エルキュール・ポワロ(4)
ポワロの語り口
シャーロック・ホームズの物語は、長編が4つ、短編が56。
このくらいの数であれば、ひとりの翻訳者が全作品を手がけるということも、そう困難ではないだろう。
とは言っても、全訳版が出ていたのは長いこと新潮文庫だけだった。訳者は延原謙氏である。ほとんどは昭和初期の訳をベースにしており、戦後少し手を加えてはいるものの、基本的には大変古い感じのする訳文だ。ただ、ホームズ物語自体が「古き佳き時代」というイメージを持ってきているので、ある意味ではふさわしい文体という気もする。
さすがに21世紀にもなると、わかりづらい訳語なども目立つようになってきたので、ご子息があらたに校訂を加え、現在の新潮文庫ではこちらの新版が刊行されている。新版をまだ入手していないので、どういうところが変更されたかは知らないのだが、書店で「緋色の研究」をざっと見た時、第二部のヒロインの名前が旧訳では「リウシ」だったのが「ルーシー」になっているのに気づいた。
──あっ、「ルーシー」だったのか。
とその時はじめて納得したのだから私もおめでたい。
創元推理文庫では、阿部知二氏の訳で出ていた。さすがに少しは新しめの文体になっている。しかし阿部氏は最後の『シャーロック・ホームズの事件簿』を訳出することができずに亡くなってしまった。創元版に『事件簿』が加わったのは比較的最近で、深町眞理子氏があらたに訳し下ろしたものとなっている。またハヤカワミステリ文庫は大久保康雄氏の訳で出ていたが、これはもっと欠けたものが多かった。
一方、ブラウン神父の物語は短編が51。これもひとりの翻訳者の手に負えないほどの数ではない。創元推理文庫から、中村保夫氏の完訳が出ている。
ファイロ・ヴァンスは長編12本で活躍している。これまた創元から、井上勇氏による完訳が出ている。
このくらいの分量であれば、ひとりの翻訳者の手に負えると言えよう。
しかし、これがエルキュール・ポワロとなるとどうだろうか。
ポワロの活躍する長編は実に33。それに中短編も数多い。ポワロ物のみでまとめられた短編集だけでも、『ポワロ探索す』と『ヘラクレスの冒険』の2冊があり、その他のクリスティの短編集でも何篇かずつポワロ物が含まれていることが多い。創元では『ポワロ探索す』を『ポワロの事件簿1』とし、『ヘラクレスの冒険』以外のその他の短編集からかき集めて『ポワロの事件簿2』として刊行しているが、これでも取りこぼしがたくさんある。ポワロの憧れの人であるヴェラ・ロサコフ伯爵夫人(ロシア人の女性であるから本当は「ロサコワ伯爵夫人」と呼ぶべきだが、彼女を登場させた頃のクリスティは、ロシア人の姓が性別で変化することを知らなかったらしい)との出逢いを描いた「二重の手がかり」なんかが落ちているのは惜しい限りだ。伯爵夫人は長編「ビッグ・フォー」で再登場しているが、「二重の手がかり」を読む機会がそれまで無かったので、なんだか唐突に思えたものである。
ポワロ物の中短編をしっかり数えたことはないが、たぶん50篇は超えているのではないだろうか。
これだけ多くなると、さすがにひとりの翻訳者では全部訳すことができないだろう。創元でもハヤカワでも、多くの訳者を起用している。その中には長沼弘毅氏や田村隆一氏など、他のジャンルで活躍した大物も含まれている。
分量から言うと、創元では厚木淳氏の訳がいちばん多いようだ。アシモフの『ファウンデーション』やバローズの『火星シリーズ』『金星シリーズ』なども手がけた実力者である。上記の短編集も厚木氏が訳出している。
ハヤカワのほうは、突出して多い訳者は居ないようだ。
さて、いろいろな訳者が訳出するとなると、登場人物の口調などもさまざまになってしまう。
ホームズ物の場合は、先行した延原訳が印象深かったせいか、口調に関してはさほどヴァリエーションが無いように思える。ただ、延原訳ではホームズとワトスンがお互いを呼び合う時、必ず「ホームズ君」「ワトスン君」と敬称をつけているが、その後の訳では呼び捨てになっていることが多い。原文を見るともちろん敬称などはついていないのだが、ホームズがワトスンに対して「Doctor」と呼びかけているところがちょくちょくあるのが目につく。「先生」「博士」「お医者さん」などと訳してみてもなんだかぴんと来ないので、訳文では省略してあったり、「ワトスン」と名前を呼ぶことにしてあったりする。いずれにしろホームズとワトスンは齢もそう違わない親友同士なので、基本的には友達言葉、人称も「ぼく」「きみ」でしゃべらせているのが普通である。
ところが、これがポワロとヘイスティングズということになると、訳者によって全然違う口調になることがある。
いちばん多く、古くからあるパターンは、ホームズ&ワトスンと同じく、友達言葉で話しているものだろう。厚木訳でもそうなっている。ただしポワロの自称は「わたし」となっている例が多いようだ。
中にはポワロまで「ぼく」と言っているのもある。ハヤカワ版の『ヘラクレスの冒険』(高橋豊訳)がそうなっていて、読んでいて違和感を禁じ得なかった。
ところでヘイスティングズとの関係を考えると、無条件の友達言葉ははたして妥当なのか、やや疑問を覚える。
まず、両者の年齢差がある。ホームズとワトスンはほぼ同年代で、たぶんワトスンのほうが1、2歳上ではないかというのが定説である。これに対し、ポワロの年齢ははっきりしないものの、ヘイスティングズよりは少なくとも20歳くらいは年上なのではないかという気がする。「時間経過の謎」で書いた通り、最初の事件「スタイルズの怪事件」で、ヘイスティングズは30歳と明記されている。この時ポワロはベルギー警察を引退間際だったのだから、やはり50歳程度より若かったとは考えづらい。その後の物語でも、「年配の紳士と若い退役軍人」というイメージは続いている。「ABC殺人事件」の頃になるとヘイスティングズも髪の薄さを気にするようになってはいるが。
年齢差から言っても、軍人としての規律感覚から言っても、ヘイスティングズから見るとポワロは目上の先達者であり、友達言葉で話すのはどうも不適当に思えるのだ。
ヘイスティングズのポワロに対するセリフを敬語にしたのは中村能三氏で、「ゴルフリンクの殺人」と「カーテン」を訳している。それまで厚木訳に馴れていたので、最初のうちは変な気がしたが、だんだんこうあるべきではないかという意見に傾いてきた。
ポワロのほうはどうだろう。彼はベルギー人であって、英語は母国語でない。大変うまくしゃべれるようではあるが、それでも慣用句などを時々言い間違える。外国人がしゃべっていることを考えると、昔のマンガに出てくる中国人みたいに「こいつはたまげたある」「食ってみるよろし」みたいな語尾にする必要はないにしろ、あんまりくだけた物言いはいかがなものだろうか。
それに、ポワロのキャラクターを一言で言えば「慇懃無礼」である。キャラ的に近い人物を考えると、「ひょっこりひょうたん島」に出てくるドン・ガバチョ大統領なんかが思い浮かぶ。ややイヤミにも感じられる敬語で話すのが似つかわしいのではあるまいか。
中村能三氏は、ヘイスティングズには敬語でしゃべらせたが、ポワロは普通の友達、あるいは後輩に対するしゃべりかたにしていた。ポワロのほうが敬語でしゃべっている訳本は滅多に無いが、加島祥造訳の「もの言えぬ証人」では珍しく敬語を使っている。ただしこの本では、ヘイスティングズの口調は友達言葉であった。
両方とも敬語を使うとなると、なんとなく他人行儀な観があって、訳者も採用がためらわれたのかもしれない。
私が最初に接した「両方とも敬語」のものは、訳本ではなく、テレビシリーズの『名探偵ポワロ』の吹き替えであった。吹き替え台本は53話まで宇津木道子氏が担当して、基本的なスタイルを確立した。ポワロのアテレコの熊倉一雄氏、ヘイスティングズのアテレコの富山敬氏が、見事にそのスタイルに応えていると言って良い。
熊倉氏の口調はまさにポワロにぴったりで、私は実はこのテレビシリーズがNHKで放映される前、ポワロに日本語の声を宛てるとしたら熊倉氏しか居ないのではないかと予想していたことがある。後知恵と思われそうだが本当のことだ。ポワロの慇懃無礼さをこれほど適確に表現できる声優は他には思いつかない。その後アニメ化された時には里見浩太朗氏が声を宛てたが、いささか格好良すぎるきらいがあった。
富山氏がまた独特の軽みを持った声優で(「宇宙戦艦ヤマト」で古代進を演じたというのが今となっては不思議なくらいである)、重くなりがちな敬語表現をうまくさばいていた。この人が亡くなったのはまことに惜しまれる。
テレビシリーズでは、ヘイスティングズはポワロの友人というよりも、ミス・レモンと一緒に事務所のスタッフの一員として働いているような描かれかたをしており、だとすればポワロはいわば「ボス」であるわけだから、日本語訳で敬語を使うことになるのも当然だったかもしれない。
上にも名前の出た深町眞理子氏が、このテレビシリーズ以降にポワロ物の翻訳に参加している。深町氏はそれに先立って、カナダの女流マニアアン・ハートが執筆した浩瀚なポワロ評伝「名探偵ポワロの華麗なる生涯」を訳しており、その際、
──クリスティの原文の引用箇所については、既存の訳本を活用しようかとも考えたが、それでは統一がとれなくなるためあらたに訳し下ろした。
ということを附記している。その頃から、
──自分がポワロ物を訳すならこうしよう。
というメドが立っていたと思われる。
そしてテレビシリーズでのしゃべりかたの影響もあったかもしれない、堀田善衛訳に代わって創元に登場した「ABC殺人事件」の深町新訳では、ポワロもヘイスティングズも両方敬語でしゃべるようになっていた。私も、なんだかようやく物事が落ち着くところに落ち着いたような気がしたものである。
その後ポワロ物を読む時は、会話文をついつい脳内補正しながら読んでいる自分に気がつく。
もちろん、その脳内補正の中では、ミス・レモンやジャップ警部などと話す時も、ポワロは敬語を使うことになる。熊倉一雄の声をかぶせて読んでいるのである。もうそこからは離れられなくなっている。
しゃべりかたではないが、ポワロの容貌もまた、テレビシリーズのデイヴィッド・スーシェでイメージが固定されてしまった。それまで映画などでポワロを演じていた役者、例えばピーター・ユスティノフなどは、スーシェ版が出る以前としても、どうもぴんと来なかった。どうやら原作者自身もそう感じていたらしい。
──なんでポワロ役はみんな、あんなとんでもない肥大漢が演じることになるのか理解できないわ。
とクリスティが語っていたというエピソードがある。ポワロが肥り気味であったのは確かだろうが、それよりも何よりも「小男」というキーワードが随所に出てくるのに、どういうわけだか大柄で恰幅の良い俳優ばかりが宛てられていた。いま映画版の「オリエント急行殺人事件」などを見たら、ひどい違和感を覚えることになりそうである。そういえばあの映画のポワロは、しゃべりながらやたらと
「ハ!」
と叫んでいたのもおかしかった。
スーシェに至って、ようやく文中の描写と矛盾のないポワロ像が確立されたと言って良いだろう。声のことといい、まったく、テレビの影響力というのはすごいものがある。
(2011.8.1.)
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