「特別」「区間」「鹿児島」に続く4本目(4篇目)の『阿房列車』は、「東北本線阿房列車」です。しかしこのときは、次の「奥羽本線阿房列車」前後編とひとつながりの旅行であり、「小説新潮」ではそれを三月に分けて分載したことになります。
前回は南の果てまで行ってきたので、今度は北の果てだというわけでしょう。なお北海道については、内田百閒は「区間阿房列車」の冒頭で検討して、時期尚早とばかりに却下しています。当時津軽海峡に機雷が浮いているという噂があり、乗った連絡船がその機雷と衝突して沈没してしまうようなはめになることを百閒は好まなかったのでした。
機雷に触れたのではありませんが、百閒があれこれ考えていたときから少し後の昭和29年、洞爺丸事故が発生します。颱風の直撃を受けて連絡船が沈没し、死者・行方不明者だけで1100名を超えることになった、日本海難史上最悪の大事故です。青函トンネルのプランは、この事故のあとようやく本腰を入れて検討されるようになったのでした。
ともかくそんなわけで、阿房列車を北海道まで延長運転するつもりは百閒には無く、従って北の果てといえば青森になります。「東北本線」「奥羽本線」の両阿房列車は、東北本線で青森まで行き、奥羽本線で帰ってくるという周遊記であるわけです。
前の「鹿児島」も7泊6日の大旅行でしたが、今度はそれを上回る8泊9日です。確かに東北地方は近代化の後まわしにされたところがあり、鉄道に関して言えば電化率も複線化率も運転本数も、西日本に行くのに較べればずっと低レベルだったのですが、それにしても8泊9日もかけるほどのルートではありません。
しかし、最初の目的地と言うべき盛岡(昔の生徒が居た)に行くにあたって、ちょうど良い時間に着く列車に乗ろうとすると上野発が早すぎてとても乗れそうになかったから、その列車に都合の良い時間帯に乗るべく、もう一日を費やして一旦福島に泊まるなんてことをしているものだから、いたずらに時間がかかったわけです。
当然旅費もそれだけ多額になったはずですが、阿房列車の評判が良いので、版元の新潮社はいくらでも前借りをさせてくれたのだと思われます。百閒に言わせると断じて前借りではなく、「錬金術」なのだそうですが。
阿房列車シリーズではじめて、上野からの発車となります。百閒は上野駅にはあまり馴染みがないようで、
──まはりの物音が何となくよそよそしい。人の話し声はなほさら疎ましく聞こえる。思ひ立つて東北奥羽へ出掛けるのだが、行く手の空は低くて暗い様な気がする。
などと書いています。
なんだか東北を見下しているような物言いで、腹を立てる人も居るかもしれません。が、これは西日本出身者が東北地方に対して共通して抱いている先入観のようなものと考えられます。岡山あたりで生まれ育った人々にとっては、東北地方というのは、東京に居て考えるよりもずっと遠方のイメージなのです。ましてやその地方にまったく馴染みも無い百閒などには、不安もあいまってことさらに暗いイメージで捉えられていたでしょう。百閒のこの言葉は、都会人が田舎者を見下しているのではなく、西日本人が北日本に対して怖れを感じているがゆえに発せられたと考えるのが妥当だと思います。
上野から乗り込んだ列車は、12時50分発の準急仙台行きです。
国鉄の準急という存在は、私が物心つく頃にはほぼ無くなっていたので、一等車二等車などと同様、なんとなく憧れのようなものを感じます。戦前にも若干はあったようですが、主に活躍したのは昭和20~30年代でした。
国鉄は戦中戦後も休むことなく走り続けてはいましたが、戦争によって受けた線路や車輌の被害は大きなものでした。また燃料の石炭も不足して、昭和22年にはいちど急行という種別を全廃しています。
しかし、燃料節約のためには、あまりちょくちょく停車しないほうが良いので、通過運転をする列車は設定されました。
通過運転はするものの、戦前の急行列車に較べればスピードも遅いし、車輌もボロボロだし、当時の国鉄の矜恃としては、こんなものを急行列車と呼ぶのは屈辱的だと考えたのでした。それで、急行に準ずる列車、準急行→準急として走らせることになったわけです。
当初は特別料金は取らなかったようですが、そのうち「準急料金」が設定されました。急行料金や特急料金が、乗る距離に応じて増加するのに対し、準急料金は均一制だったようです。いまの通勤ライナーなどの乗車整理券に相当すると見ても良いかもしれません。
急行や特急に較べてお手軽に乗れる感じの準急はなかなか評判が良く、だんだん増えました。特にディーゼルカーが本格投入されてからは、全国的にディーゼル準急が走るようになり、それまで優等列車とは無縁だったかなりの支線区まで入り込みました。その中には現在の特急にまで系譜のつながった列車もいくつも含まれています。
ただ昭和30年代末頃に、国鉄が赤字体質になりはじめると、増収策として次々急行に格上げされ、昭和43年10月の白紙改正で完全に姿を消します。私が4歳のときで、従って準急は記憶に残っていません。
のちには準急にも全部愛称名がつけられましたが、「東北本線阿房列車」の当時(昭和26年10月)には、まだそうなってはいませんでした。文中にも「105列車」と書かれているだけで、愛称名は出てきません。
一方、盛岡に着く時間がちょうど良くて、わざわざ福島で一泊して待つことになった急行101列車にはすでに「青葉」という愛称がつけられていました。しかし百閒はこちらの愛称名も記していません。実は優等列車一般に愛称名がつけられはじめたのは昭和25年11月以降のことで、このときはまだ「青葉」の名はつけられて1年も経っておらず、101列車と呼んだほうが通りが良かったのだと思われます。
105準急は二・三等編成の列車なので、百閒とヒマラヤ山系君は二等車に陣取ります。この頃東北地方には、一等車は走っていませんでした。その少し前まで走っていたらしいのですが、やめてしまったようです。利用者が少なかったのでしょう。百閒は一等車が好きで、その次に好きなのは三等車であって、二等車(というよりも中途半端な二等客)は嫌いだったのですが、長時間乗るにあたって三等車の硬い座席はしんどく、やはり二等車に乗らざるを得ません。
それで二等車に乗り込むとき、わざわざ「薄ぎたない二等車」などと悪口を添えています。
昼間の出発でもあり、見送亭夢袋氏はもう堂々と見送りに来ました。山系君の直属の上司ですから、スケジュールなどはだだ漏れです。また百閒も筋は通す人なので、部下の山系を何泊ものあいだ連れ出すにあたっては、必ず夢袋氏の許可を貰っているのでした。もとより百閒崇拝者である夢袋氏に否やのあろうはずもありません。7泊とか8泊とか長期の旅行が増えてくると、それなりに困ることもあったようですが、夢袋氏も意地っ張りなのでそんなことを百閒に訴えたりはしませんでした。その代わり、見送りにだけは欠かさず参上したのです。
さて、準急列車は非常に混んでいたそうで、二等車の通路にも立ち客が見られたと書いています。前に、二等車と一等車はいまで言う定員制であったのではないかと推測しましたが、立ち客が居たとなるとその推測が崩れます。三等客があまりの混雑で居場所が無くなって二等車に入ってきて立っていたのか、準急や鈍行の二等車は特急などとは少し扱いが違ったのか、そんな想定をしないと理屈に合わないことになりそうです。
ともあれ準急列車は走り、白河を越えて奥州へと入ります。西日に照り映えた山が黄金に輝いて、とても美しかったそうですが、百閒の眼にはそれもむしろ凄惨なほどの物寂しさと映った模様です。どれだけ東北に怖れを抱いていたのかと思います。
18時49分福島着。駅前にある大きな旅館に投宿しました。
晩のお膳には、地元のお酒である「夢心」が供されたようです。いまでも福島県近辺へ行くと、そこらじゅうの電柱に「夢心」の広告が架かっているので、ご存じの人も多いでしょう。
しかし百閒の口には合わなかったのか、他のお酒は無いのか、と仲居さんに訊ねています。
──「ありません」
「ありませんなら、これで結構だ」
「一番いいお酒です」
「さうか。そのつもりで飲むからいい」
なんだか不承不承という感じで納得し、そしてお酒の銘柄を訊くのですが、これがなかなか通じなくて苦労しています。稲(いね)心、米(よね)心、嫁(よめ)心、いめ(?)心など聞き違えたあげく、ヒマラヤ山系君が
「ゆめ心なんてせう。さうだらう君」
と言い当てるのでした。
百閒は、鹿児島の果てまで行っても言葉がわからないなんてことはなかったのに、まだ東北の入口でこんなに通じないのでは、この先どうなるのだろうか、とますます不安がるのでした。
薩摩弁だってよそ者にはさっぱりわからないのですが、鹿児島あたりの人は、薩摩弁と標準語をかなりしっかり使い分けてくれるのに対し、東北弁は基礎となる発音自体が少し違うので、標準語的に話してくれていても、馴れないと聴き取りづらいということがあるかもしれません。ともあれ、百閒の東北恐怖症はつのる一方です。
翌日、14時13分発の急行「青葉」で盛岡へ向かいます。この列車には特別二等車が連結されており、一等車の無い東北地方ではそれが最上ですので、百閒たちはそこに乗り込みます。乗り込むにあたっては、またぞろ「一等車がいちばん良いのだが……」という話を蒸し返して、かなりの字数を使ってごねています。無いものは仕方がないでしょうに。
特別二等車について、前回、二等車のグレードの高いものだろうという意味のことを書いたのですが、どうも、「座席指定のできる二等車」ということではないかという気がしてきました。呉線の「安芸」で特別二等車に乗ったとき、海側の座席が空いていて喜んだのは、あらかじめ座席指定していない場合は空いていれば坐れるというルールなのかもしれません。
というのは、「青葉」の特別二等車の座席をあらかじめとっておいたという記述が見られるからです。
ところが、そこに乗ったまま盛岡には行けません。「青葉」は基本的には仙台止まりの急行で、一部が郡山から磐越西線に乗り入れて会津若松へ、一部が福島から奥羽本線に乗り入れて院内へ、そして一部が青森まで運転されます。で、青森行きの車輌は、仙台まで常磐線経由で走ってきた201急行「みちのく」に併結されることになります。
いわゆる多層建て列車で、複雑怪奇な運転をしているのですが、東北地方にはかなり後まで、この種の分割・併合を繰り返すややこしい急行列車が存在しました。鉄道雑学本などにときどき採り上げられます。「たざわ」「陸中」などすごいことになっていましたが、詳述するとやたら長くなるので、興味がおありの向きは「多層建て列車」で検索してみて下さい。たぶん、利用者数のわりに線路容量が少なかったための苦肉の策ではないかと思われます。
もうおわかりと存じますが、「青葉」の特別二等車は仙台止まりだったのです。以北は「みちのく」が本体となるので、食堂車や特別二等車などの「上級」設備は「みちのく」のほうが使われたわけです。
そんなわけで百閒たちも、仙台で下ろされ、「みちのく」側の特別二等車に乗り換えなければなりませんでした。そちらは混んでいたので、座席が空いたら知らせてくれるように列車ボーイに頼み、普通二等車で待っているつもりで入って行ったら、かえってそちらに空席があった、とあります。
これらの記述からすると、特別二等車はやはり、「座席指定が可能」な二等車ということだったように思われます。のちの指定席とは違って、座席指定しなければ乗れなかったというわけではなさそうです。この種の「制度」は、モノとして残らない分、なかなか推測が難しいようです。
途中、たぶん小牛田あたりで、列車ボーイが特別二等車の空席ができたことを知らせてきましたが、離れ離れの座席だったというので、百閒たちはそのまま普通二等車に坐ってゆくことにします。
19時45分、盛岡に到着。百閒の昔の生徒である「矢中懸念仏(やなか・けねんぶつ)」と、山系君の友人が出迎えてくれました。山系君は盛岡の管理局にも友人が居たのです。
盛岡に2泊し、出発から4日目の昼近くの普通列車で先へ進みます。普通列車に乗っているせいか、百閒も停車する駅の名前などにいろいろ興味を向けている模様です。沼宮内(現いわて沼宮内)、金田一(現金田一温泉)など聞き慣れない響きの駅名が多いからでしょう。
金田一について、百閒は金田一京助博士の「明解国語辞典」を愛用していて、家では国語辞典と言わず「キンダイチ」と呼んでいたそうなのですが、金田一駅に来て駅名板に「きんたいち」とあるので、濁点があるのか無いのか悩みはじめています。結局濁点はつかないのが正しいらしい、と結論を出し、これからは国語辞典のことも「きんたいち」と呼ぼう、と考えています。
のちに百閒は金田一京助に会う機会があり、本当はどっちなのか訊ねたそうですが、なんとなくあいまいに流されてしまってよくわからなかったようです。どっちでも良かったのかもしれません。金田一の苗字は、その後横溝正史の名探偵金田一耕助によってすっかり人口に膾炙しましたが、これはみんな「キンダイチ」と濁って呼んでいるでしょう。また、息子の春彦氏、孫の秀穂氏、曾孫の央紀氏といずれもメディアに出ることが多いですが、いずれも「キンダイチ」と濁って呼ばれており、それを訂正した様子もありませんので、人名としては濁点付きで良いのでしょう。日本語の名前には、そういったおおらかさがあり、例えばヤマザキでもヤマサキでもどっちでもいいですよ、という人もけっこう居ます。こだわる人はこだわりますが。
浅虫(現浅虫温泉)で下車します。泊まったのは当然温泉宿ですが、百閒は温泉が嫌いで、ここでもしばらく文中でごねています。
温泉が嫌いとは、日本人にあるまじきような言いぐさではありますが、温泉が嫌いというよりも温泉宿が嫌いなのでしょう。観光地が嫌いなのと一緒で、要するに「人が来ることをそのつもりで待っているようなところ」には行きたくないというのが百閒の矜恃であったようです。のちに別府で泊まった時にもひとくさり文句を言い、しかしそのときはおりからの豪雨で温泉に砂が入って入浴禁止となり、やれやれ良かったとばかりに安堵しています。
このときはたぶん、青森市街にはまだ百閒のお眼鏡にかないそうな宿が無く、手配してくれた人が浅虫の宿を頼んだということだったのだと思います。いまのように電話一本、メール一本で宿泊予約ができる時代ではありません。ヒマラヤ山系君がつてを頼って手配して貰ったのでしょう。
浅虫温泉の宿はけっこう立派で(そのわりに御馳走は普通であった、とわざわざ書いていますが)、部屋も和室と洋室の続き部屋になっていたそうです。ふたりは洋室のほうにお膳を運ばせて一献をはじめるのでした。
1泊して青森に出て、奥羽本線に乗り換えます。青森で2時間も待つことになっていたので、床屋に入ってひげを剃り、そのあとラーメンを食べています。「区間阿房列車」のときの国府津や静岡の待ち時間に較べると、ずいぶんアクティブになりました。しかし青森の街を見物して歩こうとは思わなかったようです。港も見た様子がありません。
乗ったのは512列車です。百閒たちはこの普通列車に秋田まで乗りましたが、512列車はそのあとずっと走って、なんと大阪まで行く長距離列車でした。以前の「白鳥」や「日本海」の走行区間を、各駅停車で走ることになります。「区間阿房列車」に登場した門司行き111列車に匹敵するほどの長距離で、所要時間は30時間41分だったそうです。
秋田までは5時間39分、晩の20時近くなっての到着でした。ここでも山系君の友人たちの出迎えを受け、一緒に宿へ行って宴を張ります。百閒は大声で日露戦争時代の軍歌を歌い、宿の人から注意されたりしました。百閒は低吟するということが苦手で、酒の席で歌うとなると、のどが張り裂けそうなくらい大声を張り上げないと気が済まなかったようです。
翌日昼過ぎの412列車で秋田を発ち、横手で下車します。横黒線というローカル線に乗りたかったからだそうです。阿房列車はいろいろなところに運転されていますが、あえてローカル線に乗ったということは珍しく、このときは沿線の紅葉がきれいだと聞いたからではないかと思います。
横黒線は現在の北上線で、北上駅が当時は黒沢尻という駅名だったので、両端の駅から1文字ずつをとって路線名にしていました。東北地方には元来「尻」という字のついた駅が多く、例えば現在の八戸駅も昔は尻内駅と言いましたが、どうもイメージが悪いと思ったのか、どんどん改名してしまっています。他の地方より駅名のイメージにこだわるところがあるようで、「ほっとゆだ」とか「さくらんぼ東根」とか、ちょっとこっぱずかしいような観光志向の改名も多く、鉄道ファンを嘆かせています。
横手駅で、たぶん阿房列車としてははじめて駅そばを食べ、短い三等編成の列車に乗り込みます。全線に乗ると帰りが暗くなってしまうので、途中の大荒沢まで行って引き返してくることにしたようです。大荒沢駅は現存しません。ダム(錦秋湖)ができて線路を付け替えたときに駅が無くなり、新線にも同名の信号所はできましたが、昭和45年に廃止されました。現在の和賀仙人とゆだ錦秋湖のあいだに当たります。
紅葉は評判どおりきれいだったようですが、ずっと氷雨が降りしきって、その寒さに百閒たちは震え上がりました。10月末の東北地方の山間部の雨ですから、それは寒かったでしょう。大荒沢駅の駅員事務室に駆け込んでストーブにかじりつきます。そしてまたもや、ひどく心細い気分になるのでした。
横手に舞い戻った頃には、もう陽が暮れて真っ暗でした。横手で1泊となります。
横手の宿では横手駅長を招いてまた酒宴です。途中から宿の亭主も加わりました。この亭主、少し前まで東京で銀行員をしていたそうで、百閒にしてみれば、得体の知れぬ魔界のような東北地方で久しぶりに遇った東京のかけらみたいな気分だったかもしれません。そのせいか酒量も進み、興が乗って画仙紙やら横額やらに毛筆でいろいろ書き散らすことになったそうです。
横手のこの宿には、のちにもういちど訪れることになります(「雪解横手阿房列車」)。珍しく同じところへ阿房列車を仕立てているのは、興津の水口屋や八代の松浜軒のように、宿そのものが気に入ったというよりも、亭主と気が合ったためではないかという気がしてなりません。
翌日は、前日横手まで乗った412列車にもういちど乗り、山形まで行って泊まりになりました。山形からは、奥羽本線ではなく、仙山線で仙台に出ます。これも紅葉を見たかったからかもしれませんが、列車は紅葉狩りの団体客でごった返して、いささか失敗であったようです。
途中、面白山トンネル(仙山トンネル)を抜けるために、電気機関車に付け替えます。こんなローカル線で電気機関車が登場したので、百閒は驚いたようでした。面白山トンネルは、当時は清水トンネルと丹那トンネルに次いで日本で3番目に長いトンネルで、蒸気機関車では煙がこもって危険だったため、開通当初(昭和12年)からその前後の区間が電化されていました。百閒は沿線の車窓風景などよりこのトンネルのことに紙数を割いており、やはり鉄ちゃんだったのだなあと実感させられます。
仙台に着いてまた山系君の友人に迎えられ、一緒に仙石線の電車に乗って松島へ行ったようです。そこに宿がとってあったのでした。仙石線は当時まだ全線が単線であったようで、電車は速いけれども、行き違いのために駅で長時間停まることが多く、なかなかはかが行かないと百閒は書いています。
翌日が最終日です。百閒たちはポンポン船に乗って塩釜まで行き、そこでさんざん迷いながら白雪糕(はくせつこう)なるお菓子を買い求めます。いまはそんなお菓子はあまり出回っていないので、ご存じないかたも多いでしょうが、落雁に似た感じの米粉を使った和菓子で、良寛さんの大好物だったと伝えられています。百閒もこのお菓子が好きで、塩釜の名産と聞いたので、ひとつ本舗へ行って買ってやろうと思ったようです。しかし土砂降りの中を迷い歩くことになってしまい、ほうほうのていでようやく店にたどり着いたのでした。
塩釜から仙台へはどうやって移動したのか書いてありませんが、バスに乗ったとも思われないし、当時のことだから流しのタクシーなどもほとんど見られなかったでしょうから、また仙石線の電車に乗ったか、あるいは東北本線の普通列車に乗ったのではないかと思います。
仙台からはまた急行「青葉」の特別二等車です。盛岡まで乗って以来、7日ぶりの急行列車で、心なしか百閒の気持ちも浮き立っているようです。来る日も来る日も鈍行旅行というのは、さすがの百閒にもしんどかったのでしょう。
郡山を出たあたりから、食堂車に出かけています。無事に旅程を済ませた祝杯を挙げたい気分もあったのか、ようやく馴れない東北から抜けられるという喜びのゆえか、お酒はどんどん進み、白河を過ぎ、宇都宮を過ぎ、小山を過ぎてもまだ腰を上げず、そのうち列車が動かなくなりました。山系君が食堂車の窓から様子を見て、
「先生、上野です」
と言ったのでした。
かれこれ5時間近く腰を据えていたことになります。特別二等車には2時間かそこらしか坐っていなかったわけで、あいかわらずもったいないことをするものです。
──道理でまはりの人がみんな起つてゐる。網棚の物はまだ何も下ろしてない。
と、「奥羽本線阿房列車」は締められています。簡単に書いていますが、実際には食堂車からあわてて特別二等車に戻り、荷物を下ろしたり外套を着たりして、大変な騒ぎだったに違いありません。
まあ、それだけ大旅行だったということで、われわれは微笑ましくその場を想像していたいと思います。
(2017.5.17.)
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