忘れ得ぬことどもII

コーランという書物

 イスラム教について、もう少しあれこれと考えてみます。
 コーランという書物が、きわめて具体的で直接的な言葉を用いているということは前に書きました。ほぼムハンマドが語ったとおりの言葉を逐語的に記載しているのです。
 たぶん、最初の頃は、ムハンマドが語るとおりに、信者たちが大声で復唱したりしていたのではないでしょうか。その内容は神や信心にかかわることばかりでなく、日常の規範や、他人とのつき合いかたなどにまで及んでいます。そういったことを身につけるのにいちばん効果的なのは、繰り返し復唱することです。現代でも、企業の新人研修とか自己啓発セミナーとかで、社長や講師の言ったことをそのまま声を揃えて復唱するというメソッドが多用されています。ムハンマドの導きかたは、まさにそういう方法をとっていたのだろうと思うのです。
 たぶん、その頃のアラビアあたりの遊牧民には、日常の規範も何も無かったのではないでしょうか。こういうことは、なかなか自然発生的に身につくものではなく、誰か権威を持った先覚者による「教育」が必要であるようです。北条早雲が、みずからの配下になった領民たちに対し、
 「人に呼ばれたら『あっ』と返事をするべし」とか、
 「夜更かしせず、夜8時までには床に就くべし」とか、こまごまと条文を構えて教え諭したという話がありますが、ムハンマドも実際のところ、そういう人物だったのではないかと思います。

 日常に規範ができると、生活にリズムが生まれ、生産力も上がるものです。そうすれば暮らしも楽になり、思考も深くなります。
 6世紀のアラビアの人々は、そういう規範を与えてくれたムハンマドに感謝し、あがめ奉るようになったのに違いありません。そしてムハンマドの死後も、師の言葉を復唱することで、ムハンマドの与えてくれた規範や信仰を全身で受け止めて行ったことでしょう。
 その教えが拡がり、アラビア以外の地にも伝播するに及んで、それまで復唱していたムハンマドの言葉を成文化する必要が生じました。それでこの時、コーランが編纂されたのだと思われます。
 ムハンマドは、いわゆる教祖的な人物であるよりも、偉大な教育者という面がまさっていたのではないかと私は考えています。コーランを読むと──と言っても私にはアラビア語は読めないので、訳された本を読んだばかりで、これはイスラム教の理解としては邪道とされていますが──、本当にこまごましたことまで、手取り足取り教えているという印象が強く感じられます。当時のアラブ人は、こんなことまで教えられなければわからなかったのだろうか、とさえ思われるほどです。
 イスラム教が、その後広域に弘まったのは、何よりもこの「わかりやすさ」のためだったのではないでしょうか。
 南アジアから東南アジアあたりは、もともと仏教圏でした。いまでもタイミャンマーラオスなど、敬虔な仏教国はいくつもありますが、多くの国ではイスラム教に改宗してしまっています。そして、仏教からイスラム教に改宗する際には、さほどの対立や混乱があったようでもありません。
 仏教というのは、かなりの思弁を必要とする考えかたです。仏陀がもともと王族、ということはつまり知識階級であった影響かもしれません。仏陀の教えを理解するためには、形而上的な想像力や構想力が相当に要求されます。眼に見えない世界を想像し、人に感じきれない時間を認識し、日常的な論理を飛び越えたところで感得しなければなりません。こんな精神作業が、凡庸な人間にできるものではありません。仏教は、いわば天才のための宗教なのです。
 東南アジアに残る小乗仏教は、その雰囲気を残しています。僧侶は自分自身の解脱のために厳しい修行を続けており、一般信徒は仏教そのものを理解するというよりも、そういう僧侶たちを敬愛し尊重するというかたちで仏教に参加しています。
 これに救済の思想を付け加えたのが大乗仏教で、ほぼ中国日本でしか弘まりませんでした。大乗仏教に至って、仏教ははじめて、庶民を相手にするようになったのです。
 仏教圏だった南〜東南アジアの人々が、ひどく簡単にイスラム教に乗り換えてしまった観があるのは、仏教の持つ難しさに較べて、イスラムの教えが実にわかりやすく、具体的だったからだろうと私は思います。

 イスラム教は、ある意味、幸運な宗教でした。
 その原型であるユダヤ教キリスト教はもとより、多くの宗教が、凄絶な迫害を受ける時期を持っています。
 ユダヤ教はとりわけ迫害の時代が長いと言えるでしょう。というよりのびのびと伸張したのは、モーセの導きによりエジプトから脱出してシナイ半島にたどり着き、そのあたりに割拠していた弱小都市国家を片端から亡ぼして古代イスラエル王国を築いた何百年かのあいだに過ぎません。ダビデソロモンの両王の時代が黄金期でした。その後、バビロニアによって王国は亡ぼされ、以後ユダヤ人は国を持たない漂泊の民としてさまよい続けることになります。いつか王国を再興するという希望のみを持って、ペルシャに隷属し、ローマ帝国に隷属し、そしてとうとうシナイ半島からも追い出されてしまいました。
 彼らにとってイエスという男は、王国再興を唱えながら結局口先だけでなんの行動も起こさなかったホラ吹きという位置づけです。ところがそのイエスを奉じる一派が急激に肥大化し、ローマ帝国に取り入って国教化し、逆にユダヤの本流を迫害する側にまわったわけなので、これは許しがたいことであったでしょう。ともかく、その後長いこと、ユダヤ教はキリスト教に圧倒され続けました。教義そのものの中に異民族をも容易に取り込むメソッドを含んでいて、たちまちヨーロッパ全域に拡大したキリスト教に、あくまでユダヤ人の民族宗教でしかないユダヤ教がかなうはずもなかったのです。
 そのキリスト教も、初期にはだいぶ迫害されています。イエスの生きていた頃は、ユダヤ教本流からの攻撃が強く、結局イエス自身、その攻撃の前に処刑の憂き目を見ることになります。キリスト教の伸張のきっかけを作ったのは、ユダヤ人でないパウロによるものでした。パウロはローマ本国のれっきとした市民でしたので、いわば植民地住民に過ぎないユダヤ人たちの意向などまったく気にする必要がなかったわけです。彼は積極的に異民族に対してキリスト教を布教することに務めました。新約聖書の後半に出てくる「何某人への手紙」という章は、パウロが異民族に宛てて書いた布教文書の数々です。
 しかしこんな活動は、当然ながらローマの官憲に睨まれることになりました。皇帝ネロがキリスト教徒を虐殺したという話がどこまで本当なのかわかりませんが、実際に「世間を騒がした」咎で処刑された者は少なからず居たはずです。しかしキリスト教は粘り強く、300年近くをかけてローマ帝国への浸透を図り、ついにコンスタンティヌス帝に至って国教化を勝ち取るのでした。
 キリスト教より少し遅れて誕生したマニ教に至っては、ほとんど常に地下宗教であることを続けています。教祖マニは非常に頭の良い人物で、当時ペルシャの国教であったゾロアスター教を土台に、キリスト教、仏教、それに道教などの要素も採り入れて、あらゆる宗教を網羅した「最終宗教」とでも言うべきものを構築しました。当然ながらゾロアスター教の側からは異端視され、マニは逮捕されて惨殺されます。生きながら全身の皮をはがれて殺されたとも言われています。残念ながらマニの後継者には、キリスト教におけるパウロのような、要領の良い布教者に恵まれず、そのまま地下に潜ってしまいました。ただ、長安にはマニ教の寺院があったと伝えられますし、北宋時代末期に起こった「方臘(ほうろう)の乱」の首謀者である方臘「喫菜事魔」なる宗教に帰依していたとされ、この「喫菜事魔」こそマニ教のことであると言われています。陳舜臣氏の晩年の作品である「桃源郷」は、マニ教徒たちが方臘の乱のあとどうなったのかを考察した小説でした。
 イスラム教の歴史を概観した時に、ユダヤ教におけるバビロニア、キリスト教におけるローマ、マニ教におけるペルシャといった、強大な圧迫者と言うべき存在が見当たらないことに気がつきます。
 ムハンマド自身がなかなかの名将でもあり、広大なアラビア半島をたちまちのうちに席巻しました。アレクサンドロス大王マケドニア軍もそうでしたが、砂漠を進む軍勢というのは、一刻も早く次のオアシスへたどり着きたがるために、普通では考えられないくらいに進軍速度が速くなるそうです。のちのモンゴル軍なんかもそうだったのかもしれません。スピードと勢いがあるので、小規模なオアシス国家などはひとたまりもないのでした。ムハンマドの率いる軍勢も、そうしてアラビアを支配下におさめました。
 この時期、ローマ帝国はすでに東西に分裂して久しく、アラビア地方に影響を及ぼしうる東ローマ帝国は内向きの姿勢になっていました。ササン朝ペルシャホスロー1世の治下で最盛期を迎えましたが、その歿後は内政が混乱し、東方で叛乱が起こったりして、アラビア半島に眼を向けている余裕はなくなっていました。イスラム勢力は、こういった大帝国の間隙をうまいこと衝いて巨大化し、7世紀に入るとササン朝への強力な挑戦者として屹立するようになります。
 イスラム勢力は弱体化したササン朝の周辺部を蚕食し、ついに堂々たる会戦(カーディシーアの戦い)でササン朝の正規軍を打ち破って首都を包囲します。以後ササン朝は連戦連敗の有様で、ついに651年に滅亡します。
 このように、イスラム勢力というのはつねに攻勢にあり、強大な権力によって迫害されたという経験を持ちません。その後も拡大に拡大を重ね、イベリア半島シチリア島なども勢力下におさめます。キリスト教側からの再征服レコンキスタ)により、それらは奪還されますが、これは同じくらいの立場の者の争いであり、上位権力からの迫害ではありません。

 このため、コーランをはじめとするイスラム教の経典は、いわゆる「微言大義」ということをおこなう必要がありませんでした。迫害を受けることの多かった宗教の経典は、微妙な言いまわしでほのめかしをおこなったり、言いたいことを比喩的表現で記したりして、敵の眼をあざむく必要が出てきます。新約聖書におけるイエスの言行はまさにこういったものばかりで、直弟子からすら
 「先生はなぜいつも喩えでお話しになるのですか」
 と質問されている始末です。もちろん、比喩的表現で言わなければ、激昂したユダヤの保守派からたちまち害をこうむるに決まっているからです。
 このためイエスの言葉は、謎めいたもの、どうとでもとれるものが多くなり、その解釈もいろいろ可能になりました。
 「イエス様はこう言わんとされていたのだろう」
 という想像が許される状態で、解釈の差異により時に深刻な争いが生まれたりもしましたが、言ってみれば時代によって解釈が変わってゆくことも許容されていることになります。
 コーランにおけるムハンマドの言葉には、こういう「比喩表現」「ほのめかし」といったものはほとんどありません。ムハンマドの立場として、そんなことをする必要は無かったのです。「あからさまに言えば誰かを怒らせる」などという心配は一切不要でした。
 しかしそれゆえに、時代が移っても、解釈の変容といったことは起こりませんでした。
 スンニー派といい、シーア派といっても、それはムハンマドの言葉、すなわちコーランの解釈が異なっているわけではありません。このイスラム教における2大宗派は、正統カリフ(教主)を誰まで認めるかという点で違っているだけです。シーア派はムハンマドの娘婿のアリーの血を引くものだけが正統カリフの資格を持つとしており、一方スンニー派はムハンマドからアリーまでにはさまった3人のカリフも正統と見なすべきだという立場です。イスラム教の中の宗派の違いというのは、いずれその程度のことであることが多く、それだけでどうしてあれほど対立できるのだろうかと不思議に思えるほどです。しかし、その程度の差異であるゆえに、外部との摩擦が起こった時には、容易に一致団結することも可能であるようです。
 ともあれムハンマドの言葉の明快さ、わかりやすさが、逆に自由な解釈を阻害し、時代の変化に合わなくなっても簡単には対応できない原因となっているように見えます。時々柔軟な考えかたをする人、たとえばイスラム教を西欧的価値観と折衷しようとしたイランパフラヴィー2世パーレビ国王)みたいな人が出現しても、ホメイニのような原理主義者に必ず潰されてしまっています。

 イスラム教も、始まってかれこれ1500年近くなります。キリスト教の創設1500年頃といえば、プロテスタントが勃興して、旧来のカトリックがその対応に苦慮しはじめている時期です。仏教はといえば、計算の起点が諸説ありますが、日本で鎌倉仏教などが成立したのがだいたいそのくらいの時期であったように思えます。
 なんらかの改革が試みられ、既成の教団と対立しはじめるのが、その宗教が生まれて1500年くらいの時期に起こるものであるのか、そうでもないのか。
 イスラム教のプロテスタント化というようなことは起こりうるのか、それとも原理的に起こりえないことなのか。
 もし改革がはじまったとしても、キリスト教の例を見ても、そのためには血みどろの闘争が蜿蜒と続くことが予想され、平和などは容易に訪れないことでしょう。ことはイスラム教内部の問題であったとしても、いまの世でそんな闘争が続けば、否応なしに世界中が巻き込まれてしまいます。だからイスラム教も現状維持で良いのか。
 なんとも難しい問題です。近い将来、イスラム教徒は苦手な形而上的判断を迫られることになるのかもしれません。

(2015.1.29.)

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