忘れ得ぬことどもII

2.区間阿房列車

 「特別阿房列車」「小説新潮」昭和26年1月号に載って間もなく、百閧ヘ次なる阿房列車の計画に取り掛かります。まさかシリーズ物になるとは思わなかった同行者「ヒマラヤ山系君」こと平山三郎氏は、さすがに少々うんざりしたとのちに述懐しています。
 平山氏は当時国鉄職員でしたが、運転とか保線とかの仕事ではなく、主に福利厚生関係の部局に籍を置き、社内誌などの編集に携わっていたようです。以前から百閧フ大ファンで、昭和17年頃にある程度自分の裁量で社内誌の編集ができるようになると、早速百閧ノ原稿依頼をしに行き、以来篤実な編集者、兼愛弟子として百閧フもとに出入りするようになります。わりと優柔不断というか、要領を得ない人柄であったようですが、そのあたりが百閧フ狷介さをうまく受け止めていたのかもしれません。百閧フ随筆や小説の中では、ヒマラヤ山系の他、飛騨里風呂(ひだりぶろ)、孟浪(もうろう)などといった名前で登場し、いずれも会話をしてもちっとも話が進まないような茫洋とした人物として描かれています。
 百閧フ死後、定年を待たずして国鉄を退職していますが、たぶん百閧フ全集の刊行準備のためでしょう。「実歴阿房列車先生」「詩琴酒の人」など百閧祖述した著書が何冊もあり、旺文社文庫では全巻に解題を執筆していました。ほとんど百閧フために生涯を捧げたかのような人だったのでした。

 もともとは小説家志望であったらしく、実際「夜の周辺」なる長編小説を出版したこともあるらしいのですが、百閧ノ跋文(あとがき)を頼んだところ、のっけから

 ──平山君の小説は面白くない。

 とやられてしまいました。もちろんこれは百闢ニ特のヒネリを加えた讃辞ではあるのですが、シャレのわからない作家なら怒り出したでしょう。ちょっと読んでみたい気もしますが、いまでは入手不可能なようです。
 平山氏が毎回阿房列車に同行したのは、編集者としてではなく、百閧フ精神安定剤としての役割を期待されてのことでした。百閧ヘ動悸と結滞の持病があり、その病気のこともよく随筆に書いているので、パロクシスマーレ・タヒカルディーという難しい病名も愛読者にはお馴染みになっています。突如として心拍数が200を超えたり、逆に心拍がいくつか抜けたりする症状で、発作が起きると介助者無しでは歩くことも困難になってしまうのでした。よく出入りしていた平山氏はこの病気のこともよく知っており、介抱の仕方なども馴れていたのかもしれません。そしてまた、百閧フワガママな旅程にとことん付き合えるのは、随筆に登場するいろんな知人友人を考えてみても、なるほど平山氏以外には居なそうだということにも気づくのでした。
 百閧フマニア的なファンで、やはり「弟子」と言って然るべき人がもうひとり居ます。「目白三平」で有名な中村武志氏です……と言っても、最近の若い人には目白三平自体がわからないかもしれません。この人は「特別阿房列車」のときは出てきませんでしたが、次の「区間阿房列車」から毎回旅立ちの見送りに参上し、見送亭夢袋(けんそうてい・むたい)という名前で登場するようになります。初登場のときから、百閧フ見送りに東京駅長が出てこないのはけしからんと憤慨し、駅長室まで行って駅長をひきずって来かねないような勢いで、百閧大いに困惑させています。目白三平モノの小説(この主人公はほぼ作者自身と考えて良い)を読んでも、中村武志氏には一種独特の一本気さがあり、多少の損をしても筋を通すという意地の張りかたをする人であることがわかります。ちなみに中村氏も国鉄職員で、平山氏の直接の上司でした。
 例えばこの夢袋さんが阿房列車に同行していたら、と考えると、中村氏には悪いですが百閧ヘムッとしたりすることが多くなり、ひどくストレスを覚えていたのではないかと想像できます。中村氏の筋の通しかた、意地の張りかたはむしろ百閧ノ近いものがあるのですけれども、それだから余計、似たタイプのふたりではうまくゆかないだろうという気がするのでした。阿房列車の連続運転には、平山氏のモウロウさ加減が絶対に必要だったのです。

 さて2作目の「区間阿房列車」は「特別阿房列車」に較べるとずっと近場の旅行になります。御殿場線に乗ったあと、興津由比で1泊ずつ、最後は静岡まで行って急行で帰ってきますが、あとはひたすら鈍行列車の旅です。鈍行のことを英語ではローカルトレインと言いますが、昔はそれを直訳した「区間列車」という言いかたもよく見られたようです。最近ではあまり使わない言葉で、むしろ列車種別の区間急行とか区間快速といったところに残っていますが、「区間阿房列車」の場合は「鈍行の旅」という意味と考えて良いでしょう。
 もっとも、区間列車というと短距離列車というイメージが湧き、まあこの稿は確かに近場をまわった話になっているのですが、列車自体は相当長距離のものが走っていました。百閧スちがここで最初に乗った「329列車」米原行きです。しかしそれで驚いてはいけません。御殿場線の旅を終え、沼津から乗り換えた「111列車」はなんと門司行きでした。
 東京から門司までの鈍行。いったいどのくらいの時間がかかったでしょうか。ちなみに現在のダイヤで東京駅を初発の電車で出て、ひたすらに普通列車を乗り換え乗り換えしてゆくと、その日のうちに新山口まではなんとか辿り着けるようですが、門司までは無理です。当時は電車は短距離しか無く、これらの長距離列車は機関車牽引の客車列車でした。当然、電車よりもスピードは遅いですし、線路状態も悪かったはずです。しかも名古屋前後や関西圏に走っている新快速のような高速列車はまだありませんでした。
 111列車は夕方頃に静岡を通るダイヤだったようなので、中京圏あたりが夜間になったと思われます。急行などに追い抜かれることもちょくちょくあったでしょうし、そのための長時間停車なども多かったであろうことを考えれば、門司までたどり着くには、もう1泊くらいしたかもしれません。途中2泊とか、乗り鉄にとっては夢のような列車です。そしてこの当時は、それが決して例外的存在というわけではなく、日本中にこのたぐいの長距離列車が走っていたのでした。
 そして「区間阿房列車」も、旅程は短くとも、実はシリーズ中最長のボリュームを持ちます。作者に言わせると、鈍行列車のスピードが遅かったり、御殿場線にスイッチバックがあったりするのだから仕方がないのだそうですけれども、何しろ実際に出かけるまでに15ページくらい費やしてしまっています。阿房列車をシリーズ化するにあたって、どんなところに行くのが良いかということを、ああでもないこうでもないと蜿蜒考えているのですが、そのあいだにも話がとっちらかって、戦前台湾に行ったときの想い出とか、デゴイチことD51機関車をはじめて見たときの感興とか、日光・箱根・江ノ島へ行くのがイヤだということについて昔書いた随筆をなぞってみたりとか、さんざんに寄り道しながら、ようやく「旧東海道線」であった御殿場線に乗りに行ってみようと結論が出るのでした。平山氏の解題によれば、そのあたりまでは実際に出かけるより前に書いてあったのだそうです。遅筆で、万事にらちのあかない百閧ノしては、ずいぶん手回しの良いことで、それだけ阿房列車のシリーズ化に意欲を燃やしていたということなのでしょう。
 ようやく家を出たかと思えば、最寄り駅(市ヶ谷らしい)で知人に出会ったりしてまた寄り道となります。ここで遇ったのは「交趾(こうし)君」という人で、もう少しあとのシリーズから、毎回旅行カバンを貸してくれるようになります。カバンに関する話題のときに名前は出てくるのですが、本人が登場したのはこのときだけでした。この当時法政大学教授であった多田基氏のことだそうです。百闔ゥ身が戦前に法政大学(正確には予科──いまで言う附属高校)の教授の職に就いており、多田教授はそのごく初期の教え子で、卒業したのち母校の教授になって百閧フ同僚ともなったのでした。そんなこともあって、お互い遠慮の無い間柄であったようです。
 交趾君とのしばしの会話ののち、中央線の電車に乗りますが、これがえらく混雑していて、ラッシュみたいな電車内でひとりの乗客が叫んだ言葉についてまた長々と考察するのでした。「話を散らかす」のが後年の百閧フ持ち味みたいなことになってゆくとはいえ、「区間阿房列車」は阿房列車の中でもとりわけ散らかり具合が凄いことになっているようです。
 家を出てからさらに6ページを経て、やっと東京駅に着いてヒマラヤ山系君と落ち合います。

 東京駅でも出発前に見送亭夢袋さんとのやりとりがあり、さらに到着列車の遅延が波及したりもして、冒頭から26ページめでようやく329列車が発車するのでした。
 329列車は三等編成、つまり普通車だけの編成です。私が自分の旅をはじめた頃、まだかろうじて残っていた、チョコレート色の客車ではなかったかと思います。百閧ノは一等車が似合いますが、この種の三等車に乗っているところも、それなりに絵になるような気がします。
 横浜で駅弁を買っていますが、そのために「外食券」を手に入れてきたという記述があります。食糧事情の逼迫が懸念された昭和16年くらいから、お米の配給制度がはじまりますが、それと同時に外食券も導入されました。いよいよ本当に食糧が乏しくなってくると、この外食券を持っていないと外食ができなくなり、昭和25年くらいまでは「外食券食堂」が繁盛していたようです。「特別阿房列車」のときには特に外食券については書いていないので、この頃になると旅館や食堂車などでは外食券が不要になっていたのでしょう。しかし駅弁を買うときにはまだ必要だったのかもしれません。
 私自身にはまったく記憶がないのですが、私が5歳くらいのときまではまだ外食券があったようです。しかし使っている人はもうほとんど居なかったと思われ、昭和44年に廃止されました。
 このときの駅弁はチャーハンみたいなものだったらしいのですが、「外米をふやかしたのを油でどうかした様な、まるで飯粒の姿のない代物」だったそうで、健啖家の百閧熾ツ口して食べ残したとか。包み紙には「代用米」と書いてあったそうで、そもそもお米でさえなかったのかもしれません。「外食券」「代用米」共に戦中戦後の食糧不足を象徴するような言葉で、いまではピンと来ませんが、こんな言葉が復活する時代にならないことを祈るばかりです。

 東京駅での遅れは結局取り戻せなかったようで、御殿場線の乗り換え駅である国府津にも遅延したままの到着となりました。御殿場線の列車は329列車からの乗り換え客を待ってすぐに発車したのですが、百閧スちは乗り遅れてしまいます。駅員にせかされてかえってへそを曲げ、ことさらに悠然と地下道を歩いていたりしたものだから、御殿場線側のプラットフォームに居た駅員から認識されなかったのです。あたふた駆け出したりしては沽券に関わると思ったのでしょう。昔はこんな頑固爺さんがそこらじゅうに居たものです。
 現在の御殿場線は1時間に1〜2本ほど走っていますが、この時代はもっと閑散としており、百閧スちは2時間も待たされることになりました。こんなときに時間を潰せるような喫茶店などは、まだ当時の国府津駅前には無かったのかもしれません。ふたりはプラットフォームのベンチに坐ったまま便々と時を過ごします。おりからの大雨で、ベンチのところにも雨が降り込んで来るのですが、百閧ヘ動きません。そのうち到着列車があり、荷物が近くに投げ出されてもうもうと埃が立ちますが、なおも

 ──逃げるよりは埃を吸つてゐた方がこつちの勝手である。

 と意地を張ってベンチに陣取り続けます。列車に乗り換え損ねたときにへそを曲げた気分が、まだしつこく残っていたのでしょう。
 ようやく発車時刻が近くなり、山系君が駅売りのサンドイッチを買ってきます。外食券は横浜で使ってしまっていますから、もう無いでしょう。外食券は外で「主食」を食べるためのもので、たぶん当時、パンは「主食」とは認識されていなかったのだと思います。ふたりは列車に乗り込んでからサンドイッチを食べます。百閧ヘ「大変まづかつた」と言いながら、今度は全部食べてしまいました。横浜の駅弁はよほどまずかったと見えます。
 百閧ヘパン食も案外似合うところがあります。その昔、芥川龍之介などと一緒に横須賀海軍機関学校で語学教授をしていた時分、帰りの鎌倉駅だか大船駅だかで、ハムサンドイッチを買って食べるのが愉しみだったそうです。いまでもある「鎌倉ハム」でしょう。

 御殿場線はもとは東海道線の一部で、伊豆のつけ根を貫通する丹那トンネルが開通してから支線に格落ちしました。もともと山越えの路線で急勾配や急カーブが多く、下りの山北駅と上りの御殿場駅では全列車が停車して補助の機関車を連結しました。当然、下りの御殿場駅と上りの山北駅ではその補助の機関車を切り離す作業もおこなわれたわけですが、超特急「燕」を走らせるにあたって、所要時間を極限まで切りつめるために、切り離しのほうは走行中にやってしまうという離れ業を見せたため、こちらは「全列車停車」ではありません。
 もちろん「鉄道唱歌」も御殿場経由で歌詞が作られています。百閧ヘ晩年に至るまで酔っぱらうと決まって歌い出したという、いわば魂の愛唱歌である鉄道唱歌を思い出しながら御殿場線に揺られるのでした。

 ♪いでてはくぐるトンネルの、前後は山北・小山駅、今もわすれぬ鉄橋の、下ゆく水のおもしろさ♪
 ♪はるかにみえし富士の嶺は、はや我そばに来りけり、雪の冠雲の帯、いつもけだかき姿にて♪
 ♪こゝぞ御殿場夏ならば、われも登山をこゝろみん、高さは一万数千尺、十三州もたゞ一目♪


 支線となってしまった御殿場線はすっかり寂れ、本来幹線として当然複線で敷かれていたものを、戦時中に片側のレールを不要鉄材として供出させられてしまい、いまに至るまで単線のままです。電化はされましたが。
 百閧ヘ郷里である岡山と東京のあいだを、学生時代から何度となく往復していました。そのルートはもちろん御殿場経由です。車窓風景をすっかり憶えてしまい、途中で居眠りしても、眼が醒めたときにどのあたりを走っているかわかる、と豪語しています。
 しかし丹那トンネルが開通し、東海道線が熱海経由になってからはすっかりご無沙汰していたようで、「区間阿房列車」でここをテーマに選んだのも、それを反省してのことでした。
 百閧ェ頻繁に往復していた頃は、御殿場を出ると次がすぐ裾野であったそうですが、その後富士岡岩波という新駅ができました。この2駅がスイッチバック駅であったことに百閧ヘ驚いています。急に反対向きに走り出したので、脳貧血を起こしたような気分になったそうです。
 びっくりして山系君に言うと、山系君はこともなげに
 「スイッチバックでしょう」
 と答えたのでした。スイッチバックということはもちろん知っているが、昔はそんな設備は無かったはずだ、と百閧ヘいぶかしみます。

 ──丹那隧道が出来る迄は、この線を当時の特別急行が走つてゐた。スヰツチ・バツクをしてゐては、急行列車は走れないだらう。

 結局その謎は解けないままに終わったようです。スイッチバックは勾配の急なところに駅や信号所を作るために設置されるもので、勾配の途中に駅を作ってしまうと、停車した列車が坂を転げ落ちてしまう危険があります。特に発車する間際、ブレーキをゆるめる瞬間が危ないのは、マニュアル車で坂道発進をしたことのある人ならよくわかることでしょう。鉄のレールと車輪で走り、重量もある列車の場合、クルマとは較べものにならないくらいその危険が大きくなります。それで、たいていは線路を平坦なところに引き込んで、そこで停車させるようにします。
 豊肥本線立野駅などのように本線そのものがスイッチバックしている場合もありますが、篠ノ井線姨捨駅などのように停車する列車だけスイッチバックし、本線を走る急行や特急は直行してしまうというケースが、以前はむしろ一般的でした。いまは無くなった奥羽本線の4駅連続スイッチバック(庭坂・板谷・峠・大沢)は有名でしたが、これも特急などに乗っていると気がつきません。
 富士岡駅・岩波駅のスイッチバックも、そのように引き込み線上に作られたものだったのを、百閧ヘ知らなかったのでしょう。
 機関車牽引客車と違っていくつもの車輌に動力がある電車にとっては、坂道発進もそんなには苦にならないため、スイッチバック駅はだんだん減る傾向にあります。特に最近は車輌の軽量化も進み、ブレーキも改良され、安全性は格段に進歩しました。いちいち引き込み線に入って折り返してくるのは手間がかかりますし、時間の無駄でもあります。上記の奥羽本線の4駅連続スイッチバックも姿を消しましたし、富士岡や岩波もとっくに普通の駅になっています。毎日通勤通学などでその区間を使う人たちにとってはありがたいことでしょうが、旅情が薄れてしまうのも確かです。

 最初は沼津で泊まるつもりだったようですが、あまり良い宿が無く、駅員の勧めで興津の水口屋に泊まることになります。
 百閧ヘ基本的に文中に宿の名前を記しません。宿どころか人名も必要最小限しか書かず、甘木(「某」の上下を分けた)とか何樫(なにがし、に宛て字)とか垂逸(たれそれ、に宛て字)とかの仮名を多用しています。知らずに随筆を読んでいたら、登場する「甘木君」というのが話によって実にいろんな職業だったり性格だったりするので面食らうかもしれません。
 親友だった宮城道雄の随筆の校正などもおこなっていましたが、宮城が旅先などで世話になった人や宿の名前を律儀に記しているのを、百閧ヘ片端から仮名に直してしまったそうです。文章の中で、具体的な実名などは邪魔なものでしかないというのが百閧フ考えかたでした。阿房列車の登場人物がみんな不思議な名前で出てくるのもそのためです。
 そういう百閧ノしては、水口屋の名前を出したのは千慮の一失であったのか、それともニ・ニ六事件などの関連で歴史的に名前の出てくる宿屋だったので例外としたのか、よくわかりません。次の「鹿児島阿房列車」で訪れる八代松浜軒と共に、阿房列車で名前の出てくるただふたつの宿屋です。
 水口屋は百閧フお気に入りになったようで、このあと「時雨の清見潟・興津阿房列車」でも泊まっていますし、阿房列車以外でも何度か泊まっているような感じです。清見潟を見はるかすオーシャンビューの庭園が気に入ったのかもしれません。

 翌日そのまま東京に帰るのではなく、ひと駅だけ戻って、由比でまた1泊するのでした。興津も由比も私は乗り下りしたことがありますが、由比は興津よりさらにひなびた雰囲気のところで、しかも海がもっと近くにある感じです。いまでも東海道線に乗っていて、由比のあたりの海岸風景に接すると心が洗われる気分になります。東名高速でも風光明媚な由比パーキングエリアで好んで休憩する人が多いでしょう。
 たぶん興津で奨められて、急遽由比でも泊まることにしたのだと思います。というのは、百閧ヘ沼津で静岡までの切符を買っており、この当時は2日間有効でした。興津で途中下車して水口屋に泊まり、翌日そのまま静岡まで出て急行列車で帰るというのが当初の予定だったと思われるのです。ところが由比でもう1泊したために有効期限が切れ、静岡までの切符を買い直さなければならなかったのでした。

 ──汽車の事なら何でも知つてゐる様な顔をしながら、かう云ふへまを演ずる。

 と忸怩たる述懐をしていますが、その価値はあったと言えるでしょう。百閧ヘ由比駅のひなびた漁村風景がすっかり気に入り、その後何度も訪れるようになったようです。このとき以外に由比駅を訪れたことを記した随筆は他には見当たらないのですが、のちにそのものずばりの「由比駅」という短編怪奇小説を書いているほどです。
 由比に1泊したのち、静岡に向かいます。興津からひとつ東京寄りの由比に来たのだから、そのまま帰れば良さそうなものを、わざわざ反対向きに静岡まで出たのは、帰りは急行の一等車に乗りたかったからでしょう。急行はたぶん沼津にも停車したと思うのですが、沼津からでは距離が近すぎてつまらないと思ったのかもしれません。この気持ちはわかる気がします。
 興津から反転して由比へ、また反転して静岡へ、さらに反転して東京へと、めまぐるしいことですが、百閧ヘ

 ──スヰツチ・バツクの妙、ここに極まれり

 と得意そうです。こういうのを三段式スイッチバックと言う……のかどうか、よくわかりません。
 帰りの急行は「34列車」とあるだけで愛称名は書かれていません。当時はまだすべての急行列車に愛称がついていたわけではないのかもしれませんが、「鹿児島仕立て」とありますから「きりしま」とか「高千穂」とか、その見当でしょう。百閧スちはこの急行に乗るため、静岡駅で2時間半くらい便々と過ごします。往路の国府津駅よりもっと長時間で、手荷物預かりに荷物を預けて身軽になって、どこか見物に行こうと思ったらしいのですが、結局どこにも行く気がせず、山系君がレモンジュースを飲みたがっても
 「よさうぢやないか」
 のひと言で片づけ、要するに駅前のバスを眺めるくらいで他にはなんにもしないで過ごし、荷物の預かり料が無駄だったとぼやくはめになるのでした。
 こんなに待たなくとも、御殿場線と違って東海道線には列車がいくらでも走っているのですが、たぶん一等車を連結した列車がその時間帯には他に無かったのでしょう。
 そんなにしてまで乗り込んだ急行の一等車でしたが、ほんの3駅め(当時は東静岡駅がありませんでしたので)の興津を通過するあたりから、もう食堂車へ出かけて飲み始め、ふと気づくと横浜だったというのですから、じれったいにもほどがあります。前項で書いたとおり、一等運賃というのは一般庶民が軽々しく払えるような金額ではなかったはずで、せっかくその一等車に乗り込みながら、行程の大半を食堂車で過ごすとは。
 無用の旅をしていること自体が無駄なのだから、一等運賃の無駄などは些細な問題だ、みたいな態度になりそうな百閧焉Aこのときはさすがに自分もあきれたらしく、

 ──何の為の一等だか解らない。二等車だつて三等車だつて、どうせそこにゐないのなら同じ事であつた、と云ふ事を考へた。

 とシリーズ最長の「区間阿房列車」の稿を締めています。
 どうも私の文もえらく長くなってしまったようです。こちらもシリーズ最長、で済むかどうか。なんだか阿房列車語りはいくらでも書けてしまいそうで、自分でも唖然としています。

(2017.5.15.)

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