『阿房列車』シリーズが終わった翌年の昭和31年、内田百は西日本新聞からの依頼を受けて、夕刊に約4ヶ月に渡る連載をおこないます。のちに『鬼苑漫筆』という単行本になる連載ですが、小説というわけではないし、まあいまでいうコラム欄でしょうか。
百閧ェ新聞に毎日連載をした経験は、それまでたった一度、戦前「時事新報」に『居候匆匆』を連載したことがあるばかりです。これは創作の小説で、百閧フ唯一の長編小説になるかもしれなかった作品(『贋作吾輩は猫である』は連作短編集と呼ぶべきでしょう)だったのですが、途中で「時事新報」が倒産し、わずか36回、中編規模でしかないあたりで中断してしまいました。先を書きためておくなどという器用なことができる百閧ナはなく、小説は中断したままで、のちに簡単なエピローグをつけて刊行されました。昭和8年に起こった法政大学騒動の実相を描く予定だったようで、その見地からも興味深かったし、毎日谷中安規画伯の味のある挿絵がつけられて、完成していたら面白かったと思うのですが、読者としては残念な結果となりました。
ちなみに法政大学騒動というのは、職にあぶれた卒業生の煽動に大学経営陣と一部の教授たちが雷同して、経営方針が変わることになりかけた際、47人の現職教授(赤穂の47士に喩えられた)が抗議辞職し、学内が大混乱したという事件です。内田栄造教授は抗議辞職する側でしたが、それまで親しくしていた森田草平(いわゆる『煤煙』事件を起こした小説家)が雷同組の中心みたいな位置にいたため、この事件をきっかけに完全に袂を分かち、以後森田が死ぬまで和解はしませんでした。
ともあれその小説以来の新聞連載で、基本的に遅筆な百閧ノはなかなかの難業だったようです。
連載の中で、百閧ヘ九州つながりの話題として、「雷九州阿房列車」の旅を中心に、阿房列車を回想しています。
そんなこともあって、連載を終了したあと、また八代へ行きたくなったようです。連載終了の骨休めを兼ねて、昭和31年の5月末から6月頭に、6度目の八代旅行をおこなうのでした。
お馴染みの急行「きりしま」で出発します。このときのダイヤでは東京を12時35分に発車していました。いつものように個室寝台をとっていますが、一等寝台車はこの前年に一斉に二等寝台車に格下げされていますので、「二等個室寝台」であったはずです。
昼間の内に個室内に蟄居しているのは気がふさぐので、隣の座席車に坐っていた……と書いています。この時期もまだ、いまの指定席とは少々規定が違っていたようです。その後の制度では、個室寝台をとっていても、他の車輌の座席に坐っていれば、自由席でない限りはその分の座席指定料金も取られてしまいます。
6月の陽の長い季節なので、なかなか暮れません。昼間のうちはお酒を飲まない主義の百閧ナすが、待ちきれず、もう夕方になったことにして、明るいうちから食堂車へ出かけて飲み始めます。安倍川を渡るときに夕陽が食器を輝かせたのを見たようですが、切り上げたのは京都に着いた頃だったと言いますから、いつものこととはいえずいぶん長尻をしたものです。
個室に戻って寝床に入っても、なかなか眠れなかったようです。食堂車を切り上げる前に、紅茶を2杯も飲んだのがいけなかったのでしょう。紅茶にもカフェインがたっぷり含まれていることを百閧ヘ知らなかったのです。大阪、神戸、姫路はもちろん、尾道、糸崎あたりに停まったのもわかっていたというのですから、よほど眠れなかったものと見えます。
九州はもう梅雨入りだったようで、ずっと雨が降り続けています。こんな時期に出かけてくるのが悪いので、これを雨男ヒマラヤ山系君のせいにしては気の毒でしょう。
八代の松浜軒で2泊しますが、滞在中もずっと降り込められ、どこへも出かけずに宿の中で過ごします。3日目の朝にようやく晴れ、午後の上り「きりしま」に乗り込んで約27時間、また蜿蜒列車に揺られて東京に帰るのでした。
その半年後の11月19日に、また八代に出かけるのですが、この日は博多行き特急「あさかぜ」の運転初日で、百閧焉uあさかぜ」に試乗するのが目的でした。山陽特急「かもめ」のときのように国鉄から招待されたのか、それとも私費であったかはわかりません。「あさかぜ」は当時「走るホテル」と呼ばれ、寝台券の入手はきわめて困難だったと言いますから、もし招待でなかったとしたら、運転初日の寝台券を確保するためには、百閧ェ国鉄に持っているコネを総動員しなければならなかったのではないかと思います。
九州行きの寝台特急のプランは、国鉄内ではずいぶん前から立てられていたらしいのですが、解決しなければならない高いハードルがあって、なかなか実現しませんでした。それは、京都や大阪などの関西圏の都市の扱いをどうするかということです。
それまでの九州行き急行は、東海道を昼間に走って晩に関西圏に着き、山陽道を夜中に走るというパターンか、東海道を夜行で走って朝に関西圏を通り、山陽道を昼間走るというパターンのどちらかでした。ところがこれをスピードアップした特急にしようとすると、時間帯がそううまい具合におさまらないのです。
出発地を夕方に発って、目的地に午前中に着くというのが好都合であることは間違いありません。しかしそうなるように考えると、真ん中にある関西圏が、真夜中の非有効時間帯になってしまいます。当然ながら、関西地方の管理局からは猛反対がありました。大阪管理局は、
「大阪をそないに無視するんやったら、大阪駅を通るんはご遠慮願いますわ」
などと言いだし、これに対して本社の列車課からは、
「おう上等だ。そんなことを言うなら大阪駅なんか通さずに、宮原(大阪駅の北方にあった操車場)を通してやる」
と買い言葉があり、あやうく会議の席でつかみ合いの大喧嘩が起こりかねないような大騒ぎになったと言います。
国鉄上層部も、関西圏を無視して本当に採算がとれるのか不安で、なかなか決断ができなかったのでした。
結局、昭和30年5月から国鉄総裁に就任した十河信二の鶴のひと声で運転が決まり、翌31年11月、関西圏の利用をまったく度外視した劃期的な夜行特急「あさかぜ」が誕生したわけです。
国鉄当局の不安を尻目に、「あさかぜ」は大変な人気で、たちまちドル箱列車へと昇りつめました。乗客の中には毎日のように、政治家や有名人の顔が見られたそうです。この成功が端緒となり、「みずほ」「さくら」「富士」「はやぶさ」と、九州行き寝台特急が続々と生まれることになるのです。
しかし航空機の発達と、国鉄の相次ぐ値上げにより、昭和50年代からは「走るホテル」の利用もだんだんと下降線を辿り、「あさかぜ」は2005年に廃止されました。私は「あさかぜ」とはあまり縁がなく、廃止2年前の2003年に至ってようやく三原まで利用しましたが、食堂車はおろか車内販売も無く、後部車輌の寝台は軒並み空で、なんともわびしい限りでした。
その半世紀前の運転初日は、もちろん大いに賑わっていました。新しい特急の運転開始とあって、東京駅は乗客や見送りの客でごった返していました。百閧フ見送りも、いつもの見送亭夢袋氏だけでなく、何人もこぞってやってきています。機関車附近には、若い鉄道ファンたちが群がっていました。彼らは「あさかぜ」に乗れるほどの資力はなかったはずなので、純粋に新しい特急を見に来ただけです。その中にはカメラを携えていた連中も多かったでしょう。「撮り鉄」の発生はこのころからではないかと思います。
多くの人々に見送られ、定刻18時30分、特急「あさかぜ」は発車しました。百閧スちはすぐに食堂車に向かいます。食堂車も極彩色のテープが張りめぐらされ、新しい特急の門出を祝っていました。その雰囲気にあおられたか、百閧ヘいつもより飲み過ぎたようです。
百閧ヘおおむね満足したようでしたが、個室寝台の寝心地にはちょっと文句をつけています。走っているときは眠っているが停車するたびに眼が醒めてしまう、というのですが、これは夜汽車に乗っているとよく経験することで、百閧熕Vしい特急に乗ってテンションが上がっていたためではないかと思います。強いて言えば、寝台のスプリングが新品で強すぎたのかもしれません。
初運転によくある途中の遅延もなく、ダイヤどおりに定刻11時55分、博多に到着します。この到着時刻、なんだか意地でも午前中に到着させてやろうという国鉄の執念を感じます。博多の駅ももちろん大変な混雑になっていました。
さて博多まで来たのだから、ついでに八代に寄ってゆこう、というのが百閧フいつもの発想です。ついでにと言っても、博多と八代は150キロくらい離れており、東京からなら百閧フ好きな興津あたりまでとそう変わらないのですが、九州といえば八代というのは、もう固定観念になっているかのようです。
いつも使っている急行「きりしま」は、「あさかぜ」が到着したときにはもう博多を出てしまっているので、百閧ヘ珍しく、八代まで普通列車に乗ってゆきます。「きりしま」なら3時間くらいで着くところを、5時間かけてのんびり行き、17時19分着のところ若干遅延して八代に到着します。
このときも八代には2泊しています。到着の翌日は、やや風邪をひきそうな気配があったので一日松浜軒の部屋で過ごし、帰京する日にタクシーを呼んで、球磨川の河口あたりを見て回りました。ひとつには「きりしま」が、「あさかぜ」投入に伴うダイヤ改正で1時間ほど遅い時刻の運行になったので、時間に余裕ができたためもあったようです。
もうひとつ、「きりしま」はそのダイヤ改正で、個室寝台を連結しなくなりました。百閧ヘ開放寝台は嫌いだったようで、博多でわざわざ個室寝台のある「西海」に乗り換えています。阿房列車の頃とは、いろいろなことが変わりはじめていました。
この2回の旅行については、国鉄の局内誌「国鉄」に、「八代紀行」上・下として掲載されました。
次の八代行きは、翌昭和32年6月のことです。
この年の4月、愛猫ノラが行方不明となり、百閧ヘ半狂乱になって嘆き悲しみます。古くからの知り合いも唖然とするほどの取り乱しようで、もっとも近しいはずのヒマラヤ山系こと平山三郎氏すら、前年(昭和31年)の親友宮城道雄の事故死のショックがいまごろになって出てきたのだろうか、などと見当違いの推測をしていたようです。宮城道雄が急行「銀河」のデッキから転落して命を落としたのは昭和31年6月末のことでした。平山氏がそう思ってしまったのも道理で、百閧ヘノラが居た頃、決してそんなにかわいがっているという風でもなかったらしいのです。
「老いの狂気」というような言葉が浮かぶほどに毎日毎日泣き暮らしている老文士を見かねて、気分転換にお気に入りの八代にでも行ってきて貰ったらどうだ、と「小説新潮」の編集部で話がまとまったらしく、ヒマラヤ山系君、それから「特別阿房列車」に登場した編集者の椰子君、さらに法政大教授時代の早死にした教え子の息子で百閧フところに出入りしている「菊マサ」の3人がお伴をして八代へ出かけることになりました。百閧フ嘆きかたが度を過ぎていて、何かあったときヒマラヤ山系君ひとりだけでは手に負えないと思われたのかもしれません。また、このときの旅は名目上「取材旅行」ということになっていたので、編集者である椰子君が同行しないわけにもゆかなかったのでしょう。
前回と同じく、「あさかぜ」で出発します。このときも見送亭夢袋氏ほか数人の見送り人が居たようです。
出発が18時半という時刻なので、「あさかぜ」の食堂車はたいてい最初から満席で、飲み屋の趣きを呈していたそうです。百閧スちももちろん食堂車狙いで、4人で坐れる座席を確保すべく肝胆を砕くのでした。
ノラのことで泣き続けていた百閧ナすが、このときのお酒は楽しく飲めたようです。途中で相席になった「差し押さえの大家」(脱税Gメンみたいな人だったのでしょうか)とも話がはずんで、長広舌を振るっています。
博多に着いてホテルに1泊します。これは翌日の急行「きりしま」に乗るためで、かつて「青葉」に乗るために福島に泊まったりしたのと同じ伝です。上に書いたように、「あさかぜ」の到着時刻には、もう「きりしま」は博多を出ているので、その日のうちの乗り継ぎはできません。「きりしま」を使わないとなると、当時のダイヤでは、前回のように普通列車で行くしかなかったようです。博多から八代の鈍行移動は、さすがの百閧1回だけで懲りたようです。
博多のホテルで、百閧ヘ珍しく時間をもてあましました。ノラの騒動でしばらく床屋に行っていなかったので、博多で行こうと思っていたら、その日はちょうど休業日にあたっていて、どこも開いていなかったとか。
前に四国で体調を崩したとき、百閧ヘ怠けるにも体力が必要であるということを悟っていましたが、心に憂悶があるときも同様に、じっとしていられないのでしょう。ディナーまでの午後のわずかな時間をもてあましたのは、何かというとノラのことが思い出されて居たたまれなかったからだと思います。
翌日博多を出発する際、写真家の小石清が加わりました。菊マサは博多在住の伯父のところへ行ったので、やはり一行4人です。写真家を同道させたのは編集部の意向でしょう。
このため、このときの旅の写真はたくさん残っています。百閧ヘ写真を撮られるのは嫌いですが、このたびはそういう旅行であることがわかっているので、イヤな顔はしませんでした。また小石のほうも、百閧フストレスにならぬよう配慮して撮影したようです。
何より百閧感心させたのは、八代到着の直前に車窓から見える「千丁の柳」を、百閧ェ走行中の「きりしま」の窓から指差しただけで小石が見事に撮ったことでした。一瞬で通り過ぎた沿線の樹で、まさか撮れたとは百閧ヘ思わなかったようですが、小石は自信を持って
「大丈夫です。撮れました」
と請け合ったのでした。
実はこの八代行きが、写真家小石清の最後の大仕事になりました。このときから半月後、小石は列車の中で転倒して頭を打ち、急死するのです。現像された千丁の柳の写真を見て、百閧ヘ感慨深かったことでしょう。
このたびも八代に2泊、そのあと熊本にも1泊してから帰途に就きました。乗った列車は、前回と同じく「きりしま」から「西海」への乗り継ぎです。小石とは博多で別れましたが、別れ際に挙手の敬礼をしている百閧フ写真は実にイキに見えます。非常に上機嫌で、猫が居なくなって毎日泣き暮らしていた老人にはとても見えません。
しかし東京に近づくにつれ、またノラのことを思い出したようで、帰宅するなり家族に挨拶もせずに泣き崩れるのでした。
このときの紀行文は「千丁の柳」というタイトルで小説新潮に掲載されました。そして上の「八代紀行」と共に、単行本『ノラや』に収録されます。ふたつの稿は巻の末尾に続けて配置されていますが、そこで描かれた3回の八代行きの、1度目と2度目のあいだに宮城道雄が亡くなり、2度目と3度目のあいだにノラが失踪し、3度目の直後に小石清が亡くなっていると思うと、なんとも複雑な気分に襲われます。
その翌年、昭和33年6月が、9回目の、そして最後の八代行きとなりました。
最後にするつもりはなかったのかもしれませんが、ひいきの松浜軒が旅館営業をやめるというので、もう未練は無かったのでしょう。この最後のときも、松浜軒はしばらく前から営業休止状態で、ただお得意様の百閧ェ来るというので特別に店を開けたのだったそうです。宿屋はやめるけれども、もし今後八代にお越しのときは、当家のお客様としてお迎えするのでご遠慮なくお立ち寄りを……と支配人から話があったそうですが、さすがにそうなっては百閧ニいえども恐縮の至りでしょう。百閧ェふたたび八代の土を踏むことはありませんでした。
このときの旅行は、百閧フ誕生日パーティ「摩阿陀会」の引き出物としてプレゼントされたものです。「摩阿陀会」は百閧ェ還暦を迎えた昭和24年の翌年からはじまった、昔の学生や編集者その他、百閧艪ゥりの人々が開く会で、つまり『阿房列車』とまったく同じ年からのスタートであったわけです。還暦を過ぎたのにまだ死なないか、まだか、まだかい、ま〜だかい、というのが会名の由来で、黒澤明の最後の映画「まあだだよ」はこの会をモデルにしています。
百閧ヘこの会を毎年大変楽しみにしており、開催される都度そのときの報告を随筆に書いています。必ず長い長い百閧フスピーチがあり、そのスピーチ内容も全部随筆で披露されるのでした。随筆のほうは推敲されているでしょうから、実際のスピーチはもっとずっととりとめなく長かったに違いありません。
摩阿陀会では毎年百閧ノ誕生祝いの引き出物を贈っており、いろいろ趣向をこらしていましたが、昭和33年の会では百閧フほうから申し出て、無形のプレゼント「旅行」を貰うことにしたのでした。
今回は、それまで数回復路に使っていた「西海」で出発します。東京から八代に直行する列車は、この時期「きりしま」の他に「桜島」が運転をはじめて2本になっていましたが、どちらも個室寝台が無くC寝台(のちのB寝台)しか連結していないので、誕生祝いに貰う大名旅行にはふさわしくないというのが百閧フ言い分でした。また、前2回利用した「あさかぜ」に乗れば、博多でわずか4分待ちで「桜島」に乗り継ぐことができるのですが、「あさかぜ」は東京発が夕方でじきに暗くなってしまうのでこれまたつまらない、それで昼間に東京を出て個室寝台のある「西海」を選んだのでした。「西海」は「あさかぜ」より5時間ばかり早く東京を出ますが、急行と特急の差で、博多に着く頃には1時間ほどの差になります。つまり博多で1時間待てば「桜島」に乗り継げるわけです。
今回も見送りは夢袋さんだけでなく何人も来ていました。摩阿陀会の席上で大体のスケジュールを話したので、それを聞いて見送りに来た会のメンバーも居たようです。
東京駅のステーションホテルの顔なじみの給仕長は、その日小田原まで出張する用事があったのですが、急行券を買って百閧スちと途中まで同行しました。
静岡では蝙蝠傘君と会って言葉を交わします。八代行きとしてはもちろん、百閧フ生涯での大きな旅行がこれで最後であることを考えると、いろんなキャラ総出演という印象もあって、なかなか感慨深いものがあります。
静岡から食堂車に移って一献するも、百閧ヘあまりお酒が進まない様子です。前々年に刈谷附近で転落死した宮城道雄のことを思い出していたからかもしれません。まだ食堂に居る頃に、ヒマラヤ山系君が宮城道雄の供養塔を発見するのですが、それっきり百閧フ眼から涙があふれ出して、収拾がつかなくなりました。
博多で「桜島」に乗り換え、八代着は15時07分、「きりしま」よりは遅くなりますが、宿に入るにはちょうど良い按配です。八代に着く頃から雷雨となり、出迎えの御当地さんはいつもの改札口ではなく、プラットフォームまで来ていました。
松浜軒にはまた2泊します。百閧フために特別に開けてくれたのですから、もちろん相客などは居ません。ゆっくりと2昼夜を過ごし、また御当地さんに見送られて「桜島」で発ちます。「鹿児島阿房列車」以来ずっとお馴染みだった御当地さんとの、これが永の別れでした。また毎回荷物を持って貰った赤帽も御当地さんに並んで見送っています。最初の頃に較べるとずいぶん齢をとった感じに見えたそうです。老赤帽の健勝も祈りつつ、百閧スちは八代に最後の別れを告げるのでした。
博多で「西海」に乗り換え、つまり往路とまったく同じ列車で東京に向かいます。
広島の先で、先行列車がトラックと衝突する事故を起こしたため、2時間近く臨時停車しました。
このときの旅のことを記した「臨時停車」という稿はここで終わっています。「小説新潮」の昭和33年9月号に掲載されました。
しかし、翌々月の11月号に掲載した「東海道刈谷駅」で、その続きが書かれています。
「東海道刈谷駅」は宮城道雄追悼と言うべき文章で、前半は篤志家が検証した、宮城道雄の事故死に至るまでの経緯を、物語風に再構成して語っています。そして後半が、「臨時停車」の続きになるのです。ただし、同行者の名前はヒマラヤ山系ではなく「平山三郎君」と本名になっています。宮城追悼の文章でふざけたくはなかったのかもしれません。
「西海」は刈谷に停車するので、帰りに途中下車して1泊し、宮城の葬式でお経を上げてくれた坊さんや、当時いろいろ骨を折ってくれた現地の人々を招いてお礼の宴を開こう……と、出発前には考えていました。しかし、往路で平山氏が供養塔を発見しただけで惑乱してとどまりがつかなくなった自分の状態をかえりみて、刈谷駅に下車するのはまだ早いのではないかと思い返しました。
いやしかし、ただ通り過ぎるのはいかがなものか……でもまた惑乱してしまったら……と、百閧フ心は旅行中も千々に乱れていたようです。
結局、下車はする、でも泊まりはしない。供養塔を訪ねて、近在の坊さんにお経だけあげて貰い、すぐに帰る……ということに決めたのでした、しかしやはり気にかかり続けていて、事故の影響で臨時停車したあとの寝台車でも、なかなか寝つけなかったようです。
「西海」の刈谷着は10時14分ですが、事故の余波でダイヤが乱れまくっていて、実際に到着したのは11時半過ぎだったそうです。刈谷の駅長が待っていてくれました。駅長室で一憩しているあいだに読経僧を呼んで貰い、坊さんたちが来てから、駅長も一緒にクルマに乗って供養塔に向かいます。
供養塔で読経して貰う前に、宮城が転落した現場を見に行きました。百閧ヘ粗々にあたりを見て、もし転落が数秒でも早ければ、水を張った田んぼの中に落ちることになり、腰骨くらいは打ったかもしれないが、死ぬほどのことはなかったのではないかと推測しています。わずかな差で、列車から落ちた宮城は線路脇の石垣に激突することになり、助からなかったのでした。
そもそも宮城道雄という人は盲人のくせに勘が悪く、自宅の中でもしょっちゅう頭をぶつけたりしていたそうです。見えない眼をさらにぶつけて眼球を潰したなどということもありました。そのことは百閧フ随筆にもたびたび描かれていますし、高弟のひとりも、宮城が列車の事故で亡くなったと知らされて最初に思ったのは
「あっ、先生は汽車から落ちたのだ」
ということだったとのちに述懐しています。夜行急行「銀河」に寝ていて、トイレに行きたくなったらしいのですが、普段ならお付きの人に一緒に行って貰うところ、明け方という時間帯なので起こすのを遠慮し、ひとりで行ったのが命取りだったのでした。
それでも普通の盲人なら、車室のドアとデッキの昇降口の向きを間違えるなんてことはしないでしょう。それを間違えるのが宮城の勘の悪さで、車室のドアを開けたつもりで思いきり昇降口を開けてしまい、その瞬間に列車がカーブにさしかかって大きく揺れたのでそこから転がり落ちた……というのが事故の顛末であったようです。
百閧ヘそのタイミングを惜しみつつ、死神に導かれたなら仕方がない、と自分を納得させるのでした。事故現場を訪ねたときはむやみと暑く、鶏の糞の匂いがあたりに漂っていたことを、百閧ヘ晩年に至るまで思い出すのです。
供養塔でお経をあげてもらい、そのあと線香を供えて、百閧ヘすぐにその場を立ち去ります。
名古屋駅まで戻り、お馴染みの特急「はと」に乗って東京へ帰るのでした。
その5ヶ月後の昭和33年11月、東海道本線を電車特急「こだま」が走りはじめます。「つばめ」「はと」は昭和31年のダイヤ改正で、東海道本線の全線電化完成に伴い、所要時間を30分ほど縮め、東京・大阪間を7時間半で結ぶようになっていましたが、「こだま」はそれを一気に6時間50分まで短縮し、同区間の日帰り運用ができるようにしました。「こだま」の名は、1日のうちに行って帰ってこられるからという意味合いで命名されたのです。百閧ヘ、新しい特急になぜそんな魑魅魍魎(ちみもうりょう)のたぐいの名前をつけるのかと不思議がっていました。こだまというのは「木霊」で、本来は一種の精霊というか妖怪です。
電車特急は運用が簡単で扱いやすいため、数年を経ずして続々と眷属が誕生します。翌年には早くも姉妹列車「ひびき」が登場。「こだま」と同じ「音属性」の命名ですね。さらに次の年である昭和35年、あの「つばめ」と「はと」まで電車化されます。「はと」などは一時期「第二つばめ」と呼び替えられて消滅したほどでしたが、間もなく復活しました。
電車になった「はと」には、百閧ヘもう乗る気もしなかったでしょう。
そして昭和39年、東海道新幹線が開業します。
並行する東海道本線からは、徐々に特急が姿を消し、夜行だけになりました。
松浜軒さえ健在だったら、百閧ヘもしかしたら西鹿児島(現鹿児島中央)行き特急「はやぶさ」に乗って八代に行くことがあったかもしれません。この特急は廃止されるまでずっと客車列車でしたし、百閧フ好きな個室寝台も連結していました。
平山三郎氏は、百閧ェもう少しあとまで元気であれば「新幹線阿房列車」もあり得たのではないか、と書いています。そんなに速く走っても仕方がない、いっそのこと東京〜大阪ノンストップ20時間なんて列車を走らせたらどうか、などと茶化してはいたものの、もともとは明治のハイカラで新しいもの好きの人だったから……というのですが、さていかがなものでしょうか。
ほとんど一気という感じで、内田百閧フ『阿房列車』を探訪してきました。
『阿房列車』の頃の鉄道を、いまの鉄道と比較しながら詳しく考えてみたいという希望は、ずいぶん前から抱いていましたので、この「追想の阿房列車」シリーズは非常に楽しく執筆できました。
もちろん、当時の列車設備やダイヤについて、調べの足りないところはたくさんあったと思います。Wikipediaでは判断のつかない事柄もいくらもありました。
内田百閧フ人物や文学についても、読み込みが甘いところは多かったことでしょう。しかし今回追想シリーズを書くにあたって『阿房列車』を読み返してみて、30年以上にわたってずいぶん繰り返し読んだはずの本にも、新たにいろいろな発見があったことに驚いています。
執筆にあたっては、平山三郎氏による旺文社文庫の解題、また同じ平山氏の著書『実歴阿房列車先生』に多くを負っています。いずれも現在では入手が難しいのが残念です。
内田百閧フ文章は、「名文」とはこういうものだ、ということを私に教えてくれました。今後も、何か心がささくれたようなとき、「名文」を読んで気持ちを洗い流したいと思っています。私はこれからもずっと、百鬼園随筆を、そして阿房列車を愛し続けることでしょう。
次回、少しだけ落穂拾いをして、「追憶の阿房列車」の締めといたします。
(2017.5.27.)
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