「文藝春秋」の『新阿房列車』第2回「房総鼻眼鏡」は昭和29年4月号に掲載されました。実際に内田百が旅行したのは前年の28年12月下旬のことです。
「区間阿房列車」以来の近場めぐりですが、総武本線で銚子まで行って1泊、成田線で千葉まで戻ってきて1泊、房総西線(現内房線)で安房鴨川まで行って1泊、房総東線(現外房線)で戻ってきて稲毛で1泊、合計4泊と、まあ悠然たるものです。私はこれとほとんど似たようなルートを、1日で廻ってきたことがあります。
もちろんいまと違って列車の便数は少ないし、電車など無くて蒸気機関車に牽かれる客車列車ばかりですからスピードも遅く、当時あえて早廻りしようとしても一日では無理だったかもしれませんが、それにしてもすばらしく時間をかけているなあと思います。
当時としても、そののんびりさ加減にあきれる人が居るだろうと思ったのか、百閧ヘ「両国から立つて両国へ帰るのが早いのがよかつたら、初めから行かない方がいい」と釘を刺しています。当時、千葉方面への列車は両国に発着しました。
「房総鼻眼鏡」のタイトルは、総武本線と成田線でひとつの環を作り、房総西線と房総東線でもうひとつの環を作り、その形状があたかも鼻眼鏡のようだということで名づけられました。最近では鼻眼鏡というものを見たことが無い人も居ると思いますが、「アルプスの少女ハイジ」でロッテンマイヤー先生がかけていたような眼鏡と考えてください。文春にはこのタイトルで掲載され、単行本になる際に「房総阿房列車」という副題が与えられました。
上に書いたとおり、今回のスタートは両国駅です。これまでの阿房列車はすべて東京駅か上野駅から出発していますが、はじめてそれ以外の駅からの発車となります。
そういえば阿房列車には新宿駅出発というのがありません。当時の中央本線は、まだローカル線のイメージが強い、近代化の遅れた路線でした。初狩・笹子・勝沼(現勝沼ぶとう郷)・韮崎・穴山・長坂と、立て続けにスイッチバック駅があり、それらが解消されたのは昭和40年代に入ってからのことでした。優等列車も、この時点では山岳夜行準急「アルプス」と昼行準急が1本走っているだけで、急行が走るのは昭和35年を待たなければなりません。特急「あずさ」の登場はさらに遅れて昭和41年のことでした。「信州阿房列車」などが運転されなかったのは残念ですが、まあ昭和28年末の時点ではやむを得ないことだったかもしれません。
宿屋も、温泉宿を別にすれば、山小屋に毛の生えたようなものばかりだった可能性があります。そして百閧ヘ温泉宿が嫌いでしたから、甲信地方か房総かということになれば、房総のほうに軍配が上がったのではないでしょうか。
両国が出発駅というのは、いま考えると不思議な気がしますが、両国駅は私鉄の総武鉄道時代からのターミナル駅で、広い構内を持っていました。隅田川を渡る橋がなかなか架けられず、東京中心部へのアクセスは路面電車に頼っていたのです。
関東大震災の復興に合わせて、両国から御茶ノ水へ路線を延長することになり、昭和7年に完成しました。そして翌年、中央線の御茶ノ水〜中野間の複々線化も成り、総武線の電車が中野まで乗り入れることになりました。いまに続く「中央・総武緩行線」のはじまりです。
しかし、この新しい連絡線を走るのは、電車だけで、機関車に牽引される列車は依然として両国をターミナルとしていました。高架線として敷かれたため、重量の大きな機関車は通行が危険だと考えられたのかもしれません。あるいは中野までのあいだに適当な機関車の基地が無いという理由もあったでしょうか。
ともあれ両国駅は、千葉県内だけを相手にするわりには異様にだだっ広い駅であったようです。その跡地に現在、国技館や江戸東京博物館が建っているのですから、その広大さは想像がつくでしょう。いまでも総武線の各停電車から見ると、北側に低いプラットフォームが見えますが、あれがもとの両国列車駅の残骸です。現在では臨時列車にしか使われません。
錦糸町から東京駅までの地下線ができて、優等列車はそちらを通って東京駅に乗り入れることになりました。それで両国はだんだん使われなくなったわけですが、私の子供の頃にはまだ両国発着の列車が残っていたと記憶しています。確か、急行は両国発着、快速と特急が東京発着という風に分けられていたのではなかったかと思います。ところが千葉県内だけで急行と特急を分けるほどの必要はあまり無かったようで、じきに停車駅などもさして変わらないことになり、そうなると赤字国鉄としては、急行を切り捨てて全部特急にして増収を図ることにためらいはなく、房総地方は全国でもいち早く急行が消えて特急だけの世界になりました。従って両国発着の列車も無くなり、ターミナルとしての両国駅はその使命を終え、単なる電車の途中駅ということになったのでした。
昭和28年末は、まだ両国がターミナルとして堂々としていた頃です。その両国駅に、百閧ニヒマラヤ山系君はタクシーで乗りつけました。
改札口の前に、もうだいぶ人が並んでいました。都会の駅では想像しづらくなりましたが、昔は発車何分前かにならないと改札口を開けないという駅が多く、いまでも田舎へ行くとそんな駅があります。百閧スちは出札口で三等切符を買い求め、列に並びます。並んでいると、その辺に居たホームレスのようなおっさんが、何やら大声で演説をはじめました。何を言っているのかさっぱりわからないなりに、けっこうな名調子で、百閧ヘイタリア語の独唱を聴いているような気分になったそうです。
そうしている間に、恒例の見送亭夢袋氏がやってきて、また改札も開いたので、3人でプラットフォームに進みます。
三等なので、坐れないことがあり得ます。ヒマラヤ山系君が座席をとりに走りました。
ところが、百閧ヘ列車に、半車の二等車が連結されていることに気づきます。この当時、房総には三等車しか走っていないことになっていたようですが、なぜかその列車には連結されていたのでした。百閧ヘ迷わず二等車に乗り込みます。
これまで何度か書いたように、この当時は運賃そのものに等級があるのであって、三等切符では二等車には乗れませんし、あとで差額を払えば良いというものでもありませんでした。三等切符のまま二等車に乗っていれば、とがめを受けることになります。夢袋さんに伝言を受けて戻ってきた山系君は、あわてて切符を買い換えに行きますが、まだ車掌が出ていないとかでらちがあきません。駅の窓口では変更できなかったのでしょうか。
二等切符の手配はまだできませんでしたが、山系君は駅の売店でいろんなものを買い込んできました。百閧フ見るところ、寿司とサンドイッチとキャラメルとお茶があったそうです。全部あとで山系君がひとりで平らげてしまいました。平素、食堂車に行くとき以外は滅多にものを食べない山系君なので、百閧ヘ驚いたようです。風邪気味なので、食べて精をつけたほうが良いというのが山系君の言い分でした。
12時44分両国発。両国を出ると千葉まで停車しなかったようです。その後千葉まで複々線化が進み、急行線のほうのいくつかの駅──当初は新小岩・市川・船橋・津田沼──にプラットフォームができてからはそれらにも停まるようになりましたが、停車発車のシークエンスが簡単で加減速も高いディーゼルカーや電車が投入されたからできたことでしょう。蒸気機関車の場合、できることならなるべく停まらないほうが、石炭の減りも遅くなります。また市川や船橋も、いまほど大きな街ではありませんでした。そのあたりは電車に任せ、「汽車」は電車区間の末端である千葉まで通過運転をおこなっていたわけです。
千葉からは各駅停車となります。総武本線に優等列車が走るのはこのときから5年後、昭和33年に気動車準急「犬吠」が登場してからです。
気動車と言えば、この時期房総西線・房総東線は「気動車モデル線区」に指定されて、昭和28年内に66輌ものディーゼルカーが投入されていますが、百閧ヘそのことについてひと言も触れていません。ディーゼルカーなど「列車」ではない、と切り捨てていたのでしょうか。やたらと行程に時間がかかっているのは、ディーゼルカーの列車を避けたからかもしれません。そののち日本全国を走り出すディーゼルカーですが、この時期はまだその効能がはっきり顕れていない頃で、乗り心地なども悪かったのでしょう。
当時の総武本線の駅には、地下道はもちろん陸橋があるところも珍しく、百閧ヘ乗り合わせた中学生などの列車の下りかたを興味深く眺めています。12月の寒い時候ということもあり、彼らは対向列車が到着するまで車内で待って、それからおもむろに席を立ち、構内踏切を渡って改札口に向かっていたのでした。対向列車が着くまでは構内踏切が通れないのです。
切り通しや雑木林の間をゆっくりと走り、夕方に銚子に到着します。宿は犬吠埼ですから、そのまま銚子電鉄に乗ってゆけば良さそうなものですが、百閧スちは駅長事務室でタクシーを呼んで貰うのでした。百閧ヘ乗り鉄のわりに、案外とそういうローカル鉄道には冷淡なところがあります。それとも汽車好きの反面の電車嫌いが昂じて、電車に乗るくらいだったらクルマのほうがましだという感覚だったのでしょうか。まあ、銚子駅長の判断で、あんなむさ苦しい(←主観)ローカル電車にえらい作家先生をお乗せしては申し訳ない、ということだったのかもしれませんが。
ともあれ犬吠埼の旅館に投宿し、疲れたのでお風呂は省略し──というところが百閧轤オいのですが──、すぐに晩の一献を開始します。しばらくすると、海に面した窓に稲光が走り、雨が降り出しました。
──「そうれ御覧」
「何ですか」
「雨が降り出した」
「はあ」
「はあは無責任だね」
「降つてもいいです」
いまのところ、雪だった新潟行きを除き、阿房列車の雨との遭遇率は100%です。
その雨も朝には上がり、なんとなく午前中を過ごして、昼どきになります。百閧ヘ珍しく、昼食をとろうと思い立ちます。しかししっかりしたお膳を用意させるには及ばず、紅茶でトーストを食べようと考えます。前にも書きましたが、百閧ヘ意外とパン食も似合う人であったようです。
ところが、旅館にはパンがありません。パンはすぐ買ってくるけれど、バターがあるかどうかわからないとのこと。紅茶もコーヒーも牛乳も無く、日本茶で済ませることにします。
結局バターも入手できず、焼いたパンに塩を振ってほうじ茶で流し込みました。仲居さんがコンデンスミルクを湯に溶かしてきてくれて、それで多少楽に食べられたとか。夕食の時にもマヨネーズを頼んだところ置いていなかったそうです。昭和28年頃だと、けっこう大きな旅館でもそんなものだったのかもしれません。年末のシーズンオフだったからかもしれませんが。
クルマを呼んで銚子駅に戻り、14時51分発の成田線列車に乗ります。今度は本当に三等車しか無い編成でした。
途中の感想はほとんど記されていません。確かに成田線の車窓は総武本線沿線と大して趣きは変わらないのであって、ただもう少しひなびていて、利根川の土手が目立つくらいでしょう。成田にからめて、夏目漱石門下の先輩である鈴木三重吉(童話童謡雑誌「赤い鳥」の主宰者)が教員として成田に赴任していた時分の思い出話をはさんだくらいで、あっさりと千葉に到着します。
千葉まで来れば、もう市ヶ谷の自宅に帰ったほうが早いのではないかと思えるほどですが、ここで1泊します。この晩は国鉄の千葉管理局の人を招いて酒宴を張ったのでした。
翌朝はまた雨が降り出します。朝のうちは小雨で、だんだん本降りになったようです。
今度は房総西線、いまの内房線に乗って安房鴨川まで行きます。千葉発は11時03分で、「大変早い」と百閧ヘぼやいています。ちっとも早くはないと思うのですが、午前中は寝て過ごす習慣の百閧ノとってはひと苦労です。しかも前の晩、千葉管理局の人たちを相手に痛飲しすぎたようで、二日酔い気味でもあるようです。旅先で一切お酒を飲まなかったら、翌朝の出立がどんなにさわやかだろう……と百閧ヘときどき反省するのですが、晩になるとそんな反省はどこかへ行ってしまうのでした。読者のほうも、お酒を飲まない内田百閧ネど承知しないでしょう。
この当時の房総西線・房総東線の列車は、千葉駅から総武本線とは反対向きに、つまり東京方面に向かって発車したはずです。千葉駅は現在の位置より800メートルほど東側、現在の市民会館のあたりにありました。このため、両国から出発して蘇我方面に行く列車は、千葉駅でスイッチバックしていたのです。東京近郊の大駅として、これは不便きわまるということで、スイッチバック解消のために千葉駅が現在の場所に移されたのは昭和38年のことでした。
寝不足と二日酔いが重なって、百閧ヘもう車窓の景色を眺める気もしなかったようです。確かに房総西線、いまの内房線の車窓というのは、海が見える箇所もそんなに多くはなく、どこまで走ってもさほど変わりばえがしないのは確かです。木更津を過ぎると駅の規模もどれも似たり寄ったりで、のちに特急「さざなみ」が走るようになっても、当初から千鳥停車や連続停車が多く、
「これが特急の名に価するのか?」
と批判されていました。木更津から館山まで、車輌基地のある君津は除いて、誰が見ても特急停車駅にふさわしいというような駅はひとつもありません。全部通過すれば良いようなものですが、急行をいち早く全廃して特急だけにしてしまった手前、それまでの急行停車駅に停めないというわけにもゆかず、このあたりの「さざなみ」の停車駅はどれに乗れば目的の駅に停まるのか、複雑怪奇なことになっていました。
待避線がある駅が無いこともあって先行する鈍行を追い越せず、「さざなみ」はあまりスピードを出すこともできません。それでアクアラインや館山自動車道ができてしまうと客も減ってしまい、一昨年あたりからは定期の「さざなみ」は全部君津止まりになってしまいました。運行区間も停車駅も快速と大差ない状態になってどうするのかというと、要するに通勤ライナー的な扱いにしたつもりであるようです。下りは夕方以降、上りは朝だけの運転になりました。さすがに富津市や館山市からは抗議の声が挙がったようですが、JR東日本は
「利用状況に対応して決定したことだ」
と平然としており、譲る気配を見せません。文句を言うならもっと特急に乗れということで、それもまた正論と言えます。館山市などは、特急がもう無理ならせめて停車駅を減らした特別快速を走らせて欲しいと要望していますが、特急の利用客が減ったのはスピードが遅かったからで、スピードが遅いのは先行の鈍行を追い抜ける設備のある駅が途中に無いのが原因だったわけですから、特別快速を走らせてもさほど利用者は増えないような気がします。それにまた停車駅をどこにするかの問題で、結果的にはほとんど各駅停車みたいなことになりかねません。JRに任せておかずに沿線の市町村がお金を出して駅を改良し、待避線を設置するなどしかないのではないでしょうか。
さて百閧スちを乗せた列車は内房の海岸を坦々と走り、館山を過ぎると太平洋岸に出ます。そこからが外房海岸ですので、本当は内房線と外房線の境目は館山か千倉あたりにしたほうが良いのですが、歴史的事情から安房鴨川になっています。
和田浦で山系君の友人がことづけてくれた花束を受け取りました。ふと気づいてみると、あたりは一面の花畑です。このあたり、年が変わる前に菜の花が咲き出すという温暖な地方ですから、12月下旬という季節に見る花々に百閧ヘ眼を瞠ったことでしょう。
安房鴨川では昭和天皇の全国行幸のときに御座所となった宿に泊まりました。八代の松浜軒もそうでしたが、他のところでも百閧ヘ行宮になった宿に何度も泊まっています。そのせいかどうか「百鬼園天皇」というあだ名で呼ばれたりすることもあったそうです。百鬼園というのは百閧フ別名で、この探訪シリーズではずっと百閧フ名で呼んでいるものの、私としては百鬼園先生という呼びかたのほうがしっくりきたりします。借金取りが百人押しかけてくるから百鬼園というわけでは断じてなく、単に「ひゃっけん」を「ひゃっきぇん」と引き延ばしただけだそうです。
安房鴨川の宿でもお客を呼んでお酒を飲んで、特筆すべきことと言えばトイレに立ったときにいつも同じ朝顔の前でオシッコをしていることに気づいた程度のことでした。
翌日の房総東線の列車は14時29分発で、これは前日乗った房総西線の列車と同じものだったそうです。列車番号だけ変わって、そのまま先へ行くというのは現在でもよく見られます。のちには両国を出て、房総東西線両方をぐるりと走って両国へ戻る、いわゆる循環ディーゼル急行が走ったこともあるほどでした。この列車、千葉駅で2回と、当時は大網駅もスイッチバック構造だったので、つごう3回進行方向が変わり、そのために両国から千葉までは行きも帰りも号車番号などが同じ位置にあって便利だったとか。
この日は好天で、街に2台しかないタクシーが出払っているというので、百閧スちは駅までぶらぶらと歩いたのでした。
房総東線、つまり外房線の記述は、たった2行で済ませています。
──定時に発車して、太平洋の海波を堪能するほど眺め、無数の隧道を抜けて、段段夕方になり暗くなつてから千葉に着いた。
外房在住の愛読者が居たら地団駄踏みそうなほどの素っ気なさです。一日数時間ずつ普通列車の三等車でちびちび移動、宿も構えは立派であっても田舎臭いところばかり、そのつもりで来ていたとはいえさすがの百閧燒Oきていたのかもしれません。
内房線について書いたことと対応させて補足すると、外房特急「わかしお」は「さざなみ」とは違っていまでも健在です。並行する高速道路がまだ未整備なのが主要因でしょう。内房線よりは駅の構えなどにも差があり、特急停車駅はほぼ固まっています。ただ、特急と呼ぶには停車駅が多すぎるのは内房線と同様です。
最近では大原から分岐するいすみ鉄道(もと国鉄木原線)がテレビなどで採り上げられることも多く、興味を持った人が乗りに行くケースも増えたようです。その基地として、外房線でもだいぶ先のほうにある大原駅の利用客が増えれば、外房線にとっても嬉しいことでしょう。
ふたたび千葉に帰り着いたわけですが、百閧スちはまだ家に帰ろうとしません。千葉あたりをまるで知らないので、もう1泊してゆく予定を立てていました。
千葉からクルマで、稲毛まで行きます。ここの海気館という宿屋が、明治の文人たちがよく立ち寄っていたということで、ここはヒマラヤ山系君が管理局の友人に頼んでとって貰ったわけではなく、百闥シ々の指定だったそうです。島崎藤村、徳田秋声、上司小剣などが訪れては小説を書いたというその雰囲気を味わいたかったのでしょう。
が、着いてみると中はひどくざわついていて、あちこちの座敷に酔っ払いがいて、通された部屋の障子が破れていました。ドテラに赤い紐がついていたことまで百閧ヘ報告していますが、これはそんなにヒンシュクすべきことなのかどうか。
仲居さんの手際や態度も悪く、トイレに立ったらスリッパがぐしょぐしょに濡れており、ついに音を上げた百閧ヘ宿泊をキャンセルし──と言ってもある程度お膳が進んでいたわけですから、少なからぬお金は払ったと思いますが──稲毛駅から総武線電車に飛び乗って帰ることにしたのでした。列車が遅くてなかなかはかが行かなかった房総に較べて、電車が速いことに百閧ヘ改めて感心しています。
わりに地味に坦々と進められてきた房総阿房列車が、ラストでこんなドタバタ騒ぎとなり、それなりに締まったようでもあります。百閧ニヒマラヤ山系君は、電車に秋葉原まで乗って、そこからタクシーで東京駅へ行き、名店街の中の寿司屋で祝杯を挙げたのだとか。
山系君は海気館の宿泊をキャンセルした百閧フ決断力をしきりと褒めたそうです。長年のつき合いだが、山系君から褒められたことは滅多に無い、と百閧ヘ書いています。生涯を百閧フために捧げ尽くしたようなヒマラヤ山系こと平山三郎氏ですが、讃辞を口に出すようなたちではなかったのでしょう。もっとも、著書が「面白かった」とか言われるとかえってへそを曲げ、「あなたが言うような意味の面白いものを書いたつもりは無い」などと開き直る百閧ナしたから、親しい者ほどうかつに讃辞など口には出せなかったのでしょうが。
文春の『新阿房列車』は2回で終了です。新潮社に較べて、あんまり百閧フ錬金術(借金)にいい顔をしなかったのかもしれません。阿房列車以外で文春に書いた文章というのも、百閧ノはごく少ないようです。親友だった芥川龍之介の名前を勝手に使った文学賞を作ったりして、文藝春秋に対する百閧フ心証がもともとあまり良くなかったという可能性もあります。
(2017.5.22.)
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