忘れ得ぬことどもII

1.特別阿房列車

 内田百『阿房列車』を読んだのは、高校生の頃でした。祖父の手文庫の中に新潮文庫版が含まれていて、旧かな旧漢字に難渋しながらも、読むほどに面白くて、ついつい一気に読んでしまいました。
 手文庫には『第二阿房列車』もあり、私はそちらも続けて読みふけりました。さらに『第三』もあるという話を聞いたのですが、それは祖父は持っておらず、作者は新かなづかいを断乎拒否している人だということも知ったために、これはもう文庫が復刊されることはないのだろうと諦めていました。
 ですからしばらくあとに、書店で『第三阿房列車』の背表紙を見たときには、夢かと思ったものです。いまは無き旺文社文庫の一冊でした。旺文社文庫は、戦前のわりと地味なあたりの、とっくに絶版になっていて読むのが難しいような文芸作品を多く復刊させていて、とくに内田百閧ヘ一枚看板のようにしており、ほぼ毎月のように作品が刊行されていました。阿房列車からはじまった私の百闕Dきは、この旺文社文庫によってはぐくまれたと言えるでしょう。その時点での既刊のものはすぐに読んでしまって、あとは毎月買いそろえ、結局全巻買ってしまったのでした。その後何度も全巻を読み返し、何冊かはカバーもボロボロになってしまい、造本が崩れてきたものさえあります。それだけ熟読して、良い文章というものを吸収できたと思っています。自分で書くときにはそれがちっとも活かされないのが歯がゆい限りですが……
 旺文社文庫の意気は壮とすべきでしたが、やはりあまり儲からなかったらしく、だんだんと書店で見かけなくなり、ついにレーベルそのものが無くなってしまいました。
 その中で友人に2冊ばかり貸してあったのが、その友人と疎遠になってしまい、返して貰おうにも連絡がつかなくなってしまい、しばらく気になっていました。私がAmazonをはじめて利用したのは、その2冊を買い直すためでした。もちろん絶版になった本なので、元の値段よりはだいぶ高くなっていましたけれど、それでもそう非常識な価格ではなく、しかもすぐに届いたので感動したものでした。

 さて、以上のことは前にもどこかに書いたことがあり、百闌黷閧はじめてしまうときりがなくなってしまうのですが、初心に戻って『阿房列車』です。

 ──阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ。

 この冒頭の部分などはすっかり暗記してしまい、私にとっては『方丈記』「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」とか、『徒然草』「つれづれなるままに日暮らし硯にむかひて」とか、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」とか、そういう古典の語り出しに並ぶほどの存在となっています。
 なお「阿房」は文庫には「あはう」とふりがなが振ってあり、もちろん読みかたはアホウで良いのですが、現代人にはなかなかそうは読めないかもしれません。高校の友人の中にはこの本を知っている者も居ましたが、「アウレッシャ」と言っていたようです。始皇帝の建てた阿房宮から来た言葉とされていますが、これもいまは「アボウキュウ」と読む人が多いのではないでしょうか。アホウに宛てる字は、普通は「阿呆」であり、百閧烽サの昔は「阿呆の鳥飼」と題した文章を書いたりもしていたのですが、いつの頃からか「阿房」という用字を好むようになったようです。
 なんにも用事がないのに汽車に乗っていろんなところへ出かけてゆき、名所旧跡を見ることもなく、人が案内しようと言ってくるのも断り、ただただ同行者の「ヒマラヤ山系君」とお酒を飲み交わしては帰ってくるだけで、当時はよほど変人扱いされたと思われます。
 要するにいまで言う「乗り鉄」の元祖みたいな人だったわけですが、その乗車記をちゃんと「普通の」人々に読ませるものにしてしまったところが百閧フ凄いところです。確か『阿房列車』『第二阿房列車』の各編は「小説新潮」に掲載されたはずで、読者の大部分はもちろん鉄分の低い人々です。ときに阿川弘之とか宮脇俊三といった同好の読者が居て、後年百閧フ衣鉢を継いだような文章を発表しはじめるわけですが、彼らが鉄分の強い文章を、同好の士向けではなく一般読者向けに書き始めるにあたっては、根底に『阿房列車』の成功があったことは間違いないでしょう。
 最初の「特別阿房列車」が発表されたのは昭和25年、その頃は新幹線は愚か、特急さえ「つばめ」「はと」の2本しか走っていない頃でした。その前年である24年に、戦後初の特急「へいわ」が誕生しましたが、1年足らずで「つばめ」に改名し、同時に姉妹列車である「はと」が誕生したのでした。「つばめ」といえば何しろ戦前は「超特急」と呼ばれた、国鉄の象徴みたいな列車でしたので、その復活は人々に元気を取り戻したことでしょう。なお、「へいわ」という名前も良いように思えますが、この名前をつけられた列車はなぜか短命で、この後も命名されてはわずかな期間で改名されるということを繰り返しました。平和とは、あまり無理強いするとかえって長く保たないものなのかもしれません。
 電車はまだ乗り心地が悪く、短距離を走るだけ、ディーゼルカーもまだ登場前、電気機関車を使える区間もそう長くはなく、列車を走らせるには蒸気機関車を使うのがあたりまえであった時代です。百閧ヘ蒸気機関車の汽笛に較べて、電気機関車の汽笛はあまり好きでなかったようで、

 ──巨人の目くらが按摩になつて、流して行く按摩笛の様な気がする。

 と、よくわからない悪口を書いています。その電気機関車も、いまでは貨物列車以外にほとんど見なくなりました。
 各線の運転本数も、いまとは較べものにならないくらい少なく、そのかわりにいまでは信じられないような長距離の列車が走ったりしていました。とにかく昭和25年当時の鉄道の状況はいまとはまるで違っていて、なかなか想像することも困難だったりします。しかし、それをあえて想像してみると、昭和という時代の香りのようなものが、そこはかとなく漂ってくるような気がします。

 初篇である「特別阿房列車」は、特急「つばめ」の復活と「はと」の新設に刺戟された百閧ェ、矢も楯もたまらずに乗りに行ったという趣きです。前年の「へいわ」のときにあまり感応しなかったらしいのは、「へいわ」のダイヤがその後の「つばめ」と同じで、東京発の時刻が百閧ノは早すぎたのが原因ではないかと思います。夜は明けがた近くまで起きていて、午前中は大体寝ているような生活サイクルだったようです。旅先で早立ちせざるを得ないときには文句たらたらで、しかし誰に命じられたことでもなく自分で決めたことだから仕方がない、と観念したりしています。
 「用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない」という冒頭の一節は、戦争中の「不要不急の旅行はやめませう」という標語に対する皮肉でしょうか。戦争中だけではありません。戦後数年間は、列車に乗るのもほとんど命がけでした。いまでもインドヴェトナムなどの映像で、列車の屋根と言わず窓と言わず、人が鈴なりになってぎちぎちに詰め込まれているのを見かけることがありますが、日本でも戦後まもなくはそんな状態だったのです。だんだん復旧が進み、一等車も復活し、そして特急が復活するに及んで、しばらく封印していた鉄道マニアの血が騒ぎ出したのだと思います。
 「つばめ」は朝早すぎて乗れませんが、「はと」は昼すぎの発車なので百閧ノはちょうど良かったものらしく、この後にも何度か利用しています。
 もちろん、当時の特急、いや特別急行は、格の高い列車でした。百閧ヘその中でも、一等車にしか乗りたくないと言うのです。現在のグリーン車が当時の二等車であって、一等車に相当する車輌は現在のJRにはありません。強いて言えば「はやぶさ」「かがやき」などのグランクラスでしょうか。当時の貨幣価値とか所得とかから考えると、おそらくグランクラス以上の贅沢だったと思われます。
 いまと違って、グリーン料金のようなものが別立てになっているのではなく、「一等運賃」「特別急行料金」が必要でした。同行者のヒマラヤ山系こと平山三郎氏が、この時の経費をメモしています。東京〜大阪の一等運賃が2480円、特急料金が1200円だとのこと。同区間の現在の運賃は8750円、「のぞみ」のグリーン席特急料金は10480円です。あいだに65年以上の時をはさんでいるにしては、案外と金額が上がっていないような気がしないでしょうか。例えば一般サラリーマンの初任給などは、よくはわかりませんがたぶん60倍か70倍くらいにはなっているはずです。
 運賃が意外に高いのはもちろん一等運賃だからで、いまの普通車にあたる三等運賃であれば半分くらいだったと思われます。それにしても、大阪まで用事もないのに特急の一等車で行ってくるというのは、いまの感覚だとファーストクラスニューヨークまで飛び、なんにも観光せずに帰ってくるようなものであったようです。なるほどぶったまげた人が多かったわけです。
 百閧ヘ貧乏話で有名だった随筆家であり、そんな意味もない贅沢にかけるようなお金は持っていません。で、借金を申し込むわけです。必要なお金を借りようというのでなく、不必要なお金を借りるのだから、貸すほうも気が楽だろう、などとわかりづらいロジックを展開していますが、これは百闕品を読んでいれば思わずニヤリとするところです。
 明記はしていませんが、このときの借金はたぶん新潮社に頼んだのでしょう。百閧ヘあとで小説新潮に原稿を書くことで返済に充てたのだと思われます。しかしこれは断じて「原稿料の前借り」ではないのだそうです。
 それゆえ、特別阿房列車の旅立ちには、「椰子君」が見送りに来ます。平山氏によれば、新潮社の編集者である小林博氏(こばやし君)のことだそうで、この時点ではまだ「阿房列車」がはじまることは誰も知らなかったはずですから、借金の関係で百閧フ旅行のことを知ったとしか思えません。

 当時はまだ、いまで言う指定席というものは無く、二等車や一等車は、座席の数だけ切符を用意して、あとは空いた席に自由に坐って貰うという、定員制に近い売りかたであったようです。何日前から切符を売っていたのかよくわかりませんが、私の子供の頃は指定券の発売は列車の運転日の1週間前でした(現在は1ヶ月前)から、おおむねその見当でしょう。
 百閧ヘ旅程を縛られたくなかったのか、このときはあらかじめ切符を買っておくということをせず、当日東京駅に行っていきなり買おうとしました。山系君が窓口に行って訊いてみると、「はと」の切符は一等も二等も三等も完売とのこと。
 それで延期しようということにはならず、百閧ヘ急にやる気を出して、駅長室へ行って頼んでみようと言い出します。窓口で完売だった切符が駅長室に行けば残っているものか、山系君は疑わしく思い、また官僚的に考えればあってはならないことだと思ったようですが、按ずるより産むが易しで、頼んでみると一等の切符が2枚、簡単に入手できたのでした。
 ここは私たちが読んでもやや腑に落ちないところではありますが、上に書いたように、当時は座席の数だけ切符を用意していたので、あるところで買えなくとも他のところには残っていたりしたのでしょう。また駅長室などには、不測の事態に備えるため、予備の切符が必ず用意してあったのだと思います。まだ電磁式指定券発券機マルスなどは影も形も無い時代です。いまよりも不便だったかわりに融通も利いたようです。
 12時半に東京駅を発車、所要時間は8時間くらいだったそうです。東京〜大阪が特急で8時間というのは、戦前の「燕」時代からのお約束のようなもので、のちに電車特急「こだま」が登場して6時間台をマークするまでは、東海道線の電化が完成して少し速くなった他は大差ないものでした。
 さて百閧ヘ一等車の豪華な椅子の坐り心地や、久しぶりの車窓風景をさぞや愉しんだろうと思いきや、早々に食堂車に出かけ、お酒を飲み始めます。
 食堂車というのも、いまのJRからはほとんど消えてしまいました。阿房列車はほとんどの話に、食堂車での一献の話題が出てくるので、うらやましい限りです。ずいぶん長居するのが常だったようで、せっかくの一等車がもったいないような気がします。しかしその「もったいない」ということを言い出せば、そもそも無用の旅行に出てきたことがもったいないことになるのだから、大きなお世話だ、と百閧ノ叱られるかもしれません。
 名古屋が17時半頃で、そのくらいから食堂車は定食時間に入って混んでくるので、そのあたりで切り上げて席に戻っていますが、まだ飲み足りなかったようで、列車ボーイにビールを持ってこさせて大阪まで飲み続けました。まあ、名古屋より先は陽が暮れてしまって景色も見えなかったようですから良いようなものですが、それにしてもよく飲むものです。
 いま名前の挙がった「列車ボーイ」というのも、いまでは見当がつかない単語でしょう。百閧ヘ書きぐせで「ボイ」としています。「ボイ」も各篇に登場して阿房列車の旅を彩るのですが、現在では存在していないので想像するしかありません。
 もちろん車掌ではありません。最近のグリーン車に乗務している「グリーンアテンダント」になると少し近いかもしれませんが、まだ中途半端です。要するに一等客・二等客のいろいろなご用を申しつかって車内サービスにあたる役職です。
 阿房列車全篇を読むと、「ボイ」はお客の注文を受けて食堂車や車内販売、あるいは駅の売店などで買い物をしてきたり、大きな荷物を預かったり、荷物の整理を手伝ったり、食堂車の席の予約をしてきたり、ときにはお酒の燗をつけてくるなんてことまでやっていたのがわかります。時と場合によっては女性や少年が任に就いていたこともあるようですが、阿房列車に出てくるのはたいてい中年以上の、年期を積んだ客室乗務員です。
 お客の注文を受けてウェイトレスがお茶を運んでくれるというサービスは、のちに小田急のロマンスカーでもやっていて、「走る喫茶室」などと謳っていましたが、いつの間にかやめてしまいました。やはりこういうサービスはこんにちでは人件費がかかるばかりで採算がとれないのでしょう。

 大阪では、駅の助役に勧められた宿に直行し、そこでもまた飲みくらい、翌日の「はと」で舞い戻ったのでした。帰りは二等で、百閧ニしては不本意でしたでしょうが、帰りは「帰るという用事」があるために「贅沢は云つてゐられない」というわけで二等でもやむを得ないというのが百阯ャのロジックとなります。
 ずいぶんと予算オーバーしたようで、帰りの列車内で憮然としていますが、これがのちに捧腹絶倒の阿房列車シリーズになってゆくのですから、借金などはすぐに返してお釣りがきたことでしょう。
 久しぶりに『阿房列車』を読んで、記述されていることををいまの眼から見直してみたらいろいろ面白いのではないかと思って今日のエントリーを書き始めました。全篇にちょっとずつ触れて済ませるつもり、少なくとも最初の『阿房列車』(便宜的に「第一阿房列車」と呼ぶ場合もある)の分くらいは全部触れられるかと思ったら、なんと初篇「特別阿房列車」について語り出しただけでえらく長くなってしまいました。また近いうちに、続きを書きたいと思います。

(2017.5.13.)

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