内田百『阿房列車』シリーズは、「小説新潮」誌上ではひとまず終わりました。しかし『第二阿房列車』刊行に引き続き、ふたたび阿房列車がお目見えします。
しかし、今度の発表誌は小説新潮ではなく、「文藝春秋」や「週刊読売」でした。
出直しの阿房列車第一号は、文藝春秋の昭和29年1月号に、「長崎の鴉」というタイトルで発表されました。実際に旅したのは「雷九州阿房列車」の旅からわずか4ヶ月後、昭和28年10月のことです。
タイトルに「阿房列車」の名前がついていないのは、連載の総題として『新阿房列車』とつけられていたからであるようです。つまり、「新阿房列車・長崎の鴉」ということだったわけです。単行本収録時に、副題のようにして「長崎阿房列車」と添えられました。なお文藝春秋掲載『新阿房列車』も「長崎の鴉」「房総鼻眼鏡」の2篇だけで終わり、次の「隧道の白百合」は雑誌掲載されず書き下ろしで単行本に収録、「菅田庵の狐」と「列車寝台の猿」が週刊読売に連載、「時雨の清見潟」は国鉄の局内誌「国鉄」に掲載……と、『第三阿房列車』はいろいろなところに登場しています。
掲載誌が変わったのは、新潮社からの借金が限界を迎えたからでしょうか、新潮社のほうから
「もう阿房列車は結構です」
とは言わないと思うのですが。
さて、百閧ヘいつものようにヒマラヤ山系君をお伴に長崎に出かけようとするのですが、その前に山系君の公務出張が入ってしまいました。
山系君こと平山三郎氏は、国鉄職員ですが主に福利厚生関係の部局に籍を置いていたことは前から書いているとおりです。その方面の仕事で、岡山の管理局に出向いて、そこで職員の運動会を開くという任務を帯びて出立したのです。
ところが不世出の雨男が岡山に出現すると、たちまち大雨が降り続き、もちろん運動会は開催できず、関係者一同大いに迷惑したというのです。
運動会が終わるまで帰ってくるわけにゆかないので、平山氏は雨のあいだずっと岡山に滞在していました。そのうち雨のほうが息切れがしてようやく上がり、だいぶ日延べになったものの運動会を無事終えて、東京に帰ってきたのでした。
──まったくこの時はおどろいた。従来阿房列車の旅では雨男の名に甘じていたが、何、雨の降るときは先生がいつも一緒ではないかと気に掛けなかったが、この時ばかりは我が身をうたがった。
と、『第三阿房列車』旺文社文庫版の解題で平山氏は書いています。ここまでは百闔ゥ身が雨男という可能性も残っていましたが、これでやはり山系君が雨男であったことが立証されたのでした。
長崎へは直通の急行「雲仙」が走っています。百閧スちはこれに乗ることにします。ただ百閧ノとっては少々気にくわないことに、この急行には一等車が連結されていません。一等車の次に良いのは二等車ではなく三等車である、などとうそぶいている百閧ナすが、長崎まで三等車に乗ってゆくという気力はありません。戦前は三等寝台車というのがあったのですが、このときはまだ復活していませんでした。三等には座席車しか無いわけです。それでやむを得ず、二等寝台車に寝て行くことにしたのでした。とはいえ二等といえども個室寝台で、開放寝台ではないのでずいぶん気が楽でしょう。
いままでの考察で、一等個室寝台というのはその後のA個室寝台と同じくらいの設備だったのではないかと考えてきましたが、そうすると二等個室寝台はどうなのでしょうか。いちおうこれがA個室寝台の前身とされてはいるのですが、4人部屋であるという記載があとで出てきますので、国鉄の最晩期に登場したB寝台四人用個室、カルテットくらいの設備だったのかもしれません。ただ、カルテットというのは開放寝台に扉をつけて外界と隔離しただけのものですので、もう少しくらいは個室らしい造りになっていたと思いますが。
百閧ヘその個室に陣取ります。一等個室に乗ったとき、昼間は狭苦しくて独房のようだから、一等座席車の空いているところに坐ったのでしたが、二等個室は4人部屋だけに少し広いので、息の詰まるような想いをしなくて良かったのかもしれません。あるいは単に、二等の場合は個室を放っておいて座席車に坐っているということができなかったのかもしれませんが。
恒例の見送亭夢袋氏との応対も個室内でおこない、さて出発です。このたびの出発は好天に恵まれました。雨男ヒマラヤ山系君の神通力は、岡山で使い果たしてきたのでしょうか。
長崎までは約28時間で、「きりしま」で八代へ行くよりもさらに時間がかかります。おそらく、一列車に乗っている時間はいままでで最長でしょう。鹿児島へはもう少し時間がかかりますが、百閧スちは鹿児島へ直行したことはありません。さすがに前途の長さに辟易気味のようではあります。
と、六郷川(多摩川)を渡る頃から、急に雨粒が落ちてきてガラスに叩きつけられたではありませんか。
──「貴君、雨が降つて来た」
「はあ」
ここの会話はこれだけですが、何度読んでも噴き出しそうになります。
雨はしばらく降り続けましたが、丹那トンネルを抜けたあたりで雨雲を抜け、再び嘘のような好天となりました。秋の日曜日なので、沿線の学校では運動会をやっています。雨男のせいで中止にならずに幸いでした。
浜松あたりから食堂車に出かけて、例によってお酒を飲みはじめます。途中から山系君の知り合いが偶然乗ってきたりして、話がはずみ、切り上げたのは実に大阪に着く直前でした。時間にして6時間、かつて急行「青葉」の食堂車に4時間半以上腰を落ち着けていた記録をさらに上回ってしまいました。大阪で切り上げたのも、大阪に着くと4人部屋に他のお客が乗ってくると列車ボーイに言われていたからで、そうでなかったらもっと長居したかもしれません。他のお客が来ると眠れなくなりそうだから、大阪までに帰って眠ってしまおうという魂胆だったのですが、結局ぎりぎりになってしまったわけです。
はたして大あわてで寝支度をしているあいだに、個室のドアに影が差したようでしたが、幸い酔っぱらっていたせいもあってか、そんなに他の客が気にならずに眠ってしまいました。
山陽道を眠って過ごしましたが、厚狭に停車したときに知り合いに届け物をすることになっていたので、寝坊はできずに起きてしまいました。もっとも厚狭停車は9時48分だったそうで、普通の客なら起きているでしょう。
「雲仙」は博多を過ぎ、鳥栖から長崎本線に入り、肥前山口から佐世保線に入り、早岐(はいき)で佐世保行きと長崎行きに分割し、長崎行きは大村線を通って諫早に出て長崎に向かいます。佐世保線と大村線を走るため、一路長崎本線を走るより余計に時間がかかっているわけです。
大村湾の向こうに連なる西彼杵半島の景色を愉しみたかったけれど、西日が差し込むため、周りの窓に全部ブラインドが下りてしまって、自分の席もブラインドを下ろさないと他の客の迷惑になりそうだから下ろさざるを得ず残念だった、という記述があります。個室であれば周りの客に気を遣う必要はないので、文中には書いていませんが、「きりしま」の一等車と同様、「雲仙」の二等個室も博多までの連結だったのかもしれません。博多からは二等の座席車に乗っていたような気がします。
夕陽がかんかん照りの中、長崎に到着します。
平山三郎氏が、この旅の支出をメモしています。東京から長崎への二等運賃は2740円、同区間の急行料金は1200円、寝台料金は上段1200円で下段1500円だったそうです。
この金額からわかることがいくつかありますが、例えば3年前の「特別阿房列車」では、東京・大阪間の一等運賃が2480円となっています。長崎までの二等運賃と260円しか違いません。一等運賃というものがどれほど高かったのかが推察されます。また大阪までの特急料金も1200円でした。長崎までの急行料金、上段寝台料金と同額です。特急料金がかなり高いものであったこともわかります。
『値段史年表』という本によると、昭和25年の大卒銀行員の初任給は3000円、昭和28年には6000円だったそうです。3年で倍になっているあたり、戦後の経済成長の急速さを感じさせます。昭和25年の大阪までの一等運賃は、大学出たての銀行員の月給をほとんど持ってゆかれるような額でしたが、昭和28年には、国鉄のほうが値上げなどしていなければ月給半月分くらいということになり、列車運賃の割高感もだいぶ和らいだと思われます。
それにしても現在の大卒銀行員の初任給が20万円ちょっとですから、比率から言えば昭和28年度の長崎までの二等運賃は9万円あまりとなり、やはりおいそれと出せる額ではなかったようです。
平山氏は他の支出についてもメモしています。6時間粘った食堂車の払いは3525円で、これも上記の比率で言えば十数万円となり、よく飲んだものだと感心します。博多で鶏めしの駅弁を買っていて、これが80円。車内販売か何かのアイスクリームがふたつで40円。
初任給との比率はともかくとして、物の値段からざっとイメージすれば、いまは10倍くらいになっている感じがします。駅弁800円、車内販売のアイスクリームがひとつ200円とすれば、そんなに違和感がありません。現在の東京・長崎間の運賃(当時で言う三等運賃)が15230円であることを考えても、そのくらいの感覚が妥当でしょう。
そういう中、長崎で2泊した宿屋の払いが19800円となっているのはやはり豪儀ですね。ひとり1泊に換算すれば4950円で、いまなら1泊5万円くらいの高級旅館ということになります。
それらの費用はすべて文春からの借金で、百閧ェそのあと原稿を書いて返さなければならないものなのでした。百闔ゥ身、相当費用がかかったろうと読者が心配するのを見越して、末尾に「ファウスト」の一節を引用して煙に巻いています。
──あなた方がお入り用のお金は作つて進ぜませう、いやお入り用以上のものを。
全く造作もない事で御座いますが、さてその造作もない事が六づかしいので。
お金は現にもうそこにある、そのそこにあるお金を手に入れるのが
術と云ふもので御座います。さてどなたにそれが出来ますかな。
上に書いたとおり、長崎には2泊しています。
初日の晩は、国鉄の職員(長崎の管理局の人でしょうか)を2名招いて、宿で酒宴を張っています。
2日目の昼間は珍しく街を見物して歩いています。市電にも乗っています。
長崎の街はごみごみしていて、なんとなく四辺が臭くて、百閧ヘ閉口し、しきりに帰りたがるのですが、ヒマラヤ山系君がこれまた珍しく、大浦天主堂に行きたがっていたので、百閧焉uそのつもりなら、それでもいい」と付き従うのでした。
その晩は「花月」という老舗の旗亭に出かけて、芸者を呼んでいます。前に横手で岡本新内を観たときは人に招待されたので、百閧ェ自分で芸者を呼んだのは阿房列車でははじめてのことです。ちなみにこのときの払いについても平山氏が記しており、5828円だったそうで、これは案外安いような気がします。
旗亭までは人力車で往復したそうです。ふたりで人力車に乗ったのもそれがはじめてでしょう。このすぐあとの「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」で、百閧ェヒマラヤ山系君に
「あっそうか、人力車に乗ったことは無いんだね」
と言うくだりがありますが、長崎で乗ったのは宿の差し向けだったためかノーカウントであったようです。
長崎3日目の朝はわりに早い出立でした。このあと恒例の八代へ向かうためで、八代到着はこれまた恒例の「きりしま」に乗るのがちょうど良い時刻であり、その「きりしま」を鳥栖でつかまえるためには長崎を朝のうちに出なければならなかったのです。いまなら特急「かもめ」で鳥栖まで1時間半ほどですが、当時は優等列車があまり無く、百閧スちが乗ったのも普通列車です。しかも途中の本川内駅はスイッチバックになっていて、時間がかかりました。
本川内駅のスイッチバックはつい最近(2002年)まで残っており、私が通ったときにもありました。こんなところにスイッチバック駅があるとは知らなかったのでびっくりした記憶があります。むろん引き込み線なので、鈍行に乗っていないと気がつきません。
たぶん鳥栖まで3時間くらいかかったのではないかと思います。無事に「きりしま」に乗り換え、あとは一路八代へ。
八代の定宿・松浜軒について、このときはじめて縁起を詳述しています。基本的に文中に宿屋の名前は記さないようにしているのに、松浜軒の名前を出したのは、熊本県の指定史跡になっているのでその趣旨に賛同するためだとどこかに書いてありました。「区間阿房列車」で興津の水口屋の名前を出した理由はどこにも書いてありません。のちに「時雨の清見潟・興津阿房列車」の中で、水口屋の名前は「区間阿房列車」に出ているから今さら伏せても仕方がない、ということを書いています。これを読むと、なんとなくついうっかり消し忘れてしまったかのように思われるのですが、どうなのでしょうか。
松浜軒が気に入ったのは、主に庭園の見事さによるものだろうと思います。旅館営業をとっくにやめたいまでも、庭園だけは一般公開しているくらいです。小鳥好きの百閧ニしては、その庭園に舞い降りるいろんな小鳥も愉しんだことでしょう。「長崎の鴉」の中だけでも、ヒヨドリ、モズ、カワセミ、キセキレイ、セグロセキレイの名前が出てきます。百閧ヘ若い頃から「阿房の鳥飼」を自認するくらいの小鳥好きで、空襲で焼け出されたときもメジロの鳥籠を後生大事に抱えていたと言います。
もちろん、殿様の使っていたような(実際殿様の別邸だったわけですが)とんでもなく大きな脇息にもたれる気分も良かったのでしょうし、御当地さんの温かい応対ぶりも気に入っていたのでしょう。
このときが4回目になりますが、4回目にしてはじめて、八代の街を散策しています。いままでは天気が好くないことが多かったようですが、このときの旅は最初にご祝儀のような雨が降ったのと、長崎の2晩目に少し降った以外は好天に恵まれており、八代の朝も抜けるような秋晴れだったようです。
山系君が八代城址へ言ってみましょうと誘ったことになっています。雨男なのに好天続きで「照れ臭いからだらう」と百閧ヘ書いています。
いつものとおり「きりしま」で東京に帰ります。博多まで二等車、博多から連結される一等個室に乗り換えという手順も、毎回同じで、もう馴れたものでしょう。私だったら毎回違う方法を考えたくなるところですが、百閧フ好みとしては決まった手順の様式美を喜ぶところがありそうです。それと、なるべく一等車を使うという縛りがあると、どうしてもその当時のダイヤとしては「きりしま」になってしまうのでしょう。
私などは貧乏旅行派で、当時の二等車たるグリーン車にすらほとんど乗ったことがありません。自分がその頃列車を乗りまわすことができたら……と思うと、それこそ一昼夜以上走り続ける長距離鈍行に乗りまくっていたかもしれません。いやそれより、いまは廃止された私鉄に乗りに行っていたでしょうか。いずれにしても、クルマが一世帯一台という具合に普及する前の、陸上交通の主力を鉄道が握っていた時代が、いまとなってはうらやましくてならないのでした。
(2017.5.21.)
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