忘れ得ぬことどもII

イスラムという世界

 パリムハンマドの風刺画を載せた雑誌社が襲撃されて何人ものマンガ家が殺されたり、日本人ふたりが「イスラム国」に囚われて2億ドルの身代金を要求されたりと、このところまたイスラムがらみの騒動が多くなっています。
 もちろんこのふたつの事件を「イスラムがらみ」とまとめてしまうのは乱暴な話です。前者は西欧的な「表現の自由」と、イスラムの持つ「教主の尊厳」および「偶像禁止」という価値観の衝突であり、容易に解決する問題ではありません。
 後者だって簡単に解決は望めないかもしれませんが、ことはイスラム教の問題ではなくて、イスラム教徒の中の過激分子であるIS(イズラミック・ステイト=イスラム国)の暴走なのです。
 われわれは、この違いをちゃんと認識しておかなければなりません。日本人としては、自国民が関わっているだけに、後者の事件のほうが重大であるように思われますが、世界レベルで見た時により深刻なのは、相容れない価値観をどうするかという点にかかっている前者のほうでしょう。
 後者の事件について、
 「安倍晋三首相の暴走が、ついにイスラムを敵に回してしまった」
 みたいな論評をしている「文化人」「知識人」が次々と現れていますが、無知なのか、それともただ首相を叩きたいがためにあえて曲解しているのか、バカも休み休み言って欲しいものだと思います。
 「イスラム国」の無茶でいちばん被害を受けているのは、他の誰でもない、トルコシリアヨルダンといった国々の、まっとうなイスラム教徒の人々です。そこで多くの人が、殺されたりさらわれたり追い立てられたりしているのです。それらの人々の支援のために、首相は2億ドルを拠出すると言明したわけですが、それがどうして「イスラムを敵に回した」ことになるのでしょうか。
 敵に回したとすれば「イスラム国」であって、イスラムと総称される人々ではありません。そして「イスラム国」というのは「国」を名乗ってはいますが、いまだどこの国にも承認されていない、ただのテロ集団に過ぎません。そのテロ集団を敵に回したからといって、浮き足だって大騒ぎするなど、どれだけ平和ボケなのかと思わざるを得ません。
 平和ボケなのではなくて、その辺をちゃんと承知していて安倍攻撃のために事件を利用していると思われる手合いも少なくないように見えますが、野党議員などの中には、本気で「イスラム」と「イスラム国」の区別ができていないのではないかと思われるのも居るので困ったものです。「識者」と称する連中の発言は、よく眉に唾をつけて聞いておいたほうが良いでしょう。

 日本政府は過去に、
 「人命は地球よりも重い」
 と口先だけはカッコの良いことを言って、ハイジャック犯の要求するままに犯罪者を釈放したという前科があります(ダッカ日航機ハイジャック事件)。
 人質を取られて身代金や政治的要求を突きつけられるというのは、どうにも悩ましい立場であることは言うまでもありません。人質を見捨てるわけにもゆきませんし、かといって脅迫者の要求を呑むことは、一時の解決にはなってもより大きな禍根を残すことのほうが多いはずです。
 ハイジャック犯の要求を呑んだのは、「より大きな禍根を残すという仮想上の危険よりも、いま現在捕まっている人々の生命のほうが大事である」という判断によるものなのでしょうが、はたしてこの時の判断が正しかったのかどうか、微妙なところです。当時も「日本は(自動車や電化製品ばかりではなく)テロまで輸出するのか」と批難されたそうです。
 今回は、どう考えても将来の禍根のほうが重大でありそうです。仮に「イスラム国」の要求どおり2億ドルを支払ったとすれば、その2億ドルはたちまち大量の武器となって勢力拡大に使われるでしょう。勢力拡大というのは、言い換えれば該当地域の住民たちへの迫害にほかなりません。無理矢理に「イスラム国」に参加させられるか、それを拒めば殺されるか、あるいは住んでいた土地を追われて難民となるか。繰り返しますが、こうやって迫害されるのはほとんどがまっとうなイスラム教徒です。
 それだけではありません。「日本人を誘拐して脅せばカネになる」ということを「イスラム国」が学習してしまいます。今後、中東地域に居る日本人が、格段に危険にさらされることになります。
 それにG8などおもだった国とのあいだで、「テロリストには決してカネを払わない」という申し合わせができています。それを破ることで、日本への信頼はがた落ちでしょう。それどころか「テロ支援国家」扱いされるかもしれません。
 要求どおりに2億ドルを払って人質を解放して貰うべきだと言っている連中は、こういうことをきちんと認識しているのかどうか。認識しないで心情的に言っているだけなら救いがたい「お花畑」ですし、そうではなく認識した上で言っているのだとすれば、これはかなり悪質です。
 「該当地域のまっとうなイスラム教徒の命など知ったことか」
 「中東に居る日本人など大いに危険にさらされれば良い」
 「日本がテロ支援国家扱いされて国際的に糾弾されるとは、まさに願ってもないことだ」
 等々と明言しているようなものです。なんだかどこかの国みたいなスタンスではありませんか。
 ハイジャックに巻き込まれた飛行機の乗客とか、海辺を散歩していて北朝鮮に拉致された被害者とかとは違い、今回の人質は、いわば何もかも承知の上で危険地帯へ踏み込んでいるので、どちらかというと冷ややかな眼で見ている人が多いように感じられます。現地ガイドも含めてあらゆる人から「行くな」と言われていたのに「イスラム国」の本拠へ行ってしまったわけで、

 ──言わんこっちゃない。

 という感想が多数を占めているのもやむを得ないことでしょう。日本人の心根が冷たくなったわけではないと思います。
 しかし、そんな手合いであっても、公然と見殺しにするわけにゆかないのが日本政府のつらいところではあります。国民としては、そのつらさを分かち合う気持ちを持つべきではないでしょうか。ここぞとばかりに政府の足をひっぱろうとしている連中は、いったいどこに生まれてどういう育ちかたをしてきたのだろうかと疑いたくなります。
 特殊部隊のようなものを派遣して強引に人質奪還、なんてことができればカッコ良いのですが、先年のアルジェリア人質事件を見ても、それ以前に北朝鮮拉致事件を見ても、日本政府には残念ながらそんな「マーダーライセンス牙」みたいな暗部組織は存在しないと思われます。「イスラム国」相手には有効なパイプも無いらしく、手探り状態で粘り強く解決してゆくしかないでしょう。
 そもそも「イスラム国」側も、2億ドルを72時間以内に払えと、動画で要求してきただけで、肝心の受け渡しの方法も指定していませんし、とっくに72時間以上が経過しているのにまるで動きが無いようです。本当に本気だったのだろうかと思えなくもありません。人質にナイフを突きつけている動画自体が、合成編集されたものだろうと言われています。大がかりで、とてつもなく人騒がせなイタズラということはないのでしょうか。
 まあ、勝手な推量は遠慮しておいたほうが良いかもしれません。なんとかテロ支援をすることなく人質を取り戻す方途が見つかることを祈ります。

 いずれにせよ人質事件は、理不尽なテロに巻き込まれたというだけの話であって、不運ではありますが、世界観を問われるような問題ではありません。
 しかし「シャルリ・エブド」襲撃事件のほうは、本当に相容れないふたつの価値観がぶつかった事件で、「表現の自由」とはなんなのか、ということをみんなが考えなければならない契機となりました。
 西欧的価値観と、イスラム的価値観との正面衝突です。
 どんな理由であろうとも、表現の自由を暴力で侵すことは許されない……と私たちは考えますが、それ自体が西欧的価値観でしかありません。
 信仰の(もしくは人間の)尊厳は、たとえ暴力を用いてでも守られなければならない……と考える人々が一方には居るわけです。
 シャルリ・エブド誌のイラストを見ると、イスラム教を総体として擬人化する場合にムハンマドのキャラを用いるのがお約束になっていたようです。普通に、誰ともわからないアラブ人にしておけば、今回のような惨劇にはならなかったかもしれません。
 そういう形でムハンマドのキャラを使うというのは、イスラム教徒からしてみれば二重の冒涜になります。まず神聖たるべき教主を愚弄しているという点。そして、それを画像化しているという点です。
 言うまでもなく、イスラム教は非常に厳しく偶像崇拝を禁じています。それだから美術も、絵画や彫刻など写実的なものはまったく発展せず、模様、文様といったジャンルが発達しました。厳しい宗派ではテレビを見ることも禁じているそうです。テレビを見ることが偶像崇拝にあたるのかと不思議に思えますが、画像を見て娯しむこと自体が崇拝したことになるというのでしょう。それを考えると、動画をさかんに活用している「イスラム国」は、実のところ信仰の上でさほど厳しい宗派というわけではないのかもしれません。
 ともあれ、「画像化すること」はイスラム教にとっては冒涜なのです。この点、イエス・キリストを盛んに画像化しまくってきたキリスト教側には理解しにくいことかもしれません。
 画像化の有無はともかくとして、キリスト教のほうも、つい何百年か前までは、冒涜ということにはきわめて厳しい対処をしていたはずです。火あぶりにされた者もたくさん居ました。つまり、信仰の尊厳を守るためには、人を殺すも苦しゅうないというのが基本スタンスだったわけです。それから長いこと血みどろの葛藤を経て、ようやく宗教の相対化という境地に辿り着き、表現その他の自由のほうが大事だという価値観に至ったのがここ100年くらいのことです。
 その100年ばかりの価値観を、万古不易、万国共通であるべきとしたのが西欧文明です。ある意味、きわめて傲慢な態度であるとも言えます。襲撃事件は、その価値観を非西欧圏にまで押しつけようとするシャルリ・エブド社(に代表される西欧文明)に対する反撥ということであったのかもしれません。
 実際シャルリ・エブド社には、イスラム側からすでに何度も抗議が行っていたらしく、それでも同社は「うちは一切のタブーを受け付けない」とうそぶいてムハンマドのマンガを載せ続けたのでした。
 「口でいくら言っても効き目がないのなら、力でわからせてやる」
 という考えは、もちろん短絡的ではありますが、同じような想いを誰かに抱いたことがまったく無い人は少数派ではないかと思います。それを実行するかどうかは、状況のしからしむるところに過ぎないでしょう。今回はそれが最悪の形で実行されてしまったということです。
 「何も暴力に訴えなくとも、名誉毀損で訴訟を起こせば良いではないか」
 ……というのも西欧的価値観かもしれません。フランス国内のイスラム教徒にしてみれば、

 ──どうせ裁判所だって、ヤツらの味方だ。

 という感覚があった可能性があります。そもそも名誉を毀損された「教主」が1500年も前の人物なのですから、近代的な訴訟法においては、訴えが成立しないのではありますまいか。訴訟不適格で却下されてしまいそうです。またフランスでは近年、イスラム教徒の女性がブルカ(顔から全身を覆うヴェール)をかぶることを禁じる法律ができました。ブルカの着用は女性の権利を侵害しているというのですが、大きなお世話のようでもあり、イスラム文化を真っ向否定した挙でもあります。

 ──この国の裁判所に訴えたって、無駄だ。

 とイスラム教徒が思ったとしても、無理とは言えないのではないでしょうか。

 前にも書いたことがありますが、人間ひとりひとりの命の価値がみな等しいというのは、それほど自明な考えかたではありません。
 多くの宗教で、その信徒と、それ以外の者との命の価値は異なっているのが普通です。異教徒を殺すことは、多くの場合正義とされています。ユダヤ教でははっきりそうなっており、キリスト教でもつい最近まではそうでした。ユダヤ教・キリスト教と同根であるイスラム教(ヤハウェアラーは同じ神様です)が、ほんの数百年の差でいまだにそうであったとしても、それを責める資格がキリスト教側にあるかどうか。
 すべてのものに神が宿る、あるいは万物衆生これ仏なりという、いわば汎神論の立場であるわれわれ日本人には、命の価値がみな等しいという考えかたは非常に受け容れやすいために、これが人類普遍の思想であると考えてしまいがちですが、世界的に見ればむしろいまでも少数派なのだということは意識しておいたほうが良いかもしれません。
 イスラム教徒に、信徒も非信徒も、どちらも同じ価値を持つ命なのだということを納得させるのは大変でしょうが、もしかすると日本人にしかできないことかもしれません。われわれは、こういうことで世界に貢献できるのではないでしょうか。

 イエスの言行録である新約聖書と、ムハンマドの言行録であるコーランを読み較べると、イエスが肝心なことをことごとく比喩表現でばかり言っているのに対し、ムハンマドの言葉が非常に具体的で明快であることに気づきます。イエスの教えはある意味あいまいであるがゆえに、後世さまざまな解釈を許し、自由ということをはぐくむ下地になって行ったのですけれども、ムハンマドの教えはあまりに直截的で、多様な解釈の余地が無いため、後世のイスラム教徒が融通の利かない状態に陥っているようでもあります。
 ムハンマドは教祖というよりすぐれた教育者であったのではないかと私は思うのですが、こうなってみると、もう少し含みのある言葉で語っていて貰いたかったものだと考えざるを得ません。6世紀のアラビアあたりでは、含みのある言葉では人々に伝わらなかったのかもしれませんが……。

(2015.1.24.)

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