旧国名と風土

 鉄道で旅をしていると、ゆく先々の駅名に心惹かれるものを感じたりするわけですが、とくに旧国名がついていたりすると旅情をそそられます。
 現在の47都道府県になる以前、日本が多くの「国」に分かれていたことは皆さんご存じのとおりですが、その国──分国のサイズは相当にまちまちでした。現在の県とほぼ一致するところ(茨城県常陸国、栃木県下野国、群馬県上野国、富山県越中国、長野県信濃国、滋賀県近江国、奈良県和国、香川県讃岐国、愛媛県伊予国、高知県土佐国)もありますし、出羽国や陸奥国のように数県に及んでいる巨大な国(羽前羽後陸前陸中のように分けられたのは、北海道北見国、胆振国といったような「新分国」が設置されたのと同じく明治維新後のことです)もありました。一方、現在の大阪府のようなきわめて狭い領域が摂津国、河内国、和泉国の3国に分けられたりもしています。
 おおむね、近畿地方に近いほどきめ細かく分けられ、遠国ほど大雑把になっているように見えますが、千葉県のように近畿からだいぶ遠いところが下総(一部は東京都)国、上総国、安房国に分けられていたりすることもあります。また、佐渡隠岐淡路壱岐対馬といった、さほど大きくもない島が一国を形成したりもしています。それぞれにいろんな歴史的事情があってそういうことになったわけで、調べはじめると深みにはまってしまいそうです。

 私は鈍行で旅をすることが多いので気がついたのですが、県境で列車の乗客が少なくなりがちなのは当然のこととして、旧分国の境目でも一体に乗車率が低くなります。いくつもの国がまとまって一県になったりしている場合にそれがわかりやすいようです。
 と言っても上に書いた、大阪府の中の摂津・河内・和泉の境目などではそんなに顕著ではありません。そのあたりでは都市化の影響のほうが国境を上回っています。神奈川県にある、相模国と武蔵国の境目(相模川)などもほとんど意識されないでしょう。
 私が鮮やかに感じたのは、兵庫県の中の播磨但馬の境目、島根県の中の出雲石見の境目などです。出雲と石見については、屋根瓦の色からしてまったく異なるので、視覚的にもわかりやすくなっています。石見の屋根は、石州瓦という独特の深い赤みをおびた瓦で葺かれているので、景色を見ただけで、ああ石見国に入ったなとわかります。
 大都市圏を除けば、旧分国は、いまだに人の流れのひとつのまとまりを形成しているように思います。国境は、大きな川や山脈などで区切られていることが多くて、昔は確かにそれを越えて行き来することはなかなか難しかったでしょうが、それらの障壁が橋やトンネルで解消された現代にあっても、やはり人の生活圏というものはそう変わらないのだなと実感します。

 国の名前に前後、あるいは上下とつけられているところがいくつかあります。上に書いたとおり、明治になってから出羽や陸奥を分けるときに羽前・羽後陸前・陸中・陸奥(ただし陸奥国はその他に岩代磐城にも分けられた)と名付けたように、古い時代のあるとき、もっと大きな領域だったものが細分化されたものと思われます。
 九州は南部の薩摩・大隅・日向は昔からそのままですが、あとの筑・豊・肥の部分はすべて前後に分けられています。古代には実際に、ツクシの国、トヨの国、の国というのがあったに違いありません。
 岡山県・広島県にまたがって、備前・備中・備後の3国がありますが、これはまとめてキビ(吉備)の国だったのでしょう。
 丹波丹後はもとは(丹)の国というような同じ勢力圏に属していたのか、それとも単純に「丹波の向こう」ということで丹後と呼んだのか、それはよく知りません。
 越前・越中・越後に分かれたコシ(越)の国の領域は広大です。継体天皇が本当に応神天皇5世の孫であったのか、それともその前の王朝とは縁もゆかりもない人物であったのかはわかりませんが、いずれにしろ彼の勢力を支えたのはこの広大なコシの国の富であったでしょう。現代の感覚では雪深くて不便そうな土地ですが、海上交通が主力だった時代には、コシの国は日本海交易の大半を支配する強国であったはずです。なお越中からは、のち加賀能登も分離しました。
 上野・下野(毛)の国というひとつの領域でした。いまでも栃木・群馬の2県を両毛と呼ぶ言いかたが、JRの路線名や東武鉄道の列車名のみならず普通に残っています。
 上総・下総はどうだったのでしょうか。フサ(総あるいは房)の国というようなものがあったのか、実際に下総の領域に布佐(ふさ)という地名が残っているだけに、気になります。「房」も「総」も訓読みすれば「ふさ」になる点も気になります。
 これらの領域が細分化されたのは、大和朝廷に抵抗するかなり強大な勢力がそのあたりにあったからでしょう。兵を送ったりしていちおう臣従させても、油断ができないので、彼らの領域をいくつかに分け、それぞれに国司を送って統治させたということなのだと思います。
 原則として、京都に近いほうに「前」「上」、遠いほうに「後」「下」をつけています。上総は下総の向こうにあるように思えますが、これも陸上交通が主力となった現代での感覚であり、上代では三浦半島から東京湾を横切って房総半島に抜けるのが東海道のメインルートでした。この場合の上陸地点が現在の上総湊で、やはり京都から進めばまず上総に着き、その先が下総だったのです。
 久里浜浜金谷を結んでいる東京湾フェリーは、この古代の東海道ルートと近いところを運航しており、その意味でも私は好きな航路になっています。現代のフェリーで渡ればせいぜい40分くらいで、ヤマトタケルがこんなところで嵐に難儀して、妻のオトタチバナ姫が人柱として海中に沈まなければならないほどの大ごとになってしまったのかと不思議な気がしますが、古代の旅というのはそのくらい厳しいものだったということなのでしょう。

 国名は「州名」で呼ばれることもあります。本来「州」というのは古代中国における最大の地域呼称で、もともとは9つあって「九州」と呼ばれていました。日本の南西部にある島の名前はそこからとっていますが、スケールはもちろん全然違います。中国全土のことを「九州」と呼んでいることもよくあります。三国志の時代くらいには少し増えて13州になっていました。漢代には行政単位というわけではありませんでしたが、後漢末に名を挙げた英雄豪族たちは、だいたいこの「州」くらいの領域を支配することで覇を競っています。
 唐代に至って、「州」は正式な行政区画となりました。またその区画の中の主要都市を州名で呼ぶこともありました。現在の福州広州揚州蘭州などの都市名はその名残です。
 日本では「州」は国の別名みたいな扱いになっています。
 今年(2016年)のNHK大河ドラマ「真田丸」を見ていると、ついつい昔の水曜時代劇「真田太平記」のことを思い出してしまうのですが、「真田太平記」で丹波哲郎演ずる真田昌幸が、長男の信幸のことを

 ──豆州

 と呼んでいたのが妙に耳にこびりついています。これは「ずしゅう」と読み、真田信幸の官名が伊豆守であったことからそう呼んでいたようです。他の時代劇や歴史ドラマで人のことを「○州どの」などと呼んでいた例はあまり思い浮かばないので、余計に印象に残ったのでしょう。
 信長秀吉家康に向かって「三河どの」と呼んでいることはよくあります。昔は人の名前を直接呼ぶのは失礼であって、官名があればそれを呼ぶべきものとされていましたから、「三河どの」はまあ良いと思いますが、「○○守」を州名で呼ぶことはどうだったのでしょうか。ちなみに三河のことは参州と言います(「三」を「参」と読み替えたのでしょう)。家康は「参州どの」と呼ばれたことがあったかどうか。
 もっともすべての国名が州で言えたわけではありません。前後、上下に分かれていたようなところは州では呼びにくかったでしょう。ただし上野と下野は、「上州」「野州」に呼び分けられていたようです。実は上野には「守」は居ません(正確には上野守は親王の遥任職と決められており、臣下に与えられることは無い。他に上総と常陸が同様です)ので、「上州どの」「上州さま」等々と呼ばれる人物はひとりも居なかったことになります。

 駅名で言うと、不思議なことがあります。JR、というか旧国鉄の駅名には、この州名を冠したものがほぼゼロなのでした。例外は播州赤穂だけで、ここだけは忠臣蔵の影響か「州」を使わざるを得なかったようですが、あとはすべて正式国名ばかりになっています。
 上野に冠しては、そこを通る列車の始発駅であることが多い「うえの」と混同されるのを怖れたか、正式国名を使いませんでしたが、かたくなに「上州」とはしていません。他の地方の駅名と差別化したい場合には、なんと県名である「群馬」を冠しています(群馬総社群馬八幡群馬藤岡群馬原町群馬大津)。私鉄である上信電鉄に「上州」を冠した駅がたくさんあるので、余計にJRの「群馬」が奇異に感じます。
 武蔵などは、むしろ秩父鉄道東武越生線にいくつかある「武州」が新鮮に感じられたりします。
 信濃は「信州」という呼びかたのほうが一般的な気がするのですが、JRの駅はやはり「信濃」を冠しています。それについて面白い駅名クイズがありました。中央本線の駅で「信濃」がついている駅を3つ挙げろというのです。
 中央本線でも、西線のほうに入ると「木曽」を冠したのが多くなり、「信濃」はありません。東線にある「信濃境」「信濃川島」はすぐ見つかります。もうひとつはどこか、というのがミソでした。文字を隠して答えを書いておきますので、皆さんも考えてみてください。

 3つめは「信濃町」。長野県内ではなく東京都にあるところが盲点です。また、時刻表を見ても国電区間(E電? 何それ?)である信濃町は別のページに載っているのでわかりづらくなります。

 最近は、市町村合併で新しい市名をつけるときに、旧国名を名乗ることが多くなりました。
 むつ市加賀市伊予市出雲市長門市日向市などのように、けっこう昔からある市名もありますが、近年は見境が無くなってきて、甲斐市甲州市が別々にできてしまったりしてわけがわかりません。ちなみに山梨県には、その他に甲府市山梨市もあるのですから、もう何がなんだかという観があります。
 名乗るのは勝手と言えば勝手ですが、いささか盛りすぎではありませんかと言いたくなるところも少なくありません。近隣市町村の住民からしてみれば、なんであんなところが旧分国の代表づらをするんだという気分になることでしょう。奥州市など最たるもので、奥州(陸奥)は上に書いたように、明治になってから5つに分けられたほどに広域の国で、現在の県名で言えば青森・岩手・宮城・福島をほとんど全部含みます。この地域内で奥州市を名乗る資格があるとすれば、最大の都市である仙台とその周辺くらいなものでしょう。中国で広域行政区である「州」の主要都市をも「州」をつけて呼んだようなものです。岩手県南部の地味な一帯が奥州市という大きすぎる名前を名乗ったのは、奥州藤原氏の本拠池に近かったからというのがその理由でしょうが、肝心の中尊寺毛越寺も、市内ではなく隣の平泉町にあるのですから、まさしく僭称もいいところで、東北地方のほとんどの人々は面白くない想いだったのではないでしょうか。
 新しい市の名前に、旧来の広域地名をつけようとする場合は、そこの住民による審議会ばかりではなく、近隣の意見も徴したほうが良いように思えます。

 それにしても、現在の都道府県名は、見事に旧国名とひとつもかぶらない名称になっています。
 明治の新政府に、旧弊を脱しようという気分がそれだけみなぎっていたということなのでしょうが、よくもまあこれだけ徹底できたものだと感心します。
 県名には、なぜこんな名前が、と不思議に思われるものも少なくありません。県庁所在地の都市名と県名が一致しているところはまあ良いのですが、そうでない場合、どこから見つけてきたんだと言いたくなるような名称がままあります。
 一例を挙げればわが住まいする埼玉県。ここは県庁所在地がさいたま市なので一致しているように思えますが、さいたま市というのはもとの県庁所在地である浦和と、大宮与野など周辺市町が合併してできただけの、なんの伝統もない市名に過ぎません。本来の埼玉という地名は、行田市にある小字です。さきたま古墳群の近くです。クルマを持っていた頃、古墳群のあたりまでドライブに行って、信号機の下の表示に「埼玉」とあるのを見たときには感動を覚えました。
 しかしなんでこんなローカルな地名を県名として採用したのでしょう。一説には、幕末期に佐幕勢力が強かったところは、あえてマイナーな地名を県名としてつけて報復したのだとも言われていますが……。
 政治がらみになると生臭くなります。まあ、キビの国を備前・備中・備後と分けたのもまさに政治がらみでしょうが、千年以上の時を経てみれば生臭さも薄れてきています。
 旧国名の由来を考えるのも面白そうです。近江琵琶湖遠江浜名湖に由来すると言われれば「なるほど!」とひざを打ちたくなります。「おうみ」という読みのほうは「淡海(あわうみ)」つまり琵琶湖が淡水湖であるところから来ている、というのも納得できます。紀伊は「樹の国」だったのでしょうか。飛騨はやはり「襞(ひだ)」なのかもしれません。
 一方で、よく知られている名称由来が、実は後世の語呂合わせに過ぎなかった、みたいなことも無いとは言えません。
 いずれにしても、旧国名は、現在の都道府県名より、ずっと味わいがあるように思えてならないのでした。

(2016.5.12.)


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