「私鉄私見」シリーズを続けようと思ったが、今回は、何年か前の旅のメモリーを記しておこうと思う。
舳倉島(へぐらじま)、と聞いて、即座にどこにあるかがわかる人は少ないだろう。
私の家のトイレに、1987年のカレンダーが貼ったままになっている。大きな日本地図になっているので、時にそれを眺めながら、まだ行ったことのない地方を夢想したりすることがある。それが楽しくて、10年以上経った今でも、貼りっぱなしにしてあるのだ。
その地図は本来カレンダーであるから、左上4分の1くらいは数字で隠れてしまっている。日本は北東から南西にかけて弓なりに拡がっているから、左上つまり北西部分には日本海が拡がっているばかりなのだが、それでも幾分かの国土は数字に隠されている。
隠れた部分は、別枠をとってそこに記されている。小笠原諸島や南西諸島など、入りきらない部分も同様だが、この別枠の中に、舳倉島の名前があったのである。
だから、その地図を眺めるたびに、舳倉島とはどんなところなのだろうと思っていた。どうやら能登半島の沖にある島らしい。無人島などではなく、ちゃんと航路がつながっているようだ。
時刻表で確認すると、輪島から船の便がある。ただし1日わずか1便。朝に輪島を発って、2時間弱ほどで舳倉島に着き、午後に引き返してくるだけである。
なんだか、無性にこの島を訪れたくなった。
それで、何年か前の夏、能登を旅行することにして、その間1泊を、舳倉島で過ごすスケジュールを立てた。
能登半島というのは実に奥の深い半島で、起点に当たる金沢から3時間列車に乗り続けても、まだ奥に辿り着かない。現在は和倉温泉まで特急「サンダーバード」その他が乗り入れているからだいぶ便利にはなったが、そこから先もまだまだ長い。逆の立場から言えば、金沢に出るだけでもそれだけ手間がかかるのに、ましてや東京や大阪など、遼遠たる想いがするのではないかと思ってしまう。
今でさえそうなのだから、さぞかし昔は、と思いきや、能登はもともと、交通の要衝として古代から栄え続けた地域なのである。僻遠のイメージができてしまったのは、陸上の道路や鉄道が運輸の主力になってからのことで、15世紀くらいまでは、日本の交通は圧倒的に海上がメインであった。
海上交通ということになると、現在われわれが表日本と呼んでいる側には茫漠とした太平洋が拡がっているだけだが、日本海側は、そう遠からぬ対岸に中国や朝鮮半島があるわけで、人の行き来も物資の往来もきわめて盛んだった。従って、日本海側こそ豊かな先進地域だったと言ってよい。特に日本の海岸線のほぼ中央に突き出している能登半島は、人間や物資の集積地としてきわめて重宝な場所だっただろう。
この時の旅の途上、真脇(まわき)の縄文遺跡も訪ねた。約4000年間に亘って栄えた集落だったらしい。青森の三内丸山もそうだが、それほどに長い間ひとつの集落が栄え続けるというのは、ほとんど想像を絶するものがある。京都など古都と言ってもかれこれ1200年に過ぎない。奈良もプラス100年、周辺地域を含めてもプラス200年というところだ。これらの古都が、今後3000年近く存続しうるかどうか。そもそも今後3000年も人類が生き延びていられるかどうか。それを考えると、文明とはなんなのだろうと首を傾げたくならざるを得ない。
能登の植生や自然条件は、多少現在より温暖だったとしてもそう変わりはないだろう。そういう場所で、それだけ長い間この地が栄えたというのは、海上ルートを使った交易の中心だったからだとしか考えられない。縄文時代、環日本海地域に相当広い交易圏が存立していたことが次第にわかってきている。能登こそはその交易圏の要だったのではないか。
そういえば、現在の皇室の学術的に遡り得る血統の限界は第26代の継体天皇だそうだが、この人は北陸を基盤としていたようだ(詳しくは「時のまにまに」古代朝廷編をご覧下さい)。彼の勢力の礎となったのは、数千年に亘る交易で蓄積された北陸地域の富であったように思う。
戦国時代のシミュレーションゲームなどで、能登はばかに貧しい土地柄に設定されたりしている。確かに平地が少なくて田畑はほとんどなかっただろうが、それがすなわち貧困を意味していたのだろうかと、私などは考えてしまうのである。
さて、舳倉島である。
輪島の旅館に1泊し、翌朝船着き場へ出かけた。残念ながら有名な輪島の朝市はやっていない日であった。
舳倉島には民宿が2軒だけある。前の晩、輪島の宿泊センターで予約しようとしたら、扱っていないと言われてしまった。直接電話をかけたが、出たのはおばあちゃんで、半分くらいしか言葉が通じなかった。こちらの名前も聞かずに切られ、大丈夫かなと思ったが、まあ行ってみるしかない。
船の切符は、4日間有効の往復券になっていた。片道は売らないようだ。まあ、他にどこかに通じている航路もないようだし、行ったらそのまま戻るしかないわけである。
船は小さなものだった。人間が乗るよりも、貨物がメインのようでもある。舳倉島には田畑はないので、野菜類などは本土から運ぶしかない。
道筋の半ばあたりに、七つ島という岩礁群がある。昔は人が住んでいたこともあったらしいが現在は無人島で、一般人の上陸はできない。大きなのはどう数えても6つしかないようだったし、小さな岩礁まで含めれば何十という数になる。なぜ七つ島なのだろうと思った。
途中はあまり天気が良くなかったが、舳倉島に着く直前くらいから晴れてきた。そしてさんさんと陽光の降り注ぐ港に到着した。
港そのものはばかに大きく立派だった。その背後に立ち並ぶ家々が地味で、なんとなくうらぶれた雰囲気をかもし出していただけに、余計に港の大きさが目立った。
実際、この島は周囲6キロほどの小さな島で、東西に長い形をしているのだが、その2キロ足らずの南岸の3分の1近くまでを、港が占めているのである。
実は、この島には年間を通じて定住している人はきわめて少ない。ほとんどの住民は、冬になると本土に戻る。それは、この島のほとんどの住民が海女とその家族だからである。水が冷たくなって海に潜れなくなると帰ってしまうのだ。
自家用車代わりのような船をそれぞれが持っていて、それを停泊させておくためにはこれだけの大きな港が必要なのだろうと思った。
舳倉は、海女の島という別名を与えてもよいような島なのである。
戸主も女であることが多いらしい。亭主はすこぶる影が薄い。
民宿を切り盛りしているのも、電話を受けたおばあちゃんと、その娘であって、娘の亭主は何をやっているのだか、所在なげに出たり入ったりしている。おばあちゃんは引退した海女らしい。娘の方は現役で、黄色いウエットスーツを着て出入りしていた。ちなみに現代の海女はみんなウエットスーツを着て潜るのであって、はだかになったりはしない。
船は1日1便だから、民宿を訪れる客も一斉に訪れることになる。おかげで民宿の軒先はえらく騒がしい。私は中年の男性ふたりと相部屋になった。まあ、相部屋になるだろうとは覚悟していた。あとは家族連れがひと組と、明らかに夫婦ではない若い男女がひと組。この連中にそれぞれ1室をあてがうと、あとの半端客はまとめざるを得ない。
同室のおじさんに、
「県内(石川県)からかい」
と訊かれた。東京の方から(正確には埼玉だが)だと答えると、感心されたのだかあきれられたのだか、
「よくこんな辺鄙な島に来る気になったもんだね」
と言われた。
同じ船で着いた観光客のほとんどは、港の外壁で釣りを始めた。
私は釣りが趣味ではないし、道具もないから、手持ち無沙汰である。
ともかく、島を探検してこようと思った。
ところが、それは実にもってあっけない作業でしかなかった。
港から外れると、じきに家並みが尽きる。家並みは南岸の道に沿った1層だけで、その裏側はもうなんにもない。
小さな小学校がひとつあった。二宮金次郎の銅像などあるから、結構古い学校らしい。小学生がいるのであればその親もいるだろうから、必ずしも年寄りばかりの島というわけでもないようだ。
舗装された道路もやがて尽きて、岩場になった。岩場の突端に小さな社がある。社がやたら沢山ある島だということにやがて気づいた。
北岸は岩場ばかりで、ひと気もほとんどない。何やら荒涼とした雰囲気だ。
だが、そんなところにも古代遺跡がある。シラスナ遺跡と呼ばれているが、この絶海の孤島が、古代からかなり重要な位置を占めてきたことを思わせる。万葉集や今昔物語にも舳倉の名は現れるらしい。9〜10世紀前後に日本によく来ていた渤海国の船団は、必ずこの島に立ち寄って補給と風見をしたそうだ。ここまで来れば日本の本土ももう少し、という感じだったのではないだろうか。
西端にはこの島の守護神である奥津姫(おきつひめ)を祀った神社があり、やがて再び南岸へ出る。1周、1時間15分。
他にすることもないので、北岸へ戻って少し泳いだ。砂浜はなく、岩場ばかりだ。どうも歩きずらい。足ヒレを持ってくるのだったと思った。
水はとてもきれいである。ただ岸近くはやたらと海藻が繁茂して、荒れ放題の空き地という感がある。足の踏み場もない有様で、あんまり面白くない。沖の方へ行ってみた。
5、6メートルの深さのところへゆくと、気分がよくなった。水がきれいなので底は充分見える。底が見えていれば、深くてもさして恐怖感はない。もっと深くても見えそうだったが、あまり沖へ出て海流に乗ってしまうと厄介だから、その辺で浮いたり潜ったりしていた。
小さな魚なら沢山泳いでいる。大きな魚は少ない。せいぜい20センチ程度だ。南の海のような華やかさはないが、かわいらしい。
しばらく泳いで岸に戻ると、浅いところでモズクを採っていた年老いた海女が、
「流されたんでねえかと思って、心配したど」
と言った。
その海女も仕事を終えて帰るところで、三輪車に採ったモズクを積み、なんとなく私と連れ立って歩き出した。ちなみに三輪車はこの島の主要交通機関である。クルマは1台もなく、岩場が多いので二輪車も安定を欠くのであろう。
老海女は、今年はどうも変な年だと言った。
「おらあこれで七十と八になっけどもよ、こんな悪い年って初めてだワ」
その年は、梅雨明けがひどく遅く、8月9日にようやく北陸地方の梅雨が明けた。私が舳倉島へ渡る前日である。
「ずっとこの島で仕事してるんですか?」
私は訊ねた。
「ん、おらけ? んんまあな。輪島に行ったり、こっち来たり。若いもんは大体輪島行ってまうけどな」
訛りが強くて、言っていることが時々聴きとれなかったが、その全体の調子に、半世紀以上も潜り続けてきた人生の年輪が感じられるように思われた。
輪島への船が出て行ってしまうと、すっかり静かになる。これでもう明日の同じ時間まで、この島を出る方法はない。
なんにもすることがない。民宿の子供の相手をしたりしながら、ただただ、ぼーっとしている。
商店というものがないから、買い物もできない。あとで、商店がないわけではないとわかったが、看板も出しておらず、普通の家と変わらない構えである。知らないとわからない。
地元の人同士で話をしていると、全く聴きとれない。関西弁系ではあるようだが甚だしく崩れて流れた感じで、金沢あたりとも違うようだ。
島には小さな発電所があって、島で使う分くらいの電力は賄えるのだろう、電気器具は大体行き渡っている。
私によくわからなかったのは水のことで、高台に給水タンクみたいなのがあったが、まさか雨水だけというわけでもないだろう。一枚岩盤の島だが、湧き水などあるのだろうか。特に水不足ということもないようであった。
先ほど書いたように、野菜類は本土から運んでくる。輪島からの定期船はまた行商船でもあるのだ。船が港にいる間、露店のようなものが開いていてそこで買い物をしている。昔の交易風景はこうもあったろうと思われる。船が帰ってゆくときには、海産物の箱を大量に積んで行った。
「この島も、年々破壊されてるからねえ」
同宿のおじさんが言った。よく来るらしい。
「そうなんですか?」
「釣り客のせいだよ」
空き缶やら菓子の袋やら釣り糸やらを投げ捨てたまま帰ってしまうのもさることながら、釣った魚をちゃんと持ち帰ってさばくのならともかく、その場で捨てて行ってしまう輩が多いと言う。海は汚れるし、漁業資源の大いなる浪費でもある。けしからぬ話だ。
アワビなどが沢山採れるが、もちろん勝手に採ってはいけない。アワビひとつふたつ採れば民宿代など出てしまうのだからそれも当然だろう。
宿にあった水槽に、アワビがいくつも入っていた。特別に注文を受けるとそれを取り出してさばいて出す。1個3000円とのことだった。しかし都会の寿司屋や料亭なら1万円はするだろう。頼んでみればよかった。
アワビこそ食べなかったが、食べ物はみんな新鮮でおいしかった。ブリなどという魚はあまりそれまで好きではなかったのだが、獲ったばかりのをすぐおろすと、これほどにうまいものなのかと感動した。モズクも、ふだんから好物なのだが、スーパーで売っているようなのは大抵酢が強すぎる。ここで食べたのは本当に磯の香りがした。
退屈もしたが、1泊して翌日の午後、船に乗る段になって、とても名残惜しくなっている自分に気がついた。
こんなにゆったりとした時間を、またいつ持てるだろう。
(1998.9.20.)
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