忘れ得ぬことどもII

3.鹿児島阿房列車

 「特別阿房列車」「区間阿房列車」に続いて発表されたのは、「鹿児島阿房列車」前後編でした。東京から列車で出かける場合、いちばん遠いのが鹿児島になります。だから、鉄道旅行を堪能したいとなれば、目的地としては鹿児島という選択肢が自然に浮かび上がってきます。私もかつて西鹿児島(現・鹿児島中央)から東京まで、寝台特急「はやぶさ」に21時間乗り続け、文字どおり堪能したことがあります。
 いまでは「のぞみ」「さくら」を乗り継いで6時間40分ほどで着いてしまいますが、かつては「九州夜行」こそ日本の広さを実感できる長距離列車のスターたちでした。
 百閧焉Aこの前の区間阿房列車では近場だったから、今度はできるだけ遠いところへ行こうと考えたに違いありません。そして、その途上でたまたま泊まった八代の宿がお気に入りとなり、それから何かとかこつけて八代に立ち寄るようになります。つまり、九州行きがやたらと増えるわけです。その意味では、この「鹿児島阿房列車」で、阿房列車シリーズのさまざまなフォーマットが定まったと言えるかもしれません。
 「区間阿房列車」のときのような駄弁を弄することなく、「鹿児島阿房列車」は博多行き急行「筑紫」が東京駅を発車するところからいきなりはじまります。
 晩の21時の出発で、百閧ノとっては大体夕食時間ですので、すぐに同行のヒマラヤ山系君と一献を傾けはじめようとします。
 ところがそこへハプニング。「区間阿房列車」で見送りに来て、東京駅長が百閧フ見送りに出てこないのはおかしいと言いつのって百閧困惑させた見送亭夢袋氏が、またまたやらかしてくれたのでした。
 「区間阿房列車」のあと、百閧ヘ夢袋氏に、見送りはやめて貰いたい旨をことを分けて話し、それで納得して貰ったつもりでいました。それで「鹿児島阿房列車」の出立には顔を見せなかったので、胸を撫で下ろしていたところ、列車ボーイが「内田百關謳カ」と麗々しく大書された餞別の菓子折とウイスキーの小壜を持ち込んできたのでした。ご命令に従って、お見送りは遠慮するけれども、陰ながらご無事をお祈り申し上げております云々といった手紙がついていたそうです。
 これにより百閧ヘ列車ボーイに思いきり身バレしてしまい、以後列車を下りるまで、「お客様」ではなく「先生」と呼ばれ続けて閉口するはめになるのでした。

 「筑紫」で百閧スちが乗ったのは、一等個室寝台(百阯ャの表記では「コムパアト」)です。
 個室寝台というのはいまでもありますが、その一等というのはどんな感じだったのでしょうか。
 繰り返しになりますが、現在の普通車は当時の三等車です。グリーン車が二等車であり、一等車に相当するものは現在はありません。車輌型式記号で、普通車のことを「ハ」と書きますが、これはイロハのハで三等車に由来するからです。グリーン車は「ロ」です。イロハのロで二等車を意味します。当然一等車は「イ」であるわけですが、現在のJRの車輌には、イという型式記号を持った車輌が無いのです。
 ちなみに寝台車を表す記号は「ネ」で、これは「寝」のことだとすぐわかりますね。三等寝台は「ハネ」、二等寝台は「ロネ」です。現在ハネとつけられているのはB寝台で、A寝台がロネになります。ただし定期の寝台列車はいまや「サンライズ」だけになり、これは電車ですから、動力車を表す「モ」とか、特に動力系を備えていない「サ」などがついて、もう少し複雑な記号になっていると思います。
 一等寝台は「イネ」であったはずですが、それがどんな設備のものであったか、鉄道博物館にでも行って資料を調べないとよくわかりません。
 ただ阿房列車の記述に従って想像すると、窓には分厚いカーテンがついていたようです。片方の隅に洗面台があり、そこをテーブル代わりにして一献することにしているということは、テーブルに類するものは備えていなかったのでしょう。寝台の上に向かい合って坐ることはできず、列車ボーイに持ってきて貰った木箱を椅子代わりにして、洗面台を直角に囲むような形で坐らなければなりませんでした。寝台は上下段式になっていたようです。
 これらの記述から考えれば、現在の感覚からすると、一等寝台はそう極端に豪華というわけではなかったかもしれません。少なくとも、一等座席の優雅さほどには、羨望を覚えるところは無いようです。のちのA個室寝台くらいの設備であったのではないでしょうか。国鉄時代のA個室寝台は値段のわりには狭苦しくて、「独房」などとと呼ぶ人も居たほどです。一等個室といえども、JRになってからのツインデラックスほどの居住性は無かったと思います。
 その個室に陣取って、百閧ニヒマラヤ山系はお酒を飲みはじめ、持ち込んだ分だけでは足りなかったらしく、熱海駅に停車したときに列車ボーイに頼んで追加を買ってきて貰い、沼津を過ぎた頃にようやく納杯となったようです。たぶん2時間半くらい飲んでいたのではないでしょうか。

 分厚いカーテンのおかげか、京都大阪もまるで気づかないうちに走り抜け、姫路を過ぎて岡山県にさしかかるあたりではっきりしたようです。
 岡山の近くの瀬戸駅を通過した頃から、床の下の線路が「こうこう、こうこう」と鳴り出した、という記載があります。そのあたりを通過するときはいつでも鳴るそうです。このことについては、のちに宮脇俊三氏もその通りであると証言しています。私もそれを追体験したくて、前にそのあたりを昼間に通ったとき、大いに気をつけていたのですが、わかりませんでした。電車のモーター音が邪魔だったのかもしれません。私の感受性が百關謳カや宮脇氏に劣っているからだとは思いたくありませんが……
 岡山は百閧フ故郷です。山陽道(現在の国道2号線)に面した古京町にあった造り酒屋「志保屋」が実家でした。百閧フ父の代で、手広くやりすぎて失敗し身上を潰してしまい、百闔ゥ身は酒屋の主人にはならずに東京で学校の先生になり、次いで文士となったわけです。
 ずいぶん前に、朝日作曲賞だったかの授賞式があって岡山に行った際、路面電車に乗って古京町を訪ねてみました。いまの国道2号線の様子から、内田榮造少年(百閧フ本名)の時代を想像することはできませんでしたが、はじめて訪れた場所なのになんだか懐かしいような気がしたものです。いまで言う聖地めぐりですね。
 晩年に至るまで、繰り返し繰り返し、志保屋の昔の想い出を語り続けた百閧ナしたが、最後に岡山の土を踏んだのは昭和17年のことで、しかも恩師の葬式にそそくさと参列してすぐに帰っています。岡山は昭和20年6月末の米軍による空爆で壊滅的な被害を受け、古い街並みなども一掃されてしまいました。百閧ヘそんな岡山を見たくなかったらしく、阿房列車の途上でいくたびも通過しながら、ついに駅の外へ出ることはありませんでした。記憶の中に残る古き佳き岡山の姿を壊されたくなかったのでしょう。その後岡山市からも、在住の旧友などからも、何度も「いちど講演にでも来てくれ」と要請されたようですが、すべて断っています。この辺の頑固な意地の張りかたは、いかにも明治の男という風貌を感じさせます。
 岡山駅到着の少し前、現在は西川原駅があるあたりで、山陽本線は百間川を渡ります。これが内田百閧ニいうペンネームの由来となっています。栄造少年が暮らしていた頃は涸れ川で、増水時以外には水は流れていなかったそうですが、現在では放水路として整備され、ちゃんと水の流れる川になっています。
 百閧ヘ百間川を渡る頃、まだ起きてこないヒマラヤ山系君に声をかけて注意を促しますが、山系君はわかったのかわかっていないのか、あいまいな返事をしただけだったとか。

 ふたりは急行「筑紫」を尾道で下車します。瀬戸内海の景色を堪能するため、呉線に乗りたかったのでした。確かに山陽本線は海沿いを走るところが案外少なく、須磨浦のあたりとこの尾道附近、それに徳山あたりでしか海を眺めることができません。百閧ヘ戦前に、嘱託として奉職していた日本郵船の豪華客船に便乗し、何度も瀬戸内海を航行しています。その景色をこんどは陸から見てみたいというのがこのたびのもくろみでした。
 呉線との分岐駅は三原ですが、「筑紫」は三原に停車しなかったのでしょう。尾道で下りて、呉線経由広島行きの急行「安芸」に乗り換えました。
 「安芸」はその後寝台特急(ブルートレイン)に格上げされて、昭和53年くらいまで走っていましたが、最後まで呉線経由であることは変わりませんでした。あとにも先にも、呉線を走った唯一の特急ではないかと思います。
 百閧スちが尾道から乗り込んだのは、「安芸」の特別二等車でした。特別二等という言葉もいまでは少々わかりにくいようです。上述のとおり二等車というのは現在のグリーン車です。それに「特別」がつくので、イメージとしてはグリーン車の中でも特別なものということになります。グランクラスでは別格すぎるので、JR九州内を走っているDXグリーン席というところでしょうか。幸い海側の席がふたつ並びで空いていたので、ふたりはそこに腰を掛けます。前々回に書いたとおり、指定席という概念がまだ無かったことがわかります。

 呉線の海辺の景色を存分に愉しみ、広島に着いた百閧スちは、山系君の知人の国鉄職員に迎えられます。広島駅の改札を出ず、そのまま宇品線に乗り換えて、上大河(かみおおこう)という駅まで行ったと書いています。
 宇品線というのは昭和47年に早々と廃止されてしまった国鉄路線で、もともとは山陽本線と宇品港を結ぶ軍用路線として開業しました。軍用路線ということは採算を度外視していたということでもあり、利用者は少なく、1970年度の国鉄全路線の中で営業係数が最悪だったなどという記録も残っています。広島というそれなりの都会の中の、わずか5キロあまりの短い支線でそれだけの赤字を出せたというのがむしろ驚きです。
 現在の広島電鉄皆実線および宇品線のルートに近いあたりを通っていたと思うのですが、とにかく走っていた汽車も「ぼろぼろの、走り出すと崩れさうな」シロモノであったようです。なお廃止されるまで電化はされませんでした。
 沿線は原爆の被害が比較的少なかったらしく、古い街並みが残っていたようです。またそのために官公庁なども沿線に移ってきて、百閧ェ訪れた頃は上大河のあたりはちょっとした広島の中心街のような有様になっていたと思われます。
 その日は上大河駅近くの宿で1泊し、翌日は山系君の知人が手配してくれたクルマで珍しく街を案内して貰っています。原爆の爪痕もいろいろ見たはずですが、阿房列車の文中ではほとんど触れられていません。のちに、特急「かもめ」の処女運転に招待されたときだったか、同乗の新聞記者から広島の原爆記念塔を見た感想を求められて、
 「僕は感想を持つてゐない」
 とにべもなく答えています。

 ──「なぜです」
 「あれを見たら、そんな気になつたからさ」
 「その理由を話して下さい」
 「さう云ふ分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、あの塔に就いては、一言半句も触れなかつた。触れてやるまいと思つてゐるから、触れなかつた」
 「解りませんな」
 「もういいでせう」──


 通り一遍の憤りとか悔やみとか、そんな言葉を引き出したがっているらしき記者の浅はかな心底を見透かしてか、平素から新聞や雑誌の記者に愛想の悪い百閧ナはあるものの、このときはことさらに不機嫌に応対している様子です。

 広島駅に戻って乗った列車は、またもや「筑紫」です。一等車があるので選んだのでしょう。
 そこまで一等車にこだわるのかとあきれる人も居るかもしれませんが、百閧ヘおそらく博多までの一等切符を買ってあったのでしょう。前にも書きましたが、当時はいまのようにグリーン券を運賃と別に買い求めるというのではなく、運賃そのものに等級があったのです。モノクラス制になったいまではつい勘違いしそうですが、「一等運賃=乗車券+一等料金」ということではありません。グリーン料金は列車ごとに設定されているので、一旦途中下車するとあとは買い直さなければなりませんが、一等運賃は途中下車しようが途中何泊しようが、有効期限内であれば最終目的地まで一等車に乗る権利を有します。
 一等切符で二等車や三等車に乗ることは可能だったと思いますが、一等車があるのならばそれに乗ったほうが気分が良いでしょう。それで一等車を連結している列車のうちで適当な時間の便を選んでみたら、また「筑紫」になった、ということだと思います。
 「安芸」で呉線を走った分については別に二等切符を買ったようです。「東京〜尾道一等・尾道〜呉線経由広島二等・広島〜博多二等」と分けて買うこともできたのでしょうが、かえって高くつくことがわかったのかもしれません。
 百閧ノとってははじめての関門トンネルをくぐり、九州に上陸します。ただ九州上陸自体ははじめてではなく、郵船の客船を乗りまわしていた時分、下関に寄港した際、書留を送らなければならない必要があり、門司の郵便局のほうが近いと言われて渡船で九州に渡ったことがあるとか。
 博多には夕刻に到着。東京発が21時ですから、「筑紫」はそれから21時間くらいかかって博多まで走っていたことになります。私が乗った寝台特急「はやぶさ」の西鹿児島〜東京と同じくらいで、まあ博多から鹿児島分くらいが両時期のあいだのスピードアップということになるのでしょう。
 博多で1泊し、翌朝の急行「きりしま」に乗って鹿児島に向かいます。はじめて乗る鹿児島本線の途中については、筆をほとんど省いて、なんだかあっという間に鹿児島に到着します。実際には7時間ちょっとかかっているはずですが。
 鹿児島の列車のターミナルは、のちにほぼ西鹿児島(鹿児島中央)となりますが、この時代は鹿児島駅と西鹿児島駅が拮抗していたようです。百閧スちは鹿児島駅に着き、昔の法政大学時代の生徒の義弟という人に迎えられます。お互い顔を知らないというので、百閧ヘちゃんと行き会えるか非常に心配しました。相手は保険会社の鹿児島支店長で、識別のためその会社の徽章がついた旗を持っていると伝えられていたのですが、百閧ヘそもそもその徽章を知らないと不安がります。
 こういうとき、ヒマラヤ山系君のほうが楽観的かつ実際的らしく、
 「鹿児島であまり旗を立てる事もないでせうから、何でも旗が立ってゐたら、そこへ行きませう」
 と先に立って列車を下りたのでした。

 按ずるよりなんとやらで、支店長は旗ではなく、「内田百關謳カ」と大書した札を掲げていたので、迷うこともなく落ち合うことができたのでした。しかし見送亭夢袋氏の餞別同様、百閧ヘ自分の名前が目立つのを人一倍照れくさがる性分で、挨拶もそこそこに、札をどこかにしまってくれるよう懇願したそうです。
 鹿児島では2泊しています。2日目は山系君の友人の国鉄職員がクルマで案内してくれたようです。なお、この時代「クルマで」と言えば、「自動車を雇って」という意味で、いまのように誰もがマイカーを持っているわけではありません。
 それにしても広島といい鹿児島といい、ヒマラヤ山系君はどこへ行っても行く先々の国鉄の管理局に知人や友人が居て、百閧烽フちに大いに感心しています。私の稿では触れませんでしたが、「特別阿房列車」で行った大阪でも、帰りの切符を「山系の友人」に手配して貰っていますし、「区間阿房列車」では静岡の管理局に居る後輩を訪ねて行ったところ留守だった、という記載もありました。あいまい、モウロウ、不得要領等々と百閧フ随筆ではさんざんな書かれようのヒマラヤ山系氏ですが、そういう人柄であることが、かえって交友関係を広く結んでゆく秘訣だったのかもしれません。また職種が福利厚生関係で、あまり人と対立するような部局ではなかったことも幸いしたのでしょう。
 鹿児島を後にしてからは、人に奨められて、肥薩線で八代に出ることにしています。肥薩線は風光明媚な路線としていまでも名高く、ことに矢岳(やたけ)や大畑(おこば)のあたりはループ線になっていることもあり、鉄道写真にもよく撮られます。私が乗ったときはもう陽が暮れていてよくわからなかったので、もういちど昼間に通ってみたいと思っています。
 これは山系君こと平山三郎氏の書いた本に出ていたことですが、これらの高原の駅のたたずまいに平山氏が感動し、
 「こういう駅の駅長になってのんびり過ごしたいものですね」
 と言ったら、百閧ゥら、
 「貴君はあんな小さな駅にしても、駅長になれるくらいえらいのかね」
 と真顔で問い返され、返す言葉に困ったとのことです。

 高原を経て、球磨川の流れを堪能し、八代に到着し、ここでまた1泊することになりました。鹿児島から急行列車に乗って鹿児島本線経由で帰ることにしていたら、八代などで下車することはなかったでしょう。百閧ィ気に入りの宿ナンバーワンとなった八代の松浜軒との出会いは、まったく偶然の賜物だったのです。
 松浜軒はもともと、熊本藩の家老であった松井氏の別邸であったところです。江戸時代の一国一城令にもかかわらず、薩摩への備えのためか、八代には特例で熊本城とは別に城を置くことがが認められ、肥後の国主となった細川氏はここに信頼する家老を置いて支藩としたのでした。従って松井氏は八代城に居住していたはずですが、もしかすると常駐ではなく、「通勤」していたのかもしれません。松浜軒のほうが本宅であった可能性もあります。
 昭和24年、昭和天皇の全国ご巡幸の際には八代での御座所となり、大体その頃から旅館としての営業をはじめたようです。そして2年後に、内田百閧ェ訪れるのです。
 座敷に坐って庭園を眺めていると、本当に殿様になったような気分だったのかもしれません。百閧ヘこの宿がいたく気に入り、前後10回ほども泊まりに来ることになります。阿房列車シリーズの中ではこの「鹿児島阿房列車」のあと、「春光山陽特別阿房列車」「雷九州阿房列車」「長崎の鴉・長崎阿房列車」「列車寝台の猿・不知火阿房列車」で訪れており、シリーズ終了後もちょくちょく足を運んでは、その都度紀行文を書いています。
 ただ士族の商売どころか殿様の商売ではあり、旅館としての営業はあまりうまく行っていなかったらしく、最初の数年以降はずっと大赤字経営で、百閧ェ通ううちに廃業してしまいました。現在は庭園として八代の名所のひとつとなっています。
 私も八代に立ち寄ったとき、松浜軒の門前まで行ってみましたが、その日は確か休館日で、入ることはできませんでした。

 はじめて泊まったこのときは、仲居の「もとじまさん」「御当地さん」それに仲居頭の「油紙女史」なども居てなかなか賑やかであった模様です。もとじまさんというのは戦後台湾から引き揚げてきた人で、御当地さんは朝鮮からの引き揚げだったとか。それぞれの土地で、日本人でない、もとから居た住民のことを丁寧に「もとじまさん」「御当地さん」と呼んでいたというので、それをあだ名にしてしまったのでした。
 戦前の日本人が、台湾や朝鮮で、現地人とのつき合いには相当に気を遣っていたことが偲ばれます。役人などで横柄な態度の者も居たかもしれませんが、一般の移住者は現地人に混じって生活するわけですから、横柄な態度などとれようもありません。戦前の実相というのは、こういう細かい記述を読み取りながら組み立ててゆくべきでしょう。
 油紙女史は、油紙に火がついたようにしゃべりまくる人だったので、百閧ェそれに閉口して、あるいは面白がって命名したのでした。
 「春光山陽特別阿房列車」で二度目に訪問したときには、油紙女史ともとじまさんは他に転職してしまって、このときのお馴染みでは御当地さんだけが残りました。以来最後まで、御当地さんはあたかも百闥S当であるかのように毎回出迎えてくれるようになります。この御当地さんのもてなしも、気むずかしい文士である百閧フ琴線に触れたに違いありません。

 八代からは急行「34列車」に乗って一路東京まで帰ります。この愛称名の書かれていない34列車は、「区間阿房列車」で最後に静岡から乗ったのと同じ急行列車です。博多から鹿児島まで乗った「きりしま」が33列車ですので、おそらくこの34列車もそれと対になる「きりしま」だったのでしょう。当時は、上下の同じ愛称の列車には連続した奇数偶数の列車番号がついていたはずです。
 「きりしま」は東京〜博多間を各等編成、つまり一等車・二等車・三等車を全部連結した編成で走りますが、博多〜鹿児島は一等車と二等寝台を切り離した状態です。従って百閧スちも、博多までは二等座席車に乗り、博多で一等個室に乗り換えたわけです。
 同じ列車の中で乗り換えというのは面倒なようですが、私も寝台特急「はやぶさ」に乗った際、B個室寝台「ソロ」が熊本からの連結だったので、西鹿児島から熊本までは立席特急券(寝台使用がはじまるまでの昼間のあいだ寝台特急に乗るための特急券。立席となっているが、実際には空いていれば坐れる)で開放寝台車輌に乗り、熊本で乗り換えました。この切符の手配は乗車の何日か前に熊本駅でおこなったのですが、あまりそういう乗りかたをする人は居なかったのか、窓口の、やたら元気でほっぺたが赤い、いかにも「おてもやん」っぽい女性駅員が、何やら感動したかのように、
 「こんな切符の出しかたがあるんですねえ。勉強になりました!」
 と言ったものでした。
 「筑紫」が東京から博多まで21時間ほどかかっていたので、「きりしま」もまあ同程度でしょう。さらに八代から博多まで、たぶん4時間ばかりが加わっているので、この帰路では百閧スちは無慮24時間以上を同じ列車に乗って過ごしたことになります。乗り鉄としてはうらやましい限りですが、まあご苦労様というところです。
 「鹿児島阿房列車」ではこの帰路のことは簡単に済ませていますが、博多で個室に落ち着くや否やすぐに食堂車に出かけたようです。ところが、九州内と本州に入ってからでは食堂乗務員も入れ替わるらしく、それに伴ってテーブルクロスなども新しくすることになっていたのでしょう、百閧スちが飲み食いしているテーブルからいきなりクロスを引きはがそうとします。また本州勢への引き継ぎも不充分だったようで、百閧スちはウェイトレスと少々揉めます。そのときのことはのちの阿房列車シリーズでもときどき回想されますし、シリーズ外の随筆などでも幾度か書かれました。ともあれ反省して、その後は乗務員交代の時間にかからないように食堂車に出かけることにしたそうです。
 出発前に夢袋さんが差し入れてくれた小壜のウイスキーは、旅行中には飲まないことを決意していたのに、この帰りの列車に乗る頃にはもちろんとっくに空になっていました。とにかくよく飲むふたり連れではあります。

(2017.5.16.)

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