忘れ得ぬことどもII

15.阿房列車の落穂拾い

 「追想の阿房列車」シリーズを書き終えて、なんだか茫然としています。
 本来こんなに大量に書くつもりもなかったし、こんなに集中して書くつもりもありませんでした。最初の「特別阿房列車」のところで書いたように、1、2回で全篇にちょっとずつ触れる程度か、せいぜい1回で1冊ずつというくらいに思っていました。それが15回ものシリーズになり、自分でも驚いています。
 35年来、何度も読み返し、愛読し続けてきた内田百について、いちど思う存分語ってみたかったということと、本文中でも書いたように、阿房列車の頃の鉄道と現在の鉄道とを対比させて細かく考えてみたかったという希望が、ようやく叶ったと思っています。できればもう少し、長距離の特急や急行が残っているうちにやってみたかった気もしますが。
 実際に書いてみるというのは大切なことだったようで、書いているあいだに内田百閧フ原典の中に新たな発見をしたり、自分の意見が修正されたりということもありました。
 一等車・二等車と座席指定の問題のように、結局明確な答えが得られなかった件もあります。『阿房列車』を読む限り、どうも当時の一等車や二等車は現在の形の指定席制ではなく、座席定員制に近い制度であったような気がしてならないのですが、二等の座席指定をとるとらないといった記述もあり、確証が得られませんでした。これについては詳しいかたが居られればご教示を願いたいと思っています。

 落ち穂拾い的に、本文中で書けなかった、あるいは書かなかったことをいくつか記しておきます。
 最後に出てきた「東海道刈谷駅」ですが、旅の終わりのところで私は切りましたけれども、原典にはそのあとのことが書かれています。
 百閧ヘ、「雷九州阿房列車」のときに、豊肥本線豊後竹田駅で、豊後竹田出身の作曲家瀧廉太郎「荒城の月」がプラットフォームに流れていたことを思い出し、宮城道雄が遭難した地点に近い刈谷駅でも、宮城ゆかりの音楽を流せないものかと考えました。宮城のよく知られた作品か、あるいは宮城作品でなくとも「六段」などの有名な曲を宮城が弾いた音源か、そんなものを構内放送で流せたら、と考えたのです。
 とはいえ、山間の小駅である豊後竹田と、ひっきりなしに列車の行き交う東海道線の刈谷駅とでは話が違い、そんな放送をまぎれ込ませるのは無理かとも思いました。
 ともかく、親友宮城道雄のために何かしてやりたいという想いで、百閧ヘ柄にもなく積極的に動いて、国鉄本社の旅客課に要望を申し入れるのでした。まず本社に諒解を貰わなければいけないと考えるあたりが、百閧フ秩序好き、筋を通すことが好きなところでしょう。
 旅客課長からの返答は、

 ──かねがね構内放送で必要以外のことを放送するなと指導しているので、この件に関してのみ例外として放送するよう本社から指示することはできない。しかしせっかくのお話なので、本社は知らないことにして、現地の駅(刈谷駅)、管理局(名古屋鉄道管理局)に話を通してみてはいかがか。

 というものでした。
 「本社は知らないことにして」という計らいに百閧ヘ国鉄の好意を感じ、勇み立ちます。
 ただ、勇み立ったからと言って、すぐに行動を起こせる百閧ナはありません。なかなか名古屋のほうへ出かけられないでいるうちに、百閧ェ国鉄にその件を申し入れたという話が、二三のメディアに採り上げられたのでした。先にその意図が漏れてしまっては、先方で却下するつもりであったら、そのつもりで気持ちを固めて待ち受けるから、無理を押すのが困難になってしまう……と百閧ヘ心配します。確かに官僚的に考えれば、構内放送で音楽を流すなどは余計なことであり、一言の元に却下されても仕方がありません。そして百閧ヘ、人が官僚的に動くことを決して嫌ってはおらず、むしろ推奨したいほうでしたから、却下されたところをもうひと押しするという迫力に欠けるだろうと自覚していたものと思われます。
 ところが、話は逆に、それらの記事で名古屋管理局があっさりと動き出し、百閧フ申し入れを待たずして、刈谷駅では宮城作品の放送がはじまっていたのでした。
 百閧ェ刈谷の供養塔に立ち寄ったのは昭和33年6月5日、放送がはじまったのは7月20日からだそうで、なるほどとんとん拍子と言っても良いような運びかたです。
 ただ、百閧ヘ知りませんでしたが、刈谷駅ではそれまでも、毎年6月25日の宮城の命日には、急行列車の発着時に限って曲を流していたらしいのです(と言っても亡くなったのが昭和31年なので、それまでに32年と33年の2回だけですが)。それがあったので、全列車の発着時(百閧ヘ急行だけでも良いと思っていたようです)に流すことにするにあたっても、そうハードルが高くはなかったのでしょう。
 百閧ェ急行「西海」に乗って名古屋管理局を訪ねたのは8月11日のことでした。途中刈谷駅に停車したときには、すでに「春の海」だったか「千鳥の曲」だったか、宮城道雄の琴の調べがプラットフォームに響き渡っていたそうです。百閧フ訪問は、要望の申し入れではなく、ほとんどお礼言上に伺ったみたいな態になっていました。
 そういえば刈谷に立ち寄った八代行きを「百閧フ生涯最後の大旅行」だったと前回記しましたが、そのあとで名古屋までは行っているわけですね。大旅行と言えるかどうかは微妙で、せいぜい小旅行かもしれませんが。
 刈谷駅での宮城のレコードの放送はいつ頃までやっていたのでしょうか。現在ではもちろん、JR東海の他の駅と同じような接近メロディや発車メロディが流れるに過ぎません。豊後竹田駅ではいまだに「荒城の月」が流れるばかりか、小沢昭一氏の進言により、当初の山田耕筰編曲のヴァージョンから瀧廉太郎の原曲を用いるヴァージョンへ進化したりもしていますが、これは列車本数の差で仕方のないことでしょう。豊肥本線も当時に較べるとずいぶん発着本数が増えたとはいえ、豊後竹田駅を発車するのはせいぜい1時間に上下線各1〜2本ずつくらいなものです。これに対し、刈谷駅はいまや日中でも上下線合わせて1時間に16本の電車が行き交う大都市近郊駅で、とても悠長に琴の調べなど流しては居られません。宮城道雄も内田百閧烽の世で残念がっているかもしれませんが、こればかりはやむを得ません。
 ちなみに「荒城の月」の原曲というのは、現在知られている形とだいぶ違って、8分音符主体でかなりハイテンポになっています。また「♪はるこうろうの はなのえん♪」と歌うときの「え」にあたる音が、半音高くなっています。こう歌うと途端にバタ臭くなるのですが、瀧廉太郎はあくまで「西洋音楽」としてこの曲を作曲したのが、山田耕筰があえて邦楽っぽさを強調し、テンポを思いきり落とした編曲をしたのが人気を得たということであるようです。

 百閧フ文章観については何度か書きました。百閧ヘ文章を「事実を記録するもの」とは考えず、事実とは無関係に成立する自立した世界であると考えていたようです。だから、ノンフィクションとフィクションとのあいだに、そんなに劃然たる区別を設けていませんでした。
 『阿房列車』に関しても、それを立証するエピソードがあります。「菅田庵の狐」「列車寝台の猿」の明らかなフィクション部分のことではありません。平山三郎氏の『実歴阿房列車先生』の中で明かされているのですが、「区間阿房列車」興津にはじめて下りたときの描写についての話です。

 ──雲の垂れた低い空に夕明かりが漲(みなぎ)つてゐる。真直(まっすぐ)い道の遠い向うの方が明かるくなつて、松の黒い影が鮮明に浮かんでゐる。その辺りは空の色だけではなく、往来に近い海の水明かりが射してゐるらしく思はれた。

 百閧ヘそう書いているのですが、その後興津に行ってみたら、勘違いだったことが判明したのでした。道の突き当たりに松なんか生えていなかったそうです。

 ──おどろいたネ、と先生が云う。勘ちがいなんだ、勘ちがいだけれど、僕の書いた方がいいんだ、松がそこになければいけない、興津の町役場で松を植えればいいんだ。つまり、表現さえちゃんとしていれば事実の方は、もしまちがっていたら訂正すればいいんだ、と先生は云われるのである。

 この発言はある座談会であったそうで、勘違いの照れ隠しに無理矢理に言い張っているようでもあります。がしかし、百閧フ執筆思想をあらかじめ知っていれば、これが当然の発言であるようにも感じます。
 現代の作家で、ここまで言える人が何人居るでしょうか。事実誤認を指摘されれば、あたふたしてしまう人が大多数ではないでしょうか。

 百閧ヘ国鉄に乗ってあちこち旅したわけですが、私鉄についてはどう考えていたのでしょうか。
 「菅田庵の狐」箕面電車に乗った話が出てきますが、電車嫌いとはいえ電鉄系の私鉄をまるごと嫌ってきたわけではないような気がします。
 「長崎の鴉」の途中に、「大阪から和歌山へ行く私設鉄道」に、学生時代に乗ったことが書いてあります。和歌山に何をしに行ったのかわかりませんし、それについて書いた文章もまったく無く、ここでぽつんと出てくる話柄です。
 この私設鉄道は、明らかに南海鉄道でしょう。社名が「南海電気鉄道」になったのはもっとあとのことです。「明治四十何年」と百閧ヘ書いていますが、百閧ェ東京帝大の学生になったのは明治43年9月(しかも最初の年は東京にも大学にも馴染めなくて岡山に逃げ帰っています)ですから、明治末年の1、2年間のあいだのことでしょう。難波から和歌山までの全線電化が完了したのは明治44年のことで、百閧ェ乗ったのがそれより前か後かが気になります。百閧フその頃の指向から考えると、どうも本格的な電気鉄道が珍しくて乗りに行ったという気がしてなりません。後年は電車が嫌いと言い出しますが、若い頃は物珍しさもあって、そうでもなかったのではないでしょうか。
 「長崎の鴉」の中でこの話題が出てきたのは、食堂車に関する話の中です。戦後は食堂車で給仕をするのが女の子ばかりになって手際が悪いと嘆いているのですが、明治末年の南海鉄道の列車にも食堂車が連結されており、しかもウェイトレスが乗っていたのだそうです。洋装なのか和装なのか、どんな制服だったのか気になります。
 東京では、だいたい山手線の内側に住んでいたようですので、百閧ェ私鉄の世話になることはあまり無かったことでしょう。ただ市電(のちの都電)は大いに利用したようです。
 もと学生で、「摩阿陀会」の重鎮であった北村猛徳氏が、戦後小田急の重役になっています。北村氏は何度も百閧ノ、小田急のロマンスカーに乗って箱根に行きましょうと誘っているのですが、百閧ヘ日光と箱根と江ノ島だけは生涯行かないと決めているので、愛弟子の誘いを断り続けるのでした。
 この3箇所にどうして行かないのかという理由がまたばかばかしい次第です。昔、法政大学のドイツ語教師として同僚だったフンチケル氏の家に遊びに行ったら、フンチケル夫人やドイツ人の女友達が日光と箱根と江ノ島に行ってきた話をはじめ、百閧ノそれら観光地についての意見を求めるのですが、百閧ヘそれまでその3箇所に行ったことがなく、話が合わなくて非常に気まずい想いをしたのでした。その恨みで、もう絶対そんなところに行ってやるものかと心に決めたというのだから、ほとんど逆恨みで、日光や箱根や江ノ島のせいではありません。
 百閧ヘ「白足袋宰相」吉田茂と対談したことがあります。吉田の本宅は大磯にあったこともあり、対談を主催した雑誌は最初、場所を箱根にしようとしたらしいのです。百閧ニいえども、相手が吉田茂ではけっこう気を遣ったようなのですが、箱根だけはやめてくれるように申し入れたそうです。北村氏の誘いを断り続けている手前、

 ──大物に会うためとあらば簡単に節を曲げるのか。

 と他人から思われるのが癪だったとか。まったく難儀な人です。結局対談は吉田茂の本宅でおこなわれたのでした。
 そういえば江ノ島も小田急ですね。小田原藤沢まででもロマンスカーに乗ってやれば良かったのに。
 なお、『贋作吾輩は猫である』に「蒲鉾会社の重役」として登場する「疎影堂」という人物が北村氏のことであろうと私は踏んでいます。小田急=小田原=蒲鉾、という連想でしょう。なかなかユーモアあふれる人だったようで、毛髪が少なくなってきたというので名前のケモノ偏を取り去って孟徳三国志曹操のあざなと同じですね)と名乗ったり、摩阿陀会では毎回奇妙奇天烈な回状を書いてみんなに送っていました。昭和43年に北村氏が急死したあとの摩阿陀会は火が消えたような状態だった、と平山氏が書いています。

 晩年の『残夢三昧』という文集に、「車窓の稲光り」という掌編が乗っています。
 博多から乗った列車の食堂車で一献していると、集団就職で東京に行く、鹿児島の中学の卒業生とその先生らしい4人連れと乗り合わせ、酔眼にそのむつまじい様子を見ているうちになんだか泣きたいほどに嬉しくなって、その一行についお茶とケーキを振る舞ってしまったというのです。酔いが醒めてみるとなんだか大げさなことをしてしまったようで忸怩としているところへ、列車ボーイが彼らからの届け物だと言って軽羹を持ってきたのでした。いまでも軽羹を食べるとそのときのことを思い出す……と、それだけの話なのですが、これはどう考えても阿房列車の一幕と思われるのに、それに該当しそうな話が見当たらないエピソードなのでした。
 というのは、冒頭に「お午頃に博多を出た東京行の特別急行列車が……」とあるからです。博多から東京行きの特急が走り出したのは「あさかぜ」が最初のことで、「あさかぜ」の登場は阿房列車終了後の昭和31年のことです。だとしたら「阿房列車以後」に書いた八代行きのどれかの帰り道と考えるほかありませんが、「あさかぜ」登場後の復路は、すべて急行「西海」に乗っており、復路まで「あさかぜ」に乗った記録はいちども無いのです。
 そもそも「あさかぜ」の博多発は東京発と同じく18時半で、「お午頃」には出ません。
 それでは、「特別急行列車」というのが百閧フ記憶違いで、普通急行だったのでしょうか。
 ところが、それにしても話が合わないのです。「西海」の博多発も夕刻でした。八代を午後に出る「きりしま」「桜島」から乗り継いでいるのですから、夕刻というより晩の発車だったと思われます。
 普通急行であればもっと以前の話かもしれない、と考えてみても、『阿房列車』で5回九州へ行った帰りは、すべて「きりしま」に乗っています。八代から帰ったわけではない「雷九州阿房列車」でさえ小倉から「きりしま」に乗ります。
 中学の卒業生の一行なので、当時大変なゼイタク列車であった特急に乗っていたと考えるよりは、急行に乗っていたというほうがありえる話です。それでは「きりしま」に乗っていたのかというと、これも「博多を午頃発った」という一文で辻褄が合わないことになります。上り「きりしま」は博多で一等車などを連結していたので、百閧スちは必ずそこで車輌を乗り換えており、「博多から乗った」という表現自体は間違いではありません。しかし、「きりしま」の博多発はやはり晩なのです。
 ヒマラヤ山系君がかたわらに居ることになっているのですが、平山三郎氏にも、このエピソードがいつのことなのか、見当がつかなかったようです。集団就職の中学生が乗り合わせていたのなら、3月頃でしょう。3月頃に九州へ行った記録は、「春光山陽特別阿房列車」しかありません。しかしこの復路もまた「きりしま」です。  何か記憶の糸が混乱していたのか、もしかしてまったく記録に残していない八代行きがあったのか。それともこれも百閧フ「残夢」のひとつだったのか。
 謎の残る1篇なのでした。

 最後の文集となった『日没閉門』でも、阿房列車の頃を回想しています。この本には「阿房列車の車輪の音」「逆撫での阿房列車」の2篇が収録されています。
 「阿房列車の車輪の音」にも、少々不思議な話が出てきます。東北地方を旅したとき、どの列車ものろのろと走り、駅のサービスもらちがあかない感じで、じりじりする気分で仙台まで帰ってきたのに、仙台から乗り込んだ列車が常磐線に入るや否や、急に眼が醒めたような歯切れ良いスピードを出したのでほっとした……と書いてあります。
 阿房列車で東北へ行ったのは「東北本線阿房列車」「奥羽本線阿房列車」「雪解横手阿房列車」の2回だけで、前者の帰りは急行「青葉」に乗っていたはずです。「青葉」は東北本線廻りで、常磐線には入りません。また後者は急行「鳥海」奥羽本線廻りだったわけですから、そもそも仙台にすら立ち寄っていません。
 それでは「青葉」というのが記憶違いで、常磐線廻りの「みちのく」に乗ったのでしょうか。「みちのく」は仙台まで「青葉」と併結し、そこから分割される急行です。
 しかし、「奥羽本線阿房列車」には、「郡山から食堂車に行った」と明記してあるのです。この郡山もまた(現いわき)あたりの間違いであったとでもしない限り、阿房列車を常磐線に乗り入れさせる方法がありません。
 これも他の機会の記憶がまぎれ込んでいるのでしょうか。百閧フ文章を読む限り、常磐線に乗ったことがあるのは、陸軍士官学校の出張で仙台へ行かされ、その途上と言い張って無理矢理京都の友人のところへ廻ったときくらいしか無さそうです。このとき百閧ヘ、当時開通したばかりの磐越東線に乗りたくて、仙台から常磐線で平に出て、磐越東線・磐越西線を一日の内に乗り潰して新潟に行き(「雪中新潟阿房列車」で新潟が曽遊の地だと書いているのはこのときのことでしょう)、信越線・北陸線で京都に行っています。戦前どころか大正時代の話です。
 もうひとつ、札幌に旅行したことがあって、初期随筆の「旅愁」というのに書かれていますが、このときの復路のコースは書かれていませんから、常磐線を通った可能性もあります。これも大正時代です。
 いくらなんでも、大正時代と戦後の記憶が混じってしまうことはないだろうと思うのですが、80歳を越えた百閧フことですから、なんとも言えません。

 「逆撫での阿房列車」には、ディーゼル機関車の牽く列車に試乗した話が出てきます。『阿房列車』の最後の頃、と百閧ヘ書いていますが、日本初の幹線用国産ディーゼル機関車DD50が実用化されたのは昭和28年、翌29年にはDD11も開発されていますので、百閧フ試乗したのはこのどちらかでしょう。東京駅から戸塚あたりまで行ったようです。
 百閧ヘこの試運転の最中に、当時の国鉄副総裁天坊裕彦から、3クラス制から2クラス制への変更の腹案を聞かされたようです。つまり「列車寝台の猿」で書いていた、一等車の廃止の件です。
 本来一等車の廃止とディーゼル機関車の投入は別の話のはずですが、天坊はディーゼル機関車の投入を機に2クラス制にするというようなことを言ったらしく、百閧ヘディーゼル機関車を「悪魔がよこしたからくり」などと呼んでいます。3クラス制がよほどお気に入りだったようです。そして在りし日の三等車の風情、一等車の風情を回想するのでした。
 ディーゼル機関車は、それまでも軽便鉄道などでは使われていましたが、幹線で蒸気機関車に匹敵するほどの出力を得ることが難しく、その頃ようやく実用化されたのでした。
 一方ディーゼルカーも同じ頃に普及しはじめました。「房総鼻眼鏡」について書いた項目で、昭和28年当時の房総各線が「気動車モデル線区」となっていたことにも触れました。
 「逆撫での阿房列車」には、八代駅で、肥薩線に入るディーゼルカーを何度か見た話が出てきます。『阿房列車』本編では、ディーゼルカーについては一切触れていなかったのですが、やはり駅や車窓から見たことはあったのです。
 肥薩線はループ線や急勾配があって大変な路線なのに、ディーゼルカーはまるでお手軽に、バスでも出て行くかのように出発し、これが開発とか文明開化とかいうものなのかと、百閧ヘ嘆息していたのでした。やはり百閧ヘディーゼルカーも嫌いだったようです。「房総鼻眼鏡」でやたらと時間がかかっているのは、ディーゼルカーを避けて客車列車ばかり乗ろうとしたからではなかったかということも前に書きました。
 そういえば阿川弘之の童話「きかんしゃ やえもん」で、蒸気機関車であるやえもんをしきりにからかう2台のレールバスが出てきます。その後あんまり活躍することがありませんでしたが、レールバス(小型ディーゼルカー)こそその当時、これからの鉄道を担うスターとして期待されていたのでした。2台のレールバスはいかにも現代っ子という描写になっていて、昔気質のやえもんをいらつかせます。機関車やえもんは、怒りっぽいところから「瞬間湯沸かし器」ともあだ名されていた阿川氏自身の分身でもありましょうが、阿川氏はどこかに内田百閧フ面影を重ねていたように思えます。阿川氏は、新潮文庫『第三阿房列車』の解説文を書いています。
 いずれにしろ、昭和30年前後、ディーゼルカーは「お手軽な列車」というイメージで受け取られ、蒸気機関車の重厚さを愛する人たちからは嫌悪されていたようです。
 しかしいまや、その国鉄型ディーゼルカーが、鉄道マニアの回顧の対象となっているのですから、時代は遷ったものです。

 思いつくままに落ち穂を拾ってみました。また何か書きたくなるかもしれませんが、ひとまずこれで、内田百閭lタは終わりということにいたします。

(2017.5.28.)

「14.阿房列車以後」へ

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことどもII」目次に戻る

「追憶の阿房列車」目次に戻る