ブラウン神父
BBCドラマ『ブラウン神父』
ケーブルテレビのAXNミステリーチャンネルで、BBC制作による『ブラウン神父』の集中放映をやっているので、見ている。平日の夕方に毎日2本ずつ、5日間で終わるようで、初日にたまたま番組表を見て知ったもので、幸い第1回からチェックすることができた。
映像化されたブラウン神父はいくつか記憶があるし、テレビシリーズになったのもこれがはじめてではないのかもしれないが、とりあえず筆者としては、シリーズとして見たことはない。
何しろ原作が寓話調の作品だし、全体が薄明の中で繰り広げられているようで、謎解きなどもその雰囲気の中で有無を言わせず結論を出してしまうみたいなところがある。よく冷静に考えると子供だましというか、脱力もののトリックも珍しくない。だから、実は映画やテレビにそのまま引き写すにはあんまりふさわしくないミステリーであるような気がする。チェスタトンの韜晦した話術にたぶらかされて無理矢理納得させられていたトリックが、視覚的にあからさまに示されてしまうとブチコワシになってしまいかねない。
それで、記憶にある映像作品も、原作とは関係のないオリジナルストーリーになっていたのではなかったかと思う。 今回の(今年の制作らしい)BBCのテレビシリーズは、「神の鉄槌」とか「飛ぶ星」とか「アポロの眼」とか、原作と同じタイトルがついているので、オリジナルストーリーではなく、原作に準拠した話になっているように思われる。それで、どんなテレビドラマにしているのか、興味があった。
第1話が「神の鉄槌」だった。短いアバンタイトルのあと、影絵によるオープニングが流れ、それからドラマに入りつつテロップで若干のスタッフロールが流れるという、よくある作りかたである。
そのテロップの真っ先に、
──オリジナルキャラクター:G.K.チェスタトン
とあったので、少々いやな予感を覚えた。こういう出しかたは、以前ペリー・メイスンのドラマでも見たことがある。E.S.ガードナーが書いた原作小説を元にしていない、まったく新作のストーリーを脚本家が書き下ろしているというものである。
幸いこの第1話に関しては、心配したほどの原作無視にはなっていなかった。ごく短い原作を1時間もののドラマに引き延ばすので、脚色がいろいろなされていたのは当然だが、まあ納得できる範囲のものではあった。原作に出てくる知恵遅れの若者が出てこなかったのも、現代のテレビドラマで、殺人の有力容疑者として知的障碍者を扱うことの差し障りをおもんぱかったからと考えれば、うなずけないことはない。
しかし、第2話「飛ぶ星」に至って、早くも
「あ〜あ」
と言いたい事態となってきた。
原作の「飛ぶ星」という話は、神出鬼没の怪盗フランボウの3度目の登場となる物語である。「青い十字架」でブラウン神父と出会い、「奇妙な足音」で再会した神父に諭されて盗品を返し、そしてこの「飛ぶ星」でこんこんと説得され犯罪から足を洗うという、重要な転機となる作品なのだった。フランボウはこののち私立探偵を開業して、ブラウン神父と二人三脚で活躍することになる。全51話中フランボウの登場するのは3分の1ほどだが、ただひとりのレギュラーキャラではあり(この他、パリ警視庁の刑事ヴァランタン氏が2話連続で登場するが、これはちょっと別格と考えるべきだろう。ネタバレになるので詳しくは書けないのだが)、まあブラウン神父における「ワトスン役」と考えても良さそうである。
そういう話である以上、原作に準拠するならば「飛ぶ星」は「青い十字架」と「奇妙な足音」のあとに置かなければわけがわからなくなる。これはどうもおかしいぞと思って見ていると、案の定冒頭からまるで違った展開となり、盗難事件に過ぎなかったはずの「飛ぶ星」が殺人物語となってしまった。
がっかりしたというよりも、
──ああ、やっぱりね。
と変に納得してしまった。結局、ブラウン神父物語をそのままドラマ化するのは無理だったのだ。
第3話は「狂った形」だったがこれもだいぶ違った話になっており、第4話に至ってはまったくのオリジナルストーリーになっていた。いまのところ第6話まで見ているが、このあともオリジナルストーリーが続くようである。AXNミステリーのサイトで確認したところ、今回のシリーズ最終回となる「青い十字架」ではフランボウが登場するらしく、そこは多少期待したいところだが、「青い十字架」はそもそも原作の第1作であって、誰が探偵役なのかよくわからないという状況の中で話が進んでゆくところに妙味があったわけである。テレビシリーズ第10話となっては、その辺は望むべくもないだろう。だいぶアレンジされているであろうことは予想できる。
BBCで今年はじめに放映するや、平日昼間という時間帯だったのに大評判となり、毎回すごい視聴率をマークしたそうだから、おそらく第2シーズンが作られるだろうと言われている。そうなれば、フランボウがレギュラーになることも考えられるが……。
前にブラウン神父について考察した時にも気がついたのだが、ブラウン神父という人は実にいろんな土地に唐突に出現する。コボウル、ハートルブール、パトニー、グラスゴー、ボーハン・ベーコン、スカーバラ、デヴォンシャー、オックスフォード等々……ひとところに1年も居ないのではないかと思えるほどにしょっちゅう転勤しているようである。アメリカに渡ってシカゴに赴任していたこともありそうなら、南米に行かされたこともある。どこに行っても、ずっと昔からそこに住んでいるような顔をしてその土地のコミュニティに融けこんでいるあたりが、神父の人徳なのだろうが、それにしても片時もじっとしていない印象がある。レギュラーの登場人物がフランボウ以外に出てこないのも、そもそも同じ場所に居ないからでもあるだろう。
が、ドラマのブラウン神父は、小さな村に腰を据えている模様である。教会の秘書をしているマッカーシー夫人、下働きをしているポーランド難民のスージー、そのボーイフレンドのシド、魅力的な未亡人で歌手でもあるフェリシア、それに毎回事件を担当するヴァレンタイン警部補(たぶん原作のヴァランタン刑事のアレンジ)と、ほぼ同じキャラが脇を固めているのだった。
それ以上に、時代設定が1950年代となっていることに驚く。
もちろん原作のブラウン神父は、1910年頃から活躍を始め、おそらく1930年頃に姿を消している。私の考察では、1860年くらいの生まれであるはずである。どういう根拠でそうなるのかは、上に挙げたリンク「ブラウン神父の履歴書」をご覧いただきたい。
それを、第二次大戦後の50年代に持ってきた意図ははっきりとはわからないが、ポーランド難民の娘が登場するなどというのは、その時代を反映させているようだ。第4話「木の中の男」はナチス残党ネタだった。そういうネタを使いたいがために時代をシフトさせたのか、あるいは原作どおり第一次大戦前などにすると、視聴者のイメージが湧きづらいという判断だったのか。日本でも、明智小五郎の活躍を現代に持ってきたドラマがあった。
何度も書くとおり、原作のブラウン神父物語は一種の寓話というべきものなので、時代設定にはそんなにこだわらなくとも、それほどの違和感はない。USAの禁酒法について触れられているような、時代色がかなりはっきり顕れた作品もあるが、おおむね、1910年代だろうと1950年代だろうと問題なく成立するような筋立てになっている。
ただ、場所のほうは、必ずしも田舎町ではなく、明らかにロンドンのど真ん中である話がちょくちょく出てくる。ブラウン神父ものの最高傑作と評価されている「見えない男」などは、おそらく田舎では通用しないだろう。「アポロの眼」も原作では、ロンドンの高層ビル(といっても1910年代に書かれているのでせいぜい十数階だが)が舞台になっており、当時最先端のモダンなビルならではのトリックが使われているけれども、テレビシリーズ第5話でお目見えしたこの物語は、やはり田舎の話になっていて、トリックもまったく別ものになっていた。ちなみに「アポロの眼」の原作は、大きな犯罪と小さな犯罪が微妙にからみあい、小犯罪の結果により大犯罪の犯人の意図が大きく狂わされて虻蜂とらずになってしまう……という皮肉な筋立てが面白いのだが、テレビドラマのほうはもっとシンプルなストーリーになっていた。少しだけネタバレになるけれども、原作では視力障碍がひとつの重要な鍵になっているので、テレビドラマとしてはやはりそこをはばかったのかもしれない。
ブラウン神父役のマーク・ウィリアムズは好演していると思うが、ただちょっと大柄すぎるのが気になる。ポワロと同じく、ブラウン神父は何より「小柄」で、さらに「丸顔に団子っ鼻」がトレードマークのはずで、巨漢フランボウとの凸凹コンビぶりが面白いのである。「とけない問題」などでは、フランボウは神父をひっつかんだまま何キロも走って危難から逃れるというほどで、その辺はまあチェスタトン一流の戯画的シーンとはいえ、登場する他の大半の人物よりも背の高いブラウン神父とあっては、少々違和感を禁じ得ない。
ポワロも、デイヴィット・スーシェがはまり役になるまで、相当に試行錯誤をしたようなので、やむを得ないことかもしれない。テレビや映画のプロデューサーたちは、ポワロの「小男」というキーワードを読み落とし、あるいは無視し、「肥っている」ほうだけ重視したキャスティングをずっとおこなってきた。哀れな原作者は、
「なんでポワロがみんな、あんな肥大漢ばかりになってしまうのか、理解できないわ」
と嘆いていたそうだ。スーシェのポワロが登場したのはクリスティの死後しばらく経ってからだったので、クリスティは気の毒にも、結局ピーター・ユスティノフなどの「LLサイズ」ポワロしか知らずに終わったわけである。
ブラウン神父も、原作のイメージどおりのキャスティングができるまでには、もう少し時がかかるのかもしれない。チェスタトンが化けて出てこなければ良いのだが。
ブラウン神父といえば、思想的な背景も重要である。チェスタトンは英国教会からカトリックに改宗し、なおかつ保守派を代表する論客としてH.G.ウェルズなどの「進歩的」思想家と対立したことでも知られる。共産主義には反対していたが、かと言ってアメリカ的な資本主義に対しても鋭い舌鋒を浴びせている。ブラウン神父ものの中では、共産主義者よりもむしろ、同じくらい唯物的な資本主義者や「合理主義者」を攻撃していることのほうが多いくらいだ。物語の中で卑劣な犯罪を犯すのはたいていその手合いで、それに対して社会主義的あるいは無政府主義的な、ぶっきらぼうな若い詩人という風なキャラが冤罪をかぶせられるのが、ほとんどデフォルトになっているかのようである。
ブラウン神父物語の底に流れるこの保守的な思想性・哲学性に辟易する人も少なくない。また、チェスタトンはむしろこの思想を表現するのに適した器としてミステリーを選んだのだ、とまで言う人も居る。
その正否はともかく、作者の思想性・哲学性が、一見荒唐無稽にも思えるブラウン神父物語に深みと拡がりを与えているのは間違いないだろう。それがまだ希薄な頃に書かれた初期作品『奇商クラブ』などはむしろ荒唐無稽さのほうが勝っているように思える。また『奇商クラブ』と同時期の長編小説「木曜の男」は、スパイ小説風スラップスティック・コメディと呼ぶほかないシロモノである。何やら寓意がありそうに見えて実はなんだかよくわからん、という、モンティ・パイソン的とすら言えそうなヘンテコな小説なのだった。英国文学には、確かにこの種のナンセンス・ストーリーの系譜も存在する。何はともあれ、ブラウン神父の創造に至って、作者はようやく落ち着いた作風をものにしたと言って良いだろう。
しかし、テレビドラマでチェスタトンの思想性を露骨に出すというわけにもゆかなさそうだ。とはいえそれをしないとブラウン神父の味が出にくいとなれば、やはり別の手段で脚色してゆくしか仕方がなく、結果が「キャラと基本設定だけ借りた別の物語」になってしまうのは、ほとんど必然と言っても過言ではない。
筆者も、「原作無視」にあまり目くじらを立てず、独立したミステリードラマとして愉しもうと思っている。
(2013.12.7.)
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