2012年3月末、十和田観光電鉄が廃止されました。
前年の夏、小樽へ行った帰りに、ふと思い立って乗ってみたのですが、それがお別れとなりました。ずっと以前、高校生だかの時に乗ったことがあり、それから30年を経て再び乗ったと思ったら、ほどなく廃止の話を聞いたことに、感慨を覚えます。
第三セクター青い森鉄道(もと東北本線)の三沢駅から十和田市まで、14.7キロを結んでいたローカル私鉄でした。 確かに去年乗った時も、三沢駅に利用促進を呼びかける貼り紙があったりして、景気が良さそうではありませんでしたが、ローカル私鉄としては決して本数も少なくはないし、沿線には学校が多く、生徒たちの足になっていた路線だったので、こう急に無くなるとは思いませんでした。 三沢駅近くには三沢商業高校と八戸工科学院があり、途中には三本木農業高校と十和田工業高校、それに北里大学獣医学部があります。去年私が乗った時は朝だったこともあり、車内はそれらの生徒たちで賑わっていました。北里大学の学生らしいのは見かけませんでしたが…… 彼らは4月からはバスで通学することになるのでしょうが、電車より混雑して疲れることでしょう。
一時期の怒濤のような廃止ラッシュはこのところ下火になってきたと思っていたのですが、また少しずつ鉄路が消え始めているようです。長引く不景気、少子化、いろいろ理由はあるのでしょうが、寂しいことです。
十和田観光電鉄に乗った1回目は、上記の通り高校生の頃でした。正確に言うと高校1年の夏休みです。
この年、私ははじめて、かなり長いひとり旅をしました。札幌の祖父母の家を拠点に、確か8泊9日だかかけて北海道をまわったのでした。
当時は北海道にもまだずいぶん線路がありました。天北線、湧網線、羽幌線など、寂しい景色がいつまでも続き、この先いったい何があるのだろうかと不安になるほどの、いまはもう無い路線を満喫しました。湧網線の途中の無人駅の待合室で一夜を過ごしたりもしました。
いろいろと思い出すような、もうすっかり記憶にもやがかかっているような、若い頃の曖昧な想い出ですが、ともあれ札幌に戻り、数日後に東京に帰ってきました。その帰ってきかたも素直ではなく、青函連絡船で青森に着くと、東北本線の鈍行列車に乗って野辺地で下りました。その頃野辺地から、南部縦貫鉄道というローカル私鉄が出ており、それに乗ってみることにしたのです。
南部縦貫鉄道は、何やら雄大そうな名前ですが、実際には野辺地と七戸を結ぶごく短い路線でした。もし今まで健在なら、終点の七戸は新幹線の七戸十和田駅と接続したはずで、下北半島などに向かう観光ルートの一部として脚光を浴びたに違いありませんが、残念ながら東北地方のミニ路線としてはごく早い時期に廃止されました。レールバスが走っていることで鉄ちゃんの間ではよく知られていましたが、私が乗った時は普通のディーゼルカーであったと記憶しています。
確か雨が降っていました。東北のあのあたりは、北海道の例えば函館近辺と較べてもさらにひなびた感じのするところで、雨に降りこめられた景色は、さらに寂しげに見えました。
終点の七戸で下りて、すぐに引き返せばよいものを、私は雨の中を歩き始めました。南部縦貫鉄道の終点の七戸と、十和田観光電鉄の終点である十和田市とが、時刻表の索引地図で見るとすぐ近くのように見えたので、歩いてみようと思ったのでした。
もちろん時刻表の索引地図などは、線路やバス路線のつながり具合を示しているだけで、縮尺などはいい加減ですから、図上ですぐ近くでも何十キロも離れている場合があります。そういうことはいくら子供の頃とはいえわかっていたはずなのに、私は時々そういう無茶をはじめてしまいます。その後も、山形の左沢(あてらざわ)線の終点左沢から、長井線(現山形鉄道フラワー長井線)の終点荒砥(あらと)まで歩こうとしたり、秋田内陸縦貫鉄道が全通する前に南線の終点松葉から北線の終点比立内まで歩こうとして死にかけたりしたことがあります。
七戸〜十和田市は、バスで20分ほどですから、まあ歩くことが絶対に無理な距離というわけではありません。ただ、土砂降りの雨の中であり、しかも道路の整備が悪くてしばしば歩道が無くなる上に、けっこうひっきりなしに大型のトラックなどが通り過ぎます。追い抜かされぎわにはね上げられた水を頭からかぶってしまい、全身びしょ濡れになって、さすがにみじめな気持ちになってきました。
幸い、ほどなく十和田市方面へ向かうバスの停留所がありました。ほっとした想いでバスに乗り、十和田観光電鉄に乗り継いで三沢に出ました。
ですから、最初に十和田観光電鉄に乗った時は、終点から逆に乗ったわけです。乗り込んだ十和田市駅がどんな構えだったか、まったく憶えていませんし、路線そのものもあまり記憶に残っていませんでした。南部縦貫鉄道に較べると「電鉄」であるだけに少し風情が少なく思えたのと、びしょ濡れになって疲労困憊していたためでしょう。ただ、走るにつれて吊り革が網棚にぶつかって、やたらとうるさい音を立てて走る電車だったという印象がありました。
以来30年、近くを通ったことは何度もあるのですが、乗る機会を見つけることができませんでした。南部縦貫鉄道はじきに廃止されました。
ようやく機会があって再び乗った、その半年ほどあとに廃止の報が入ったというところに、大げさに言えば運命的なものを感じたりします。
30年ぶりに乗った十和田観光電鉄の電車は、東急から譲渡されてあまり手を加えずに走っていました。さすがに昔のような大層な騒音は出ません。
起点の三沢駅を除くと、途中の七百(しちひゃく)という駅だけが2線のブラットフォームがあって、上下の電車がすれ違うことができます。車庫もここにありました。あとの駅はすべて、終点の十和田市を含めて片面駅になっています。十和田市駅には引き込み線さえなく、単線のかたわらにプラットフォームが設置されて、その先に車止票があって線路が途切れているばかりです。
プラットフォームは道路に面しているので、そのまま改札を出られるようになっていれば良さそうなものを、突き当たりでわざわざ階段を昇らせ、道路の上を陸橋で渡り、向かい側のショッピングセンターの2階に至ってようやく改札があるという形になっていました。これには少々あきれました。ショッピングセンターに無理矢理誘導するというのは、ターミナル駅の造りとしてはあこぎだと思います。多くの大手私鉄でもけっこうやっているのですが、利用者にはあまり評判が良くありません。
十和田市駅のショッピングセンターは、経営不振ですでに廃屋みたいなことになっていましたから、余計に愚かしさが際立つというものです。思えば、このショッピングセンターの失敗が、鉄道会社の経営状態をさらに悪化させたのかもしれません。
駅が街の中心部からかなり離れていたのも良くなかったのでしょう。また、十和田市と言い十和田観光電鉄と言ったところで、大観光地である十和田湖とは相当離れていて、クルマでも1時間半ほどかかります。これではいささか、看板に偽りありという趣きがあります。私は十和田市街をひとわたり歩きましたが、目的として行った十和田市現代美術館を除いては、周辺にさほどの見どころがあるわけでもありません。この美術館が駅のそばだったりしたら、まだ救いもあったのですが、あいにくと駅からは2キロばかり離れています。
結局、あまり便利でもない、地味なローカル私鉄に過ぎなかったので、少子化で高校生が減るにつれて、そのまま利用者も減少し続け、ついに廃止ということになってしまったものと思われます。
もう少し経営努力はできなかったのかと歯がゆい気がしますが、企業というのは一旦赤字体質になってしまうと、新しいことを始める勇気はなかなか持てないものであるようです。赤字を少しでも減らすことしか考えなくなり、すべてが消極的な方向へ進んでしまうのでしょう。
残念ですが、やむを得ないことです。廃止前に記憶を新たにすることができただけでも、ラッキーだったと思うしかなさそうです。
同時期に姿を消してしまう私鉄路線が、もうひとつありました。長野電鉄の屋代線です。
長野電鉄は、大都市圏以外の私鉄でははじめての、かなり長い地下線を持っていたりして、けっこう華やかな印象のある地方私鉄なのですが、やはり経営は思わしくなかったのでしょう。
屋代線は、しなの鉄道(旧信越本線)の屋代から、長野市の隣町の須坂までを結んでいました。その昔は長野電鉄の本線格でさえありました。河東線と呼ばれ、屋代から須坂・信州中野を経て、飯山に近い木島までを結んでいたのです。長野駅から出ているのは支線扱いでした。その後信州中野から木島までが廃止された時に、線路名称も再編成され、長野から湯田中までが長野線となって本線格となり、屋代〜須坂間が支線ということになったのでした。
屋代線にはさしたる想い出が無いと思いかけましたが、中学生から高校生の頃、スキーに行く時にこの路線を使っていたのを思い出しました。
上野から急行「妙高」に乗ると、その一部が、屋代から長野電鉄に乗り入れて湯田中や木島まで行っていたのです。1、2度それに乗った憶えがあります。
JR(国鉄)の長野駅と長野電鉄の長野駅は線路がつながっていませんが、屋代駅でつながっていたのでそういうことができたのでした。この乗り入れが残っていれば、屋代線もまだ利用価値があったと思うのですが、JRになってから、なぜか国鉄時代にたくさんあった私鉄の乗り入れを、次々とやめてしまっています。
今でもやっているのは、首都圏の近郊電車と東京メトロとの乗り入れ、小田急との乗り入れ特急「あさぎり」(現「ふじさん」)、伊豆急や富士急、伊豆箱根鉄道駿豆線、あとは第三セクターがらみでいくつかあるくらいで、なんともお寒いものですが、昔はたくさんありました。大手私鉄では南海や名鉄と乗り入れていましたし、地方私鉄でも富山地鉄、秩父鉄道、大井川鐵道、島原鉄道ほか多くの乗り入れ路線があったものです。名鉄の神宮前から、犬山線を通って鵜沼で国鉄高山本線に移り、富山から地鉄に乗り入れて立山まで行ってしまうという雄大な乗り入れ特急「北アルプス」などはなかんずく有名でした。
他社との乗り入れというのは、ダイヤの調整や利益配分などが面倒で、JRとしてはなるべくやりたくないのであろうことは想像がつきますが、乗り換え無しでびっくりするようなところにまで行ける便利さは、利用者にとってはこたえられません。かつては上野から乗り換え無しで、湯田中にも、別所温泉にも、三峰口にも、阿字ヶ浦なんてところまでも行けたということが信じられるでしょうか。
乗り換え一回分のストレスは、所要時間1時間増しに相当すると聞いたこともあります。ダイヤをうまく作って接続がスムーズであったとしても、乗り換えが増えればお客は離れてゆくものです。まして現在は、かなりきめ細かくいろんなところへ直行できる高速バスなども運転されていますから、こんなことでは鉄道離れが起きてしまうのも無理もないと思ってしまいます。
屋代線などは、直通運転が廃止された時に、すでにその使命がなかば終わっていたと言っても過言ではないかもしれません。むしろ今までよく保ってくれたと労をねぎらうべきなのでしょう。
(2012.3.30.)
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