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昨日今日と、湯河原に行ってきました。仕事ではなく、骨休めの一泊旅行です。
実は最初は、湯河原まで行く気ではありませんでした。マダムと話していて、しばらくスーパー銭湯のたぐいに行っていないという話になり、そのときマダムが
「『万葉の湯』ってのに行きたい」
と言い出したのでした。
万葉の湯、万葉倶楽部というような施設はいくつかあるようでしたが、なんでも毎日湯河原から温泉を汲んでタンクローリーで運び、それぞれの施設に流してお客に入浴させるというところであるらしいのでした。なるほど、とは思いましたが、温泉を運んできて沸かし直したお湯では、なんとなくあんまりご利益がないような気がしてなりません。そのくらいならボーリング温泉であっても近くのスーパー銭湯のほうがましであるように思えます。
いちおう場所や入浴料金を調べてみたら、横浜みなとみらいとか、秦野とか、東京都内であれば町田とか、そんな場所にあり、入浴料金も2000円以上かかる様子です。高い上に交通費もけっこうかかるという按配でした。
「こんなところに行くくらいなら、もともとの温泉のある湯河原に直接行ってしまったほうが良いんじゃないか?」
と思い、マダムに諮ったところ、すぐに同意を得ました。で、なるべく近々で出かけられる日を考えたところ、昨日今日(2018年2月12日・13日)ということになった次第です。月曜日はマダムは学習塾の仕事がありますが、12日は建国記念の日の代休で休みになっていました。ただ火曜に私のコーロ・ステラの仕事が入っていたのですけれども、それは間に合うように帰ってくれば良いでしょう。
宿を調べたら、連休の最終日から平日にかけてということで、わりにすんなりと、比較的安い値段で予約することができました。そんなこんなでバタバタと決まった旅行だったのでした。 湯河原であれば、赤羽から上野東京ラインの電車に乗れば一本で行けるのですが、それもつまらない気がして、何か面白いルートがないものかと考えました。
で、乗りたい乗りたいと思っていてまだ機会の無かった、メトロロマンスカーに乗って行こうと思い立ちました。小田急からメトロ千代田線に乗り入れている特急列車です。当初は通勤用ということで平日だけの運転でしたが、現在は土休日も運転しています。それでもほとんどは午後から夕方以降の運転なのですけれども、「メトロはこね21号」という、朝に北千住を発ってお昼前に小田原・箱根湯本に到着するという便があって、これに乗ることにしようと決めました。小田急の急行は千代田線に乗り入れると各駅停車になるのですが、特急は通過運転で、北千住を出ると大手町・霞ヶ関・表参道しか停車しません。地下鉄でよく乗り下りしている駅を、クロスシートのロマンスカーに乗って通過するという気分は格別のものがあります。
ネットで空席照会をしてみたら幸いまだだいぶ空いていたので、これもすぐに予約しました。 朝8時前に家を出て、北千住へ向かいます。接続も良くて、北千住でメトロはこねに乗る前にコーヒー1杯くらい飲めそうなタイミングでした。
ところで北千住駅では、JRの乗り場から千代田線の乗り場には改札無しで行くことができます。千代田線は北千住の次の綾瀬でJR常磐線に乗り入れるのですが、JRの電車が綾瀬に停まらないため、上野や日暮里方面から綾瀬へ行く人が困ります。それで、北千住から千代田線を事実上のJR各駅停車として扱うべく、北千住駅の途中改札は無いことになっているのでした。さらに言うと、北千住ではメトロ日比谷線が東武スカイツリーラインに乗り入れます。日比谷線と千代田線と、メトロ同士なのに途中に改札があるのも不都合だということで、こちらも改札無しで乗り換えができます。つまり、千代田線の乗り場を介すると、なんとJRと東武とが改札無しで行き来できることになります。もっと言えば、千代田線がもう片方で乗り入れている小田急は、井の頭線と下北沢で乗り換えるときに、いまはどうなっているか知りませんが、私が使っていた頃は改札がありませんでした。これを悪用して、私は井の頭線の定期券を持っていた高校生時代、ときどきまったく改札を通ることなく東武電車にふらふらと乗りに行っていたものでした。もちろんこれは無賃乗車なのですが、もう40年近く前の話で、時効ということでお許し願います。
さて、北千住駅ではJRと千代田線とのあいだに改札が無いという話でした。だからそのまま乗って行けば良いようなものなのですが、川口から日暮里乗り換えで北千住へ、そこから千代田線を抜けて小田急を通って小田原へ、というややこしいルートなので、小田原で小田急の改札を出るときに面倒なことにならないかと心配し、一旦JRの改札を出て、駅ビルのコーヒーショップでコーヒーを飲み、外を通って千代田線乗り場に行くという、これまたややこしいことをしてしまいました。
千代田線のプラットフォームに下りると、階段の下がすぐメトロロマンスカーの乗車位置になっていて、乗客が並んでいました。階段を下りてくる人の邪魔になりはしないかと思いました。
特急の始発駅ですが、千代田線の北千住駅は特に線路が多いわけでもなく、2つの番線にひっきりなしに電車が入ってきます。だから特急といえども、発車直前にプラットフォームに入ってきて、客が乗り込むとなんの余韻も無くあっという間に出発します。前後とも3、4分間隔で電車が詰まっているのです。
メトロロマンスカー、正式名称MSEは、木目調のシックな車内装飾で、シートピッチも広く、たいへん乗り心地の良い列車でしたが、そういうわけですから地下鉄線内はあまりスピードが出せません。並行ダイヤ、つまり他の電車と同じ速度でしか走れないのです。途中で追い抜きのできる設備のある駅も無いのでやむを得ません。むしろ、駅に停車しない分、走っているあいだは普通の千代田線電車より遅いくらいなものです。
まあそれでも、西日暮里とか、日比谷とか、乃木坂とか、明治神宮前とか、わりによく乗り下りする駅を無造作に通過してゆくのは気分の良いものでした。しかもクロスシートです。地下鉄でこういう気分を味わえるのは、あとは副都心線のS-TRAINでしょうか。都営浅草線のエアポート快特もかつてはそうでしたが、最近は滅多なことではクロスシート車にあたらなくなっています。
もっとも、東武が地下鉄乗り入れ特急に積極的だという話もあり、もしかすると近いうち、半蔵門線にも「メトロリバティ」か何かが走り出すかもしれません。
大手町ではけっこう乗客があり、霞ヶ関ではほとんど乗ってきませんでした。まあ休日の官庁街では利用者も少ないでしょう。表参道ではそこそこです。
ゆっくり、というよりもゆったりと走って、30分ほどで千代田線を抜けました。代々木上原には乗務員交替のために運転停車します。
成城学園前という、以前は特急が停まることなど考えもしなかった駅に停車し、あとは町田と本厚木に停まって小田原へ。町田でも本厚木でもけっこう乗ってくる客が居たので驚きです。私だったら本厚木から小田原や箱根へ行くのにわざわざ特急券を買う気にはなれないでしょう。
小田原で4輌切り離すので、その切り離し作業を見てから改札を出ました。最近の切り離しはごく簡単で、安全フックを外すと自動的に幌が車輌に収納され、連結器も電磁石か何かなのか、なんにもいじらなくともあっさりと離れてしまいます。昔のように、作業員が何人も集まってきてケーブルをつなぎ直すなんて光景は見られなくなりました。 小田原でJRのプラットフォームへ行くと、何やらオシャレな車輌が停まっていました。全車グリーン車の豪華列車「IZU CRAILE」です。旅行商品として、企画ツアーに参加しないと乗れない車輌と、普通に運賃とグリーン料金を払えば乗れる車輌が混在しており、ラウンジやバーカウンターも設置されてお酒や食事が愉しめるという列車なのでした。不定期で小田原から伊東線・伊豆急線内を走っています。
「IZU CRAILE」に心惹かれながら、反対側のプラットフォームに入ってきた熱海行き電車に乗り込みます。混んでいて私は坐れませんでしたが、湯河原までは15分ほどで、この区間は絶景というべき海と半島の景色を堪能できます。
もっと乗っていたいという気分でしたが、11時25分、湯河原に到着しました。
暖かいかと思ったら、案外風が冷たいので意外でした。もっと南下して伊豆半島に入らないと、そう顕著に暖かくはならないかもしれません。
マダムの希望で、歌手の五月みどりさんが経営しているファンシー雑貨店に入りました。お店は何軒かあるらしいのですが、五月さんが湯河原の出身だとかで、湯河原駅前に大々的に開いているとのこと。最初少し迷いましたが、わかってみると確かに本当に駅前で、でかでかと表示も出ていました。
そこを出てから、奥湯河原行きのバスに乗ります。10〜15分に1本という、かなり頻発している路線です。これに乗って、温泉場中央というバス停で下りれば予約した宿の真ん前なのですが、いくつか手前の落合橋という停留所で下車しました。ここは万葉公園の入口になっており、その公園の奥には「独歩の湯」という、足湯がいくつもまとまっているコーナーがあります。マダムは足湯が大好きなので、まずそこに立ち寄ることにしたのでした。なぜ私がそこのことを知っているかと言うと、ずいぶん前のこと、音楽劇団熊谷組の合宿を湯河原でやったことがあって、そのときに独歩の湯に立ち寄ったことがあるのでした。
バス停の近くに観光会館があり、マダムがトイレに寄りたいというので建物に入ってみたら、資料展示室があったので、予備知識を得ようと思って見学してみました。 この一体を万葉公園と呼んだり、湯河原の温泉を汲んでゆく先を万葉の湯とか万葉倶楽部とか呼ぶゆえんは、湯河原が万葉集で唯一温泉に触れられている歌に比定される土地だったからであるようでした。 ──足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが云はなくに という歌で、この「足柄の土肥の河内」というのが湯河原のことであろうというのです。それで万葉集にちなんだ名前をつけたがるというわけでした。
また、源平合戦で活躍した土肥実平(といさねひら)もここの出身だそうです。私は西伊豆の土肥だとばかり思っていたのですが、湯河原の駅前の町名が土肥と言い、もとはこのあたりの地名であって、それを苗字にしたのが土肥家であったのでした。
また、湯河原には湯治に訪れた文人などが非常に多く、中には病気療養しているうちにそのまま湯河原で息をひきとったという人もけっこう居るらしいのでした。資料展示室では夏目漱石・国木田独歩・芥川龍之介・谷崎潤一郎を大きくピックアップしていましたが、その他にも湯河原を愛した文学者は大勢居ます。与謝野晶子、島崎藤村、宇野浩二、小林秀雄、丹羽文雄、大岡昇平、それに西村京太郎……
そういえば夏目漱石が湯河原の天野屋に滞在しているところへ、内田百が訪ねてきた話を思い出しました。というか展示室の文学年表には、百閧フ来訪そのものがちゃんと記載されていました。
百閧ヘその頃多額の借金を抱えて四苦八苦しており、わざわざ湯治中の師を訪ねたのも、借財整理のためいくらか拝借したいという、人聞きの良くない理由によるものでした。湯河原までの交通費はなんとか工面したものの、それ以外はほとんど無一文で、国府津から乗り換えた当時の熱海線の列車を下りてから、天野屋からの送迎の馬車に乗せられ、もしこの馬車が有料であったらどうしようかと身のすくむ想いだったと言います。
幸い送迎馬車は無料で、漱石も在宿していました。漱石は百閧フ借金の申し出を快く承諾するのですが、ただここには手持ちの金が無いので、東京の本宅へ行って200円出して貰いなさい、と言います。百閧ヘ非常に喜びますが、困りもしました。というのは、漱石先生から借りたお金の中から帰りの交通費を出すつもりだったので、このままでは東京へ帰ることもできなかったのです。漱石はそれを察して、お小遣い込みで百閧ノ50銭銀貨を4枚渡したのでした。たぶん当時(大正4年)の200円はいまの100万円以上、百閧ェその場で貰った2円も、いまで言えば1万円以上の価値があったと思われます。
しかも漱石は、もう遅いからひと晩泊まってゆくように百閧ノ言うのでした。温泉に漬かり、ご馳走を食べ、百閧ヘ師の恩に打ち震えました。もっとも打ち震えながらも夕食の時、
「あのお、ビールを飲んでもよろしいでしょうか」
と漱石に訊くのが百閧轤オいところです。百閧ヘ自他共に認める酒豪でしたが、漱石はほとんどアルコールを受け付けない体質で、このときは胃潰瘍の療養だったためますますお酒など呑めない状況です。普通の弟子ならお酒は自重しそうなところですが、その辛抱ができないのが内田百閧ニいう人なのでした。
久しぶりにゆっくりと寝て、翌朝漱石の部屋へ挨拶に行ったら、漱石は何やら皮膚薬を塗るためにすっぽんぽんであぐらをかいていたということを、百閧ヘのちのちまでもひとつ話のように回想することになります。
こんな用件で訪ねた百閧ナも、天野屋から見ればお客様なので、その後毎年正月には年賀状が届いたそうな。
以上の話を、私は百閧フ随筆でも座談でも何度も読んで、その場の光景をありありと想像できるまでになっています。ただ、それが湯河原であったことは忘れていました。なんとなく熱海でのことだったように勘違いしていたのでした。 国木田独歩がしばしば訪れていたのは知りませんでした。「独歩の湯」は国木田独歩と「足湯→歩く」にひっかけた命名でしょう。
独歩が湯河原を訪れていたのは漱石よりさらに前の明治年間で、小田原からは彼はいつも「人車鉄道」に乗っていて、その異様な光景を記録しています。
「人車鉄道」というのは「馬車鉄道」に対応した言葉で、レールの敷かれた軌道の上を馬ならぬ人が車輌を押したり牽いたりして進むという、たぶん日本でしか誕生しなかった鉄道形態です。明治時代にはいろんなところに敷かれたようですが、この小田原〜熱海の豆相人車鉄道以外では、有名なところでは帝釈人車軌道があります。現在の京成金町線の一部で、そこの人車鉄道こそ京成電鉄の原型となった路線なのでした。
柴又から金町程度の帝釈人車軌道なら、距離も短いし平坦なので、まあ人力車のちょっと大型のものという程度で済みますが、小田原〜熱海間は現在の鉄道でも20キロ以上あり、いくつもあるトンネルの部分は峠越えみたいなことを繰り返していたと思われますので、たぶん30キロくらい、山あり谷ありの線路を人力で押して輸送していたはずです。さすがに途中で交代などはあったことでしょうが、これはとてつもない重労働で、押している車夫があまりにつらそうで見ていられないというクレームが、当の乗客たちから頻々と会社に寄せられ、全通してから7年ほどで、普通に蒸気機関車牽引による軽便鉄道へとチェンジしたのでした。国木田独歩は、ちょうどその7年ばかりのあいだに頻繁に湯河原を訪れたようです。
場所も気に入ったのでしょうが、湯治を繰り返さなければならないくらいからだも弱かったようで、独歩はわずか37歳の若さで世を去ります。私は不明にも、国木田独歩がそれほど夭折の作家であったとは知りませんでした。もっと老大家というイメージで認識していたのですが、誰かと混同していたのかもしれません。 予備知識というにはだいぶ深い知識を資料展示室で仕入れたのち、「文学の小径」を辿って、奥の独歩の湯へ向かいます。文学の小径には、10メートルおきくらいにいろんな人の俳句や短歌などの木札が立てられています。最後には与謝野寛(鉄幹)と晶子の短歌が並べられていましたが、晶子のほうが明らかに出来が良いことを、門外漢の私などでもはっきりわかるのが面白く感じました。
独歩の湯は、前に来たはずのときとなんとなくまわりの景観が違うように思ったのですが、中へ入ってみると確かに同じところであることが納得できました。湯河原町民は100円で入れますが、町外の人間は300円とられます。入場券を買ってから、ロッカールームに荷物を預け、ついでにロッカーに入っていたサンダルに履き替えます。微妙に濡れていて少々気持ち悪いのですが、園内にはこのサンダルを履かないと入れません。
8つか9つくらいの足湯があって、それぞれ底に敷かれている石やタイルの形が違い、足ツボをいろんな方法で刺戟します。前に来たときは、同行していた年輩の男性歌手たちが、みんな「肝臓」に効くという湯のところで
「痛、イタ、イタタタタ」
と大騒ぎしていたのを思い出します。ちなみにそのとき私自身は、「腎臓」のほうが効きました。尿管結石で入院してから間もなくのことではなかったかと思われ、なるほど腎臓系が効くのはうなずける、と思ったものでした。
マダムはあちこち悪いところがあるようで、ほとんどどの湯に踏み入れても痛がっていました。が、いわゆる「痛気持ちいい」というヤツで、だんだんはまってきたようでした。
私は前回と同じく、腎臓系が効くようでしたが、そこのお湯だけ妙に高温で、熱くて漬かっていられませんでした。他には「腸鼻の泉」などが効くように思いました。 すっかり足湯を堪能してから、独歩の湯を出ました。
足湯に漬かっているあいだに、他の客が
「タンタン焼きそばってのが湯河原名物らしいよ」
などと言い合っていたのを、マダムが耳ざとく聴いていて、そのタンタン焼きそばなるものを昼食に食べたいと言い出しました。
そんなものが湯河原名物だとは聞いたこともありません。どこへ行けば食べられるのかもわかりませんでした。
文学の小径ではなく、上を通る道で公園を出たら、「こごめの湯」という日帰り温泉施設があり、なんとそこの食堂でタンタン焼きそばが食べられることがわかりました。施設の前に立った幟(のぼり)に書いてあったのです。
入場料を払わなくとも、食堂に寄るだけでも良いらしいので、早速中に入り、食券販売機でタンタン焼きそばを2枚購入します。
私らは当然「担々焼きそば」つまり四川風に辛く味付けされた焼きそばなのだろうと予測していましたが、運ばれてきた焼きそばは、多少辛みは感じましたがさほどのことはなく、上に半熟の目玉焼きが乗っていました。
あとでわかったのですが、タンタン焼きそばには決まったスタイルが無く、店によってまるで違うものであるようです。そもそもタンタンというのは担々麺の担々ではなく、 ──タンタンたぬきの、金○○〜〜…… のタンタンなのでした。
なんでも湯河原温泉は、タヌキによって伝えられたという伝説があるらしく、そういえば街のあちこちに2頭のタヌキの像がありました。片方はタヌキというよりブタみたいに見えるのですが。ともかく湯河原はタヌキと因縁が深く、そこからタンタン焼きそばなる名称も発案されたということです。 こごめの湯から急坂を下りるとバス通りに出て、公園入口というバス停があります。実はさっき下りた落合橋からはわずかな距離で、このあたり、バス停は100メートルおきくらいにやたらと密集しています。
バス通りをもう少しだけ上がると、早くも次のバス停である藤木橋となり、そこに温泉街の入口の看板が出ていました。
橋を渡り、バス通りと離れて裏道に入ります。確かにいくつかの温泉宿が並んでいました。
が、その道が再びバス通りと合するあたりが、この日の宿である「ゆ宿 高すぎ」でした。宿のすぐ目の前に「温泉場入口」のバス停があります。
しかし、まだチェックインはしません。もう少しだけ上のほうにある、町立美術館を訪ねてからのことにするつもりでした。すぐ近くに看板が出ていて、そこからは歩いても1分とかからないのですが、「美術館前」というバス停がまたしても現れます。
温泉場のうら寂れた美術館……と、最初はやや舐めてかかっていましたが、この美術館がなかなか侮れない存在なのでした。
(2018.2.13.)
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