エルキュール・ポワロ(2)
名探偵ネットワーク
エルキュール・ポワロはアガサ・クリスティの一枚看板的キャラクターであったわけだが、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをお荷物に思っていたらしいのと同様、クリスティもポワロをあんまり好きではなかったのではないかと思われるふしがある。
「火曜日の夜会」(「ミス・マープルと13の謎」)の序文で、クリスティははっきり、
──私自身は、実を言うとポワロよりはミス・マープルの肩を持っています。
と書いているのだ。
後年のポワロ物にはアリアドネ・オリヴァーという女流推理作家が繰り返し登場するが、彼女がクリスティ自身の分身であることは明らかだ。オリヴァー女史はスヴェン・イェルセンなるフィンランド人の名探偵の産みの親であることになっているが、これはもちろんベルギー人探偵ポワロとパラレルに見てよい。そしてオリヴァー女史は、多くの物語の中で、イェルセンのことをぼやきにぼやくのである。
「なんでまたフィンランド人なんてことにしちゃったのかしらねえ」
「あのいまいましい小男ったら!」
「あたしがどれほどあいつを憎んでいるか、あの連中が知ってさえいればねえ! 出版社の人はそんなこと絶対に人に言うなって言うんだけど」
これは言ってみればクリスティの楽屋噺みたいなもので、読者はこのくだりにさしかかるとニヤリとするわけだ。
産みの親からこてんぱんに言われているイェルセン=ポワロも負けてはおらず、「複数の時計」で逆襲している。この物語の中で、ポワロは浩瀚な探偵小説論を執筆していると言い、その趣旨の一部をコリン・ラム青年に紹介している。生涯、評論活動らしきことをほとんどおこなわなかったクリスティの珍しいミステリー評論として珍重する向きも多いが、この中でポワロはオリヴァー女史=クリスティも槍玉に挙げ、
「当時のオリヴァーさんが、フィンランドについて、シベリウス(「フィンランディア」の作曲者)以外に何か知っていたとは思えませんね」
などと言っている。
それはともかく、エルキュール・ポワロ著の探偵小説論、「サード・ガール」(「第三の女」)事件の直前に脱稿したそうなのだが、ぜひぜひ読んでみたいものだと思う人は少なくあるまい。
そんなに嫌っていたポワロを最後まで使い続けたのは、やはり読者の人気にひきずられたもので、ポワロが登場しないと納得しない人たちが大勢いたのだろう。
しかしながら、クリスティは個性的な名探偵を他にもずいぶんと創造している。特に創作力が旺盛だった1920〜30年代には、驚くほど多くのキャラクターを産み出しているのだ。
ひとりの作家が、何人ものそれぞれ違った魅力を持つシリーズ・キャラクターを創造できた例は、実のところそう多くない。ひとつのキャラが人気になってしまうと、編集者も読者も、それ以外のシリーズを求めなくなってしまう。シリーズ小説の場合、主役のキャラで物語そのものの性格もある程度支配されてしまうところがあるから、作者の側も容易でない。違う個性を持つキャラのシリーズを創造するには、違う作風を身につけなければならないのだ。そんなに何色もの流儀を使い分けられる作家は、そうそういるわけはない。
コナン・ドイルはホームズ以外に、チャレンジャー教授、ジェラール准将などのシリーズ・キャラクターも創造しているが、どちらも推理小説ではない。チャレンジャーはSF物の主人公であるし、ジェラールは時代物だ。
チェスタトンになると、ブラウン神父以外に「奇商クラブ」の元判事バジル・グラント、「詩人と狂人たち」の青年詩人兼画家ガブリエル・ゲイル、「ポンド氏のパラドックス」の退職官吏ポンドなどの探偵を創造しており、それぞれに魅力的ではあるが、各キャラに独自のファンがついているとは言いがたい。どれもブラウン神父の分身のように思えてしまう。
ヴァン・ダインは推理小説はファイロ・ヴァンス物しか書かなかったし、エラリー・クイーンも同名の作家探偵の他には聴覚障碍のシェイクスピア役者ドルリー・レインを創造したにとどまった。ディクスン・カー(カーター・ディクスン)は当初バンコランというフランス人探偵を起用したが人気が出ず、その後H・M卿とフェル博士というふたりの名探偵を創造したものの、このふたりはほとんど双子と言ってよいほど似ていて、別々のシリーズとは思えないほどである。
多くのシリーズを書き分けるのは、かくも難しい。書き分けが成功した作家にしても、あるシリーズが軌道に乗って、ややマンネリを感じてきた頃になって、さて心機一転という感じで別のシリーズを始めるという場合が多い。しかしクリスティは、駆け出しと言ってよい頃から実に多彩なキャラを創り出しているのだ。
クリスティの創造した「ポワロのライバルたち」としては、もちろん真っ先に思いつくのはミス・マープルであろう。分量的にも長編12冊、短編集1冊と、ポワロに次ぐ活躍ぶりだ。そしてこのシリーズには「殺人は告げられた」(「予告殺人」)「ポケットにライ麦を」「パディントン発4時50分」と、クリスティの中期以降の傑作と言われるものがかなり含まれているのである。片田舎のセント・メアリ・ミード村でひっそりと暮らしているお婆さんのはずなのだが、後年はずいぶんあちこちを飛び回っている。作者の旅行好きを反映しているのだろうか。
それから、トミー&タッペンス・ペレズフォード夫妻。「時間経過の謎」で書いたが、この夫婦はクリスティのシリーズの中では珍しく、リアルタイムで齢をとるようになっている。クリスティの2番目の長編「秘密組織」で早々と登場し、生前最後の作品「運命の裏木戸」まで活躍しているのだから、作者にとってはポワロに負けないくらい長いつき合いだったと言えよう。長編4冊と短編集1冊に登場している。ついでながらこの夫婦のあり方に私は大変感銘を受け、自分が結婚することがあればこういう夫婦になりたいものだと思っている。
パーカー・パインも忘れがたい印象だ。退職官吏で、悩み相談所を経営している。さまざまに悩みを抱えた人々が事務所を訪れるが、その解決方法がみんな実に突拍子もなく、なんだか「ドラえもん」でも読んでいるような気分にさせられる。短編集1冊と、いくつかの単発の短編に登場。
ハーリ・クィンという謎の人物もいる。このシリーズはクリスティがチェスタトンの線を狙ったものと言われ、しかもなかなか成功しているのが興味深い。まったく正体不明、むしろ幻想の世界の住人であるかのようで、何か事件が近づくと、年配の好事家サタスウェイト氏の前に出現する。自分自身が謎を解くというよりも、サタスウェイトに、あれこれとヒントを示唆して謎を解かせるという立場であることが多く、名探偵紳士録中でも特異な存在と言えよう。短編集1冊、それから単発の短編2つに登場する。
特に印象的なのはこんなところだが、実はあとふたりほど、意外といい味を出しているシリーズ探偵が存在する。レイス大佐とバトル警視である。レイス大佐は「茶色の服を着た男」「忘られぬ死」に登場する。ただし、探偵役としてはそんなに精彩がない。「茶色の服を着た男」では探偵役はむしろ語り手を務めている娘アン・ペディングフィルドの方で、レイスは「レストレイド役」に近い役回りである。
バトル警視は初期作品「チムニーズ荘の秘密」「七つの時計」で登場、しばらく間をあけて「殺人は容易だ」「ゼロ時間へ」に再登場する。バトル警視の場合、主人公格というよりも「時の氏神」的な扱いが多い。主人公は若い男女であることが多く、彼らが右往左往しているのを音無しの構えで見守っており、いよいよ危機的状況になった時に現れて主人公を救い、謎解きをおこなうという立場である。ハーリ・クィンのケースと同じく、推理小説では珍しい造形かもしれない。ナイスミドルの渋い魅力に、わりと隠然たる人気があるらしい。
クリスティがひとりでこんなに沢山の魅力あふれるキャラクターを創造したのはまさに驚くべきことであるが、こうなると愛読者としては、ある欲求にふつふつと身を焼かれることになる。
モーリス・ルブランがアルセーヌ・リュパンをシャーロック・ホームズと対決させたいという欲求に堪えられなかったのと同様、ぜひ名探偵たちの夢の競演を見てみたいと思うのである。
ポワロとミス・マープルを競演させて欲しいという希望は、読者からかなり頻々とクリスティに寄せられたという。しかしクリスティはきっぱりと「そのつもりはない」と答えるのが常だったようだ。
作者としては無理もない。ポワロとミス・マープルを競演させるとなれば、両者が協力するかあるいは競争するかしかないであろう。協力するのでは、ふたりの名探偵を登場させる意味があまりないし、競争するとなれば勝敗が生じてしまい、好ましくない結果になる。
その昔、マクドネル・ボドキンという作家が、自分の創造したシリーズ探偵を競演させるということを実際にやっている。ボドキンにはポール・ベックという青年探偵のシリーズと、ドーラ・マールという若い女探偵のシリーズがあったのだが、ふたりを競演させて推理を競わせたのだった。推理較べにはポールが勝ったが、ドーラはもっと重要な勝利を手に入れた──つまりポールの心を奪って、彼にプロポーズさせることに成功した──というオチになっている。ポワロとミス・マープルはどちらも独身とはいえ、このオチを踏襲するわけにもゆくまい。
そんなわけでふたりの競演はついにおこなわれず、あとは熱心なパロディ=パスティシュ作家たちに委ねられた。
とはいうものの、自作の探偵たちの競演というアイディア自体をクリスティが嫌っていたわけではなさそうである。
ポワロをミス・マープルと競演させるのは無理としても、上記のシリーズ探偵たちのうち、いくぶん格下と思われないでもないレイス大佐とバトル警視を拉し来さって、ポワロと競演させるということはしているのである。1936年の「ひらいたトランプ」事件である。ちなみにポワロとアリアドネ・オリヴァー女史が初めて顔を合わせたのもこの事件でのことだった。
レイス大佐はそのあとの「ナイルに死す」でも登場してポワロに協力する。またバトル警視は自分が探偵役を務めるその後の作品で、
「こんな時あの男がいたらなあ」
とポワロを回顧するのである。ちなみに、「複数の時計」に登場し、語り手も務めている覆面諜報員コリン・ラムは、おそらくバトルの息子であろうということで研究者の意見が一致しているようだ。
ミス・マープルは困るが、レイスやバトルならばポワロに及ばなくても差し支えないと考えたのだろう。
名探偵本人同士の出逢いはこんなところなのだが、実はクリスティ・ワールドの名探偵たちは、意外といろんなところで接点を持っている。ポワロを軸とした「名探偵ネットワーク」みたいなものが存在するのである。クリスティの茶目っ気、というより読者サービスだろう。全然違うシリーズを読んでいて、「あれ? この人物は……」と思い当たり、思わず微笑してしまうということが決して少なくないのだ。
まずはポワロとミス・マープルの接点から紹介すると、「ブルートレインの謎」で登場するキャザリン・グレイという女性が、なんとセント・メアリ・ミード村に長らく住んでいたのだった。彼女はそこである老婦人のコンパニオンを務めていたのである。実は「ブルートレインの謎」はミス・マープル物の最初の物語「牧師館の殺人」よりも前に書かれており、本当はたまたま「ブルートレイン」で案出した村の名前が気に入って「牧師館」に流用し、それがまたミス・マープルのおかげで有名になってしまったというだけのことなのだが、クリスティ世界の研究者としては見逃せない事実である。キャザリンがその後郷里に戻って、ポワロのことをミス・マープルに話していたかもしれない、などといろいろ想像がふくらむではないか。
次にポワロとベレズフォード夫妻の接点。ベレズフォード夫妻物の短編集『二人で探偵を』は、夫妻がいろんな探偵小説のスタイルを真似て事件を解決するシリーズで、ふたりはホームズごっこ、ソーンダイク博士ごっこ、ブラウン神父ごっこ、フレンチ警部ごっこなどを存分に愉しむのだが、最後ではなんとポワロごっこになるのだった。しかし、ここではポワロは「小説中の探偵」として扱われており、「クリスティ・ワールドでの接点」とは言いがたい。
本当の接点は、はるか後年になって現れる。
後期のポワロ物に、ロビンスン氏という謎めいた人物が何度も登場する。ポワロがちょっとした調査を依頼したり、情報を貰ったりする相手だ。同業者(私立探偵)のようでもあるが、一匹狼的なポワロと異なり、数多くのスタッフを抱える大きな事務所を構えているらしい。退職した諜報機関のお偉方という印象である。
このロビンスン氏が、「運命の裏木戸」に登場する。齢をとっても一向に無鉄砲な行動のおさまらないタッペンスは、この物語でも古い事件に首を突っ込んでひっかき廻すのだが、最初それを止めようとしていたトミーが、止められないとわかって、人知れず妻をサポートし始める。それでトミーは助言を求めてロビンスン氏に会いに行くのである。
デビュー作「秘密組織」で破壊活動の黒幕を見事突き止めた功績により、トミーは情報部で仕事をするようになる。直属の上司はカーターという偽名を使った男だったが、その頃からロビンスン氏の名前は聞き知っていたものと思われる。
第1作(「スタイルズの怪事件」)で登場したポワロと、第2作(「秘密組織」)で登場したベレズフォード夫妻との間に、半世紀後、最後の最後になってつながりが生まれたのだった。
パーカー・パインとポワロとの接点はかなり多い。何より中期以降のポワロの活躍を彩ったふたりの女性、オリヴァー女史とミス・レモンが関わっているのだ。
ふたりとも、もとはパインの事務所のスタッフであった。オリヴァー女史はパインの事務所にやってくる悩める依頼人に、血湧き肉踊る体験をさせるシナリオを書く役目だった。日常に張りがなくて退屈だという依頼人には、オリヴァー女史のいささか三文芝居じみた冒険活劇が役に立ったのである。
ミス・レモンは秘書である。能率が服を着て歩いているような、有能きわまる、しかしおかしくも面白くもない人柄で、なんでも知っているし、何があってもまず驚かない女性だ。長年の間には多少の人間味を見せるようにもなったが、基本的には人間コンピュータみたいな人であり、完璧なファイリングシステムを考案するのが趣味なんだそうである。
パインはしばらく悩み相談所を経営したのち、ある時急に事務所を畳んで旅に出たので、ミス・レモンは失業してしまったとおぼしい。再就職した先がポワロのところだったのだろう。あるいはパインに紹介状でも貰ったのかもしれない。ヘイスティングズ大尉はミス・レモンが就職した時すでに南米へ行ってしまっており、面識がないようだ。
オリヴァー女史の方はもともとが売れっ子推理作家だったので、パインのスタッフを辞めても別に困りはしなかった。そして「ひらいたトランプ」事件でポワロと出逢うわけである。
ハーリ・クィンのような夢幻的な人物とポワロとの間に接点があるというのは不思議なくらいだが、クィンの相棒を務めたサタスウェイト氏が、「三幕の悲劇」に登場して今度はポワロに協力するのである。人物描写から見て同一人物であることは疑う余地がないし、文中でクィンと一緒に解決した事件の回想らしきことを語っている。サタスウェイトは齢とったディレッタントで、芸術家を後援したり、上流階級の人々と交際するのを愉しんだりするのが好きなのだそうだ。高級な俗物というところ。ポワロとはこの事件より前から面識があったらしい。
というわけで、シリーズは違うものの、どの名探偵も、同一のクリスティ・ワールドの住人であることが判明した。さまざまな脇役たちを介して、ネットワークを形作っていると言ってよい。
シャーロック・ホームズの物語は、それ自体で完結して「ホームズ・ワールド」を形成しているのだが、ポワロの場合は、他の主役たちと微妙に連関し合いつつ、より大規模な「クリスティの作品ワールド」という枠組みの中で考えることができるわけだ。
この辺を踏まえたパロディやパスティシュが書かれてもよいのではないだろうか。なかなか手強いだろうが。
(2002.2.16.)
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