21.私鉄私見(その4 名鉄)

 
★名古屋鉄道★

 名鉄は総延長555キロ(全国2位)という大きな私鉄である。愛知県全域と岐阜県西部をテリトリーとし、中京圏ではまさに王者として君臨している。
 これほどに巨大化したのは、名古屋から岐阜にかけての路線網を持っていた名岐鉄道と、豊橋方面へ路線網を拡げていた愛知電気鉄道が、昭和不況を乗りきるために合併したのがきっかけになっている。さらにその後、すでにこのシリーズでも何度か触れた戦時統合で瀬戸電気鉄道・三河鉄道・知多鉄道など周囲の小私鉄をことごとく吸収した。「大東急」とは違って、こうしてできた「大名鉄」は戦後になっても解散せず、現在の大路線網が確定した。
 旧分国で言えば、三河・尾張・美濃の3ヶ国にまたがる広大な地域をまとめたため、それぞれの線区にいろいろな事情があって、名鉄の路線はなかなかヴァラエティに富んでいる。例えば、いまだに非電化の路線があるのは大手私鉄では名鉄だけだし、岐阜周辺は路面電車になっている。おまけにその路面電車が専用鉄道部分に乗り入れるため、プラットフォームが特殊な形をしていたり、おそらく私鉄の中ではいちばん多様性があって面白い。

 しかも、名古屋本線は全線がJR東海道本線と競合している。豊橋側はある程度離れた場所に敷設されているので、豊橋−名古屋間のみの競争となるが、岐阜側はほとんどすべての区間が併走しており、まさに全面戦争の構えである。
 しばらく前までは、当時の国鉄は名鉄には手も足も出なかった。スピード、列車の居住性、運転頻度、運賃、どれをとっても名鉄の方が数段上で、国鉄はもっぱら長距離輸送に専心していたものである。
 だが、JR東海となって、このほとんど絶望的な状況から、敢然と巻き返しを図った。
 高性能で居住性の良い転換クロスシートの311系を投入し、新快速の120キロ運転を開始した。それまでの名鉄の最高速度が110キロだったので、スピードの面では一挙に名鉄を抜いたわけである。名鉄も負けじと120キロ運転を始めたが、戦前に敷かれた私鉄の哀しさで線形が良くなく、120キロで突っ走れる区間がそう多くない。
 乗り心地の面でも、311系はそれまでの名鉄パノラマカーとほぼ互角である。危機感を持った名鉄は「パノラマスーパー」なる特急用車輛(車輛についてはあとで詳述する)を投入してこれまた巻き返した。
 運転頻度も近づいてきた。JR東海は30分サイクルで新快速と快速を1本ずつ走らせている。名鉄の悩みは、さまざまな歴史的事情により豊橋で線路が1本しか使えず、それによっておのずから運転本数に限界がある点だが、それでもフルに活用して、30分に特急を2本と急行を1本発着させている。今のところまだ名鉄が優位だが、今後どうなるかわからない。
 運賃は、JRがこの10年以上一度も値上げしていないという驚くべき情勢に加え、名鉄を意識して特定運賃を導入しているので、これもほぼ拮抗している。これに対抗すべく名鉄では、特急に料金不要の車輛を連結した。
 総じて言えば、JR東海が押しに押しまくっている感じで、長いこと優位に安住してきた名鉄はやや守勢に立たされた感がある。しかし、中京の王者の誇りにかけて、遠からず再度巻き返すはずだし、JR東海も負けじとがんばるだろう。今後とも眼の離せない地域ではある。

 よそ者の眼から見ると、名鉄は車輛の使い方がアバウトな印象がある。小田急ロマンスカーに先駆けて全国初に導入した、前面展望式のパノラマカーは、ずっと名鉄の一押しの売り物だったので、当然特急用として使われているのだろうと考えていたのだが、実際に名古屋の方へ行ってみると、パノラマカーが急行は愚か普通電車にまで使われている。
 私は一昨年の秋に、「名鉄乗り潰し」なる馬鹿なな計画を立てて、3日間ほど名古屋近辺をうろついたが、確か河和線に乗った時、往路は鈍行で、しかもパノラマカーが使われていた。河和線は盲腸線で、終点の河和に着いてそのまま戻ろうとした。ところが、今まで乗ってきたパノラマカーが、そのまま特急として折り返すのである。当然、特急券を買わなくてはならない。なんだか納得のいかない気分だった。
 そのうちはっと気がついたのだが、名鉄の特急料金というのは、他の鉄道の有料特急と違い、スピードや優等な車内設備に対して支払われるというものではないのだった。実態は座席指定料金なのである。だから、どれだけ長く乗っても均一350円(平成10年現在)であり、先述した料金不要車輛のついた特急というのも理解できる。料金不要の車輛は自由席なのだ。
 そうわかって一応納得したものの、それにしても名古屋本線のみに走るパノラマスーパーと、それ以外の支線区の特急との格差がありすぎるように思う。競争を意識しないところでは、いかにいい加減な感覚になってしまうかというのがよくわかるというものである。

 さて、名鉄乗り潰し旅行は、3日を費やしても、残念ながら完了しなかった。実際には2日目に養老「天命反転地」というテーマパークに行ったりしたので、そんなことをせずに専念していれば可能だったとは思うのだが。
 ここで少し寄り道するが、「天命反転地」というのは前衛美術家の荒川修作氏が制作した空間で、その中のすべてのパビリオンが、どこか歪んだ形をしている。地面が平らなところが1ヶ所もなく、重力感覚と視覚からの情報が食い違って、例えばすぐそこにあるなだらかな坂が、どうしても登れなかったり、なんとも不思議な世界に迷い込んだような気分になれる場所なのだ。
 わざわざ遠方からこのために出かけるほどのものではないかもしれないが、近くを通りかかったら立ち寄る価値はある。近鉄養老線養老駅から徒歩10分ほど。

 完了しなかったのは、そんなところに寄り道したせいもあるが、名鉄には朝夕しか電車が走らないという妙な線区があるせいでもある。それも田舎のローカル線ではなく、名古屋市のど真ん中に近いところにある築港線である。
 築港線には、大江から東名古屋港までの僅か1駅間に1日19往復の電車が設定されているが、中には不定期とか、土曜運休とかいう電車が多く、いわば日によって本数が変わってしまう。そして、大江発8時20分の次の便が、なんと16時14分になってしまい、その間8時間ほど、1本も走っていないのである。
 この線に乗るためのスケジュールが、どうしても合わなかったのだ。

 私の乗り潰しの旅は、金山から始まった。
 金山はもともとJR中央本線の小駅で、名鉄にはその側に金山橋という駅があったのだが、次第に周辺地域が発展してきて、副都心のようになった。そこでそれまで駅のなかった東海道本線にも駅を設置すると共に、名鉄金山橋駅も統合し、金山総合駅としてまとめられたのである。
 名鉄は全線の要であるはずの新名古屋駅に、線路が2本しかない。そのため次から次へと発着する列車をさばくのにおそろしく忙しい。駅としては要なのだが、列車運行上はただの途中駅でしかない状態だ。
 すぐ近くに複々線の金山駅が新装されたのは、新名古屋の持つべきターミナル機能を代行するものとして、ダイヤ作成などもかなり楽になったことではないかと思う。

 ともあれ私は、前夜東京を発つ「ムーンライトながら」に乗って、早朝に金山駅に下り立った。
 どういう経路で乗り潰そうかという方針は立っていなかったが、さしあたり知多半島の路線をまとめて潰しておこうと考え、まず常滑(とこなめ)を目指した。
 私鉄シリーズの最初に書いたが、私鉄の扱いは時刻表ではすこぶる簡潔で、ほとんどものの役に立たない。そのため大きな私鉄会社では自前の時刻表を出しているが、この時私はまだ名鉄の時刻表を入手しておらず、行き当たりばったりに進むしかなかった。
 知多半島には、常滑線河和線知多新線、そして上記の築港線の4線があるが、すべて枝分かれ状態なので乗り潰すのに時間がかかる。つまり、名古屋本線の神宮前から分岐した常滑線が、大江で築港線を分け、太田川で河和線を分ける。さらに河和線は富貴で知多新線を分けることになる。常滑線は知多半島の路線のおおもとであるはずなのだが、実際の列車運行は、神宮前−太田川−河和というのがメインで、あたかも知多本線と呼ぶべきルートになっている。
 太田川で河和線と別れた常滑線は、わりと地味な路線となる。全線複線化されており、特急も走るのだが、途中に追い越し設備のある駅がひとつもないので、特急といえども先行する鈍行を追い抜くことができずノロノロと走る。沿線の雰囲気も、ちょうど私の乗った時がどんよりと曇っていたせいもあるかもしれないが、なんとなく裏街道というおもむきだった。
 終点の常滑まで行くと、知多新線の上野間まで行くバスが停まっていた。これで常滑線の憂鬱な折り返しをせずに済む。私は即座にバスに乗り込んだ。

 25分ほどで着いた上野間駅は、新線の駅らしくコンクリート橋の高架になっていたが、単線の無人駅で、なんともさびしげである。私は鹿島臨海鉄道を連想した。
 次に来る列車は特急で、その次の鈍行を待つと時間が空きすぎる。終点の内海までは僅か8分で、特急料金を支払うのは実にばかばかしかったが、やむを得ない。無人駅で特急券は買えないから、車内で精算した。前述の通り名鉄の特急料金というのは実質的には座席指定料金なのだが、車内はガラガラで、座席指定の意味など全くなかった。私は最前方のパノラマ席に坐って展望を楽しんだが、すぐに終点に着いてしまう。
 内海駅前には場末的な飲食店街があったが、朝の8時前ではすっかり寝静まっている。ロータリーにはビンロウ樹が植わっていたが、南国的雰囲気というよりはかえってわびしげな印象を受けた。なんとはなし、あたりが肥臭い。あまり新線の終点らしくなかった。
 鈍行で戻り、河和線との接続駅富貴で下りる。河和まで行こうと思ったのだが、ここの接続がなんとも不細工で、20分以上待たされた。待っている間に内海行きが2本も発車して行った。どうもダイヤのバランスがよろしくないようである。
 河和は三河湾の海上観光の拠点であるから、常滑や内海より華やかである。有名な水中翼船に乗ってみたい気もしたが、時間がなくなるのですぐ折り返す。同じ車輛の折り返しなのに帰りは特急券を買わされて憮然としたのはここでの話である。
 なお、ここで名鉄時刻表を入手でき、あとの乗り潰しは楽になった。

 神宮前に戻った私は、次に三河側の乗り潰しに出かけた。ちょうど按配よく、蒲郡行きの急行が来た。混んでいたが、停車駅ごとに客が下り、本線と分岐する新安城ではガラガラになっていた。
 ここから西尾線に入り、さらに吉良吉田から蒲郡線に乗り入れてゆくわけだが、分岐した途端にあたりがひなびてきた。線路も単線になる。西尾線は田園の中の平凡なローカル線というおもむきだった。蒲郡線に入ると、うさぎ島猿ヶ島西浦形原などの温泉、蒲郡競艇場竹島遊園など、全国区というほどではないにせよ観光地もあちこちあるのだが、雨模様の平日とあってはどこも閑散としている。
 蒲郡に着いて、すぐ折り返した。吉良吉田まで戻って、三河線に乗り継ぐのである。なお、吉良吉田はもちろん、忠臣蔵の敵役吉良上野介の所領だったところで、地元では名領主として慕われている。礼法指南のアルバイトで稼いでいたので、領地からあまり年貢をとらなくてもよかったのだろう。

 三河線は全線で81キロに及ぶ長い線である。名古屋本線が99.8キロなのだから、どれほど長いかわかるというものだ。しかし、東武の野田線と同じく、ローカル色が濃く、一本の優等列車も走らない。
 それどころか、大手私鉄唯一の非電化区間が含まれている。私が乗った時は、吉良吉田から碧南までが非電化で、プラットフォーム自体が分岐した吉良吉田駅にディーゼルカーが停まっているのを見て、眼を疑ったものだ。この区間はその時電化工事をおこなっており、現在では電化されたが、もう一方の端である猿投−西中金間は依然としてディーゼルカーが走っている。このため、全線を通して走る列車は1本もなく、名古屋本線と交差する知立、そして猿投で完全に運行が分離している。当時はさらに碧南でも分離していたわけだ。実際には3つの線区と言ってよい。
 電化が遅れただけあって、碧南までは西尾線や蒲郡線に輪をかけてひなびた田園の中を走る。あまり名鉄の列車に乗っている気がしない。地方のミニ私鉄にでも乗っている気分だ。
 同じ三河線なのに、知立での接続はよくなかった。いや、知立ではよいのだが、それに乗ると猿投で待たされる。同じ待たされるのなら知立の方がよいので、すぐ接続している列車は見送り、駅の立ち食いソバ屋で昼食を摂った。東京近辺では考えられないくらい具を大量に入れてくれたので感激した。
 知立以北は、大工業都市である豊田市を通るが、それを過ぎると造成地のようになり、さらに猿投に着くとかなり山深い雰囲気になってきた。少し霧が出てきて、矢作川の水面がなかなか幽翠である。
 ディーゼルカーでたどり着いた西中金は、片面プラットフォームの無人駅で、なんでこんなところで止めたのだろうと思うような、なんとなく中途半端な感のある終着駅だった。

 猿投に戻り、さらに3つ先の梅坪豊田新線に乗り換えた。この線は終点赤池からそのまま地下鉄鶴舞線に乗り入れる。沿線は主に造成地が多く、格別のことはない。
 地下鉄を乗り継いで、へ。これと同一の駅である名鉄瀬戸線栄町から再び名鉄に乗った。瀬戸線は他の名鉄の路線とは全く接していないが、これはもちろんもともと瀬戸電気鉄道という別の会社が敷設したものだからである。
 栄町駅は地下にあったが、地上に出るとすでに暗くなっていた。なんだか頭も痛く、沿線を眺める気も失せて、なんとなく急行電車に揺られたまま終点の尾張瀬戸へ。外へ出ると、雨が土砂降りになっていたが、ほどなく多治見行きのバスがやってきたからそれに乗り、多治見からさらにJR太多線美濃太田へ、その地のホテルで一泊。わざわざ美濃太田まで来たのは、翌日の行程のためである。

 翌朝、美濃太田から再び太多線で2駅だけ戻る。可児で名鉄と交差しているのだ。名鉄の方の駅名は新可児で、別の駅に見えるが、名鉄はJRと隣接した駅に「新」をつけることが多く、この場合も同一の駅である。
 ここを通っている名鉄広見線犬山−御嵩の路線で、新可児は途中駅だが、ここでスイッチバックしている。新可児はあたかも終着駅のように、櫛形のプラットフォームを持った駅だった。
 犬山方面でなく、御嵩方面の電車に乗り、途中の明智で支線の八百津線に乗り換えた。終点の八百津までを往復し、それから再び広見線で御嵩までを往復する。八百津も御嵩も、単線の片面駅だったが、駅舎はそこそこ堂々としており、西中金のようではなかった。
 御嵩から一気に犬山まで戻る。新可児からは朝のラッシュにぶつかったようで、えらく混み始めた。
 犬山で小牧線に乗り換えるつもりで席を立ってしまったが、同じ電車が小牧線にそのまま乗り入れることがわかり、あわてて戻る。この時間帯の名古屋都心部へ向かう電車としてはそれほど混んでいない。
 小牧線は雰囲気としては江ノ電を連想させるような路線で、人家の軒先をかすめるようにして走る。駅も大半は無人のようだ。そんなのが、小牧ではいきなりばかに立派な地下駅に停まるから奇妙な感じがした。
 終点の上飯田は街の雑居ビルの中に駅があるような風情だった。どうしてこんなところにターミナルを作ったのかよくわからない。他の鉄道には接していないのである。最寄りの地下鉄、名城線平安通駅に行くには、1キロばかり歩かされた。

 地下鉄でスタート地点の金山に戻り、今度は西側の乗り潰しに向かった。弥富行きの急行に乗ると、須ヶ口で名古屋本線と別れ、津島線津島へ。そのまま尾西線に乗り入れ、弥富へ。
 このルート、弥富の3つ手前の佐屋までは特急も入っている。なぜ弥富まで行かないのかというと、佐屋から先単線で、行き違い設備もなく、終点の弥富さえJRの駅に間借りしたような有様で1本しか線路が使えない。つまり佐屋から弥富までは何があっても1編成の列車しか入ることができないわけで、こんな状態では特急を走らせるわけにはゆかないだろう。
 終点の弥富も地味な駅で、券売機さえ据えられていない。近くの近鉄弥富駅の方がよほど立派だ。

 私の行程としては、その近鉄弥富駅から、冒頭に述べた「天命反転地」に行ってきたのだが、この文章には関係ないので省略する。
 弥富に戻り、今度は津島から尾西線で新一宮へ向かう。尾西線というのは弥富−津島−新一宮−玉ノ井というルートの路線なのだが、弥富−津島は津島線と一体化しており、新一宮−玉ノ井は独立した支線のようであり、線名と運行が一致していないのである。
 玉ノ井へ向かうのは旅程の都合でここでは省略し、新一宮から新岐阜行きの急行に乗った。JRとの競合区間だけあって、腹を立てでもしたようにえらいスピードですっ飛ばす。飛ばすのは特急だけではなかったのだ。
 笠松で下り、竹鼻線とその支線の羽島線を乗り潰す。羽島線は支線だが、笠松からの列車はすべて羽島線に乗り入れ、竹鼻線の羽島市役所前−大須間は支線のようになっている。この線も、名称と運行が一致していないわけだ。
 羽島線の終点新羽島は新幹線の岐阜羽島駅と接続しているのだが、この接続のためだけに作られたような駅で、なんだかおざなりな印象を覚えた。高架線ではあるが片面の単線駅で、券売機さえない。
 大須はやはり片面単線の無人駅で、田園の中の地味な終着駅だった。
 すぐに折り返し、岐阜に出てホテルに泊まった。

 3日目はまず各務原線新鵜沼へ。この路線は典型的な近郊路線で、全線複線化されており、それほど面白みはない。全線、JR高山本線と併走している。高山本線は、本線とはいうものの非電化単線のローカル線であり、ここも以前は名鉄に全くかなわなかったものだが、近年めざましいスピードアップを図っている。各務原線もうかうかしていられない。
 各務原線の新鵜沼と高山本線の鵜沼は例によって同じ駅で、間に改札さえない。私はJRの切符を買って、前日の出発点であった美濃太田に向かった。美濃太田からは長良川鉄道に乗り換える。この線はこの線でいずれ乗ってみたいものだが、さしあたって途中の美濃市まで。
 美濃市は名鉄美濃町線の終点、美濃駅に近い。その手前のあたりから美濃町線が併走しているのが見えたのだが、なぜか美濃市に着く直前で、喧嘩でもしたみたいに方向を変えてしまい、乗り換えのためには500メートルほど歩かなければならなかった。
 美濃駅はえらく古色蒼然とした駅で、駅名票の文字も毛筆体になっている。カラフルな名鉄カラーではない。何十年前のものかわからないような観光案内板が掛かっていたが、よく読めなかった。
 新関までは、これも昔ながらのチンチン電車で、それがかなりのスピードで突っ走るのでスリルがある。その先は2・1シートタイプのクロスシート車輌に乗り換えになった。一応専用敷を走るが、道路との間に特に仕切はない。野一色からは完全に路面電車となった。路面電車が郊外へ出ると専用敷を走るというのは、昔よく見られた形だ。この美濃町線、そしてこれから乗る揖斐線も同じタイプである。
 乗っていた電車は新岐阜行きだったが、新岐阜まで出ていると揖斐線に間に合いそうになかったので、競輪場前で下車し、タクシーを拾って揖斐線の忠節駅へ走らせた。忠節は揖斐線の路面部分と専用敷部分との境目になっている駅だ。ショートカットしたので、なんとか揖斐線の電車に間に合った。

 揖斐線は本揖斐が終点だが、電車は途中の黒野までで、黒野から先、本揖斐行きと、支線谷汲線谷汲行きの電車がそれぞれ往復している。先に谷汲へ向かった。
 谷汲は華厳寺への参詣用の駅で、プラットフォームは広い。駅舎がいやに新しい感じだったので意外な気がしたが、私の訪れる1ヶ月ほど前に新装したばかりだったそうだ。駅員が居られるスペースはあるが誰もいない。多客期だけ駅員が配置されるものと見える。
 本揖斐の方は、有人駅で、ごく小さな喫茶店もついていた。一応「街」が感じられる終着駅である。
 黒野まで戻って、急行電車で岐阜駅前へ。チンチン電車のような揖斐線にも急行が走っているのだ。

 ちょっとだけ時間があったので、前日に乗り損ねた尾西線の新一宮−玉ノ井間を乗ってから帰途についた。
 2日目に天命反転地に行った他は、ひたすら名鉄に乗り続けた、およそ無意味な3日間であった。
 名古屋本線と犬山線はかつて踏破したことがあるので、残すは築港線と豊川線、それに岐阜市内路面電車の一部のみとなったが、それにしても3日かけても全線乗り切れないとは、名鉄の規模にはおそれ入るほかない。

(1998.11.4.)

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