古墳ハイキング (2017.5.3.)

 今年(2017年)のゴールデンウィークは、マダムが5月2〜4日が空いているというので、そのあたりでどこかへ出かけてくるつもりでいたのですが、あいにくと2日の晩に私の仕事が入っていて、可能性があるのは3〜4日だけということになりました。
 マダムの今年の希望は、秩父芝桜を見にゆくことと、行田(ぎょうだ)の「ゼリーフライ」なる食べ物を食しにゆくことでした。ゼリーフライというのは行田では古くから食べられているそうなのですが、近年のB級グルメブームで一躍有名になりました。ブームで一旗あげるために無理に作ったメニューでないところは好感が持てますが、さてどんな食べ物なのか。
 さて、行田と秩父なら、両方とも秩父鉄道の沿線となります。行田という駅はJR高崎線にありますが、よくある話でJR駅は街の外れにあって、中心に近いのは秩父鉄道の行田市駅なのでした。
 つまり一日目に行田に行ってそのゼリーフライなるものを食べ、それから秩父鉄道に乗って秩父まで移動し、そこで1泊することを考えました。秩父で芝桜が有名なのは羊山というところで、ここは夜間照明も当てており、夜桜ならぬ夜芝桜を愉しむこともできるそうです。秩父に泊まることにしてあるなら、この夜芝桜を観てくることもできるでしょう。
 そのつもりで宿を探してみたら、なんと全然見つかりません。半月前では無理だったようです。
 例年、宿探しにはそんなに苦労しないのに、今年はどうしたことかと怪訝に思いました。よく考えてみると、いままでは連休中でも、なるべく平日になるように日程を組んでいたのでした。例えば今年であれば1日(月)〜2日(火)といったようにです。
 マダムが塾の採点の仕事をはじめて、平日を空けるのが難しくなった去年は、3〜4日で出かけましたが、泊まったのは下館という地味な街の駅前ビジネスホテルでした。初日と2日目の行程を考えてそこで宿泊と言うことにしたのでしたが、一般には商用でもない限りまず宿泊場所として考えないようなところで、それだから楽に確保できたのでしょう。これが秩父などという、いかにもな観光拠点では、連休中の宿などよほど前に手配しなければ空いているわけがなかったのでした。
 いっそのこと秩父などに泊まろうとせず、行田か熊谷あたりで泊まることにしておけば、まだ宿もあったのかもしれませんが、それだと夜芝桜は観られなくなるしなあ……と考えて逡巡しました。それに行田や熊谷では、家に近すぎて、そんなところで泊まるのはどう考えてもばかばかしい話です。マダムは泊まりたがりましたが、私はこの時点で泊まりは諦めました。行田にしろ秩父にしろ、日帰りで充分行ってこられる場所であり、夜芝桜さえ諦めれば、日帰り行楽を重ねても一向に構わないはずです。家で寝られるので疲れもたまりづらいでしょう。
 そんなわけで、今日は行田まで、日帰りで行ってきました。
 と言っても、ゼリーフライを食べるだけが目的ではあんまりです。
 行田にはさきたま古墳公園があり、私は以前クルマを持っていたときに一度行ったことがあります。いかにも関東平野のど真ん中という感じのだだっぴろい平野の中に、大きな前方後円墳が7つほど、日本最大とされる円墳がひとつ、それに附随する陪冢(ばいちょう)なども多数散らばっています。獲加多支鹵(ワカタケル)大王(雄略天皇とされる)の名前が明記された金錯銘鉄剣の出土で有名ですが、そんなにA級観光地というわけでもなく、人混みにもまれることも無いでしょう。ここを主目的地とし、昼食あるいはオヤツとしてゼリーフライを食するというプランにしてみようと思います。
 前はクルマで行ったので簡単に辿り着けましたが、公共交通機関と徒歩だけで行く方法がわかりません。調べてみると、行田のほか吹上などからもバスで行けそうでしたが、それより北鴻巣駅近くから川沿いの緑道が古墳公園まで通じており、距離も5キロほどですので、ちょうど良いハイキングができそうです。天気も良さそうだし、この行程で行ってくることにしました。

 川口駅を9時半頃に出る電車に乗りました。浦和高崎線の電車に乗り換えます。ところが、これがよりによって「快速アーバン」で、北鴻巣には停まりません。快速をつかまえたいときにはなかなか乗れないのに、快速でなくて良いときに限ってやってきます。
 途中で前の鈍行を追い抜いてくれれば良いのですが、鴻巣までは3駅しか通過しないのでそれも無理で、しかも鴻巣駅では次の鈍行を15分も待たされるという、最近の首都圏にしては珍しいほど出来の悪いダイヤになっていました。
 さらに厄介なことに、私らの乗った快速アーバンが出たあとで、途中の上尾駅でトラブルがあったらしく、後続の鈍行はさらに5分ほど遅れて到着というていたらくになっていました。ようやく北鴻巣に着いたのは10時45分頃です。普通、川口から北鴻巣まではこんなに時間はかかりません。
 とにかく北鴻巣駅に下り立ちました。こんな駅で下りたのははじめてです。
 駅前のロータリーから団地の脇を抜けてゆくと、武蔵水路という川にぶつかり、その左岸に緑道が沿っていました。自転車用の道と歩行用の道が並行しています。
 マダムは、最初のうち陽が当たってかなわないようなことを言っていましたが、本格的に緑道がはじまると、うまいこと木陰になっていて、気持ちの良い空気になりました。
 途中で他の川と一緒になるように見えますが、実はそうではなく、元荒川と「交差」しているのでした。このあたりの水路はもとからある川と「交差」しているところが何箇所もあります。一旦川底の下にもぐって、対岸にまた顔を出すのです。なんだか不思議な気がしますが、水流の圧力を調整することで、そういう水路でも淀みなく流れることができるようです。
 緑道には200メートルおきに古墳公園までの距離を示した標識が立っているので、歩いていても励みになります。「あと何キロ」がわからないことほど疲れることはありません。
 上越新幹線のガード下をくぐり、「あと1.8キロ」くらいになったところで、堤根橋というのがあります。県道148号線と交差するところです。
 ここで緑道を離れて、148号線に右折しました。
 それは、この148号線と県道77号線との交差点の名前が、「埼玉」だからで、マダムにぜひそれを見せたかったのです。

 「埼玉」という県名は、まさにこの行田市内の字名からとられています。つまり、行田こそ埼玉の県名発祥の地なのでした。
 旧分国の武蔵国のうち、東京都(当初は「東京府」)にとられてしまった残りの部分が埼玉県となったわけです。多少神奈川県にもかかっていますが、その部分は東京を隔てていますので埼玉県とはもともと関係がありません。
 最初は「埼玉県」と「入間県」に分かれていましたが、ほどなく埼玉県に統一されました。
 それにしてもこんな字名をよく見つけたものだと感心するのですが、実は分国時代に「埼玉郡(こおり)というのがあり、それが領域内では最大面積の郡であったので、代表として県名になったという次第であったようです。現在の北埼玉郡(ぐん)と南埼玉郡、そしてそこにもともと町村として含まれていた市を合わせたくらいの領域でしょうから、確かにかなり広大です。しかしそのものずばりの「埼玉」という地名はここになります。
 上記のクルマで来たときに、まったく偶然にこの「埼玉」交差点を発見し、妙に感動した記憶があるのでした。信号機の下に、まごうことなき「埼玉」の2文字が書かれていました。
 この「埼玉」交差点をマダムに見せたかったので、遠回りをしたのでした。しかし緑道を離れると陽差しは強いし、県道には歩道もついていないことが多くて歩きづらくなりました。マダムが少々ぐずりはじめます。
 しかも、出かける前にいちおう地図で確認はしたものの、どのくらいの距離を歩けば良いのかよくわかりません。ずいぶん遠いようにも思えました。
 結局県道に入ってから1キロ半ほど歩いたでしょうか。なんとか記憶どおりの「埼玉」に辿り着いたのでホッとしました。これで道を間違えていたなんてことになったら目も当てられません。
 交差点の様子はうっすらと記憶していたとおりでしたが、前のときには気がつかなかったことに、「埼玉」という漢字に、「さきたま」と小さなルビが振ってありました。前は無かったかもしれません。おそらくこの字面を見れば、誰もが「さいたま」と読むでしょうから、それを嫌ってルビを振ったのでしょうか。「さいたま」ではなく「さきたま」である、と。
 確かに埼玉をあえて「さきたま」と読ませる、あるいは埼玉県の施設にひらがなで「さきたま」と名づけるということも、近年増えてきました。「さきたま」であれば「幸魂」などと宛て字をすることもでき、実際新大宮バイパス荒川を渡るところの橋には「幸魂大橋」という名前がつけられています。
  さきたま古墳公園もその口かと思ったのですが、字名の読みかたがもともと「さきたま」なのであれば是非もありません。
 77号線をそのまま歩くと、古墳公園に着きます。77号線は古墳公園の中を突っ切っているような県道で、園地は道路の両側に拡がっています。さきほどの緑道とは、公園の入口あたりで出会うことになるのでした。だから、いわば三角形の二辺を歩いたようなもので、たぶん2キロほど余計に遠回りしたのでしょう。
 道路の右側に二子山古墳が盛り上がっているのを見ながら進むと、小さな食堂がありました。そこに、「ゼリーフライ」とでかでかと書かれた幟(のぼり)がひるがえっていました。

 「さんぽ道」という店で、店名を冠した「さんぽ道セット」というのを頼むと、うどんまたはそばに野菜の天ぷら、小鉢が3つ、デザートと飲み物、そしてゼリーフライがセットになっていることがわかりました。ゼリーフライ単品では1個100円だったので、他のメニューを頼んでゼリーフライを別口で注文するという手もあったのですが、いろいろ勘案してみるとさんぽ道セットがやはりいちばん得であるようです。時刻も12時半を過ぎ、昼食どきでしたので、古墳を観てまわる前にここで食事をすることにしました。
 私たちがすぐに坐れたのが不思議なほど、あとからあとからお客が来ていましたが、全員が食事をしてゆくわけではなく、ゼリーフライをテイクアウトすることもできて、そういう人も多かったようです。
 さてそのゼリーフライとは何かというと、おからを擂って作ったタネを揚げ、ソースにからめたという食べ物でした。なぜゼリーフライなのかといえば、食感がゼリーのようにぷるんぷるんしているからという説と、小判型をしているので「銭フライ」と呼んでいたのが訛ったのだという説があり、判然としないようです。ゼリーフライをゆるキャラ化したのが「こぜにちゃん」というキャラクターであることを考えると、後者の説のほうが有力なのでしょうか。
 実際に食べてみると、食感はゼリーというよりも普通のコロッケに近く、ただコロッケの場合はタネにかなりしっかり味をつけることが多いけれども、ゼリーフライのタネにはほとんど味がついておらず、そのためにまわりに多すぎるほどのソースをからめてあるのだろうと想像されました。
 ともあれ肉やイモのかわりにおからを使っているということは、近年はやりのマクロビオティック食の原型のようなものです。そのヘルシーさも、このところ名が知られてきた理由であるかもしれません。
 ダイエット食の探究に眼がないマダムも大満足であるようでした。またここのうどんはいわゆる「武蔵野」系で、讃岐うどんに近いくらい腰が強く、それをしっかり噛んでいると満腹感も得られやすいようでした。
 満足して店を出て、先へ進むと、なんとその店の隣も食堂になっていて、そちらでは「行田フライ」を供するようでした。
 「行田フライ」はゼリーフライとはまた違い、マダムの曰く「キャベツの入ってないお好み焼き」のごとき食べ物で、もはや揚げ物ですらないらしいのでした。昭和初期、足袋工場で働く女工さんたちのオヤツとして普及したのだそうです。なんでこれをフライと称するのかは、ゼリーフライの由来よりさらに渾沌としていて、布の産地だから「布来」説、富を求める「富来」説など、相当にこじつけっぽい各説があります。私としては単純に「フライパンで作るから」というのがいちばん納得できました。
 ゼリーフライや行田フライは、佐野市の「いもフライ」のごとく、街じゅうあちこちで売っているものだと思い、マダムなどは何店もで食べ歩きするのを楽しみにしていたほどですが、先に言ってしまえばそんなに供している店は多くなく、ここでテイクアウトすれば良かったとあとで後悔しました。つまり、行田フライのほうは結局今日は食することができなかったわけです。

 そのときは満腹でしたし、そんなこととは思いもよらず、隣の店を素通りしました。ちなみに行田フライのキャラクターは「フラべえ」と言います。
 そこからほどなく、公園の入口がありました。
 まずは園内にある「さきたま史跡の博物館」に入りました。ここに国宝の金錯銘鉄剣が収蔵されています。
 「勾玉づくり体験」というイベントがあって、マダムがやりたがったのですが、わずかな差で人数がいっぱいになってしまったらしく、参加を断られてしまいました。しかしそれと重なるくらいの時間で、ボランティアガイドの話を聴けたので有益でした。
 ボランティアガイドは近くの小学校だか中学校の校長先生をしていたという80年配のお年寄りで、ときおり聴き取りづらいところはありましたが、けっこうユーモアもある語り口で、40分ほどの説明があっという間に感じられました。もっとも、最初は10人以上の客が聴いていましたが、最後まで聴いていたのは私たち夫婦だけだったようです。
 この地は古墳はたくさんあるものの、これという「売り」が無く、地味なところだったそうです。出土品が比較的平凡なものだったのでしょう。その中の鉄剣の保存状態がよろしくなく、奈良の研究所に持っていってサビを落として貰うことにしたところ、そのうちの1本が問題の金錯銘鉄剣だったという、ヒョウタンから駒みたいな話なのでした。研究員はそれらの鉄剣を、竹を割った容器に入れて新幹線で奈良まで持って行ったそうで、
 「この鉄剣は、新幹線で運ばれたことのある唯一の国宝というわけです。知らないというのは怖いですな」
 とガイドの老人は言いました。
 この鉄剣がすばらしかったのは、銘文が金で象眼されていたために、全体のサビを落とすと全文が明確に解読できたということ、それから銘文の中に年代を特定できる文言が含まれていたことでした。すなわち冒頭にのっけから「辛亥年七月」と記されていたのです。辛亥革命1911年ですから、辛亥年というのはそこから60の倍数分の年を引くことですぐに求められます。1911から1440を引いた「471年」が問題の辛亥年であると考えられています。その前の411年には天皇が空位だった(反正天皇が崩御したのち、弟の允恭天皇が即位するまで少々もめたようで、この年に限って天皇が存在しなかった)ためおそらくこういうものは作られなかったと思われます。ただ後の531年という説を採る学者は居て、ここに書かれている獲加多支鹵大王は雄略帝ではなく欽明帝であると言っています。しかしまあ、雄略帝の別名が「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であるので、これはまず雄略帝で間違いないでしょう。欽明帝には「ワカタケル」に比定できるような呼び名はありません。
 これと同時期で、九州で出土した銀錯銘鉄剣があり、そこにも「獲○○○鹵大王」という文字がありました。こちらは銀の象眼であったためにすっかり錆びて、3文字ばかり判読不明になっていたのですが、こちらもおそらく同じ大王であろうということで衆目が一致しています。つまり、5世紀後半という時期にワカタケル大王と称された君主が確実に存在していたことが、この両鉄剣の銘により証明されるわけです。これにより雄略天皇は、物証によりその実在が裏付けられる最初の天皇ということになりました。それ以前の天皇は、いまのところ文献史料でしか追うことができません。
 鉄剣が国宝になったのも当然でしょう。そして、この国宝が上野国立博物館に接収されそうになったのを、「出土したその場所で観られるようにすべきである」として防いだのは畑和前埼玉県知事でした。
 確かにこの鉄剣以外の出土品は、そんなに驚くほどのものは無さそうですが、それにしてもかなり大きな円筒埴輪や家型埴輪などが復元されていて、このあたりが古墳時代に大いに栄えていたことが窺われます。

 充実した時間を過ごした気分で博物館を出て、それから博物館の隣にある保存古民家を眺め、さらに内部が公開されている将軍山古墳を見学しました。博物館と共通のチケットで入ることができます。
 そのあと階段と展望台のついた稲荷山古墳に登ったりしてしばらく散策しました。この稲荷山古墳から金錯銘鉄剣が出土したのです。
 マダムはすっかり古墳が気に入ってしまったようで、これから古墳めぐりを趣味にしようかなどと言い出していました。
 私の高校時代の友人であるK君が古墳マニアで、関西に修学旅行に行ったときに、自由行動日に私たちの班はひたすらK君にひっぱりまわされて古墳ばかり見せられたものでした。内部探査がおこなわれていない古墳は、観てもあんまりよくわからない気がするのですが、マニアというのは古墳の高まりを観るだけでも充分に昂奮するものであるようです。K君はその後、古墳の保存状況に関して宮内庁と喧嘩をしたほどにマニアックさをこじらせました。
 マダムが古墳マニアになってあちこち連れ回されては大変だなと思いましたが、まあ彼女はいろんなことを「趣味にしよう」と言い出す人なので、心配するほどのことはないでしょう。
 マダムとしてはゼリーフライを食べられれば満足だったのでしょうが、古代の雰囲気にどっぷり漬かって、それはそれで面白かったようです。私も面目を保った想いでした。
 陽が傾いてきてからさきたま古墳公園を出て、行田市駅に向かいました。途中から商店街になっていたので、ゼリーフライや行田フライを入手できる店が無いかと気をつけていたのですが、大半の店が閉まっていました。休日だからなのか、そうでなくともシャッター街になってしまっているのか、よくわかりません。結局駅に着くまで、その種の店は見当たりませんでした。
 一旦駅の位置を確認してから、さらにその周辺を歩いてみたら、市役所の近くにゼリーフライを出す店があって、そこでもう1枚ずつ入手しました。行田フライのほうは、店は見つかりましたが、昼間の数時間だけ営業しているというやる気のない店で、とっくに閉店していました。
 行田市から熊谷に出ればすぐに帰宅できたのでしたが、反対側の羽生に出て、東武の電車に乗って草加まで行き、草加駅前のファミリーレストランで夕食を摂ってからバスで帰宅しました。最近東武とご無沙汰していたので気づかなかったのですが、つい10日余り前の4月21日にかなり大規模なダイヤ改正があり、いろいろ変わったようでした。これについてはまたいずれ考えてみたいと思っています。
 だいぶ足が疲れていたようなので、携帯電話についている万歩計を見てみたら、今日は24000歩くらい歩いたことになるようでした。距離に換算すると15キロほどでしょうか。北鴻巣から回り道をして古墳公園まで7キロか8キロ、古墳公園から行田市までが3キロほどで、あと園内の散策や行田市駅周辺のフライ屋探しなどを含めると、そのくらいになるかもしれません。これでまた明日出かける元気があるかどうか。

(2017.5.3.)


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