I 2019年の年末から2020年の年始にかけて出かけておりました。 いままで、大晦日まで出かけていて元旦に帰ってきたということはあるのですが、年末年始にまったく家に居なかったのははじめてです。やってみると、良いですねこれが。正月料理などまったく考えなくて良いし、年末、何をするでもないのにやたらと気がせいてあわただしい雰囲気を、すっかり振り払うことができます。今後も、事情が許せば年末年始はどこかへ出かけてしまおうかと思いました。 もっとも、年賀状の返事などがだいぶあとになってしまうデメリットはあります。私の場合、こちらからは出さないけれども先方からは届くというケースが多く、それに対しての返事は出しますので、年明けに追加で送る枚数がけっこうな分量になるのでした。この年末は珍しく年賀状を早い時期に用意できたので、もう少し多めに出しておけば良かったと後悔しました。 大掃除などは出かける前に済ませなければならないところだったのですが、あいにくと年の瀬も押し迫った時期にマダムが腰をやってしまい、毎年の私の分担であるガス台と風呂場のクリーニングくらいで終わってしまいました。12月30日の朝に休日診療の整形外科を見つけて、私も付き添って行ってきましたが、むちゃくちゃ混んでいて、診察が終わるまでに3時間くらいかかりました。もうその日はほぼそれで終わりみたいなものです。 とはいえ、起き上がるのもしんどうそうだったマダムが、診察を受けたあとはかなり調子が良さそうになり、ヘタをするとお出かけがキャンセルになりかねない騒ぎだったのが、無事に出かけられることになったので、やはり医者に行っておいて良かったようです。原因と対策がわかっただけでも安心したのでしょう。 さて、そんなわけで31日の朝から出かけました。向かうは沖縄です。実家の母が、そろそろ寄る年波で、家族で旅行できる機会ももう無いかもしれないなどと言い出し、ツアー代金は自分が出すので一緒に行かないかと誘ってきたのでした。それでお言葉に甘えることとし、両親とマダムと妹と私の5人連れで、「沖縄で暖かいお正月」とかなんとかいうツアーに参加したのでした。私は基本的にパッケージツアーというのはぎちぎちにスケジュールが詰め込まれていて好きではないのですけれども、日数があまりとれないときには要領良くあちこちを見せてくれるのでその点はありがたいし、何よりも沖縄にはまだ行ったことがありません。 私は沖縄以外の都道府県にはすでにすべて足跡を記しています。列車で通過しただけではなく、ちゃんと下車して歩いたことがあります。そんな私が沖縄へ行っていなかったのは、ひとえに鉄道が無かったからでした。ゆいレールが開通した頃からは、逆になかなか時間がとれなくなりました。せっかく行くのなら最初は飛行機などですっ飛んでいくのではなく、船で行きたいものだなどと考えていたので、余計にふんぎりがつかなかったようでもあります。こういう機会でもないと、まだしばらく沖縄に足を踏み入れそうもなかったので、良いきっかけでした。 マダムも沖縄ははじめてだそうで、楽しみにしていました。腰痛のためにキャンセルにならず、めでたい限りです。 わりと遅い時刻の出発でした。最初の予定では11時の飛行機のはずだったのが、13時となったのでした。これはご想像がおつきでしょうが、先日の首里城焼失事件の影響です。首里城でとっていた時間がまるまる不要になったので、その分出発を遅くしたというわけです。まあ、首里城公園そのものは入場可能ですが、中に入るのと入らないのでは所要時間がだいぶ違うのでしょう。 首里城の事件は残念ではありましたが、本来首里城というのはたびたび火災で焼失している建物で、このたび燃えたのも平成になってから再建されたレプリカであり、しかももとの建物の図面なども残っておらずほぼ関係者の記憶と想像だけで建てられたものだそうで、観られなかったことがそんなに深刻なダメージだったわけでもありません。むしろ出発がゆったりできたほうがありがたい話でした。 京浜東北線が快速タイムに入っていたので、品川まで乗ってゆき、京急で羽田空港に向かいました。いままで羽田に向かうときはほぼ東京モノレールを利用してばかりだったのですが、案外と時間がかかります。それに京急利用のほうが安くつくのでした。ただし、日中の快速タイムでないときに行く場合、品川まではかなり遠い感じがします。上野東京ラインが開通するまでは、やはり浜松町で下りてモノレールのほうが楽な気がしていたのでした。いまとなっては京急一択でしょう。 両親と妹はもう待ち合わせ場所に着いていて、私らが到着すると、今回代表者となっている妹がチェックインしに行きました。昔ながらの厚紙の搭乗券ではなく、A6判の紙に必要事項がプリントアウトされただけの「Eチケットお客様控え」というのを手渡されます。いろんな交通機関でこの種の「切符」が増えてきたので意外ではありませんが、飛行機の搭乗券までこうなってしまうと、どうにもお手軽な気がしてなんとなく落ち着きません。 飛行機の出発は少し遅れましたが、待ちあぐねるほどではありません。ほぼ満席でした。 外国へ行くとき以外は、札幌までの飛行機しか乗ったことがないのですが、沖縄まではその倍近くの時間を要し、日本は広いものだとあらためて思いました。 那覇空港に着くと、ツアー会社の添乗員のYさんに迎えられました。わりに恰幅の良い女性でしたが、半袖のアロハシャツみたいなのを着用していたのでさすがに驚きました。空港の建物内ではまだ外気の感じはわかりませんが、調べてきた最高気温・最低気温の感じからして、首都圏の9月末から10月はじめくらいの気候と思われました。私は半袖はさすがに寒いのではないかと思い、長袖のシャツに、場合によってはジャケットを羽織るくらいの服装で行ったのですが、Yさんの姿には度肝を抜かれました。もっとも、Yさんは意識してお客たちを驚かせた気配もあります。この日の晩は風が強く、実際にかなり体感気温が下がっていました。また、Yさんは埼玉県の生まれで10年ほど前から沖縄住まいであったのに対し、翌日から合流したガイドのKさんは沖縄の地生えの人で、ヒートテックを着用していたとのことです。 ツアーの客は20人ほどで、観光バスに乗り込むとすぐにホテルに直行しました。空は残念ながら曇っています。 この日は一旦ホテルに落ち着いたのち、国際通りの端にある居酒屋で夕食ということになっていました。その後、23時ころからはじまるカウントダウンクルーズに乗船するというスケジュールです。 居酒屋と言っても、宴会コースみたいな感じでメニューは決まっています。沖縄らしい料理がいろいろと出てきました。ゴーヤチャンプルー、豆腐チャンプルー、グルクンという魚のバター焼き等々、次から次へと運ばれてきます。いささか量が多くて胃もたれがするほどでした。あとでクルーズでも軽い食事が出るという話なので、少しおなかを空けておきたい気もしたのですが、残すのも忍びなく、つい食べてしまいました。母はもとから食の細い人だし、それなりの食事量だったはずの父と妹も最近少し減ってきているようで、結局マダムと私がかなり引き受けたような形です。 食事のあと、三線のライブがありました。兄妹ふたりのユニットだそうで、兄さんが三線、妹さんがエイサー太鼓を受け持ち、楽器を鳴らしながら歌います。三線は重厚なコードを鳴らせる楽器ではなく、ごく簡単な伴奏形を弾いたり、メロディーを重ねたりする程度なのですが、それにエイサー太鼓が加わるだけで、ずいぶんと音の厚みが出てくるので驚きました。 ホテルから店までは小さなバスで移動したのですけれども、帰りはやはりバスに乗るか、それとも自力で帰るかの選択肢が示されました。那覇きっての目抜き通りである国際通りを散策したい人も多いし、このあと那覇の街中に戻ってくる機会も無いので、大半のツアー客が自力帰還を選んだ様子です。私たちももちろんそうしました。 もっとも私の両親・妹とは、店を出て間もなくはぐれてしまい、あとはマダムとふたりで散策しました。マダムは彼女の母親から、小さいシーサーの置物を買ってくるよう頼まれており、しかもどれでも良いわけではなく意匠を指定されて「これと同じ物を」と写メまで受け取っていました。ホテルの売店にもシーサーの置物はいくつも置いてありましたが、ご指定の品は少々変わっていてそこには無く、国際通りで最初に入った店にも無く、3軒めくらいでようやく発見しました。マダムは肩の荷を下ろしたようでした。 何軒かの店を冷やかしながら、国際通りをほぼ全部歩き、東側の終点近くにあるゆいレールの牧志駅から、3駅間だけ乗って旭橋で下り、そこからタクシーを拾ってホテルに走らせると、初乗り料金で着けました。初乗り料金も那覇では560円で、東京よりだいぶ安いのでした。 パック旅行ではゆいレールに乗ることは無理だろうと諦めていたのですが、わずか3駅間とはいえ乗ることができて幸いでした。 ゆいレールは、クルマ社会が定着している沖縄では利用者が少ないだろうとの事前の観測を裏切って、那覇市内での交通渋滞にうんざりしていた住民から好評をもって迎えられ、営業成績は好調です。しばらくは那覇空港から首里までの路線でしたが、つい3ヶ月前の10月1日、浦添市のてだこ浦西まで延長されました。計画ではさらに延長して沖縄市域まで達することを考えているようですが、これはいつになるかわかりません。 わずか2輌の編成とはいえ、最大12分間隔、たいていは6〜8分間隔という、地方都市としてはなかなかの運転頻度で、今後が期待されます。赤字が出ているとのことですが、おそらく償却費がほとんどでしょう。いずれ全線、そして日中に乗ってみたいと思います。 ホテルでひと休みし、タクシーに分乗して港へ向かいます。カウントダウンクルーズへの乗船です。モビー・ディック号という遊覧船でした。本来こういうディナークルーズ用に運用される船であるようです。この日は180名ほどの乗客が居たとのことでした。 指定された席に着き、ビュッフェ形式の食事を取ってきます。軽食という話でしたが、充分に食べ応えのありそうな料理が並んでおり、眼は欲しがっていたものの、おなかにはさっきの夕食がまだたゆたっており、ごく控えめにしか取れなかったのが残念です。年越しそばとして沖縄そばが出ており、それは確保しました。 カウントダウンのタイミングまでは、早食い競争だの早呑み競争だのがありましたが、当然ながら参加は無理です。それでもマダムはやや心が動いた様子でしたけれども、激辛・熱々のそばと聞いて諦めていました。彼女は辛いほうはまだしも、熱い食べ物が苦手なのです。なお、早呑みのほうはビールをストローで飲むという、なかなか厳しい勝負で、私たちのツアーの中の女性が優勝しました。並み居る男性たちを差し置いて女性が優勝したのは、最近流行のタピオカドリンクによって、液体をストローで吸う力を鍛えていたからではないかというのが妹の説でした。 年が改まるとき、港に停泊中の船はみんな汽笛を鳴らして新年を祝うのが慣例となっています。早食い競争の勝者は、その汽笛を鳴らす権利を与えられていました。 カウントダウン前にクラッカーが配られ、午前零時に鳴らすことになっていました。少し前に船室の照明が落とされ、真っ暗の中で司会者がカウントを開始します。 カウントダウンがゼロになったとき、クラッカーの紐を引っ張りましたが、残念なことに私のは不発でした。幸先良くないなあ。 その後、ジャズのライブがあったり、抽籤会があったり、エイサー太鼓のショーがあったりと、なかなか盛りだくさんな行事がおこなわれました。 抽籤会というのは乗船券の半券に印刷されていた数字を使ってくじ引きをするのでしたが、景品がやたらと厖大です。私の家族は全員くじ運が悪いので、どうせ当たらないだろうと思っていたら、珍しく父が引き当てました。父に与えられた景品は「赤いきつね」12食分で、重くはないもののえらくかさばります。持って帰るのがひと苦労で、私たち夫婦もあとで4食分割り当てられました。カップ麺くらいならまだ良いのですが、ビールひと箱とか、お菓子(しかも同じ物)を32箱とか、どうすりゃいいんだと言いたくなるような景品もいろいろとありました。国際通りにあるお店での食事券なんてのもあって、県内の参加者なら良いようなもののツアー客など困るだろうなと思いました。 外国人が引き当てたのもいくつかあり、上に書いたビールはそうだったようで、持ち帰るのは困難です。重さもさることながら、余計に税金をとられるかもしれません。仕方なく、隣の席の人にあげてしまっていました。それを貰った人が私らのツアーのメンバーだった関係で、あとでメンバー全員にオリオンビールの缶が配られたのでした。なかば受け狙いの抽籤会であることはわかりますが、もう少しひとり分の分量を抑えて、当選本数を多くすれば良いのにと思わざるを得ませんでした。 ホテルに帰って1泊し、2020年の最初の夜が明けます。沖縄の夜明けは東京近辺よりずっと遅いものの、ホテルの部屋が西向きであったため、初日の出は拝めませんでした。それにこの元日もおおむね曇りで、東の空を見ても太陽は出ていなかったでしょう。
正月企画らしく、朝食の会場でも琉球舞踊の演舞がありました。音楽は生ではなく録音でしたが、いわゆる琉球音階(ドミファソシという旋法、ペロッグ音階ともいう)でない曲もけっこうあるのだなと思いました。聴いているうちに、不意にミュージカル版『星空のレジェンド』の、冒頭の祝祭音楽のメロディーが思い浮かんできました。実は往路の飛行機の中で台本を読み、その場でいちおうのメロディーはイメージしていたのですが、どうも合唱版の最終楽章の祭の歌と雰囲気がかぶり、しかもその歌はミュージカル版でも援用されるため、どうしたものかと思い悩んでいたのです。琉球舞踊の音楽を聴いていて、長調系の音階を用いればガラッと印象が変わることに気がついたのでした。ここからその日の晩くらいまで、頭の中で曲想を練り、ホテルの部屋で五線紙に書き留めて、さらに練って翌朝くらいに決まりました。何はともあれ、2020年は元日から作曲ができたわけで、こんどは幸先良いぞと思ったものでした。 9時半にホテルを出発し、まず向かったのは「波上宮(なみのうえぐう)」でした。港に隣接した「波の上ビーチ」の直上の崖の上に立てられた神社です。最初に初詣というわけです。 早めの時間に来て良かったようで、参拝して階段を下りてくると、鳥居を経てずっと先の路上にも行列が続いていました。少しでも遅かったらえらく待つことになるところでした。 そこから一挙に高速道路で北上します。いまのところ沖縄県唯一の高速道路である沖縄自動車道は、首里近くの那覇インターチェンジから、沖縄本島の脊梁山脈──などというと大げさですが──を突っ切る形で、名護市の南部にあたる許田(きょだ)インターチェンジまで連なっています。私たちの乗ったバスは、西原インターチェンジから入りました。道路の脇や中央分離帯に植えられている植物がいかにも南国らしいものでした。そういえば国際通りの街路樹もシュロの樹で、沖縄に来たぞぉ、という気分を盛り上げてくれました。 西海岸の恩納村(おんなそん)、東海岸の金武町(きんちょう)よりも北のことをヤンバルと呼ぶそうです。ヤンバルという言葉が「山原」であって田舎とか田舎者を意味することはもちろん知っていましたし、沖縄本島の北部をそう呼ぶことも知識としてはありましたが、どのあたりからヤンバルになるのかは知りませんでした。漠然と、名護市よりも北のほうかな、と思っていたのですが、実際には名護はもう完全にヤンバルで、実際ヤンバルを名乗る店や施設も名護市内にはたくさんあるようです。私がヤンバルだと思っていた大宜味村(おおぎみそん)や国頭村(くにがみそん)は、奥ヤンバルと呼ばれる地域になるのでした。 そのヤンバルの根元あたりの西海岸に、大きくコブのように張り出した半島が本部半島で、高速道路を下りたバスはそちらに向かって走ります。名護の市街地でちょっと渋滞していて、ガイドのKさんが心配していましたが、半島に入るとスムーズに走り出しました。 道端に、お墓がたくさん見受けられました。沖縄のお墓は非常に特徴的な、亀甲墓とか破風墓とか呼ばれるもので、ちょっとした小屋みたいな形をしています。大きなものは家に近いほどです。マダムの父方の祖父母が眠るお墓の近くに、沖縄式の破風墓が建てられているので、見覚えはありました。でなかったら道端にあるのを見てもなんだかわからなかったかもしれません。昔は風葬が多く火葬しなかったのでお骨がコンパクトな大きさにならなかったのと、内地よりも家父長制が強くて父系親族全員がひとつのお墓に収納されたのが、やたらとサイズが大きいお墓になる主な理由だそうです。山の斜面などを利用した掘り込み墓というのもあります。話が前後しますが、翌日に行った王家の墓「玉陵(たまうどぅん)」も、規模が巨大なだけで、基本的には同じ考えかたで造られているようです。 晴れていたらものすごくきれいだろうなと思われる海に沿って、半島の先のほうまで走り、ちょっと坂道を登って、ゴルフ場のほとりに建てられたホテルの食堂で昼食となりました。前の晩と対照的に、少々量が控えめで、マダムなど物足りなさそうにしていましたが、この辺の名産であるアセロラを用いた料理で味は良好でした。 そのあと、いよいよこの日のメインとも呼ぶべき、美ら海(ちゅらうみ)水族館に移動します。言うまでもなく、1975年に開催された沖縄海洋博の跡地に造られた海洋博公園(国営沖縄記念公園)の中心となる施設です。海洋博のことは、当時テレビなどで盛んに宣伝していたので、小学生であった私も記憶していますが、沖縄が復帰した72年からわずか3年後でしかなかったことに、今さらながら驚きを禁じ得ません。USAの委任統治領から復帰して「日本国沖縄県」となったことを世界に向けてアピールすべく、内地側も沖縄側も、総力を挙げて突貫で実現してしまったという趣きがあります。それに、会場は那覇近辺であろうとばかり思っていたのに、ヤンバルの本部半島であったということにも驚きました。美ら海水族館のことはもちろん聞いたことがありましたが、不明なことながら、いったいどこにあるのかという点は、今回訪れるまでまったく知らなかったのです。 (2020.1.4.) |