車に乗って移動します。これもまた701系というロングシートの通勤型電車で、都会の駅めいた新青森駅にはよく適っていますが、遠く青森まで来たという実感にはつながりません。4分ほどで青森到着。
 しかし、青森駅の跨線橋を見て、夜風の涼しさを感じると、ようやく気持ちの中の食い違いが、しっくりと落ち着くべきところに落ち着きました。新幹線というのは旅の実感を奪うものだなあと、あらためて思いました。

 さて、青森駅のみどりの窓口で、「札幌・小樽フリー乗車券」なるものを買い求めます。実はここまでも、「北東北・函館フリー乗車券」という切符でやって来ました。目的地まで一直線に往復するだけならともかく、多少の寄り道をしようとすれば、こういうフリーきっぷのたぐいを組み合わせて使うに限ります。いろいろ計算してみたのですが、今回はこのふたつを組み合わせるのが得策と判断したのでした。ただ「札幌・小樽フリー乗車券」は青森地区だけの販売で、首都圏では買えないので、青森に着いてから買ったわけです。これは乗車券機能だけで、ここから乗り継ぐ夜行急行「はまなす」の急行券と指定券はあらかじめ入手してありました。
 「はまなす」は大阪〜新潟の「きたぐに」と共にたったふたつだけ残った定期の夜行急行列車です。以前は各路線にさまざまな夜行急行が走っていて、私も「銀河」「八甲田」「津軽」「まりも」「だいせん」「ちくま」「能登」ほかずいぶんお世話になりました。急行がすごい勢いで削減され、夜行列車もあれよあれよという間に廃止され、その相乗効果で、夜行急行も「きたぐに」と「はまなす」だけになってしまいました。
 このふたつの夜行急行に共通しているのは、連結している車種が多彩であることです。「きたぐに」はA寝台、B寝台、自由席車、グリーン車を連結しています。「はまなす」は寝台こそB寝台だけですが、指定席にはカーペットカードリームカーを備え、そのほかに自由席もあります。夜行列車には、こういうオプションの多さが必要なのであって、夜行特急が寝台車だけになってしまったのは戦略ミスであったような気がします。
 このカーペットカー、以前は青函連絡快速「海峡」に連結されていて好評でした。要するに床席であり、青函連絡船にあった床席をそのまま応用したみたいなものでした。青函トンネル内は景色も見えないことですし、ごろ寝して過ごせるのはありがたかったのです。「海峡」が廃止されて、カーペットカーは「はまなす」だけに連結されるようになりました。こちらは夜行であることもあってエリアを指定されます。「サンライズ」のノビノビ座席とほぼ同じシステムです。
 指定券を買わなければいけないとはいえ、夜行で寝台券も買わずに横になってゆけるのですから大人気で、多客期には発売後数分で売り切れるそうです。私も発売日にカーペットカーを狙って買いに行きましたが、日程上どうしても朝に駅にゆけず、昼になって行ったらとっくに売り切れていました。
 しかし、カーペットカーは取れなくても、まだドリームカーがあります。これは夜行高速バス並みの深いリクライニングをする座席で、からだをほとんど伸ばして寝ることができます。かつて「なは」「あかつき」に連結されていたレガートシートや、最近の高速バスに較べると、独立三列シートになっていないだけ窮屈ではありますが、普通の座席に較べれば天と地です。
 ただ、時刻表の巻末の編成表を見ると、「一般車輌で運転する日があります」と不気味な附記がされていました。それがどういう日かと考えると、やはり多客期なのではありますまいか。すると新幹線が満員だった17日なぞは、もしかすると普通の座席になっているのではないでしょうか。私も若い時はよく夜行列車の固い座席で夜を過ごしましたが、さすがに今になるとつらいなあ……と心配になりました。

 切符を買ったあと、駅前をぶらぶらと散策しているうちに、「はまなす」が入線してきました。ディーゼル機関車に牽引されています。海峡線は電化されているのになぜだろう、と思っていたら、反対側、つまり走行してゆく方向の先頭には電気機関車がついていました。ディーゼル機関車は入線が完了すると切り離されて、どこかへ行ってしまいました。
 自由席だったら今頃目の色を変えて列車に乗り込むところですが、指定席をとってあるので、のんびりと駅に戻りました。
 指定座席車は通例どおりドリームカーになっていたので安心しました。しかしやはり満席だそうです。カーペットカー、ドリームカーはもとより、寝台もすべて埋まっているとか。「はまなす」の存続のためには喜ばしい限りです。しかし新幹線が新函館まで行ったらどうなることやら。
 満席ですから、当然、隣の席にも人が来ます。隣席を含めたその一帯が、どうやら中国人の団体らしいので、少々落ち着かなくなりました。何も武装スリ団なんかを連想したわけではないのですが、途中でトイレに行きたくなった時など声をかけるにも難渋しそうです。
 そのうち、彼らが見ている行程表などが眼に入り、そこに使われている漢字が繁字体であることから、中国人ではなくて台湾人であるとわかりました。それでちょっとだけ安心したというのは、私がいささかネットに毒されている証拠かもしれません。トイレに行く時に言葉が通じないのは同じことなのですから。
 22時42分、「はまなす」は定刻に青森駅を発車しました。

 リクライニングは快適で、これならのびのびと寝られそうです。ただ、座席の上に伸縮式の枕がついていれば良いと思いました。私は座高が高いので、腰が快適なように掛けると、頭がシートの上に出てしまうのでした。飛行機や高速バスについているような、上に引き伸ばせる枕があれば言うことはありません。
 なお、急行料金と指定席料金には、新幹線からの乗り継ぎ割引が適用されて、合わせて880円にしかなりませんでした。湘南新宿ラインのグリーン料金と同レベルです。この料金でこんなに快適な座席に乗れるとは感激です。
 さて、「はまなす」にはひとつだけ困った欠点があります。それは、函館で進行方向が逆になることです。函館は行き止まり駅ですからやむを得ません。
 寝台やカーペットカーであればなんの問題もないのですが、座席の場合は、深夜に向きを変えることになります。いや、変えなくても別に差し支えはないのですが、後ろ向きの走行というのはやはりたいていの人が嫌うらしく、大半は回転させています。
 これが今回は困りました。隣の台湾おじさんに、座席の向きを変える理由を納得させそうにないのです。いっそこのまま札幌まで行ってしまおうかと思ったのですが、順繰りに私の前の座席まで回転してしまい、向かい合わせになってしまいました。
 リクライニングシートは、前の座席の下に脚をつっこむことでからだを伸ばせるのですが、向かい合わせになってしまうとこれが大変窮屈なことになります。対面同士が脚をからませるはめになってしまいます。
 おじさんはその状態になっても、ひざを屈めてグーグー寝ています。時々薄目を開けているようですが、何が起こっているのかよくわかっていないのでしょう。弱ったな、と思いました。
 そのうち、後ろの座席の初老夫婦連れも向きを変えることにしたようです。後ろの座席を回転させるためには、当方のリクライニングを一旦解除しなければなりません。さすがにこの段階になると台湾おじさんも状況を理解したようで、あわてて立ち上がりました。その隙に、私たちの座席も回転させてしまいました。
 「列車があっちに走ることになるから」
 と手真似を交えて説明してみましたが、通じたかどうか。
 函館には23分間停車しています。その間の出来事でした。いっそ走り出してしまえばおじさんの理解も早かったかもしれません。

 なかなか寝つかれない気もしましたし、何度か眼を醒ましたような気もします。しかし、あとから考えると途中停車駅である長万部・東室蘭・苫小牧に全く気づきませんでした。夜行列車の場合、駅に停まった時に眼が醒めるというパターンが多かったのですが、それが無かったのはリクライニングの賜物でしょうか。5時24分の南千歳ではっきりしました。
 南千歳で乗客がかなり下りたのは、空港に行くためでしょうか、それとも石勝線で道東方面に行くためでしょうか。青森から蜿蜒夜行列車に乗ってきたあげくに飛行機に乗り継ぐというのはあまり納得できません。道東方面に行く最初の列車は7時33分の「スーパーおおぞら1号」ですから、2時間以上待たなければならず、ご苦労様というところです。確かに、青森・函館方面から来てこの「スーパーおおぞら1号」に乗るためには、「はまなす」で来るしかありません。
 明るくなった外を見てみると、なんだかあたりが濡れているようです。雨が降ったのでしょうか。ガラス窓に水滴がついていないので、今は止んでいるのでしょう。

●廃駅の哀歌●
 6時07分、札幌着。最近、札幌に行くにしても新札幌で下りて地下鉄に乗ってしまうことが多く、列車でしっかり札幌駅に到着したのは久しぶりな気がします。6時を過ぎていますが、まだ駅周辺が寝静まった感じなのは、休日(海の日)であるせいでしょうか。
 札幌には親戚がいっぱい居ますが、今回は素通りして小樽に向かいます。まあそれにしても、札幌で朝食くらいは済ませていこうと考えていました。
 ところが、地下街はシャッターが下りまくっているし、改札近くのフードコーナーも全部閉まっています。
 大阪や京都に早朝に着いたことが何度もありますが、朝食を食べる店が開いていないなんてことはいちどもありませんでした。たいていの喫茶店が朝早くからコーヒーの匂いを漂わせてモーニングセットを提供していますし、立ち食いのうどん屋なども開いています。残念ながら札幌はまだそこまで街として発達していないようです。人口こそ全国第5位になったものの、こういうちょっとしたところがまだ田舎だったりするような気がします。
 大通あたりまで出れば開いている店もあるかもしれませんが、駅周辺では結局なんにもなく、洗顔だけ済ませてさっさと小樽に行くことにしました。6時51分の電車に乗って、小樽には7時37分に着きますから、そのくらいの時間になればどこか朝食くらいとれる店があることでしょう。

 私の子供の頃は、札幌を出ると桑園琴似手稲銭函とかなりの間隔をあけて駅があったものですが、琴似〜手稲、手稲〜銭函の間にそれぞれ3つずつ新しい駅ができて、このあたりもすっかり国電E電などとは言ってやらない)並みの駅間距離となりました。
 銭函を出ると、次の朝里までが急に8.8キロという長距離になります。この間、線路は海岸に出てずっと波打ち際に沿い、函館線でも屈指の風光明媚な区間となります。現在では札幌への通勤圏に完全に組み込まれているわけで、毎朝この雄大な景色を眺められるこのあたりの勤め人は幸せだと思います。景色の良い通勤路線としては、山陽線須磨浦附近に匹敵するでしょう。もちろん、当の勤め人たちは、景色なんぞいちいち眺めてはいないのでしょうが。
 以前はこの区間に張碓(はりうす)という駅がありました。周辺は海水浴場になっていて、夏などは海水浴客で賑わったものです。ただクルマが通れる道が無く、列車を使うしかなかったせいかだんだん客が減り、海の家の主人が店を畳んでしまうと、もう海水浴場そのものが閉鎖になってしまい、張碓駅を利用する人も居なくなってしまいました。何しろ駅に来る手段が無いのです。並行する札樽国道ははるか崖の上を通っていて、そこからは道が通じていません。そんなわけで、札幌の通勤圏内にありながら張碓は秘境駅として有名になってしまいました。国道側から張碓駅に到達できないかと試した人のレポートがありますが、最終段階ではどうしても防波堤か波打ち際を歩くしかないようで、大変危険です。この人は「線路を歩いて渡らない」という自己ルールを決めて行ったようですが、そこまで安全を心がけない秘境駅マニアが列車にはねられる事故も起きたりして(列車密度は非常に高い区間です)2006年にはついに廃止となりました。
 私は眼をこらして、張碓駅の痕跡を探しましたが、もうプラットフォームも駅舎も完全に撤去されていたようで、車窓からはまったくわかりませんでした。ローカル線の廃駅とは違い、残しておくと危険なために廃止された駅なのですから、完全撤去も当然でしょう。そのうち張碓トンネルに入りました。張碓駅はトンネルの札幌側にあったのですから、万事休すです。

 小樽に着き、早速外に出ました。
 小樽商科大学グリークラブOB会の演奏会は15時からです。昼過ぎまでは全くフリーです。
 それまで何をするかはっきり決めていたわけではないのですが、まず手宮駅跡を訪ねてみようと考えました。手宮は北海道最初の鉄道である幌内鉄道のターミナルで、25年ほど前までは貨物駅として機能していました。今は博物館になっています。実は何年か前にも訪ねたことがあるのですが、年末だったもので開いておらず、涙を呑んで引き返したのでした。
 その時は雪道を歩いて行った憶えがあります。あまりに歩きづらいので、帰りはバスに乗りましたが、歩いてゆける距離であることは確かです。
 道中、朝食を食べられるような店があれば、寄るつもりでした。
 ところが、歩くほどに街外れに向かうようで、飲食店などあんまり見当たらなくなりました。あっても開いていません。ファミリーレストランの一軒も無いので、うんざりしてきました。
 そうこうするうちに手宮に着いてしまいました。手宮駅、いまは「小樽市総合博物館本館」の隣にはマックスバリュがありましたが、中のイートインスペースもまだ開いていないのでした。
 1時間もかからずに歩いてきたので、まだ8時半にもなっていません。博物館の開館は9時半だそうです。朝食をとるだけなら、マックスバリュで何か買っても良いのですが、時間を潰そうというつもりがあったので、どうにも困りました。
 結局、バスターミナルの待合室で、持ってきたパンをかじっただけでこの日の朝食を終えました。まあ仕方がありません。昼食は運河沿いの倉庫街で寿司を食べるつもりだったので、朝はこの程度で我慢しましょう。

(2011.7.21.)

●小樽市総合博物館●
 18日(月)の朝、小樽に到着した私は、手宮駅跡にある小樽市総合博物館に向かいましたが、時間が早すぎてまだ開館していません。うちで留守番をしているマダムに携帯電話でメールを出したり、本を読んだりしているうちにようやく9時半になりました。すぐに博物館に入ります。
 もちろん私は真っ先に入館し、すぐ後続した人も居なかったはずなのに、私の行く手にもう他の客が居るので不思議に思いました。あとでわかったことですが、手宮駅舎の位置に立てられたバスターミナル側の入口はいわば裏口で、正面玄関は反対側なのでした。
 廃駅に造られた博物館だけに、鉄道関係の展示が充実しています。大宮鉄道博物館ほどではないとはいえ、北海道を駆け巡った列車がいくつも屋外展示されており、懐かしさで涙が出そうになるほどでした。ディーゼル急行「ちとせ」、客車急行「宗谷」、ディーゼル特急「北海」などなど、
 「ああ、あったあった」
 とうなづく列車ばかりです。
 「ちとせ」は現在の特急「すずらん」に相当する、室蘭札幌間の急行でした。なお「すずらん」という急行は別にあって、これは函館札幌間のもっと長距離の列車でした。「宗谷」は特急「スーパー宗谷」に格上げされましたが、客車急行時代のほうがずっと重厚で格調が高い印象があります。そもそも函館稚内という長距離急行でした。現在の「スーパー宗谷」に相当する札幌稚内の急行は「礼文」という、いわば「宗谷」にとっては弟分みたいな列車だったのです。
 「北海」は函館旭川を走る特急で、現在はこの区間を直行する列車はありません。しかもこの特急は、函館〜札幌がどんどん室蘭線経由ルートにシフトしてゆく中、最後まで函館線倶知安・小樽経由、いわゆる「山線」ルートを頑固に走り続けた列車で、言ってみれば小樽を通っていた唯一の定期特急なのです(季節特急であればその後も「北斗星ニセコスキー号」などが立ち寄っていますが)。小樽の博物館に展示されるにこれほどふさわしい列車はありません。

 館内に入ると、幌内鉄道の初期に活躍した蒸気機関車「静(しずか)が展示されていました。「義経」「信広」などあった中の一台ですから、名前の由来はもちろん静御前です。
 シリンダーが意外と小さいので驚きました。それに対し、ペチコートか何かに見えるくらい巨大なカウキャッチャーがついているので、スカートをはいた女性のように見えます。静の名も伊達ではありません(義経も同じ形ですが)。
 本州の鉄道が、英国からいろんなものを採り入れたのに対し、北海道の鉄道はアメリカに多くを負っており、このカウキャッチャーも開拓時代のアメリカならではの姿でしょう。牛が線路に侵入して居坐ってしまうというような事故が、当時はしょっちゅう起こっていたに違いありません。
 1階はほとんど鉄道関連の展示でした。2階に上がると子供向けの科学展示などがありましたが、企画展示で「小樽商科大学100周年」というのをやっていたので驚きました。私はまさにそのイベントの一環のためにやってきたのですから。
 このあと小樽の街中を歩いても、ほうぼうに「祝・商大100周年」の垂れ幕や横断幕が下がっていました。この町は商大と共に歩んできたのだな、ということが感じられました。商大の前身である高等商業学校の誘致については、函館と猛烈に競り合った結果勝ちを収めたのだそうです。建設費用は地元の有力者が多くを負担しました。そんなこともあって、町の人々には「われわれが育てた学校」だという想いが強いのでしょう。最近では「雪明りの道」という冬のイベントが毎年開催されていますが、これは商大卒業生である伊藤整の処女詩集のタイトルであり、今回演奏すべく私も1年半のあいだ指導してきた合唱組曲のテキストでもあります。
 私は幸か不幸か東京の大学に学び、町そのものが学校と共に有り共に喜ぶという、地方都市特有の情念を知らずに来ました。芸大の何周年だかで上野の街が浮かれ騒ぐなんてことはとうてい考えられません。そこから考えると、なんだかうらやましいような気がします。

 博物館のすぐ近くにある手宮洞窟は、博物館のチケットがあれば見学できるので、立ち寄ってみました。
 手宮洞窟は続縄文期(本州における弥生〜古墳時代に北海道に残存していた縄文文化の時代)に描かれたと思われる壁画で有名です。一時は文字説もありましたが、現在は絵だろうということになっています。
 岩を見ても、薄いシミのようなものがあるだけでよくわかりませんでした。復元図を見てようやく納得できる程度です。
 角や尻尾を生やした人間みたいなのがたくさん集まっている絵のようです。これがなんなのかはよくわかりません。高松塚古墳とさほど違わない頃の絵だというのに、信じがたいほど稚拙です。いや、それよりもはるかに古いアルタミラ洞窟壁画ほどの描写性すら無い感じです。祭事の時に動物に仮装した人々を描いているのだろうとのことですが、なんだか無理矢理つけたような説明です。「角や尻尾を備えた人型の何者かが、ある時UFOから地上に下り立ったところを描いた」というような説明と五十歩百歩な説得力しかないように思われます。
 縄文期の日本列島は、北海道や樺太までも含めて、意外にダイナミックな人や物の動きがあったということがわかってきています。この絵が稚拙なのを「古代のものだから」と片づけてしまうのは思考停止というものでしょう。たった1600年前です。中国には「書聖」王羲之が活躍していた頃です。内陸部でもない手宮附近に、本州や環日本海地域の文物がまるでもたらされていなかったとは考えられません。壁画の作者は、描こうと思えばもっと写実的でわかりやすい絵を描くこともできたのではないでしょうか。
 それではこれはなんなのか。今後のさらなる研究が待たれます。

●寿司食べ放題●
 運河沿いを歩いて街に戻りました。
 小樽に着いた時は寝静まっているような街路でしたが、すでに活溌に動いています。休日ということもあり、観光客がたくさん訪れていました。小樽名物の観光人力車も何台も駆け回っています。
 運河周辺は何度か歩いたことがあります。ひとりで来たこともあるし、何年か前にはマダムも一緒に来ました。
 運河に面した倉庫のいくつかが、土産物屋や飲食店に改造されて使われています。前にそこで食べた寿司がとてもおいしい上に値段もリーズナブルだったので、この日の昼食もそこでとろうと思ってやってきました。
 通称「寿司屋通り」と呼ばれる一画もありますが、そういうところに行くと高くつきます。倉庫の寿司屋は回転寿司ですが、ネタの活きの良さおよび味は、東京なら一流店並みと言って良いと思います。ただ、三連休の最後の日なので、市場が閉まっていてあまり良いネタは出ていないかもしれませんが。
 前回とは違った店に行ってみました。そうしたらその店が、驚きのシステムだったので、ご紹介いたします。
 普通に食べた皿数で値段を算出するという方法でも良いのですが、「1500円で食べ放題」というコースがあったので、それにしました。この店は120円〜360円の皿が廻っていますが、主力は180円皿と240円皿です。まず8皿食べれば元は取れるな、と計算しました。なお食べ放題コースでは最高値の360円皿は取れません。
 店に入って食べ放題を注文すると、お茶を持ってきたお姉さんが、
 「ちょっと待っててください、いまサービスのお寿司をお持ちしますんで」
 と言いました。サービスのお寿司とは? よくわかりませんでしたが、回転している皿を取らずに待ってみました。
 しばらくすると、お姉さんがひとり用の寿司桶と、じゃがバターを載せた皿を持ってきました。じゃがバターは、

 ──客のおなかをいっぱいにして、寿司をあんまり食べられなくする魂胆か?

 とも邪推しましたが、まあ北海道らしいサービスと見て良いでしょう。
 寿司桶には8貫の握り寿司が入っており、それだけで普通の並盛りくらいの内容です。食の細い人ならこれだけで充分かもしれません。廻っている寿司は、回転寿司の常識通りひと皿に2貫ずつ載っているのですが、寿司桶に入っているのは1貫ずつ8種類。つまり、これで味見をして気に入ったネタを追加で取るとか、ここに盛られていないネタを優先的に取るとかの方法がとれるわけです。
 私は朝ろくなものを食べていなかった(ついでに言えば、前の晩もサンドイッチをつまんだだけだった)ので大いに空腹です。じゃがバターとサービス寿司を平らげたあと、7皿ばかり空にしました。
 満腹、満足で店を出ました。ここはひとつの倉庫をいくつかの店舗が分割して店を出しており、中央部は土産物屋になっています。寿司屋の精算の時、土産物屋で5%引きになるクーポンをくれましたが、先に土産を買ってしまっていたのがちょっと痛恨でした。

 まだ時間があるので、ガラス細工の店などを覗いてみました。小樽と言えば北一硝子ですが、そこではありません。
 そもそも小樽がガラス細工で有名になったのは、もともと漁で使うガラスの浮子(うき)を製造する業者が多かったところから来ています。浮子の材質が強化プラスティックなどに取って代わられたので、手につけたガラス細工のノウハウを、食器や土産物などに応用したのが起こりです。
 いちばん大きくて著名なのは北一ですが、他にも多くのガラス細工店があります。今回私が入ったのは、規模としては北一に次ぐくらいの、大正硝子館という店でした。
 やたらとかさばる荷物を抱えているので、ガラス細工の店では気を遣います。バッグの角が陳列品に触れたりしたら、いろいろと好ましくない事態が起きそうです。緊張しながらしばらく商品を眺め、いくつか土産物を買い、外に出たらホッとしました。

●百周年記念演奏会●
 まだ1時を過ぎたばかりで、時間があるのですが、そろそろ会場の小樽市民会館に向かうとしましょう。朝から歩きづめで疲れましたし、だいぶ汗をかいているので服も着替えたいところです。小樽は前日まで居た川口に較べるとずっと涼しいし、曇天で陽射しも無いのですが、とにかく湿度が異常に高いようです。朝のうち雨が降ったようで、私が着いた頃には止んでいましたが、空気が細かい雨粒を含んでいるかのような重たさで、着ている服もじっとりとしてきます。歩いていると、暑くはないのに汗はしっかりかきました。
 それで会場に向けて歩き出しましたが、小樽という街は「坂の街」でもあります。もともと平地部分などほとんどない土地だったのでしょう。JRの線路より西側になると急激に高度を増してゆきます。そちら側のメインストリートなど「地獄坂」というおそろしげな名前がついていたりします。ちなみに小樽商科大学もその坂のずっと上にあります。バスが無い時代は通うのも大変だったことでしょう。
 市民会館も坂の上にあり、けっこうへばりそうになりながら歩きました。バッグの肩紐が肩に食い込んでくるような気がします。着いたらまずは服を着替え、それから附属しているであろう喫茶室か何かで冷たいものでも飲みながら開演を待つつもりです。
 ところが、着いてみると、確かに飲食店はひとつ附属していたのですが、そば屋でした。酒類はいろいろ置いてあるようですけれども、お茶とか冷たいものとかになると、「ソフトドリンク」と一括してメニューに載せられているばかりで、どうもこれから1時間半以上それだけで粘っていられる雰囲気ではありません。
 周囲には飲食店など一軒も無いようでした。隣に市役所があるのですが、市役所の職員は昼食などどこに食べに出かけるのだろうかと首を傾げたくなるほどになんにもありません。そもそも歩いて昼食に出るなどというのが首都圏の人間の思いこみで、このあたりではみんな気軽にクルマで出かけてしまうのかもしれません。
 仕方なく外の植え込みのところに腰を掛けていたら、ものすごく大きな蚊が飛んできてあたりを飛び回るので、閉口して建物の中に入りました。ロビーなどがあるわけではなく、事務室と狭い廊下があるばかりです。ホールのほうへはまだ入れません。
 トイレがあったので、とにかく着替えをしました。一応演奏会らしく、持ってきたジャケットを着込んだものの、暑いというより蒸して、またたちまち汗が流れてきました。
 事務室の通用口みたいなところに、古ぼけた椅子が3脚ほど置いてあったので、開場時刻までそこに坐って本を読んでいました。開くまで時間があって、他に行く場所も無く手持ち無沙汰に過ごすという状況は、今朝の博物館と同じです。

 開場時刻の14時半になったので、腰を上げてホールに行きました。ホールロビーは大変賑わっています。出演者もロビーに出ていて、首都圏勢が
 「やあやあどうも」
 という感じで挨拶をしてきました。
 招待席に案内されます。他の座席は自由席ですが、招待席だけ指定だったようで、案内してくれた人は手に持った紙片と座席番号を見較べながら、
 「あれっ、えーと……11の20だから、ここを通ると……」
 とまごついています。どうも反対側の通路から入ったほうが良さそうだったので、私は案内を謝し、自分で11列20番の座席に行きました。
 それにしても、開場してから5分程度しか経っていないのに、これだけの人がいつ入ってきたのだろうと思われるほどに混雑しています。ホールのキャパは千以上ありそうですが、すでにほとんど満員という印象がありました。少し早く開けたのかもしれません。
 OB会合唱団、いわば同窓会でもあるので、特にふだん合唱にさして興味はないという人たちも「あいつが出るなら」ということで集まったと思われます。それにすでに見てきたように地元密着の学校なので、学校に直接関係のない人々も聴きに来ていることでしょう。いつも客集めに苦労する立場なので、うらやましい限りです。

 北海道勢と首都圏勢を合わせて、無慮90人になんなんとする大合唱になっていました。男声合唱でこれだけ集まると、さすがに壮観です。全員が出演するのは第1ステージの愛唱曲と第4ステージの『雪明りの道』伊藤整作詩、多田武彦作曲)でした。第2ステージはほぼ北海道勢だけ(首都圏勢は有志のみ)の出演で、ピアノ伴奏をつけたポピュラー物。第3ステージは、この場合賛助ということになるのか、現役のグリークラブによる演奏でした。
 グリークラブは数年前には部員2名という惨状を呈していたそうですが、少しだけ盛り返したようで、今は8名ほどになっていました。しかし8人では男声四部合唱を歌うのは難しいようで、商大の女声合唱サークルである「カンタール」というところと一緒に、混声合唱として活動するのがメインになっている様子です。そのカンタールも部員7名だそうなので、もういっそのこと混声合唱団にしてしまえば良いのにと思いました。グリークラブというのはその発祥はともかく、現在では男声合唱に限定した言葉ではなくなっていますから、女子部員を入れても一向に構わないのではないでしょうか。
 指揮者はやはりOBの一員で、専門家を雇っているわけではありませんでした。私より少し歳上くらいなOBと、少し歳下くらいのOBがその任に就いていました。
 「前日のリハーサルの時、私も行ったほうが良いでしょうかね?」
 と事前に訊ねた時、
 「さあて、あっちの指揮者が、ちょっと神経質な人なんで……」
 と、暗に来ないでくれと言われましたが、まあ「学生指揮者のOB」が振っているところへ、一応専門職である私が顔を見せていては、嵩高(かさだか)な感じがしてイヤなものでしょう。なおこのグリークラブは、ヴォイストレーナーを雇っていたことはあるようですが、常任指揮者を置いたことは無さそうでした。

 北海道勢と首都圏勢は、前日のリハーサルと当日朝に合わせただけですが、けっこう息が合っていました。指揮者のテンポ設定などが、私とは少し違っているところがありましたが、それでも首都圏勢がちゃんとついて行っていたので、まあまあホッとしました。
 こちらで練習していて、どうにも難しく、歌いづらいところがいくつかありましたが、その部分はやっぱり難しそうな、歌いづらそうな演奏になっていて、その点は思わず苦笑してしまいました。
 だいたい『雪明りの道』という組曲は、多田武彦のかなり若い頃(昭和35年)の作品で、それだけにあれこれと実験している部分が多いのです。1曲目、3曲目など、いかにもなタダタケ節が見られるところもありますが、2曲目や5曲目などは、全音音階を使ってみたり、リズム型に凝ってみたり、あまりその後の多田作品には登場しなくなった要素が多用されています。演奏するほうにとっては、かなり難易度の高い作品と言って良いでしょう。アンコールに、前回のグリー90周年の時に歌った多田作品『吹雪の街を』(やっぱり伊藤整作詩)の終曲をやるというので、東京でも数回練習しましたが、『雪明りの道』に較べるとはるかに整理されて、歌いやすく書かれており、やはり作曲者の成長というものがあるのだなあと納得したものです。
 難しいところは少々崩壊気味だったとはいえ、そういう部分は曲そのものが実験的に書かれていて、知らない人が聴いたら崩壊気味とはわからなかったろうという点は、まあ救いと言うべきでしょうか。いずれにしても練習ペースに対して曲数が多すぎたきらいがあります。もう少し一曲一曲に時間をかけたかったところです。

 ともあれ大拍手の中に演奏会は幕を閉じました。演奏そのものよりも、このグリークラブとこの大学が、小樽という土地と本当に共生しているのだなあという実感が、私にとっては感動的でした。
 レセプションにも招待されていましたが、一旦失礼してホテルにチェックインしてきました。ホテルは駅のすぐ側です。
 盛り沢山のプログラムだったため、終演は17時半近くなっていて、レセプションは18時半からでしたので、実はそんなに時間がありません。ホテルまでの移動、レセプション会場までの移動は10分とか15分を要します。だから本来、荷物を置いたらすぐ出なければならないくらいのタイミングだったのですが、私はどうしたわけか、1時間間違えて認識していました。まだ16時台のような気がしていたのです。ちゃんと17時台を指している腕時計を何度も見ながらそう思っていたのだから、思いこみというのはおそろしいものです。
 荷物を置き、着替え、ついでにシャワーを浴びて下着の洗濯までやって、さてとばかりに時計を見たら、もう18時半をとっくに過ぎていました。泡を食って飛び出しました。
 レセプションでは当然酒を勧められます。何しろ次から次へとビールを注ぎに来て、いちいち飲めないことを断るのも面倒ですので、こういう場合はひと口だけ飲んでそこへ注いで貰うことを繰り返しているのですが(「まあ、まずそこにあるのを飲み干して」などと強要する人が最近減ったのはありがたい限りです)、今回はそれだけでもけっこう酔ってしまいました。
 私が飲めないことを知っている首都圏勢の世話役の人が、宴がはねた後、
 「ちょっとそこらでお茶でも飲んでいきましょう」
 と誘ってくれたのですが、まだ20時半頃というのに商店街はおおかた閉店していて、ついに駅に着くまで一軒の喫茶店も見当たりませんでした。まあ地方都市に来るとこんなものかもしれません。その人は宿が札幌なので、やむを得ずそのまま駅で別れました。

(2011.5.4.)

●然別駅の静寂●
 7月19日(火)の朝は、小樽発8時07分の列車で発つつもりでした。
 ところが、私は旅に出ると不思議と早寝早起きになってしまうたちで、早朝5時半くらいには眼が醒めてしまいました。
 8時07分の列車より前に、6時11分の蘭越(らんこし)行きと、7時06分の然別(しかりべつ)行きがあります。どちらも途中止まりで、それより先に行くにはやはり8時07分発のに乗らなければならないのですが、このまま小樽でだらだらしているよりも、途中駅まで行って待ったほうが面白いかもしれないと思い始めました。
 洗顔や上厠などしていたら、6時11分にはちょっと間に合わない時間になってしまいました。7時06分に乗るつもりで宿を出ます。
 然別というのがどんなところなのか全然知りません。列車に乗って停車したことはあるはずですが、まるで記憶がありません。そこで53分ばかり待つことになりますが、街があるなら少し歩いてみるのも楽しそうです。朝なので店もそんなには開いていないでしょうが、知らない街を歩くのは好きです。
 前日のように朝食を食いっぱぐれないため、前の晩ホテルに帰る前に、駅のキオスクでおにぎりをふたつ買っておきました。
 7時06分の列車は、前日「はまなす」からすぐに乗り換えたなら札幌で乗っていたはずの列車でした。電化されているのは小樽までなので、それより先に行くこの列車は電車ではなくディーゼルカーです。2輌編成でした。

 小樽を出ると、数分は街の中をゆきますが、ほどなく鬱蒼とした木立の間を走るようになります。駅間距離も急に長くなり、10分近く走り続けてようやく隣の塩谷駅に到着します。
 それでも3つめの余市くらいまでは、まだ都市圏という雰囲気はあります。このあたりから札幌へ通勤している人も珍しくはなく、余市ですれ違った札幌行き快速「ニセコライナー」はすでにかなり混雑しているようでした。ちなみに余市と言えばニッカウヰスキーの本拠地です。水産加工会社に勤めていた叔父がしばらく余市に住んでいたことがあり、私も訪ねたことがあります。
 余市を過ぎると、いよいよローカル色が濃厚になってきます。次の仁木はまだ街らしきものがあるようで、列車に乗っていた客が私を除いて全員下りてしまいましたが、さてその次が終点然別です。7時50分到着。

 たったひとり下り立った然別駅は、絵に描いたような山間の小駅でした。
 かつては駅員がいたはずですが、今は当然のように無人駅になっています。ほとんど小屋のような駅舎は、狭い待合室とトイレくらいしか機能していません。小用を催したのでトイレに入ってみたら、いまどき珍しいボットン式の便所でした。それでもほとんど臭気を感じなかったのは、使う人がほとんど居ないからでしょう。
 駅前には一応広場がありましたが、店などは見当たりません。いや、一軒だけ店舗らしき建物がありましたが、窓から見える商品棚には商品がただの一品も並べられておらず、どう見ても廃業したとしか思えません。
 左手のほうにわりと新しい建物があるようなので、ちょっと覗きに行きました。「since2000」と壁に書いてあります。10年ほど前に新築されたもののようです。近くに行くと、なんのことはないただのアパートでした。アパートと言っても1階建てなので、もっとふさわしい名称で呼ぶとすれば「長屋」です。
 線路に並行して道路がありますが、函館線と同じ役割を持つ国道5号線ではなく、支線の道道(北海路)に過ぎませんでした。その道に沿って、数百メートル程度に渡って家がまばらに立ち並んでいます。商店と呼べるものは、簡易郵便局を兼ねた一軒だけで、もちろんこんな時間ではまだ開いていません。
 あとは、公民館みたいなのがひとつ。
 見事になんにも見どころがない駅で、どうやって時間を潰したものかと途方に暮れました。
 集落の外れのほうに神社を見つけたので、他にすることもないし、ちょっとお詣りしようと思いました。ところが参道は荒れ果てていて、一歩ごとに蜘蛛の巣にひっかかり、フキの葉みたいなのをかき分けかき分け歩かなければなりませんでした。社には紐はついていたものの賽銭箱も無かったので、形ばかり手を合わせて早々に退散しました。

 ──もう少しきれいにしておけよ、だらしのない氏子だな。

 と腹を立てましたが、そもそも氏子自体がもうほとんど居ないのかもしれません。

 20分足らずで集落の探訪は終わり、駅の待合室に舞い戻りました。まだ40分近くあります。
 無人駅の待合室は、落書きがたくさん書いてあることが多く、それを読むのはそこそこ時間潰しになります。然別駅の待合室にもいろいろ書いてありました。
 予想はされましたが、「なんにもない駅!」「次の列車まで何をしていればいいんだ?」というような内容の落書きが多く、思わず苦笑しました。「なんでこんな駅が終点なんだ?」という落書きに、「折り返しができるからだよ」と答えている落書きもありました。
 そんな中、「きのこ園に行ってきのこ食べてきた。うまかった。まさに途中下車の旅。おれって時間の使い方うまい!」という落書きがありました。ご丁寧に、「きのこ園」への地図まで書いてくれています。前の道道を、さっきの神社のさらに先へ行くと線路を横切っているのですが、そのもう少し先にあるらしい。様子からすると10分も歩けば着くようです。「食べてきた」とあるからにはその場で食べさせる施設もあるのでしょう。
 今から行くにはちょっと時間が足りませんし、そもそも8時台ではまだ開いていないでしょうが、こんな貴重な情報を与えてくれる落書きも、時にはあるのでした。

●函館線の悲哀●
 私がうろうろしている間、集落はほとんど寝静まっているかに見えましたが、列車の時刻が近づくと、どこからか人が集まってきました。
 私は8時43分の長万部行きに乗るのですが、そちらのプラットフォームに渡ったのは私ひとりでした。あとの人たちは、それとすれ違う、8時42分の小樽行きに乗るようでした。それはそうだろうな。長万部行きは、朝の時間帯ではいわば逆向きなのです。
 長万部行きの列車は、単行(1輌だけ)のディーゼルカーでした。列になってないのに列車と呼ぶことに違和感を覚える人も居そうですが、法規上はそう呼ぶことになっています。
 然別から長万部までは距離にして112キロほど、それを2時間半ばかりかけてのんびりと走ります。閑散区間で、この距離と時間のあいだ、対向列車とすれ違うのは2回だけ(倶知安・蘭越)です。古い路線なだけに駅はどれもそれなりに風格があり、すれ違うための線路も各駅に設置されているのですが、平均8.6キロという長い駅間距離であるため、すれ違いのタイミングがあまりうまくゆかず、倶知安でも蘭越でも10分近く停車していました。
 蘭越から熱郛(ねっぷ)の間がいちばん寂しいところで、一日に6往復半しか列車が通りません。この状態だと、新幹線が開通したら、函館線の長万部〜小樽はたぶん廃止になるでしょう。第三セクターにもならないと思われます。
 だいたい北海道というところは、東北地方と違って、元から鉄道にさほどの執着を持たない土地で、国鉄時代には大量にあった赤字路線が、さしたる沿線住民の反対運動も無く、あっさりと全滅してしまいました。唯一第三セクターとして残った池北線ふるさと銀河鉄道)も、第三セクター鉄道初の廃業というあまり名誉でないタイトルと共に無くなってしまっています。道庁や周辺市町村が、函館線の存続のために出資するとはとても期待できません。かつて特急「北海」が走ったこの区間、もしかしたら今回が乗り納めになるかもしれません。

 困ったことに、ローカル線に同情心のある私にとってさえも、このあたりの函館線の車窓はいささか退屈で、五能線のように風景のすばらしさでお客を集めるのも無理そうです。
 行けども行けども密集した木立の中を走り続けるだけで、スリリングな渓谷なども無いし、雄渾な大河に沿っているわけでもないし、美しい山容が眺められるわけでもありません。森林を外部から眺めるわけではないので、たぶん紅葉なども大して見られないことでしょう。前に真冬に通ったことがありますが、その時期のほうがまだ、葉が落ちて見通しが利くのでましだったかもしれません。
 函館線最高の景色が、こうした閑散区間ではなくて、通勤路線と言って良い銭函海岸附近だというのは、なんとも皮肉と言わざるを得ません。
 蜿蜒と続く緑のカーテンにいささか飽きてきた11時13分、長万部に到着しました。

 長万部から函館までは、日程的に特急を使わざるを得ませんでした。特急のほうがずっと本数の多い区間で、鈍行を待っていると2本の特急をやり過ごさなければなりません。また、私の持っている「札幌・小樽フリー乗車券」は、フリー区間は何度でも乗り下りができますが、そこまでの往復経路では途中下車ができない設定になっています。つまり長万部駅では改札を通って外に出ることができないのです。プラットフォームで2時間待っているのはさすがに物憂いものがあります。
 特急に乗る際は特急券を買わなければならないのですが、やむなく、16分後に到着する特急「北斗8号」に乗り込みました。
 単行ディーゼルカーにのんびり揺られてきた身からすると、特急は実に速いものです。八雲に停まり、に停まり、大沼公園に停まり……と、停車駅は昔の急行並みですが(昔の特急はそもそも長万部などに停車しませんでした)、小さい駅を次々と通過し、痛快な気分になります。
 長万部〜函館の渡島半島部分は、噴火湾沿いを走ることが多く、景色も悪くありません。銭函海岸のように断崖絶壁が頭上にそそり立つ迫力はないものの、自然のままの丘陵がゆるやかにうねっている附近の様子は、下北半島に共通する寂しさを漂わせており、それなりに胸を打つ光景ではあります。
 海岸沿い以外のところでも、駒ヶ岳大沼など、車窓の多彩さにはことを欠きません。青函連絡船のあった頃、本州から列車と船を乗り継いで来た旅人たちは、大沼の艶姿と駒ヶ岳の雄姿をまのあたりにして、北海道へ足を踏み入れたと実感したものです。
 それを思うと、実質ローカル線の閑散区間である長万部〜小樽の車窓が、どうにも退屈だというのが、まったく惜しまれてなりません。

 函館には12時51分に到着しました。
 朝食がおにぎりふたつだけだったので、そろそろ空腹を感じます。次に乗る木古内行き鈍行は13時15分発で、それほどの余裕はありません。
 上述の通り、フリー乗車券は、往復の途上で途中下車することができません。函館でも改札を出ることはできないわけです。それでプラットフォームで駅弁でも売っていないかと探してみました。
 「北斗8号」が到着したプラットフォームに、駅弁売りのブースはあるのですが、閉まっています。終点に着いた列車から下りた客が駅弁を買う可能性は低いので、それも無理はないかもしれません。
 隣のプラットフォームに、1時間ほど後で出る特急「スーパー白鳥34号」が停車していました。発車時間はまだ先とはいえ、出発する列車のプラットフォームであれば駅弁売りも居るのではないかと思い、そちらに移動しました。
 残念ながらそちらの駅弁ブースも閉まっていましたが、駅そば屋が開いていたので、そこでそばをかっこみました。朝はおにぎりで昼は駅そばでは、少々おなかの中が心許ない感じですが、仕方がありません。
 そのあと江差線乗り場に行ってみると、木古内行きのディーゼルカーにはもうだいぶ客が乗り込んでいました。江差線は青函連絡線の一部となって特急が多数行き来する路線となりましたが、本来はローカル線で、鈍行に乗ればその風情も充分に味わえます。しかし、上磯あたりまでは函館の都市圏内と言って良く、最近は新しい駅もいくつか設置されて利用しやすくなり、乗客も増えているようです。東計根別駅など、新しい団地の真ん前にありました。
 沿線の景色も、木古内までは海沿いを走るところが多く、風光明媚と言えます。特に湾を挟んで対岸に函館山を望むあたりは絶景と言って良いでしょう。海峡線の特急などに乗ると、居眠りしたまま通り過ぎてしまったりしがちですが、この景色を楽しまないのはもったいないと思います。

●本州への帰還●
 上磯を過ぎると、いよいよローカル色が濃くなってきます。渡島当別(おしまとうべつ)で行き違いのためしばらく停車しましたが、ここの駅舎は実にかわいらしくて驚きました。駅そのものが郵便局を兼ねているようです。切符を集めたりするのも郵便局員の委託かもしれません。
 木古内には14時28分に到着し、6分後の特急に乗り継ぎます。先ほど函館駅に停まっていた「スーパー白鳥34号」です。函館を発ったのは当方より41分後ですが、こちらが単行ディーゼルカーでのんびり走っているうちに追いついてきたわけです。
 現在、海峡線木古内蟹田(正確には中小国)間には特急と「はまなす」しか走っていません。以前は快速「海峡」が頻繁に往復していたのですが、なぜか一挙に廃止されてしまいました。フリー乗車券には特急券が含まれていませんが、この区間だけは特急以外に乗ることが不可能なため、自由席に限り特急券無しで特急に乗れるようになっています。私は余分な予算を使いたくなかったため、この区間だけを特急に乗ることにしたのでした。当然青森まではゆかず、蟹田で下車します。
 木古内駅の裏手では、何やら大がかりな土木工事がおこなわれていました。明らかに新幹線の駅を作っているのでした。新青森新函館間に、途中駅として木古内だけ作られることになっています。3年後の開業を目指し、工事は急ピッチで進められています。
 江差方面への線路と別れた海峡線は、急に立派な複線となります。海峡線は新幹線と共用できる規格になっており、すでに仮の標準軌レールも置かれていました。スピードを出す路線であるため、かつての小田原箱根湯本間のような三線軌式では偏心があって危険であり、狭軌の在来線のレールの外側に1本ずつレールを配置する四線軌式になるようです。
 「スーパー白鳥」の座席の背には、トンネルの案内図が掲示されていました。どの列車が何時何分頃にトンネルに入り、何分に最深部に達し、何分にトンネルから出るのかというデータが細かく表示されています。橋と違ってトンネルというのは暗いばかりで退屈なものですから、こういうデータがあると少しは愉しめそうです。
 それを見ると「スーパー白鳥」はわずか30分足らずで青函トンネルを走破してしまうようで、驚きました。速いのも道理、踏切などが全く無くどこかからクルマが入り込んでくるようなこともないトンネル内では、最高時速160キロで走ることが認められています。ほくほく線と共に、在来線で最高の速度を出せる区間なのです。考えてみれば新幹線はそのまた倍くらいのスピードを出すことになるわけで、この長いトンネルを10分少々で走り抜けてしまうはずです。まったく技術の進歩というのは空恐ろしいものがあります。

 15時21分、蟹田着。「札幌・小樽フリー乗車券」はここでも改札を出られませんが、もうひとつ持っている「函館・北東北フリー乗車券」で出られます。後から考えると、こちらを使えば函館でも下車できたことに気がつきましたが、まあ時間もあまり無かったので改札を出る余裕はありませんでした。蟹田では後続の鈍行まで40分ほどありますから、外へ出てみます。
 さすがに特急停車駅ですから、然別みたいなことはなく、駅前広場には町営の休憩所や物産館などが建ち並んでいました。商店街というほどのものはまだ無いようですが。
 このあたりはいくつかの町村が合併して「外ヶ浜町」という自治体になっています。ところが、駅前にでかでかと掲示された観光地図を見ると、この外ヶ浜町、完全にふたつに分断されているようです。間に挟まった今別町が、どうしても合併を肯んじなかったものと思われます。今別町も合併すれば「市」になっていたのかもしれません。
 竜飛岬のある旧三厩村の部分が飛び地となっているわけですが、飛び地と言うにはあまりに大きいようです。平成の大合併では、いくつか分断された市町村が生まれましたが、こんなにざっくりと分断されたところは少ないのではないでしょうか。
 駅前から少し歩くと国道に出て、そこから家並みの間を抜けると陸奥湾が拡がっていました。こんなに海に近い駅だったとは知りませんでした。防波堤のところまで行ってみましたが、おそろしく風が強く、手にした携帯電話を海に吹き飛ばされそうな勢いだったので、あたふたと国道に戻り、そこにあったコンビニでちょっと買い物をしてから駅前に戻りました。あとは物産館などを覗きながら時間を潰します。
 少しダイヤが乱れていたようで、そういえば私の乗ってきた「スーパー白鳥34号」も、蟹田駅からなかなか発車しませんでした。対向列車が5分ばかり遅れていたようです。それがまだ尾を引いていて、鈍行もこの駅で少し待つとのことでした。
 しかし、途中の行き違い駅での停車時間を切りつめることで、青森に着く頃にはほぼ回復していました。

 このまま新青森に出て、新幹線で帰ってしまえば話は簡単なのですが、それではせっかくのフリー乗車券がもったいないと思い、例によって素直でない帰りかたを画策しました。
 新幹線が延長されたことで、東北本線八戸青森間が青い森鉄道に移管されました。これで東北本線は先端が完全に切り詰められ、東京盛岡という路線になりました。青い森鉄道は急に路線規模が拡大し、延長距離121.9キロを有する、全国でも有数の規模の第三セクター鉄道となったのでした。この新生青い森鉄道を、一応踏破しておきたいと思いました。
 それで、この日は八戸まで行って泊まることにしたのでした。その気になれば盛岡まで行けますが、暗闇の中を走ることになってあまり面白くありません。翌日は多少観光らしいこともするつもりですし。
 17時49分青森発の快速電車に乗りました。青い森鉄道は、青森〜八戸間に何本かの快速を走らせています。この区間が移管されたことで、ついに出現した「他のJR線とどの駅でも全く接していないJR路線」大湊線に直通する快速も走っています。
 以前はIGRいわて銀河鉄道と共同で、盛岡〜八戸の快速電車も4往復くらい走らせていたのに、いつの間にかやめてしまいました。これがあれば盛岡以北では無理して新幹線なんか乗らなくても良いと思えるほど痛快な走りっぷりの快速でしたが、利用者が少なかったのでしょうか。別の企業体になった以上、新幹線に遠慮する必要はないはずです。現在盛岡〜八戸では、大幅に停車駅を増やした快速が片道1本だけ走るのみになってしまいました。
 青森〜八戸間はそれよりは頑張っています。快速電車は最初のうち、東青森小柳矢田前と各駅に停車してゆきますが、そこからは通過運転を始めます。いきなりかっ飛ばし始めたので思わず笑みがこぼれました。
 東北本線の盛岡以北というのは、昔から列車がスピードを上げる区間です。この区間を走っていた特急「はつかり」(当時、上野〜青森)と急行「くりこま」(当時、仙台〜青森)は、常に在来線最速列車の栄誉をほしいままにしていました。「くりこま」などその頃のたいていの特急よりも俊足で、鉄道ファンたちの称賛を浴びていたものです。線形が良くて、高速を維持できる区間が多いのでしょう。もともと原始林や湿地帯ばかりの中に敷いた路線だけに、建物や地形などによって線形を制限されることが無かったものと思われます。
 そこを走るのですから、快速電車といえども驚くべき俊足ぶりを見せます。速度計を見たわけではありませんが、かなり長いこと時速100キロ以上は出していたはずです。

 浅虫温泉までは夕陽が見えていたのに、そこからひとつトンネルを抜けると急にすごい濃霧になりました。夕闇というようなものではありません。景色はおぼろに見えるだけになり、深まってゆく暮色とあいまってひどく幻想的な雰囲気が漂います。その中を、俊足の快速電車はスピードを落とすこともなく突っ走ります。
 気分は最高近かったのですが、画竜点睛を欠くのは、この電車がロングシートの通勤型であったことです。こういう車窓は、クロスシートに坐ってじっくりと眺めたいものです。
 聞くところによると、地方へ行くと、「このほうが都会っぽい」というのでロングシート車輌が好まれる傾向があるというのですが、どうなのでしょうか。JR東日本がやたらとロングシート電車を投入しているからと言って、第三セクター鉄道がそれにおもねることもなさそうに思うのですが。

 八戸着19時05分。96キロを76分で駆け抜けたのですから、表定速度は75.8キロ、停車駅が多いわりには立派なものです。かつての特急停車駅とあまり変わらなくなる浅虫温泉〜八戸だけを見れば表定時速81.5キロで、ありし日の「はつかり」に迫る数字です。
 八戸駅前はこぢんまりとした町並みとなっています。八戸市の中心部は、ここから支線の八戸線に乗って2駅行った本八戸駅周辺にあり、八戸駅のほうは駅があるために少しだけ街ができたという程度です。そもそも当初の八戸駅というのは本八戸のほうで、いまの八戸は尻内という駅でした。
 新幹線が通っても、駅前の賑わいはさほどのこともありません。西口側などはごく閑散としていますし、一応繁華な東口側でも申し訳程度の商店街があるだけです。
 小樽と同じく、駅からすぐ近くのホテルを予約していました。昔は行き当たりばったりで宿をとっていたものですが、晩にその土地に着いて宿を探し歩くというのは気分的にわびしいものですし、何よりもネットを通して予約すると割引になったりすることが多く、旅費が安くつくのが魅力で、今はたいてい宿の予約だけはしてゆきます。このホテルも、ネットのポイントが使えたせいもあって、えらく低料金で泊まれました。
 駅前に寿司屋と飲み屋を合わせたような店があったので、そこに入って夕食をとりました。ホッケの焼き魚定食と、八戸名物のせんべい汁を食べました。朝食・昼食のお粗末さを顧みれば、夕食くらい少し奮発してもバチは当たりますまい。それでも合わせて1600円と、さほどの出費にはなりませんでした。
 ホテルの部屋は八戸駅に面しています。かなり遅くまで、新幹線の汽笛が聞こえていました。

 (2011.7.23.)

●十和田観光電鉄●
 20日(水)の朝食は、ホテルでしっかり済ませました。最近は朝食付きのビジネスホテルが多いので助かります。以前は朝食が提供されるにしても別料金だったりしましたが、この頃はずいぶん低料金の宿でも無料朝食があったりします。もちろん簡単なものではありますが、朝食からそんなに大御馳走を食べるつもりもないので、不足はありません。味付け卵とジャーマンポテト、ソーセージにサラダ、それにいくつかのパンを食べて、チェックアウトしました。
 駅前広場の角のところにパン屋があって、いま食べてきたパンと同じような種類のものを売っているようでした。なるほど、ここから仕入れているのか。
 八戸駅では、まずコインロッカーに荷物を預けました。午後にこの駅まで戻ってくるつもりなので、大きな荷物は預けてしまったほうが動きやすくなります。手回りの手提げだけ持って、三沢行きの電車に乗り込みました。
 三沢からは、十和田観光電鉄というローカル私鉄が出ています。もう30年くらい前にいちど乗ったことがありますが、今回もういちど乗ってみたいと思ったのでした。
 三沢は八戸より青森寄りにありますので、前日に通ってきた道を逆行することになります。フリー乗車券があるので逆行するのは問題ないにせよ、三沢に泊まらずに八戸に宿を取ったのは、十和田観光電鉄で往復するつもりはなく、八戸にバスで直接戻るルートを考えていたからです。

 三沢駅の改札を出て、十和田観光電鉄の乗り場に向かいました。古い商店みたいな建物に入り、薄暗いそば屋の脇を通り抜けた先に切符売り場と改札口があります。なんだか嬉しくなるほどに典型的な「ローカル私鉄のターミナル」という雰囲気です。
 券売機の隣に、沿線住民の利用をうながす貼り紙が貼ってありました。ご多分に漏れず、年々利用者が減っているようです。

 ──学生の足 お年寄りの足 十鉄を守りましょう

 とあります。乗る人は学生とお年寄りばかりなのでしょうが、学生も少子化で減りつつあると思われます。この線の沿線は、新幹線が通ったからと言ってさほど活性化するとも考えられません。ローカル線共通の悩みですが、廃止などということにならないことを祈ります。
 プラットフォームに出ると、明らかに東急の車輌とわかる2輌編成の電車が停まっていました。最近は地方のローカル私鉄に乗りに行くと、東急とか京王とか営団(現メトロ)とかのお古の車輌を、あんまり手を加えずにそのまま走らせているケースが多くなりました。新車を作るよりはずっと安上がりですし、ステンレス車やアルミ車はもともと塗装の手間が要らないように作られているので、自社カラーに塗り直すということもしていません。旅先で昔なじみに遇ったみたいなもので、愉快ではあるのですが、反面地方色がなくなって残念にも思います。
 乗っているのはほとんどが中高生でした。両端含めて11個の駅の中に、「三農校前」「工業高校前」と高校の名称を冠した駅がふたつもあり、さらに「北里大学前」も含めれば学校関連は3つになります。ほとんど通学電車と言って良さそうです。

 高校生の頃に乗った時、十和田観光電鉄の電車はいやに揺れがひどくて、走行音がうるさい印象があったのですが、東急の車輌を入れただけに、乗り心地は池上線あたりに乗っているのと違わなくなりました。
 3つめの七百(しちひゃく)が唯一の行き違い可能な駅で、車庫もあります。車庫の中には昔懐かしい東急の「芋虫電車」──青緑色のレトロな電車が格納されていたので驚きました。塗装がいやに鮮やかなので不思議に思いましたが、帰ってから調べたところ、現役時代は十和田観光電鉄独自の塗装で走っていたのが、2002年に引退する時に元の青緑色に戻されたのだそうです。今は一般営業運転には使われておらず、イベント用になっているようです。
 七百を過ぎると、あとの駅は終点の十和田市を含めて、全部単線の片面駅でした。また駅間距離も短くなります。
 古里(ふるさと)という佳い名前の駅を過ぎると、次が三農校前です。駅のすぐ前が学校でした。電車内の女子生徒はここで全員下車しました。残っている男子は工業高校の生徒でしょう。
 ところで「三農校」というのは、私はてっきり「青森県立第三農業高校」の略だとばかり思っていました。というのは、五所川原から出ている津軽鉄道にも「五農校前」という駅があるからで、こちらは「第五農業高校」なのだろうと思ったわけです。ところが、学校のプレートを見ると、意外にも名称は「三本木農業高校」でした。「三沢」ですらなかったのが驚きですが、十和田観光電鉄の駅で三沢市に属しているのは三沢だけで、このあたりは六戸町になります。三本木というのは、この一帯を指す古い広域地名なのでした。
 すると、津軽鉄道の「五農校前」も、「第五」ではなく「五所川原農業高校」なのでしょう。長年の勘違いを正すことができました。
 北里大学がこんなところにあるのも意外でしたが、獣医学部がここだとのこと。北里大学前で下りた乗客はほとんど居ませんでした。大学生は電車など使わず、みんなクルマで通学しているのかもしれません。
 工業高校前で残る生徒たちも下りて、車内はすっかり静かになりました。そこからふたつで、終点の十和田市です。三沢から14.7キロ、所要時間は26分でした。

 十和田市駅は上述の通り単線片面の駅です。引き込み線すら一本も無く、伸びてきた一本だけの線路の傍らにプラットフォームがあって、線路はその先で行き止まりになっているだけという、なんともそっけない終着駅なのでした。
 線路に並行して道路がありますので、プラットフォームからその道に直接出れば簡単なのですが、そうはなっておらず、突き当たりに階段があります。階段を昇ると道路を跨ぐ渡り廊下となり、反対側に建つ大きな建物につながっています。改札口はその建物の2階にあるのでした。
 この建物は電鉄直営のショッピングセンターでした。「でした」と過去形で書いたのは、さまざまな経緯があった末に、現在では閉店してしまっているからです。数年前には再開発を計画したもののそのディベロッパーも倒産してしまい、宙に浮いた状態になってしまっています。今年3月にようやく引き受け手が名乗りを上げたようですが、まだ話はあんまり進んでいないらしい。
 つまり十和田観光電鉄は、十和田市駅に下り立った乗客を、強引に直営のショッピングセンターの中に誘導し、買い物をさせようと図ったのでした。あざといやりかたに思えますが、こういうことは多くの私鉄がやっています。阪急梅田駅、京王渋谷駅などが有名ですが、ターミナルが手狭になったなどの口実で位置を後退させ、その跡に商店街や駅ビルを作って利用者に無駄遣いさせようという目論見で、規模こそ違いますが十和田観光電鉄のやっていることと本質的には同じです。
 鉄道会社の増収策としてうまい手口のように思われたのでしょうが、利用者にとってはそれまでより長く歩くことを強いられ、バリアフリーにも逆行する施策であって、おおむね評判は良くありません。思ったほどの増収になっていない場合が多いようです。
 大手私鉄の都会のターミナルであればさほど目立ちませんが、十和田観光電鉄のような地方のローカル私鉄では、その不評がもろに結果につながってしまった観があります。十和田市駅など、プラットフォームに直接改札口を設けてあれば、道路と同一平面で電車の乗り下りができるわけで、お年寄りや障碍者にとってはありがたいことこの上ないはずです。それを無理矢理階段を昇降させ、長い渡り廊下を歩かせてショッピングセンターに導き入れるのでは、魂胆が見え見えすぎて、誰が買い物などしてやるものかという気分にもなるでしょう。
 ショッピングセンターが立ちゆかなくなったのは、もちろん立地が十和田市の中心部から少し離れていたせいもあると思いますが、このあざとさを見抜かれて嫌われたという点が案外と大きかったような気がしてなりません。強引に誘導するのではなく、普通に道路に面した改札を設け、横断歩道で対面のショッピングセンターに行けるようにしておきさえすれば良かったと思います。
 廃業したままの理容室の横を通って階段を下りると、三沢駅にあったようなそば屋だけが営業しているようでした。1階はバスターミナルとタクシー乗り場になっています。この部分はまだ機能していました。

●十和田市現代美術館●
 十和田市という市は、もちろん十和田湖をその市域に含んではいるのですが、市街地は湖からだいぶ離れています。市街地附近の元の地名は三本木で、電鉄の十和田市駅も当初は三本木駅でした。
 市街地は駅から少し離れています。間にバスはけっこう頻発していますが、歩けない距離ではないし、急ぐこともないので、歩くことにしました。
 十和田市現代美術館というのに行ってみるつもりです。前から気になっていたというわけでもありません。この辺で何か見どころはないかと思っていたところ、時刻表の索引地図に十和田市現代美術館というバス停を見つけたのです。それで調べてみたら、なんだか面白そうに思えたので立ち寄ることにしたのでした。JRの十和田湖観光バス「おいらせ号」というのがそのバス停を通り、持っている「函館・北東北フリー乗車券」は好都合にも「おいらせ号」にも乗ることができるのでした。バスに乗ると八戸までダイレクトで帰れます。
 バスは13時38分発なので、時間はたっぷりあります。美術館の開館する9時頃にちょうど着きました。
 美術館そのものばかりではなく、周囲にも何やらアートっぽいものがたくさん設置してあります。なんだかマシュマロマンの顔みたいな家(?)が道路の向こうに建っていて、その傍らには妙にぶよぶよした感じの赤いクルマが駐められていましたが、これもれっきとした展示物でした。その隣には水玉模様のカボチャやら巨大なゴーストやらが並んでいて、子供の遊具かと思ったらこれまた作品なのでした。
 ご本尊の美術館は、それほど大きくはありませんが、ガラス張りのしゃれた建物でした。外から見ていかにも出入口という感じの、切符売り場やロッカーのある一画には扉が無く、入口はそこと別棟とをつなぐ渡り廊下の途中にありました。美術館そのものが、何やら現代アートを思わせる造りになっているようです。

 入場料を払って本館に入ると、いきなり巨大なおばさんの像があって度肝を抜かれます。しわやシミはもちろん、皮膚に浮き出ている血管など、細部に至るまで人間そのままに作られた人形ですが、サイズだけが異常に大きいという趣向でした。
 現代美術と言っても絵画はまったく無く(壁画はふたつほどある)、展示物はいずれもこういう立体構成物でした。ひとつの作品に一室が宛てられているという贅沢な展示の仕方です。
 部屋そのものが作品になっているというのも少なからずありました。他の美術館に持ってゆくなどということはできなさそうです。
 「見る」というよりは、アート空間にはまりこんで「体感する」のがこの美術館の楽しみかたなのでしょう。おそらくそういうコンセプトをはっきりと示して作品を集めたものと思われます。
 それゆえ、常設展示物はわずか22作品と少ないながら、けっこう長時間愉しめる施設であると言えます。
 敷地内の4箇所に置かれていると言いながら、パンフレットには1箇所しか示されていないという作品もありました。残りの3つは自分で見つけろということのようです。私はだいぶ注意深く見たつもりですが、たぶん作品と思われるものをひとつ見つけただけで、あとふたつは発見できませんでした。そんなこともあって、1時間や2時間はすぐ過ぎてしまいます。
 十和田湖観光のついでに立ち寄るという人が多いと思われますが、ここだけを目的として訪れても充分満足できる美術館であると思いました。

 とはいえ、さすがに2時間半も滞在すれば、すっかり堪能した気分になってしまいました。
 バスが来るまで、あと2時間ほどあります。
 企画展のマイケル・リンの作品が、なぜか商店街の寄り合い所みたいなところにも飾られているということだったので、まずそれを見に行きました。
 この人はパッチワークとかパターンテキスタイルとかを得意とするアーティストですが、日本で買った土産物を包んでいた包装紙の折り目にインスピレーションをかき立てられ、それを題材にした作品のシリーズをたくさん作っています。
 今回の企画展に際して、本人が十和田にやってきて、商店街の皆さんを巻き込んでワークショップをおこない、いくつかの作品を共同制作したのでした。商店街の寄り合い所なんてところに作品が展示されていたのはそのためです。
 展示してあるのですからもちろん自由に入って良いのですが、地元の商店の人たちが和気藹々とお茶を飲んでいるところにひょっこり闖入して、ひとめぐりして出てくるというのは、なんとなく気詰まりでした。
 そこを出てから、土産物屋とか、昼食をとれる店とかを探したのですが、これがまるっきり見当たりません。土産物屋のほうは、そもそも観光地ではないので無くても仕方がないのですが、街の中心部なのに飲食店がさっぱり見当たらないのには呆れました。
 美術館は「官庁街通り」という大通りに面していて、その名の通り市役所ほかいろんな役場が並んでいます。そういうところなら、職員の昼食のために何かあるかと思って、そちらの道に戻ってみました。しかし、小樽の時と同様、飲食店らしいものはほとんど無いようです。
 かなり長いこと歩き回ったあげく、商工会議所の建物に附属している小さな食堂に入りました。ほとんど満席だったのは、やはり食べるところが少ないからかもしれません。
 いきなり
 「定食でいいですか」
 と訊かれたので、うなづきました。ほどなく、所狭しと惣菜の皿や小鉢が並べられた大きなトレーが目の前に運ばれてきました。数えてみたら一汁十菜くらいあったようです。わずかですが刺身までついていました。
 食べ終わると、食後のコーヒーまで持ってきてくれました。これでたったの500円だったので感涙モノです。実際のところ、商工会議所の来客や職員のための食堂だったのでしょう。満員近かった客も、13時近くなるとさっさと退散して、最後は私だけになっていました。
 すっかり満腹して外へ出ましたが、まだ少し時間があるので、もう少し散歩してみました。すると、さっきはどんなに歩いても見当たらなかった飲食店が、たちどころに3、4軒発見されました。どうやら間違った方面を歩いていたようですが、まあよくある話です。

●帰り道●
 13時20分くらいになると、もう行くところも無くなり、仕方なくバス停のところのベンチに坐って本を読んでいました。風が強くて肌寒いほどで少々閉口しました。
 バスは38分の発車予定でしたが、途中で渋滞したのか、7、8分遅れて到着しました。八戸までは40分ほどです。
 路線バスではありますが観光用なので、バス停は非常に少なくなっており、十和田市現代美術館を出ると、六戸、そしてもう終点の八戸駅西口です。途中は交通量も少ない田舎道を走るので、いちど衝突事故現場に行き合わせて少し時間を食ったにもかかわらず、八戸に到着したのはほぼ定刻でした。
 ところでこのバスは六戸町、それに五戸町を経由して八戸まで行きます。この辺に「数字+戸」という地名が多いことはよく知られています。もとの東北本線、今のIGRいわて銀河鉄道青い森鉄道一戸・二戸・三戸・八戸があり、新幹線に七戸十和田駅ができました。七戸まではかつて南部縦貫鉄道というローカル私鉄が通じていたので、私も以前から知っていました。そして今回五戸六戸を通りました。九戸というのは場所は知りませんでしたが、この苗字を持つ戦国武将が居るので、地名があること自体はわかっていました。残るは四戸で、自治体名としては無いようですが、どこかにあるのは確かでしょう。一戸から九戸まで揃っているわけです。
 これらは、戦国時代の南部氏が与えた名前であるとか、もっと前の奥州藤原氏の時代に由来するとか、いろいろな説があります。よく知られた中でいちばんぶっとんでいるのは、この「戸(へ)」はヘブライの「ヘ」で、かつてイエス・キリストが処刑されたと見せかけて遁走したあげくに日本までやってきて、このあたりで亡くなったことにちなむ──というトンデモ説でしょう。ちなみに「なにやどやれ」という、歌詞の意味がさっぱりわからないこの地方の民謡があるのですが、この説の信奉者によるとこれもヘブライ語で解釈できるんだそうです。
 地名としては一戸から九戸まで、整然と並んでいるわけではないようです。七戸までは曲がりなりにも一本の線につながらないでもないようですが、八戸はその線から外れています。九戸になるとむしろ起点(?)の一戸の近くのようですから、数字とその配置にはそれほどの意味がないのかもしれません。
 古くから日本の中央政府の力が及んでいた西日本や関東地方に較べ、このあたりはかなり後世までアイヌとの雑居状態だったわけなので、地名などにもまだよくわからないことが沢山あるようです。

 八戸に戻って、荷物を回収します。
 あとは一路帰ればよいようなものですが、まだ新幹線には乗りません。ただ、盛岡からの特急券を八戸駅で入手しました。盛岡までは青い森鉄道とIGRいわて銀河鉄道を使います。2社にまたがっていますが乗り換えの必要はなく、直通運転をおこなっています。
 この区間は、前も書いたように、以前はなかなか俊足の快速が4往復くらい走っていたのですが、今は朝の上りに1本あるだけで、あとは全部各駅停車になっています。走り出せばけっこう速いのですが、何しろ全部の駅に停まらなければなりませんので、新幹線なら30分前後で行くところを1時間45分ばかりかけてゆきます。
 やっぱりロングシートであるのが残念です。短距離なら良いのですが、1時間以上ロングシートに揺られるというのはやはり苦痛です。
 学生時代だったか、その前の浪人時代だったか、この辺をやはり鈍行でのんびり通ったことがあります。その時は、青森〜仙台という長距離の列車で、機関車に牽かれる客車列車でした。当時もすでに長距離の鈍行はだんだん無くなりつつありましたが、この区間にはまだ5往復くらい残っていたと記憶しています。盛岡で40分以上停車している間に、駅ビルで本を買ってきたりしたものでした。
 長距離鈍行はいまやほとんど残っていません。現在の最長距離普通列車は山陽本線岡山下関間363キロ、最長時間普通列車は根室本線滝川釧路間8時間02分です。この程度が最長なのですから、昔を知る身には隔世の感があります。
 客車列車もごく稀になりました。定期列車としては寝台特急の「北斗星」「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」「あけぼの」「日本海」、今回も乗った夜行急行「はまなす」くらいしか残っていないのではないでしょうか。臨時のイベント列車としてはまだちょくちょく運転されているようですが、「普通の普通列車」からはほぼ駆逐されてしまったと言って良いでしょう。
 いずれもさまざまな意味での合理化に伴うことではありますが、合理化の名のもとに「旅情」といったものが急速に失われているのは寂しい限りです。

 盛岡が近づくと、学校帰りの高校生がたくさん乗ってくるようになりました。巣子(すご)、青山など新しい駅がいくつかできていましたが、だいぶ利用されているようで何よりです。巣子駅は、上下の線路が高低差をもって少し離れかけているところに無理矢理設置したような駅で、単線の片面駅がふたつ、階段でつながっているような不自然な形になっていました。
 盛岡着16時53分。IGRいわて銀河鉄道の乗り場は、駅全体からすると北の外れみたいな場所にあって、一旦改札を出ないとJRには乗り換えられません。青い森鉄道のほうは、八戸にしろ野辺地にしろ青森にしろ、まだJRと共通で駅を使っているので、盛岡駅でのこの扱いがなんだかケチくさく見えます。支線が第三セクター化されて、いわばローカル私鉄のような立場になった路線の場合は乗り場を分けるのもわかりますが、このIGRとかしなの鉄道肥薩おれんじ鉄道などの本線系第三セクター鉄道の場合は、こんなに肩身の狭そうな乗り場の設定にしなくても良いのではないでしょうか。
 JRの改札口のほうへ行くと、改札口前の駅弁屋でワゴンセールをやっていました。ワゴンの中の駅弁はどれでも半額というのです。今回の旅では、今までいちども駅弁を食べていませんでしたから、最後くらい新幹線の中で食べたいと思いました。しかも半額とは嬉しい話で、なるべく高い、ふだんならあんまり買わないであろうものを選びました。
 往路の新幹線は、連休中のせいもあって満席でしたが、帰りの「はやて174号」はわりに空いていました。隣席が最後まであいていたので、窮屈な想いをせずに、悠々と「前沢牛めし」を開いて食べました。最近の少し高い駅弁によくある、生石灰を用いた発熱ユニットがついているもので、熱々のを食べられたのもありがたいところ。
 大宮に20時10分に到着。下りた途端に空気がモワッとまとわりついてきたので、やれやれと思いました。この日は首都圏もわりと涼しめだったようですが、北から帰ってくるとやっぱり蒸し暑いものです。

 (2011.7.24.)


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