II 札幌で母方の祖父母の法事を済ませた翌10月8日、大通公園近くの宿をチェックアウトしたマダムと私は小樽に向かいました。マダムを小樽に同道したことは一度あるのですが、祖母の四十九日の時で、もう12月で天気も悪く、滞在時間もあまり長くありませんでした。前年、小樽商大グリークラブのOB会を指導していた関係で小樽を訪れる機会があり、もういちどマダムを連れてきてやりたいと思ったので、今回また法事にひっかけて行くことにしたわけです。 帰りの飛行機を晩に取っていましたが、出発予定時刻は21時という遅い時間です。連休のため、エア・ドゥに関する限り、それより早い便は、1ヶ月以上前の時点で、本当に全然空いていなかったのでした。帰宅は午前様になりそうですが、一方陽が暮れるまで小樽に滞在しても間に合いそうです。幸い天気も好く、のんびりと過ごせそうです。 宿を8時過ぎに出て、札幌駅まで歩きました。前夜と違って荷物が多かったのと、途中でコンビニに寄ったりしたのと、マダムが大通公園で写真を撮りたがったりしたのと、信号にやたらとひっかかったりしたのとで、意外と時間を食い、心づもりにしていた電車を逃してしまい、30分ほど待つはめになりました。札幌〜小樽間は、日中だと30分ヘッドで快速エアポート、区間快速いしかりライナー、そして各駅停車が1往復ずつ走っていて決して不便ではないのですが、どういうわけだか朝は便が少なく、8時42分を逃すと次は9時13分まで無いのでした。 駅構内のコーヒーショップに入って時間を潰しましたが、プラットフォームに上がるとえらく行列ができていたので驚きました。新千歳空港から快速エアポートとして走ってくる電車で、指定席であるUシートが札幌を過ぎると自由席になります。座席が少し上等でシートピッチも広いため、狙う人も多く、乗り込んでみると坐れなかったのでがっかりしました。もっとも、次の桑園で並びの席が空き、幸いその先は坐ってゆくことができました。 日中の快速エアポートは、小樽まで快速のままで走りますが、朝のこの便(3853W)は札幌から各停になります。銭函までは駅間距離が短く、走ってはすぐ停まる感じですが、銭函を過ぎると次の朝里までいきなり9キロ近い長距離になります。このあいだにかつて張碓(はりうす)という駅があったことは前に書きました。海水浴場があっただけでどこにも道路がつながっておらず、大都市の通勤圏内の秘境駅として有名になり、秘境駅マニアがよく訪れるようになったものの、何しろ路線そのものは5分にあげず列車が行き交う繁忙区間であるため危険が多く、はねられて命を失う人まで出るに及んで、ついに廃止され、完膚無きまでに痕跡を消されたのでした。少しでも痕跡を残しておくと、今度は廃駅マニアが寄ってくると判断されたのでしょう。マニアと呼ばれる中にはいささか非常識な手合いも多いので、やむを得ないことです。 海岸線すれすれを走り、反対側は断崖絶壁というこのあたりは、通勤圏内にもかかわらず函館本線随一の景観を誇る区間です。函館本線といえば大沼や駒ヶ岳の雄姿、渡島半島の寂しげな海岸線、超閑散区間というべき長万部〜倶知安間など、ローカル線的な車窓の魅力にもあふれているはずなのに、私の見た限りいちばん胸を打つ車窓はこの区間だったのでした。並行する道路が視界に入らないという要因が大きいのかもしれません。交通量の多い札樽国道は断崖の上を通っており、列車の窓からはまったく見えないのです。 9時58分、小樽に着きました。途中の駅で下りた乗客も少なくはなかったのですが、小樽駅に下り立った人は相当に多く、なんだか東京近郊の、例えば高尾駅あたりの雑踏を連想するほどでした。連休末日だったので、近場からの行楽客が多かったようです。 大きな荷物はコインロッカーに預け、身軽になって駅を出ました。 まず、小樽市総合博物館に向かいます。去年も訪ねましたし、道順などはよく憶えています。というか小樽駅周辺の地理はだいぶ頭に入りました。小樽の市街地は、小樽駅周辺、南小樽駅周辺、小樽築港駅周辺などを要にして拡がっており、南小樽や小樽築港のあたりは全然知らないのですが、小樽駅にはもう5、6回下り立っています。 総合博物館には本館と運河館がありますが、本館はもともと北海道最古の駅のひとつ手宮駅の跡地に作られたもので、しばらく前までは鉄道記念館と称していました。そのため鉄道関連の展示が多くなっています。 幌内(ほろない)の鉱山から掘り出した石炭を、手宮まで運び、そこから船に積み替えて全国に送り出したというのが北海道の鉄道の濫觴です。まだ東海道本線すら全通しておらず切れ切れに建設している頃のことで、鉄道はまさに当時の最新テクノロジーでした。本州の鉄道が英国、九州の鉄道がドイツの方式を採り入れたのに対し、北海道はアメリカ式で、機関車も貨車も客車も、どこか西部劇に出てきそうなスタイルであったようです。 幌内駅も手宮駅もすでに現存しません。北海道の開拓にあたって、鉄道の果たした役割は非常に大きかったのですが、道民は鉄道に対して冷淡でした。それもまたアメリカ式と言えたかもしれません。 道民の鉄道への冷たさについては、何度か考察したことがありますが、たぶん北海道の鉄道というものが、国や企業の殖産事業のために建設されたもので、沿線住民の便宜といったことをあまり考えていなかったことが大きな理由のひとつだったのではないかと私は考えています。 隣の東北地方では、「悲願何十年」といった路線がいくつもあって、住民が嘆願を繰り返してようやく開通したというケースが多く、それだけに愛着もあったのだと思います。国鉄末期の赤字ローカル線整理の時にも、大半の路線が第三セクターなどとして生き残りました。 それに対して、北海道の赤字ローカル線は、逆にほとんどがすんなりと廃止されてしまいました。隣接した両地方のこの状況はまことに鮮やかな対照を見せています。北海道のローカル線の収支係数が、東北地方とは較べものにならないくらい悪かったということもありますが、やはり住民に根を持った路線でなかった点が大きかったのでしょう。一日数往復だけ、さほど便利でもない時間にのろのろと走るだけというところが多く、私の乗った限りでも、ふだんは空気を運んでいるのだろうと思われる路線が大半でした。これでは、道路さえ通れば、もう列車に乗る気はしなかったに違いありません。 そういう道民の空気を反映して、道庁も鉄道への補助には非常に不熱心です。空港と道路の拡充には熱心ですが、鉄道などは札幌周辺を除いては滅んでも構わないと思っているのではないかとさえ感じられるほどにおざなりで、そのためたったひとつの第三セクター鉄道であったちほく高原鉄道も、経営が立ちゆかず廃業してしまいました。全国の国鉄転換による第三セクター鉄道で、路線を切ったところはありますが、完全に廃業してしまったというのはここだけです。 そんな北海道で、鉄道記念館など作られても少々白々しい気がしないでもありません。ディーゼル急行ちとせ、特急北海、客車急行宗谷が並んでいる野外展示は壮観で、去年来た時にも感動しましたが、その感動は懐かしさだけではなく、どこか列車たちの「無念さ」のようなものがそこはかとなく混じっているようです。今回行ってみると、係のおじさんがたったひとりで「北海」の塗装を塗り直していました。動けなくなった特急列車をそんなに念入りに化粧してやるくらいなら、走っていた頃にどうしてもっと大切にしてやれなかったのかと、少しばかり腹立たしいような気持ちさえ感じたのでした。 去年は時間が早すぎたのですが、今回は館内展示を見ているあいだに、ミニSLを運転する時刻になったので、マダムと一緒に乗ってみました。本館近くの停車場と、私たちが入ってきた東側の入口近くにある停車場のあいだの200メートルばかりを往復するだけの遊戯施設ですが、機関車の切り離し、転車台での方向転換、迂回線を通っての機関車の移動、推進運転による機関車の付け替えなどを実演してみせるところが面白いのでした。マダムもこういうのが好きで、眼を輝かせていました。3輌の小さなトロッコ風客車を牽引していましたが、満席で立ち客も出るくらい混んでいました。 階上の科学展示室でもしばらく楽しみ、同じ入場券で入れる手宮洞窟にも行きました。壁画が発見されたところです。1600年前という時代にしては稚拙すぎないかというのが私の感想でした。1600年も前なら稚拙でもあたりまえだと言う人は、古代人を舐めすぎています。 運河に沿って、街の中心部に戻りました。 去年来た時に、倉庫街の中の寿司屋が気に入ったので、マダムを連れてゆくことにしていました。回転寿司なのですが、1500円だか払うと、最上級の絵皿を除いては食べ放題になるのでした。頼んだところ、最初にじゃがバターと8貫入りの寿司桶が運ばれてきて、それが言ってみれば「基本セット」という感じだったのでした。あとは何皿食べても良いという不思議なシステムで、はなはだ印象的でした。 それでマダムを同道したのですが、店はすぐに見つかったものの、食べ放題という表示がありません。店に入ってメニューを見ても食べ放題のコースなどは無いようでした。おばさんに訊いてみると、 「あ〜、今年はやってないんですよ」 と簡単に逃げられてしまいました。採算が合わなくてやめてしまったのかな。さんざん「食べ放題の寿司」を吹聴してマダムを連れてきて、朝食もできる限り少なめに抑えさせていたのに、なんだか面目を失った気分です。 とはいうものの、ネタは東京に持ってくれば一流店でも通用するくらいの鮮度ですし、「寿司屋通り」の店などに較べればはるかに安く済みます。けっこう満腹するまで食べて、ふたりで3180円だったかでしたから、上記の食べ放題の場合とさほどの差はなかったのでした。小樽に来たら倉庫街の回転寿司、というのは半ば私の固定観念になっています。 満腹してから、博物館の運河館のほうに入りました。こちらには去年は来ていません。 こちらは、小樽の街としての歴史を展示した部分と、自然誌の展示の部分から成っていました。シンプルながらなかなか奥深い内容であったと思います。 縄文時代の火の熾(おこ)しかたを模式的に再現するアトラクションがありました。木の棒を摺り合わせたり、弓で回したりするあの発火方法です。本当に火が出るわけではなくて、木の棒代わりに金属棒を使い、それらを摺るとデジタルの数字で秒数と温度が表示されるというものでした。温度が「440度」まで達すると発火したと見なされ、表示板に炎のアイコンが点灯します。 マダムがえらく張り切って、私がそろそろ行こうと促すのも聞かずに棒を摺り合わせ続けていました。私はなかばあきれて、中庭へ出て待っていましたが、5分ほど経ってから、やっと発火できたと言いながら、マダムがよろよろと出てきました。頑張りすぎて手の皮をすりむいたということです。 運河館も古い倉庫の一角を整備して使われていましたが、同じブロックの倉庫が観光案内所のようになっています。その一室では、写真展がおこなわれていました。デジタルカメラ全盛の昨今、あえてフィルム写真にこだわった人たちのグループで、一風変わった「ルール」を設定して撮影会をおこなっているのだそうです。 ルールは撮影会の都度少しずつ違うようでしたが、今回の写真展の展示については、 ──定められた起点(小樽市内の7つのJR駅……銭函・朝里・小樽築港・南小樽・小樽・塩谷・蘭島)から出発して、2時間以内に36枚撮りのフィルムを使い切る。 ──撮影に失敗してもなんでも、ごまかさずに36枚の写真を撮影順に並べて展示する。 ということだったそうです。見ていると、なるほどちょっと失敗かな、と思われる写真もありましたが、なかなか面白い構図が多くて愉しめました。そういえば、アングルの片隅に置いた電柱などにピントを合わせ、背後の景色をぼんやりとにじませるなどという凝った撮りかたは、デジカメだとむしろやりづらいかもしれません。 部屋の中には出品者たちが居て、いろいろ説明をしてくれました。私が 「張碓駅がいまでもあったら大変でしたね」 と言うと、出品者はアハハと笑い、 「どこにも行けませんからねえ」 と答えました。 小樽で北一硝子の次くらいに店舗の多い大正硝子店をいくつか覗きました。いや、店舗数は大正硝子のほうが多いかもしれません。北一はどの店舗も構えが大きいので、総売り場面積では大正をはるかに上回ることでしょうが。大正硝子は、いろいろな小物を、種類ごとに別の店舗で売っている感じです。 その大正硝子の本店その他5軒ばかりが連なっている通りがあるのですが、於古発(おこばち)川という、運河に注ぐ小さな川に面しています。歩きながらふとその川面を見下ろすと、鮭が無数に散らばっているのが眼に入りました。 変な言葉遣いのようですが、散らばっている、としか言いようのない様子です。川の水量は大したことがなく、あちこち泥が見えているのですが、その泥に乗り上げるようにしてすでに絶命している鮭もたくさん居ました。一方、水のあるところでばしゃばしゃと元気に銀鱗をきらめかせて跳ね回っているのも数多く居ます。 鮭が自分の生まれた川に必ず帰ってくるというのは有名な話ですが、実際にその遡行をこの眼で見たのははじめてのことで、少なからず驚きました。 生きているのも死んでいるのも併せて、見渡す限り鮭だらけみたいな状態です。これだけの数の鮭が、この全長わずか2キロあまりしか無いような小さな於古発川から巣立ち、そして戻ってこられるものだとは、信じがたいような気分でした。 せっかく生まれ故郷の川に戻ってきても、このように河口近くで力尽きてしまうのが大量に居るということなのでしょう。やはりはじめて見たマダムは少々気味悪がっていましたが、水質の汚染で魚が死んだとかいうのではなくて、これは自然の摂理というものです。上流にまで辿り着いて無事産卵を済ませられるのは、ほんの数えるほどに過ぎません。 なお、川に遡行しはじめた鮭は、もう体力を失って、からだに脂分などがほとんど無く、食べてもあんまりおいしくないそうです。アイヌは主に川で鮭を獲っていたようですが、食生活はややつまらないものだったかもしれません。 入った店の店員が客と話しているのが耳に入りました。 「いや〜、今年は多いね〜。あれ今はまだいいけど、そのうちすんごい匂いになるんで困るんさ」 跳ね回っていた元気の良い鮭も、うまく遡行できないと、数日で死んでしまいます。大量の鮭の死骸から、猛烈な臭気が立ちのぼって大変なことになるようです。処理しないと蠅なども大量発生するでしょう。鮭の遡行を見られることなど滅多にないので、私などは単純に喜んだり感動したりしていますが、観光で訪れただけの者にはわからない地元の苦労もいろいろとあるに違いありません。 マダムの要望で有名な菓子屋へ行ったりしていると、そろそろ陽が暮れてきました。ぶらぶらと駅へ帰り、荷物を取り出して、18時04分の快速エアポートに乗って、直接新千歳空港へ向かいました。だいぶ小樽の街を堪能したと思います。 夕食は空港のラーメン屋で済ませました。ラーメン屋と簡単に言っても、新千歳空港には「ラーメン道場」と称する一角があり、道内の7、8軒の有名ラーメン屋の支店が軒を連ねています。それぞれの店の客引きもかまびすしく、空港の中でそこだけが異様に活気にあふれている観がありました。 帰りの飛行機は往路と同じくほぼ満席で、その乗客たちが押し寄せるモノレールも混雑していました。零時半過ぎにやっと帰宅できましたが、やはり札幌でもう一泊すれば良かったかな、と思いました。 (2012.10.10.) |